言葉
梶原信成は車の後部座席で、膝に置いた封筒を見ていた。黒崎の事務所から持ち帰った書類が入っている。七月二十日。窓の外では、信号待ちの車の横を自転車が通り抜けていった。
十二社会がなくなれば、困る方は多いでしょうね。
黒崎の声が頭に残っていた。誰が困るのかを尋ねなかったことまで、繰り返し思い出す。聞けば、具体的な名前が出てきたかもしれない。だが、あの場で聞いたところで、自分の金の話が先へ進んだとも思えなかった。
黒崎は、十二社会がなくなれば金を止めるとは言っていない。梶原が天龍に残る方がいいと思っていると伝えた時も、それがいいと答えた。今日持ち込んだ話も、検討すると言ったままだった。
それでも、十二社会に関わる金が、これからも同じように動く保証はなかった。
十二組がまとまって本家と話している。場合によっては、その十二組が一緒に天龍を出るかもしれない。そういう集まりだからこそ、価値を見た人間もいる。話が収まり、元の直参同士へ戻れば、付き合い方が変わる者もいるだろう。
本家の案が悪いとは思わない。上納の見直しも、会計の説明も、自分が求めたものだった。それが通ることで、別のところから入っていた金まで細るのであれば、手放しでは喜べなかった。
車が動き出した。梶原は封筒から手を離し、背もたれへ体を預けた。
その夜、菱川会の事務所には幹部が数人残っていた。仕事の話が一通り済むと、卓へ酒と肴が運ばれた。梶原は勧められた盃を取り、注がれた酒を飲んだ。
最初は事業の話をしていた。入るはずだった金のことも、支払いのことも、そこにいる幹部たちは知っている。黒崎に話を持っていったと伝えると、一人が頷き、梶原の空いた盃へ酒を足した。
話が途切れたところで、向かいの男が尋ねた。
「親父、ほんまに残るんですか」
梶原は男を見た。何の話かを聞き返す必要はなかった。
「まだ決めてへん」
煙草を取り出し、火をつけた。男たちは返事を待っていたが、梶原は一度煙を吐いてから続けた。
「けど本家があそこまで出してきたら、出る理由も薄なった」
誰かが小さく頷いた。十二社会が本家へ何を求めていたのかは、幹部たちにも伝えてある。全てが通ったわけではなくても、本家が応じるというのであれば、離脱するかどうかを考え直す理由にはなる。
「ほな十二社会は終わりですか」
梶原の手が止まった。煙草の先を見たまま、黒崎が書類を閉じた時のことを思い出した。
十二社会も必要なくなるでしょう。
向かいの男は、ただ今後を聞いたつもりのようだった。梶原が黙ったため、ほかの幹部も盃を置いた。
「……簡単な話ちゃう」
「何がです?」
「十二社会があったから回っとるもんもある」
男たちは黙った。梶原は煙草を灰皿へ置き、酒を口へ運んだ。
黒崎と会ったことは伝えたが、そこで交わした話を全て聞かせたわけではない。金を断られたわけでもなかった。今ある繋がりがどうなるか分からないという話を、どこまで説明すればいいのか、梶原自身にもまだ整理がついていなかった。
盃を置き、卓上へ目を落としたまま言った。
「武藤のカシラに全部まとめられたら、ワシらも先ないぞ」
向かいの男が顔を上げた。隣の幹部も、梶原を見た。
梶原が考えていたのは金だった。十二社会を通じてできた付き合いと、それを当てにして回している事業のことだった。本家と話がついたからといって、そちらまで全部うまく収まるとは限らない。その不安が、酒の席で口に出た。
だが、男たちには、梶原が黒崎の事務所で何を聞いてきたのか分からなかった。知っているのは、金の相談へ行ったことと、今、親父が武藤の名を出して先がないと言ったことだけだった。
梶原は灰皿から煙草を取った。幹部の一人が酒を注ぎ、別の男が事業の支払いへ話を戻す。誰も、今の言葉の意味を確かめなかった。
翌二十一日、菱川会傘下の事務所で、その話が出た。
