一枚岩やない
海老沢豪の前では、茶が手をつけられないまま冷めていた。座敷へ入った時から、海老沢はほかの親分たちの顔を見ていた。誰かが目を合わせても、挨拶以上の言葉は出なかった。
七月十一日。十二社会の親分たちは、一人も欠けずに集まっていた。同じ卓を囲み、同じ要求書へ名を連ねた十二人だった。だが、武藤和正が一人ずつ会い始めてから、顔を合わせるたびに話しにくいことが増えていた。
城戸源蔵が全員の揃ったことを確かめたところで、海老沢が口を開いた。
「いつまでこんな話続けるんです」
苛立ちを隠そうともしない声だった。膝へ置いた手を動かさず、城戸の方を見ている。
「本家の答え待つ言うて、もう十分待ったでしょう。向こうが時間稼いどる間に、こっちは何も進んどらん」
「何も進んどらんことはないやろ」
室井泰造が返した。海老沢の目が向く。室井は視線を受けたまま、茶碗から手を離した。
「何が進んだんです」
「少なくとも、本家は話聞き始めた」
「武藤のカシラが一人で動いとるだけや」
横から石渡慎吾が口を挟んだ。室井がそちらを向くと、石渡は卓上へ肘を寄せ、続けた。
「本家が変わったわけちゃう」
片岡忠志が頷いた。赤松隆一は二人へ目を向けたが、何も言わなかった。城戸もまだ口を開かず、室井がどう返すのかを待っていた。
室井にも、本家が変わったと言い切ることはできなかった。武藤と話したからといって、上納の額が下がったわけではない。要求書へ返ってきた答えが、取り消されたわけでもなかった。
それでも、あの面会を何もなかったことにはできない。自分が天龍会を出たいのかどうか、室井はあれからずっと考えている。出ることを前提に話を進められるたび、今はそこで立ち止まった。
「ワシは、もうちょい見てもええと思う」
梶原信成が言った。片岡が眉をひそめ、顔を向ける。
「何を見るんです」
「数字や」
梶原は煙草の灰を落とした。灰皿を卓上へ戻し、海老沢と片岡を見た。
「こっちが上納の使い道見せろ言うて、向こうは出す言うとる。出てきたもん見んうちから、全部嘘や言うんも違うやろ」
「梶原さん、随分本家寄りになりましたな」
海老沢の声に棘があった。梶原は煙草を口へ運ぶ手を止めた。
「本家寄りちゃう。ワシは最初から銭の話しとんねん」
卓を挟んで視線がぶつかった。梶原は、本家へ白紙の返事をするつもりで待っているのではなかった。何を見せるのか、何が説明できるのか。それを確かめる前に出ると決めれば、自分が求めたものを自分で退けることになる。
海老沢も、その理屈が分からないわけではないようだった。だが、納得した顔ではなかった。煙草を取り出し、箱を卓上へ置いた音が、少し強く響いた。
柏木寛治は腕を組んだまま二人を見ていた。古賀慎二も口を開かない。大庭英治は煙を吐き、灰皿へ目を落とした。誰も梶原に続いて本家をかばおうとはしなかったが、海老沢の言葉へ頷く者も増えなかった。
室井は、その沈黙を前より長く感じていた。何も言わなければ、同じ考えだと受け取られる。自分も、そうして黙っていたことがある。だが今は、誰もがほかの者の返事を待っているように見えた。
「佐伯さんはどうなんです」
片岡が尋ねた。視線が佐伯昭三へ集まる。佐伯は茶碗の近くへ置いていた手を膝へ戻し、片岡を見た。
すぐには答えられなかった。武藤に聞かれたことも、翌日に真田武雄と交わした言葉も、まだ整理がついていない。今の天龍会を変えなければならない。その考えだけなら、ここにいる誰にでも、これまで通りに言えた。
「ワシは改革せなあかん思とる。それは変わらん」
海老沢が小さく頷いた。佐伯はその顔を見てから、続けた。
「ただ、離脱して壊すんが唯一の方法か言われたら……今はそうとも言い切れん」
海老沢の動きが止まった。片岡も返事をせず、佐伯を見ている。少し離れたところで、古賀が顔を上げた。
「佐伯さんまで何言うてるんです」
石渡が身を乗り出した。佐伯はそちらへ向き直ったが、言ったことを引っ込めなかった。
「十二社会は何のために作ったんです」
