根
黒崎獅童は、収支報告の一箇所へ万年筆の先を止めた。添えられた明細を開き、同じ数字を確かめてから、余白へ短く書き込む。七月二十八日。卓上には、土地の売買に関する書類と、融資先の資料、傘下から上がってきた報告が並んでいた。
一枚を読み終えても、その下に次の紙がある。黒崎は済んだものを脇へ移し、手元に残った書類を引き寄せた。十二社会の集団離脱が凍結されても、日々の仕事が減るわけではなかった。
扉が開き、黒田家信が入ってきた。黒崎の手元を一度見てから、向かいの椅子へ腰を下ろす。
「十二社会、終わりそうですね」
黒崎は目を上げなかった。明細へ戻っていた視線を本紙へ移し、万年筆を走らせた。
「そうですね」
黒田は卓上の書類へ目をやった。どれも今日中に処理を求められているもので、今話している十二社会の回答書ではない。黒崎は最後の一行を書き終え、紙の端を揃えた。
「武藤のカシラは、大した人です」
黒田は黙って黒崎を見た。相手の顔を見て言った言葉ではなかったが、皮肉を含んだ声でもなかった。
十二の直参がまとまって天龍を出るかもしれない。そんなところまで進んだ話を、武藤は止めた。一人ずつ会って話を聞き、本家が譲る部分をまとめ、城戸から凍結の返事を受け取った。親分たちの全ての不満が消えたわけではなくても、十二社会として離脱を進める話は止まっている。
黒崎は新しい頁を開いた。黒田はその手元を見てから、口を開いた。
「邪魔になりましたね」
万年筆が止まった。黒崎は書類へ目を落としたまま、少しの間動かなかった。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「黒田」
「はい」
「そういう言い方は、よくない」
穏やかな声だった。黒田は黒崎を見たあと、僅かに頭を下げた。
「失礼しました」
黒崎は書類へ視線を戻した。止めていた万年筆を持ち直し、まだ何も書かれていない余白へ目を向ける。
「武藤さんは何も間違っていません。若頭として、やるべきことをやっただけです」
「では、このまま?」
「何がです?」
黒田は答えなかった。黒崎も、何を尋ねたのかと重ねて聞くことはなかった。手元の数字を確かめ、必要な箇所へ印をつける。
紙をめくる音がした。黒田は椅子へ座り直し、黒崎が一枚を脇へ移すまで待った。
「梶原のところは、少し騒がしいようです」
黒崎の指が、次の紙の端へ掛かった。
「そうですか」
「下の方まで、いろいろ話が回っているみたいです」
「どんな?」
「武藤の親分に全部まとめられたら困る、と」
黒崎は何も言わなかった。紙をめくり、記された内容へ目を通し始める。黒田はその顔を見ていたが、続きを止める様子はなかった。
「もっと下では、少し意味が変わっているようですが」
「人の口ですからね」
返事はそれだけだった。誰が最初に言ったのか、どこの事務所まで届いているのかを、黒崎は尋ねなかった。
梶原が金の相談に来たことは、黒田も知っている。そのあと、菱川会の下で武藤の名が出るようになった。だが、同じ話を聞いた者でも、何が困るのかという説明は揃っていなかった。
黒崎は読み終えた紙を裏へ返した。黒田は一度口を閉じ、手元へ目を落とした。卓のこちら側には、自分が次に渡す書類が置いてある。
「止めますか」
黒崎が万年筆を置いた。軸が転がらないよう、書類の横へ揃える。黒田は返事を待っていた。
黒崎は窓の外へ目を向けた。庭の木々に夏の日差しが当たり、葉の重なるところだけが濃い影になっている。風が通ると、枝の先が僅かに揺れた。
「黒田」
「はい」
「木を大きくするのは、幹だと思いますか」
黒田は答えなかった。窓の方へ一度顔を向け、それから黒崎へ戻した。冗談を言っているようには見えなかったが、木の育て方を聞かれているとも思えなかった。
黒崎は庭を見たまま続けた。
「見えているのは幹です。枝も葉も見える。だから人は、そこを見て木の大きさを知る」
黒田も窓の外を見た。葉の揺れが収まると、先ほど光っていたところが影へ入り、別の葉へ日が当たった。
「ですが、その下には根がある」
黒崎は静かに言った。
「土の中に張った根は、外からは見えません」
黒田は黙っていた。先ほど尋ねた、話を止めるかという問いには、まだ答えが返っていない。だが、黒崎が今何を話しているのかは、少しずつ分かってきた。
十二社会という名前も、十二人の親分も、外から見える。集団離脱を止めるという返事も、本家へ伝わった。そこだけを見れば、騒動は収まりつつある。
その下で動いている金や、それを頼りにしている者たちは、同じようには見えてこない。上の話が止まったと聞いても、自分の商売や、組の中での立場を気にする者は残る。
「誰かが一本一本に命令しなくても、水があれば吸う。養分があれば伸びる」
黒崎の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「根というのは一度張れば、勝手に水を吸うものですよ」
黒田は窓から目を戻した。
梶原は、十二社会がなくなったあとの金を気にしていた。その下にいる者たちは、親父が困るという話を聞いた。さらに下では、武藤を何とかしろと言っているらしいという言葉に変わっている。
その全てへ、一つずつ指示を出した者がいるわけではない。自分が困るかもしれないと思った者が、聞いた言葉を受け取り、自分の知っている誰かへ話していた。
黒田は、それ以上尋ねなかった。黒崎も、話がどこまで進むのかを説明しようとはしなかった。
窓の外で、また葉が動いた。黒崎は卓へ向き直り、置いていた万年筆を取った。
「次の書類を」
「はい」
黒田は手元の束から一枚取り、黒崎の前へ差し出した。融資先に関する資料だった。黒崎は受け取ると、最初の項目から読み始めた。
十二社会の話は、そこで終わった。黒田はしばらく向かいに座り、書類について尋ねられたことへ答えた。黒崎が確認を終えると、済んだものをまとめて立ち上がった。
部屋を出るまで、武藤の名前がもう一度出ることはなかった。誰を使うのかも、何をするのかも、黒崎は言わなかった。
扉が閉まったあと、黒崎は一枚の書類を手元へ残した。記されている数字を上から追い、万年筆で短く書き添える。窓の外では木々が日を受け、その下の土は、部屋からは見えなかった。




