前夜
武藤和正は廊下を歩きながら、首を二度ほど回した。肩の奥で小さく骨が鳴る。八月六日。夕方になっても本家の窓から差し込む日は明るく、庭へ面した廊下には、まだ昼間の熱が残っていた。
十二社会が集団離脱を凍結してから、十日余りが経っている。目を覚ましても、本家へ来ても、酒を飲んでいても、あの十二人のことを考えていた日々に、ようやく区切りがついた。
終わったわけではない。出した案を形にする仕事があり、納得していない親分も残っている。それでも、明日いきなり十二組が代紋を外すかもしれないと考えずに済む。それだけで、帰り際に思い出す用事が一つ減ったような気がした。
会長室へ入ると、國枝重政は窓際の椅子に座っていた。顔を向けるまで、武藤が来たことには気づいていたようだった。机には、先日まとめた改革案が置かれている。
「会長」
「何や」
「具合どうです」
「お前まで医者みたいなこと言うな」
「医者の言うこと聞かんから言うとんです」
國枝は鼻で笑った。以前より頬が痩せ、椅子へ預けた肩も細く見える。それでも、武藤へ向ける目は変わらなかった。
笑ったあとで咳が出た。國枝は口元へ手をやり、収まると、その手を肘掛けへ戻した。武藤が見ていることに気づいても、何も言わせまいとするように顔を上げた。
「城戸は」
「止まりました」
「そうか」
國枝はそれだけ言い、窓の外へ目を戻した。武藤も、改革案を読み上げるような報告はしなかった。離脱を凍結したことも、要求を取り下げてはいないことも、既に伝えてある。
しばらくして、國枝が呼んだ。
「和正」
「はい」
「ようやった」
武藤は少し黙った。机へ目をやり、それから國枝の横顔を見た。
「まだ何も終わってません」
「分かっとる」
國枝は外を見たまま答えた。
「せやけど、血流さんと止めた。それでええ」
武藤は返事をしなかった。若い頃なら、血を流さなかったことを褒められても、今ほどには受け取れなかったかもしれない。極道同士が揉めれば、誰かが怪我をする。死ぬ者が出ることもある。それを覚悟せずに話ができる稼業ではなかった。
ただ、五十五にもなると、知った顔が随分減った。昔一緒に飲んだ男も、喧嘩の時に横へいた男も、今は席にいない。話を止めたあとで、下にいる人間が明日も同じ仕事へ行ける。そのことを、前より考えるようになっていた。
「ほな、失礼します」
武藤が頭を下げると、國枝がもう一度呼んだ。
「和正」
足を止めて振り向いた。國枝は武藤を見ていたが、すぐには口を開かなかった。何か言いかけたように唇が動き、それから閉じる。
「何でもない」
「変な会長ですね」
「はよ行け」
武藤は笑い、頭を下げて部屋を出た。
廊下には、新道宏一が書類の束を抱えて立っていた。武藤が出てくると、その前へ一歩寄る。
「カシラ」
「まだやっとんのか」
「誰のせいや思てるんです」
新道は抱えた束を持ち直した。上納負担を見直し、会計の大枠を定期的に示す。そう決めた以上、これまでの帳簿を、そのまま見せて終わりにはできなかった。
「会計の方、だいぶ出ました。ただ……」
「何や」
「十二社会周りで、ちょっと変な金があります」
武藤の足が止まった。
「変な金?」
「外から入ってる金です。まだ線になってません」
新道は束から一枚抜き、武藤へ見せた。武藤は記された数字と名前を追ったが、新道は誰かの名を挙げて説明しようとはしなかった。
上納や本家経費をまとめ直している資料とは、別の話だった。幾つかの組へ入っている金を確かめても、その出所までは、まだ一本につながっていない。
「もう少し洗います」
武藤は紙から目を上げた。
「頼むわ」
「はい」
新道が紙を束へ戻した。武藤はその手元を見てから、顔を向けた。
「今日は帰れよ」
「カシラに言われたないです」
「生意気やのう」
新道が笑った。武藤も笑い、その横を通り過ぎた。玄関へ向かう背後で、新道が書類を揃え直す音がした。
本家から少し離れた路上に、一台の車が停まっていた。運転席の男は煙草を吸い、開けた窓の外へ煙を吐いていた。助手席には新聞が置かれている。
武藤が本家から出てくると、男は顔を上げた。時計へ目を落とし、新聞の下から小さな紙を引き出す。