昨夜の席にいた幹部から話を聞いた男が、煙草を吸いながら口にした。向かいでは別の男が、書類の端を揃えていた。
「親父、武藤のカシラに動かれたら困るらしいで」
「何が困るんや」
「知らん。十二社会潰されたら先ない言うとったらしい」
書類を持つ手が止まった。聞いた男は顔を上げたが、話した方にも、それ以上の説明はできなかった。
十二社会があったから回っているものがある。その前に梶原が言った言葉は、ここでは出なかった。本家の案なら出る理由も薄くなったという話も、一緒には届いていなかった。
「ほな、まだ出る気なんか」
「そこまでは聞いてへん」
男は煙草の灰を落とした。自分が知っているのは、親父が困ると言っていたという話だけだった。それでも、その言葉を聞いた以上、何も知らなかった時と同じようには武藤の動きを見られなくなった。
しばらくして、別の男が事務所へ来た。用事が済み、十二社会の話になった時、先ほど聞いた男が言った。
「梶原の親分、武藤のカシラに全部まとめられたら困る言うとるらしい」
「ほな武藤のカシラが邪魔いうことか」
「そこまでは知らん」
聞いた男は、そうかとだけ答えた。違うとも、そういう意味ではないとも言われなかったため、口にした解釈を引っ込めることはなかった。
話した男の方も、今の言い方は違うと指摘できるほど、元の話を知ってはいなかった。
同じ頃、別の十二社会傘下でも、入ってくる金の話が出ていた。
こちらでは梶原の名は出なかった。黒崎から直接、何かを言われた者もいない。事務所で帳面を見ていた男が、これまで外から入っていた金を指で押さえ、隣の男へ聞いただけだった。
「十二社会なくなったら、この金どうなんねん」
「止まるんちゃうか」
「ほな困るやろ」
答えた男も、確かな話を聞いていたわけではなかった。十二社会がまとまって動くようになってから始まった金なら、その集まりがなくなれば終わるかもしれない。そう考えただけだった。
「武藤のカシラがまとめに来とるんやろ」
「ああ」
帳面を見ていた男は、その名前を聞いて口を閉じた。本家から案が出たことは知っている。親分たちが残るかどうかを話していることも、下へ少しずつ伝わっていた。
上納が減るのなら、それは助かる。揉め事が収まることにも、不満はない。だが、自分が今扱っている金が止まれば、その分をどこで埋めればいいのか。帳面の数字を見ているうちに、考えるのはそちらのことになった。
別の場所では、十二社会を通じてつながった商売を失うことを恐れる者がいた。その話を持ってきたことで組の中に居場所を作り、なくなれば自分の立場まで弱くなると思う者もいた。
誰もが同じ金を当てにしているわけではなかった。困る理由も、止まった時に失うものも違っていた。それでも、本家との話をまとめようとしている男の名前は、皆が知っていた。
武藤和正。
その名が出るたび、上納の見直しや、直参が本家へ意見を言えるようになるという話より、目の前の金がどうなるかを気にする者が増えた。
「親父は武藤に動かれたら困るらしい」
梶原の話も、いつの間にかそう伝わっていた。本人の言葉を聞いた者から離れるほど、何に困るのかという説明は短くなり、武藤の名だけが残った。
その夜、酒の席でそう聞いた男が、盃を置いて尋ねた。
「ほな、どうすんねん」
「知らんわ。そう言うとったいう話や」
答えた男は酒を飲んだ。聞いた方もしばらく黙り、それ以上は尋ねなかった。
武藤を止めろとは、誰も言っていなかった。傷つけろとも、殺せとも言っていない。梶原自身、天龍に残る方で考えていることを変えたわけではなかった。
だが、その場にいた男が持ち帰ったのは、残留を考えているという話ではなかった。親父が困っていて、その原因に武藤の名がある。その話だけが、また別の人間へ渡っていった。




