残る
武藤が出ていったあと、城戸源蔵は座敷の戸が閉まるのを待って、卓上へ目を戻した。七月十八日。本家から持ち込まれた回答は、要求書の隣に開かれたままだった。廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなっても、十二人のうち、席を立つ者はいなかった。
室井泰造は、自分の前へ回ってきた紙を読み終えた。上納負担の見直し、会計の大枠の説明、直参と本家が定期的に話す場。武藤が話したことが、そこに記されている。指で端を揃え、隣の柏木へ渡した。
全部が通ったわけではない。本家が最後に決めるという形は変わらず、会計にも見せない部分が残る。室井自身、これだけで不満がなくなったとは思っていなかった。
それでも、何も変えないという答えではなかった。
「ワシは残る」
室井が言った。声を張ったわけではなかったが、紙を見ていた梶原も、煙草を咥えていた石渡も顔を上げた。海老沢は卓へ置いた手を動かさず、室井を見た。
「どういう意味や」
「そのままや。集団離脱には加わらん」
海老沢の顔が険しくなった。片岡も座り直し、室井の方へ体を向ける。
「今さら抜けるんですか」
「十二社会を抜ける言うてへん」
室井は海老沢の目を受けたまま答えた。
「けど、天龍は出ん」
口にすると、座敷が静かになった。城戸へ、集団離脱を考え直したいと伝えてから、ひと月近く経っている。その時には、ほかの十一人の前で、ここまではっきり言えなかった。
自分にも本家への不満はある。上納を納め、決まったことを下へ伝え、その理由を聞いても十分な答えが返ってこない。だから城戸の話に頷き、十二社会へ加わった。あの時の判断を、今も間違いだったとは思っていない。
ただ、天龍を出たあと、自分はどうしたいのか。
武藤と話してから、何度も考えた。若い衆を連れ、今まで背負ってきた代紋を下ろす。その先のことを思うたびに、天龍を出たいわけではないという答えへ戻った。
室井は卓上の紙へ一度目を落とし、続けた。
「本家は変える言うた。全部ちゃう。それでも、こっちの話聞いて動いた。それで出ていったら、ワシは何のために要求したんか分からん」
海老沢は何も返さなかった。紙を見ようともせず、室井の顔を見ていた。室井も、それ以上言葉を足さなかった。
隣で柏木が読み終えた紙を置いた。その音を聞いてから、梶原信成が口を開いた。
「ワシも、今のままやったら残る方で考える」
海老沢が梶原へ顔を向けた。梶原は先ほどから読んでいた頁を指で押さえたまま、先に言った。
「まだ決めたわけちゃう。ただ、あの案なら銭の話は前より筋通る」
組ごとの負担を見直す。使い道の大枠を定期的に示す。どちらも、実際に出てきた数字を確かめなければ、納得できるものかどうかは分からない。だが、その数字を出すと本家が答えたことまで、なかったことにはできなかった。
梶原は一枚目へ戻り、上納について書かれた箇所を読み直した。武藤には、見てから決めると伝えている。今ここで離脱を決めれば、あの時、自分が言ったことを曲げることになる。
「ワシもや」
柏木寛治が言った。腕を組み、室井と梶原を順に見てから、城戸へ目を向けた。
「若い衆百何十人連れて出るいうんは簡単ちゃう。本家が何もせん言うなら別やけど、ここまで出してきたもん無視する気にはならん」
その顔に、晴れたようなところはなかった。天龍を出るという話を持ち帰れば、下の者たちは自分を見る。誰と話し、何を考え、どう決めたのか。その答えを持たないまま、ついてこいとは言えなかった。
海老沢は背筋を伸ばし、座敷を見回した。これまでにも、慎重な意見は出ていた。室井は何度も喧嘩になることを恐れ、柏木は若い衆の血を流したくないと言った。それでも、離脱には加わらないと、全員の前で言い切った者はいなかった。