声をかけることも、車を動かすこともしなかった。時刻を書き、紙を元へ戻す。短くなった煙草を消してから、もう一度、本家の方を見た。
兵頭組へ戻る頃には、空が赤くなり始めていた。武藤が事務所へ入ると、近くにいた若い衆が一斉に立ち上がった。
「お疲れ様です!」
「座っとれ」
武藤は手を振り、奥へ向かった。途中で足を止め、一つの机へ顔を向ける。若い衆が腕を枕にして突っ伏していた。近くで椅子の鳴る音がしても、起きなかった。
「こいつ何しとんねん」
横にいた若い衆が背筋を伸ばした。寝ている男へ手を伸ばしかけ、武藤の顔を見て止める。
「す、すんません。今日朝から走り回ってまして」
武藤は眠っている男を見た。周りの若い衆まで黙り、誰かが起こすのを待っている。本人だけが、腕へ顔を埋めたままだった。
「毛布ぐらい掛けたれ」
「……はい?」
「風邪引くやろ」
武藤はそのまま奥へ入った。背後で誰かが小さく返事をし、慌てて動く足音が聞こえた。
上着を脱いで椅子へ掛けると、表の方から笑い声が漏れた。声を抑えているつもりらしかったが、静かになった事務所ではよく聞こえた。
「聞こえとるぞ」
武藤が声をかけると、ぴたりと止まった。少しして、また小さな笑いがした。
武藤も笑い、机の前へ腰を下ろした。置かれていた書類を引き寄せ、目を通し始める。表では若い衆が仕事へ戻り、電話を受ける声がしていた。
夜になって、久世征一郎から電話が入った。
「カシラ。飲んでます?」
「まだや」
「珍しいですね」
「ワシを何や思とんねん」
受話器の向こうで久世が笑った。武藤は書類から手を離し、椅子へ深く座った。窓の外はもう暗く、ガラスには机に向かう自分の姿が映っていた。
「十二社会、ほんまに止まりましたね」
「ああ」
「お疲れ様でした」
「お前まで何や。今日は皆して気色悪いのう」
「たまにはええでしょう」
武藤は笑って煙草を取った。受話器を持ち直し、一本咥えたが、まだ火はつけなかった。
「久世」
「はい」
「これからやぞ」
「分かってます」
「改革案、出しただけで終わりちゃうからな」
「はいはい」
「お前、ほんまに分かっとんのか」
「分かってますって」
武藤は咥えていた煙草を指へ戻した。久世の声には、いつもの調子が戻っていた。自分を労うために、ずっと畏まって話し続けるつもりはないらしかった。
「ほなええ」
「また近いうち飲みましょう」
「ああ」
「この前みたいに勝手にワシの酒まで頼まんといてくださいよ」
「どうせ飲むやろ」
少し間があった。久世が笑った。
「飲みますけどね」
武藤も笑った。店も日取りも決めないまま電話を終え、受話器を置く。煙草へ火をつけると、表から若い衆の話す声が聞こえた。
十二社会の話をするために呼び出されることも、急いで本家へ戻るよう言われることもなかった。武藤は煙を吐き、途中にしていた書類へ目を戻した。
別の場所では、男が一枚の紙を見ていた。本家を出た時刻と、兵頭組へ戻った時刻が書かれている。
横にいた男が、手元を覗いた。
「いつやる」
紙を持った男はすぐには答えなかった。もう一度、書かれたところへ目を通す。隣の男は返事を待ち、煙草を灰皿へ置いた。
「明日でええやろ」
答えた男は紙を畳んだ。隣の男も、それ以上は聞かなかった。
武藤は事務所を出る前に、机へ残っていた書類を一枚だけ片づけた。読み終えたものを脇へ揃え、まだ済んでいない束を奥へ寄せる。明日、本家へ行く前に確かめればよかった。
灰皿の煙草を消しながら、新道の見せた紙を思い出した。外から入っている金は、まだ線になっていないと言っていた。会計をまとめる仕事もあるのに、また一つ仕事を増やした。
國枝の咳も気になっていた。医者の言うことを聞くように言っても、素直に頷く人ではない。明日顔を見れば、また同じことを言うだろうと思った。
机の電話へ目をやった。久世と飲みに行く日も、まだ決めていなかった。
武藤は椅子から上着を取り、袖を通した。部屋を出ると、若い衆が顔を上げる。先ほど机で寝ていた男も起きていて、武藤を見るなり慌てて立った。
「お疲れ様です」
武藤は手を振り、その前を通り過ぎた。玄関の向こうから、夜になっても冷えきらない風が入ってくる。
明日やる仕事を事務所へ残し、武藤は外へ出た。




