凍結
城戸源蔵は、読み終えた紙を卓へ戻した。七月二十五日。武藤が十二人の前へ持ってきてから、一週間が経っている。折り目のついた改革案を前に、城戸は向かいへ顔を上げた。
「武藤のカシラ」
「ああ」
「離脱は一旦凍結します」
武藤は何も言わなかった。卓上の煙草を一本抜き、咥えて火をつける。城戸はライターの蓋が閉まるのを待っていたが、そのあとも、すぐには言葉が返ってこなかった。
深く吸った煙を吐いてから、武藤が頷いた。
「そうか」
それだけだった。城戸はしばらくその顔を見ていたが、やがて僅かに笑った。
「もうちょい喜んだらどうです」
「まだ終わってへんやろ」
「……そうですな」
城戸は紙へ目を戻した。十二社会を解くとは言っていない。要求を取り下げるつもりもなかった。本家が負担をどう見直すのか、会計をどこまで示すのか。直参が意見を言える場を作り、そこで出た話をどう扱うのか。それを確かめる仕事が残っている。
約束したことが実際に行われるまでは、納得したと返すわけにはいかない。ただ、その間に十二組がまとまって天龍を出るという話は止める。それが、今日持ってきた返事だった。
武藤は煙草を灰皿へ置いた。
「城戸」
「はい」
「よう踏み止まってくれた」
城戸は首を振った。武藤の方へ向き直り、卓の端に置いていた手を膝へ戻す。
「ワシが止めたんちゃいます」
「ほな誰や」
「カシラでしょう」
武藤が城戸を見た。城戸はその目を受けたまま続けた。
「室井も、梶原も、佐伯も。一人ずつ話して回ったんはカシラや」
「ワシは話聞いただけや」
「それができる人間が本家に少なかったから、こうなったんです」
武藤は答えなかった。城戸も、返事を求めるようには黙らなかった。責めたところで、最初の回答が変わるわけではない。今、目の前にある紙を出させるまでに、武藤が何をしたかは分かっていた。
「ワシらかて、天龍が嫌で集まったわけやない」
城戸は続けた。
「このままではあかん思った。せやから十二人で声上げた」
「ああ」
「本家が変わるいうなら、見る価値はある」
武藤は灰皿から煙草を取った。城戸がそこで話を切ると、煙草を口へ運ばずに待った。
「ただし」
武藤の口元が緩んだ。
「分かっとる。何も変わらんかったら、また出る言うんやろ」
「その時は、今度こそ止まりませんよ」
「上等や」
城戸も僅かに笑った。脅して譲らせようとした言葉ではなかった。ここで止めると言った以上、そのあと何も変わらなければ、自分が十二人の前に立たなければならない。武藤も、それを分かって答えていた。
城戸は改革案を畳んだ。最初に本家の回答を受け取った時とは、持ち帰る気持ちが違っている。まだ不満はあり、全部を信用したわけでもない。それでも、次に確かめるものができた。
武藤は城戸が紙をしまうのを見てから、煙草の灰を落とした。
夕方、十二社会の親分たちが揃うと、城戸は武藤とのやり取りを伝えた。誰が何を言い、何と返したのかを話し終えてから、卓を囲む顔を見回す。
「集団離脱は、一旦凍結する」
海老沢豪の表情が険しくなった。城戸が座り直すのを待たず、口を開いた。
「城戸さん。それでええんですか」
「ええとは言うてへん」
城戸は静かに返した。海老沢の隣で、石渡も顔を上げている。片岡は卓へ置いた紙を見ず、城戸だけを見ていた。
「本家が出した改革案を見る。その間は動かん。それだけや」
室井が最初に頷いた。本家に残ると決めたことを、今さら言い直しはしなかった。紙に書かれたことがどう実施されるのかを待つというのであれば、自分が考えていたことと変わらない。
梶原も異を唱えなかった。上納と会計について、まだ見ていない数字がある。本家が見せると言ったものを確かめる前に、出ると決める気はなかった。