「考えるためやろ」
低い声が飛んだ。城戸だった。
それまで全員の話を聞いていた城戸が、煙草を灰皿へ置いた。石渡は口を閉じ、姿勢を少し戻した。
「最初から答え決めとるんやったら、十二人集まる必要ない」
海老沢が城戸を見た。今度は、佐伯や梶原へ向けた時より、言葉を選ぶような間があった。
「城戸さん。離脱は十二社会の大前提やったでしょう」
「ちゃう」
城戸は即座に否定した。海老沢が言い直す前に、続ける。
「本家に要求を飲ませる。そのために集まったんや」
「飲まんかったら出る」
「せや」
「なら同じでしょう」
「同じちゃう」
静かな声だった。城戸は海老沢を見たまま、はっきりと言った。
「出ることが目的になったら、話が逆や」
誰も口を挟まなかった。石渡も片岡も、城戸を見ていた。海老沢は煙草を持った手を下ろし、返事を待った。
最初に集まった時、城戸は本家と喧嘩をするためではないと言った。天龍会を出たいのではなく、中を直したい。そのために十二人で要求をまとめた。
本家の回答を受け取り、話しても無駄だという声が強くなってからは、離脱の話が先へ進んだ。それでも城戸は、出ること自体を要求書の代わりにしたつもりはなかった。
城戸は卓を囲む者たちを見回した。
「ワシは離脱ありきで考えとらん」
海老沢の顔から表情が消えた。梶原は黙って聞き、佐伯も膝へ手を置いたまま動かなかった。
「本家が何も変えん。こっちの話も聞かん。ほんなら出る。それは今も変わってへん」
城戸はそこで一度言葉を切った。残れば全て済むと考えているわけではない。そのことは、海老沢だけでなく、待とうと言った者にも聞かせていた。
「けど向こうが話聞いて、変える言うとるなら、その中身見てから決めたらええ」
「それじゃ武藤のカシラの思う壺やないですか」
海老沢が言った。城戸は顔を戻した。
「何がや」
「一人ずつ会って、十二社会を割っとる」
室井が顔を上げた。海老沢はこちらを見ていなかったが、その言葉は、武藤と会った自分たちへ向けられていた。
面会へ行く前と考えが変わった。それは室井も認める。だが、武藤に言われた通りにしているというつもりはなかった。自分の組へ戻り、若い衆の顔を見ながら考えたことまで、あの男に動かされた話にはされたくなかった。
「割れたんちゃうやろ」
「何?」
海老沢が振り向いた。室井は声を張らずに続けた。
「最初から一枚岩やなかっただけや」
言い終えても、誰もすぐには返さなかった。海老沢の目が室井へ据えられたままになり、石渡は口を開きかけて閉じた。
十二人には、それぞれ集まった理由があった。梶原は上納の使い道を求め、佐伯は組織のあり方を変えようとした。柏木は若い衆の血を流したくないと言った。海老沢は、本家が今さら話を聞いても遅いと考えている。
要求書を出す時には、同じことを求めている部分を揃えられた。今は、その返事を受け取った後で、どこまで待つのか、何を見れば納得するのかが違っていた。
室井は城戸を見た。自分だけが考えを変え、ほかの十一人を置いて戻るのだと思っていた時には、言いにくかった言葉だった。だが、佐伯も梶原も迷っている。城戸も、出ると決めていないと言った。
柏木が長く息を吐き、組んでいた腕を解いた。
「……一回、武藤のカシラが何出してくるか見てもええんちゃいますか」
古賀も小さく頷いた。海老沢はその動きを見た。片岡が柏木へ顔を向け、石渡は卓上へ視線を落とした。
城戸は、誰がどちらへ頷いたかを数えなかった。今ここで多数を揃え、出るか残るかを決める話にも持っていかなかった。十二人とも、まだ同じ卓についている。聞かなければならない言葉は残っていた。
海老沢は煙草の灰を落とした。灰皿へ伸ばした手を戻しても、さっきまでのように、全員を先へ進ませる言葉は出なかった。
十二社会を正式に抜けた者はいない。要求を取り下げた者も、本家へ戻る返事をした者もいなかった。
それでも、次に本家から何かが届いた時、十二人が同じ受け取り方をしないことは、この座敷にいる誰にも分かった。