今は、その室井に続いて二人が話した。梶原も柏木も、ほかの誰かが同じ意見を言うのを待っているようには見えなかった。
古賀慎二は、自分の前に置かれた湯呑みへ手を伸ばした。持ち上げかけて、そのまま戻す。しばらく黙ってから、城戸の方を見た。
「ワシも……もう一回考えます」
片岡が顔を向けた。
「何を今さら考えるんや」
「今さらやからですよ」
古賀は片岡を見た。十二人の中では一番若く、言い合いになると、どちらかの話を聞いたまま黙ることが多かった。今日もすぐには口を開かなかったが、今は片岡から目を逸らさなかった。
「ここまで来たら、流れで決めたないんです」
片岡の口元が固くなった。古賀はそれを見ていたが、言い直さなかった。残るとも、出るとも、まだ決められない。ただ、ほかの親分が決めたから自分もそうするという返事だけは、したくなかった。
石渡が煙草の灰を落とした。音を立てるほど強く叩いたわけではなかったが、古賀はそちらへ一度目を向けた。石渡は何も言わず、煙草を口へ戻した。
赤松は膝の上に手を置き、大庭は卓上の回答へ目を落としている。岩城も黙ったままだった。誰もが同じことを考えているようには、もう見えなかった。
「城戸さんはどうするんです」
海老沢が聞いた。室井へ向けていた時よりも、抑えた声だった。
城戸は要求書と本家の回答を並べたまま、すぐには答えなかった。十二人へ声をかけ、何を求めるのかを話し合い、一つの紙へまとめた。最初に出した要求書には、ここにいる全員が名前を連ねている。
本家から返事が来た時も、交渉を続けると言った。海老沢たちが待つだけでは変わらないと苛立つのを聞き、それでも、話すことをやめなかった。
その結果を、今は自分も読まなければならなかった。
「武藤のカシラの案は、現実的やと思う」
海老沢が僅かに身を乗り出した。
「それは、残るいうことですか」
「まだそこまで言うてへん」
城戸は静かに返した。海老沢の目を見てから、卓を囲む親分たちへ顔を向けた。
「けど、最初にワシらが求めたんは何や」
誰も答えなかった。城戸は、自分たちが出した要求書を指先で叩いた。
「天龍を出ることちゃうやろ」
海老沢は黙っていた。城戸は手を戻し、言った。
「変えることや」
佐伯昭三は、その言葉を聞いていた。先ほど読んだ定期協議の一文が、まだ頭に残っている。意見を言っても、本家が聞くかどうかは内容次第だと武藤は答えた。それを不満に思う気持ちは、今もあった。
だが、十二人が要求したあとで、本家が答えを変えたことも確かだった。最初からこの案があったわけではない。話し合いを続けるうちに、上納を見直すことも、会計を示すことも、紙の上へ出てきた。
これから本当にその通りにするのか、見届けなければ分からない。それでも、何も変わらないから壊すしかないとは、今は言い切れなかった。
佐伯は何も言わなかった。室井の残留にも、梶原や柏木の言葉にも、反対しなかった。
城戸が本家の回答を手元へ寄せた。室井はそれを見てから、湯呑みを取った。冷めた茶を一口飲んで置く間も、海老沢と片岡は黙っていた。
集団離脱の話が消えたわけではない。室井以外は、まだ自分の答えを出していなかった。城戸も、十二社会として本家へ何と返すかを決めてはいない。
それでも、残ると言った室井は、今も同じ卓を囲んでいる。城戸は出ていけとは言わず、ほかの親分たちも席を立たなかった。
柏木が本家の回答へ手を伸ばした。梶原から受け取り、もう一度読み始める。古賀はその手元を見たあと、隣から回ってきた要求書を開いた。
五月に十二人で決めたことと、七月になって本家が示した答え。その間に、変わったものがあった。十二人はまだ座敷に残り、自分たちがこれからどうするのかを考えていた。