ただ、以前の会合より、その顔は硬かった。卓上の紙へ一度目をやってから、膝の上で両手を組んだ。黒崎へ相談した金のことも、十二社会がなくなったあとの付き合いも、今日ここで持ち出す話にはしなかった。
柏木は城戸の説明を聞き終えると、短く頷いた。古賀も黙ったまま、その隣で顔を上げていた。佐伯は腕を組んで座り、反対しなかった。
海老沢は、その顔を一人ずつ見た。室井の答えは、先日のうちにはっきりしている。梶原も柏木も、離脱を進める側へは戻らなかった。佐伯まで黙って受け入れている。
石渡が灰皿へ煙草を押しつけた。片岡は顎を引き、海老沢へ一度目を向けた。三人の間で言葉は交わされなかったが、凍結に納得していないことは、城戸にも分かった。
それでも、十二組が揃って出るという話を、このまま進めることはできなかった。残ると決めた者がいる。残る方へ考えている者も、まだ自分で確かめたいと言う者もいた。
「多数で決める話やない」
城戸が言った。海老沢から目を離し、卓を囲む親分たちへ向けた。
「出たい奴を縛る気もない。残りたい奴を引っ張る気もない」
古賀が城戸を見た。室井も、卓へ置いていた手を戻して顔を上げた。
「せやけど十二社会としては、ここで止める」
誰もすぐには返さなかった。海老沢は口を結んだままで、石渡も新しい煙草を取ろうとはしなかった。片岡の前には、本家からの回答が伏せられていた。
城戸は、その三人へ同意を言わせようとはしなかった。納得していないことまで変わったように扱えば、この場の話そのものが信用されなくなる。
五月に要求書を出した時には、十二人とも本家に変わってほしいと思っていた。そのためにどこまで進むかは、同じではなかった。集まるたびに少しずつ見えていた違いを、今は誰も隠せなくなっている。
城戸は改革案を要求書へ重ねた。どちらも取り下げず、手元へ置いたままにする。室井はその手を見てから、湯呑みを取った。
十二社会として、集団離脱は止める。
その返事を本家へ伝えた以上、次は本家が動く番だった。親分たちはそれぞれの顔で座り、誰も、これで全て済んだとは言わなかった。
その夜、天龍会傘下の、さらに下の事務所で、二人の男が向かい合っていた。窓は閉まり、狭い部屋には煙草の煙が残っている。卓上の灰皿には、吸い殻が何本も重なっていた。
「十二社会、止まったらしいな」
「ああ」
答えた男は椅子へ体を預けた。詳しい話を聞いたわけではない。親分たちが集団離脱を止め、本家の出した案を待つことになった。その程度の話が、上から伝わってきていた。
「ほな上はどうすんねん」
「知らん」
向かいの男が煙草を咥えた。火をつけ、煙を吐いてから、卓の端へ目を落とした。
十二社会がなくなれば、今まで回っていた金が止まるかもしれない。武藤にまとめられると親分たちが困る。ここ数日、そんな話を何度か聞いていた。
何の金なのか、誰が困ると言ったのかまでは、聞く相手によって違った。だが、十二社会の動きが止まったという話は、今夜になって届いた。
「けど武藤のカシラが全部まとめたんやろ」
「そう聞いとる」
「親父ら、困るんちゃうんか」
答えはすぐには返ってこなかった。椅子へ寄りかかっていた男が体を起こし、灰皿を引き寄せる。煙草の先を軽く叩いてから、声を落とした。
「上は武藤を何とかせえ言うとるらしいで」
向かいの男が顔を上げた。
黒崎は、そう言っていなかった。梶原も、十二社会の親分たちも、武藤を何とかしろとは命じていない。城戸が今日止めたのは集団離脱であり、本家の改革を待つという話だった。
だが、この部屋へ届いた言葉には、もうその説明がなかった。
向かいの男は煙草を持ったまま、相手を見ていた。誰から聞いたのかを尋ねる前に、口にされた言葉を、もう一度頭の中で繰り返していた。




