困る人間
梶原信成は、持ってきた書類を黒崎獅童の前へ広げた。事業の収支と、これから必要になる支払いをまとめたものだった。七月二十日。十二社会の会合から二日後、梶原がこの事務所を訪ねた用件は、天龍会の話ではなかった。
菱川会が抱える事業の一つで、予定していた金が入らなくなった。今すぐ組が傾くような額ではない。それでも、その金を当てにして決めた支払いは残っている。ほかから回せば済むという話でもなく、穴を埋めるために別の金を動かせば、そちらの予定まで狂う。
黒崎は梶原の説明を聞きながら、書類へ目を通していた。途中で何度か数字を確かめたが、話を急かすことはなかった。梶原が最後の頁を示すと、そこまで読み終えてから顔を上げた。
「分かりました。こちらで考えましょう」
「助かります」
梶原は小さく頭を下げた。これで金が入ると決まったわけではない。それでも、最初から難しいと言われなかったことで、肩の力が少し抜けた。
黒崎とは、もう短い付き合いではなかった。事業を通じて話がつながり、必要な時に金を用意してもらったこともある。入った金を使い、商売を回し、そこからまた金を生む。そういう話ができる相手だった。
天龍会の若頭補佐であることは、もちろん知っている。だが、こうして向かい合っている時、梶原が見ているのはその役職より、目の前の数字を読める男の方だった。
「十二社会の方は、どうですか」
黒崎が聞いた。梶原は書類から手を戻しかけ、その指を止めた。
「耳が早いですな」
「これだけ大きな話ですから」
黒崎は僅かに笑った。梶原の持ってきた書類を揃え、自分の手元へ置く。
「武藤さんが、随分動いているそうですね」
「ええ」
「大した人ですね」
梶原は黒崎の顔を見た。皮肉を言っているようには聞こえなかった。自分が会った時も、武藤は一人で来て、上納と会計の話を聞いた。それから十二人の前へ、本家の回答を持ってきた。
口を出すだけなら、執行部の席からでもできたはずだった。実際に一人ずつ訪ね、國枝とも話をつけた。その働きを、梶原も小さく見る気にはなれなかった。
「室井はもう残る言うてます。柏木もそっちへ傾いとる。城戸さんも、本家の案は現実的や言うとる」
「では、終わりそうですね」
梶原は煙草を取り出した。一本咥え、ライターを手に取ってから答えた。
「まあ……そうなるかもしれませんな」
火をつけ、煙を吐いた。二日前の座敷では、自分も残る方で考えると言った。まだ決めたわけではないと付け加えたが、あの案を読む前より、答えはそちらへ近づいていた。
今も、その判断が変わったわけではない。それなのに、終わりそうだと言われると、すぐには頷けなかった。
「梶原さんは?」
「ワシですか」
「天龍に残るんでしょう」
梶原は煙草を指に挟み、膝の上へ手を下ろした。
「今の案なら、その方がええとは思てます」
「それがいいでしょうね」
梶原は顔を上げた。黒崎は、先ほど事業の説明を聞いていた時と同じ調子で言った。
「止めんのですか」
「なぜ私が止めるんです?」
聞き返され、梶原はすぐには答えられなかった。黒崎はその顔を見て、穏やかに続けた。
「あなたが納得して決めたことなら、それでいいでしょう」
梶原は煙草の先へ目を落とした。自分でも、何を言われると思っていたのか、はっきりしなかった。ただ、これほどあっさり残留を認める言葉が返ってくるとは思っていなかった。
黒崎の側から、十二社会に属する組へ金が入っている。梶原も、その全てを知っているわけではない。自分の事業を通じて動いた金や、付き合いの中で聞いた話があるだけだった。それでも、十二社会の動きに関心がない相手だとは考えていなかった。
十二人がまとまっているからこそ、価値を見て近づいてきた人間もいる。本家が譲るのか、十二社会が出るのか。どちらへ動くにしても、十二組が一緒に動くという話には、それだけの大きさがあった。
