ワシになにかあったら
久世征一郎が本家の玄関で靴を履いていると、廊下の奥から声が掛かった。
「久世。時間あるか」
振り返ると、武藤和正がこちらへ歩いてきていた。久世は立ち上がり、背広の裾を直した。
「ありますけど」
「ほな付き合え」
七月十四日。外はまだ明るかったが、本家での用は終わっていた。久世は何の用かを尋ねず、武藤の後について出た。待っていた若い衆へ後で連絡すると伝え、そのまま二人で歩き出す。
連れて行かれたのは、本家から少し離れた小さな店だった。武藤が暖簾をくぐると、店の男が顔を上げ、奥の席を示した。先に腰を下ろした武藤は酒を頼み、久世の分も勝手に同じものを注文した。
「ワシ、まだ飲む言うてませんけど」
「どうせ飲むやろ」
「飲みますけどね」
久世が笑うと、武藤も口元を緩めた。卓上へ二人分の猪口が置かれ、続いて酒が運ばれてくる。久世が瓶へ手を伸ばすより早く、武藤が持ち上げて注いだ。
本家では、若頭と創天五家の一人だった。人がいれば、それぞれの立場で交わす言葉もある。だが、二人きりになれば、昔からそう堅苦しい間柄でもなかった。
武藤は一口飲み、猪口を置いた。
「十二社会、戻せるで」
唐突な言葉だった。久世も酒を口へ運びかけていた手を下ろし、卓上へ戻した。
「いけそうですか」
「ああ。室井はもう腹決めとる。梶原も数字見たら変わる。佐伯も考え始めた」
武藤は、残ると返事をした者の数を並べているのではなかった。一人ずつ会った時の顔を思い出し、その後の動きも含めて言っていた。久世はその声を聞き、次の名を出した。
「海老沢は?」
「あいつは無理やな」
武藤は笑った。久世が顔を見ると、猪口を持ったまま付け足す。
「今んとこは」
久世も小さく笑った。話して済む段階は終わったとまで言う男を、すぐにどうにかできるとは考えていないらしい。それでも、海老沢だけを話の外へ置くつもりはないようだった。
「城戸はどう見てます」
「離脱したいわけちゃう。あいつが一番考えとるんは、十二人まとめてどう本家と話するかや」
武藤は酒を口へ運んだ。飲み終えてからも、しばらく猪口を手にしていた。
「まだ身内や」
その言葉だけは、少しゆっくりだった。久世は相槌を打たずに聞いた。
「十二社会いう名前付けて固まったから、別の組織に見えるだけや。中におるんは、昨日まで一緒に天龍背負っとった連中やぞ」
店の男が料理を運んできた。武藤は卓上を少し空け、皿が置かれるのを待った。男が離れてから、久世へ目を戻す。
「こっちが敵や言うた瞬間、ほんまに敵になる。せやからワシは、それだけはせん」
久世は小さく頷いた。要求を出したことも、離脱を口にしたことも、なかったことにはできない。だが、本家の若頭があの十二人を敵と呼べば、下の者まで同じように見るようになる。
まだ誰も天龍会を出ていないうちから、身内へ向ける言葉を変えてしまう。そうなった後で話し合いへ戻す難しさを、武藤は考えていた。
武藤は、必要なら人を殺せる男だった。揉め事を言葉だけで収めてきたわけでもない。その男が十二人に会い、返事の違いを聞いて歩いている。
久世には、その手間を惜しまないところが武藤らしく思えた。相手が折れなければ何をするかは、十分に知っている。その前に、ほかの道が残っていないかを確かめていた。
「改革案は?」
「新道に詰めさせとる。上納は一部見直す。会計も見せられるとこは見せる。直参の親分連中と本家が定期的に話せる場も作る」
久世は箸を取ったが、皿へ伸ばす前に止めた。要求書への最初の回答から考えれば、いずれも小さな話ではなかった。
上納を直せば、ほかの直参も理由を聞く。会計を見せる範囲にも、本家の中で意見が出るだろう。話し合う場を設けるというだけでも、誰が何を決めるのかを詰めなければならない。
「会長は通しますかね」
「通す」
「随分自信ありますね」
「通すまで話すんじゃ」
久世が吹き出した。武藤は平然と酒を飲み、空いた猪口を卓上へ戻した。
「それ、話し合い言います?」
「知らん」
武藤も笑った。久世は首を振り、ようやく料理へ箸を伸ばした。
案がまとまっただけでは、十二社会へ持っていけない。國枝の了承を得て、本家として出せるものにしなければならなかった。武藤はそこまでを引き受けた上で、通すと言っている。
久世は酒瓶を取り、武藤の猪口へ注いだ。武藤も自分の手元へ瓶を寄せ、久世へ返した。
しばらく、仕事の話から離れた。運ばれた料理を食べ、酒が減れば注ぐ。武藤が箸を止めて話すと、久世は聞きながら笑った。本家にいる時より声がよく聞こえ、卓の向こうも近かった。
店の入口が開き、客が二人入ってきた。外はいつの間にか暗くなり、暖簾の隙間から向かいの灯りが見えた。
「しかしカシラも大変ですね」
久世が何気なく言った。武藤は箸を持ったまま顔を上げた。
「何がや」
「十二社会まとめて、本家まとめて、その上会長まで説得するんでしょう」
「若頭やからな」
「五十五でようやりますわ」
「お前もそのうち分かる」
「嫌ですよ」
即答すると、武藤がまた笑った。久世は猪口を置き、その顔を見た。
「何笑ってるんです」
「いや。お前ならできる思てな」
久世の眉が僅かに動いた。冗談を返そうとしたが、武藤は先に酒瓶へ手を伸ばした。猪口へ注ぎながら、何でもないことのように続ける。
「ワシに何かあったら、久世がおる。」
久世は顔をしかめた。武藤の手が止まり、注ぎ終えた瓶が卓上へ戻る。
「何ですか急に。縁起でもない」
「たとえばの話や」
「そんな例えいらんでしょう」
「そう怒んなや」
武藤は笑って酒を飲んだ。久世はしばらくその顔を見ていたが、やがて自分も猪口を取った。
武藤が自分を評価していることは知っていた。今日、二人で飲もうと声を掛けたのも、十二社会をどう見ているかを話す相手に選んだからだろう。今の言葉も、その延長に聞こえた。
だからこそ、久世は軽く頷いて引き受ける気になれなかった。目の前の男は、十二人の親分へ会い、本家を変える案を持ち、これから会長と話すと言っている。その仕事を終える前から、何かあった時のことを言われても困る。
「まだまだカシラに働いてもらいますよ」
「人使い荒いのう」
「若頭なんでしょう」
「さっきワシが言うたやつ返すな」
二人の猪口が軽く触れた。武藤は笑ったまま飲み、久世も口へ運んだ。
卓上には、まだ料理が残っていた。久世が皿を武藤の方へ寄せると、武藤は箸を取り直した。酒の追加を聞きに来た店の男へ、もう一本と答える。
久世はその注文を止めなかった。十二社会へ見せる数字も、会長へ通す案も、まだこれからだった。だが、向かいに座る武藤の口からは、誰を切るかという話が一度も出ていない。
戻せるで、と言った時の顔を思い出し、久世は新しく運ばれてきた酒を受け取った。