「このまま武藤さんが十二人をまとめてしまえば……」
黒崎が口を開いた。梶原は煙草から目を戻した。
黒崎は手元の書類を閉じた。
「十二社会も必要なくなるでしょう」
梶原の手が止まった。会合の中で、室井は十二社会を抜けるとは言っていない。城戸も、集まりをやめると決めたわけではなかった。
だが、本家との話がつき、十二人が天龍に残るのであれば、今と同じように集まり続ける理由は薄くなる。少なくとも、離脱するかもしれない十二組として見られることはなくなるだろう。
「そうでしょうな」
「元に戻るだけです」
黒崎は椅子へ深く腰を預けた。
「本来は、それが一番いい」
静かな声だった。梶原は頷きかけたが、そのまま口を閉じた。
天龍に残り、事業を続ける。上納の負担が見直され、使い道も今までより分かるようになる。自分が求めていたことに近づくのなら、それでよかったはずだった。
十二社会という名前を残すために、組を集めたわけではない。城戸が言った通り、変えることが目的だった。その一部が通ったのなら、いつまでも離脱を持ち出す必要もない。
それでも、元に戻るという言葉が引っかかった。
十二社会に加わる前と今では、付き合いのある相手も、動かしている金も同じではない。十二人がまとまったことで生まれた話まで、そのまま残るのだろうか。自分たちが集まる理由を失えば、向こうが付き合いを続ける理由も変わるかもしれなかった。
梶原は卓上の書類を見た。つい先ほど、自分が広げたものだった。今入るはずだった金が入らず、その穴を埋めるために、ここへ来ている。
「……金の方は」
黒崎が顔を向けた。
「さっきの話ですが」
「もちろん、検討しますよ」
黒崎は微笑んだ。梶原は短く頷き、煙草を口へ運んだ。
断られたわけではない。十二社会がなくなれば貸さないとも、今までの付き合いをやめるとも言われていない。黒崎は最初から、こちらで考えると答えている。
分かっていても、先ほどよりその返事が遠く感じられた。金を必要としているのは自分の方で、用意できるかどうかを決めるのは向こうだった。
「ただ」
黒崎が続けた。梶原は煙草を口から離した。
「十二社会がなくなれば、困る方は多いでしょうね」
「困る?」
「ええ」
梶原は続きを待った。だが、黒崎は誰の名前も出さなかった。どの事業の話なのか、何の金を指しているのかも言わず、梶原の持ってきた書類へ一度目を落としただけだった。
尋ねれば、答えるのだろうか。
梶原は考えたが、その問いを口にはしなかった。十二社会に価値を見ていた者が困るという話なら、自分にも分かる。そこから始まった付き合いを頼っている者も、無関係ではいられない。
煙草が短くなっていた。梶原は灰皿へ押しつけ、火が消えるまで指を離さなかった。
「……まあ、そらそうでしょうな」
「でしょうね」
黒崎はそれ以上、十二社会の話を続けなかった。梶原も、本家の回答について何かを言い足すことはなかった。
梶原が帰ったあと、黒崎は窓の外へ目を向けた。車が幾つも流れ、その間を人が横切っている。しばらく眺めてから、卓上へ視線を戻した。
灰皿には、梶原が吸った煙草が残っていた。黒崎は持ち込まれた書類を開き、説明を受けた数字をもう一度確かめた。
武藤を止めろとは言っていない。十二社会を残せとも言わなかった。梶原が天龍に残る方がいいと言えば、それでいいと答えた。
それでも梶原は、帰る前に金の話を確かめ直した。
黒崎は必要な額の記された頁で手を止めた。十二社会がなくなったあと、今ある付き合いがどうなるのか。その答えを、梶原はこの部屋では聞かなかった。
窓から目を戻した黒崎は、次の頁へ進んだ。書類には、菱川会の事業で予定されている支払いが並んでいた。




