壊すということ
電話口で、真田武雄は店の名と時間だけを告げた。佐伯昭三が用件を聞くと、来たら分かると言って切れた。受話器を置いた後も、佐伯はしばらく電話の前に立っていた。
七月八日。武藤和正が佐伯会の事務所を訪ねてきた、その翌日だった。昨日、ふと思い出した男から、今日は呼び出しが来た。何の話になるかは、聞かなくてもおおよそ分かった。
佐伯は若い衆を連れず、指定された店へ向かった。真田とは三十年来の付き合いになる。若い頃には同じ現場で何度も血を流した。兄弟盃を交わした仲ではなかったが、互いの背中を預けた数なら、下手な兄弟分より多かった。
店の者に案内されて座敷へ入ると、真田は既に酒を飲んでいた。卓上には二人分の膳が用意され、片方の猪口だけが使われている。
「遅い」
「時間通りや」
「ワシより後やったら遅いんじゃ」
「呼びつけといて勝手なこと言うな」
真田は鼻を鳴らした。佐伯は上着を脱ぎ、向かいへ腰を下ろす。座布団へ座り直して顔を見ると、真田は自分の猪口へ酒を注いでいた。
「何や。説教なら帰るぞ」
「ほな帰れ」
「呼んだんお前やろ」
酒瓶が卓上へ戻された。佐伯も手を伸ばし、自分の分を注いだ。顔を合わせてすぐのやり取りは、若い頃から大して変わっていなかった。
しばらく、どちらも十二社会の話をしなかった。昔の知り合いが死んだ話から、最近の若い衆の話になる。真田が腰の痛みをこぼすと、佐伯はその座り方が悪いと言い、飲む量を減らせと返された。
互いに、相手の若い頃を知っている。今さら自分だけが丈夫な顔をしても、通じなかった。三十年も付き合えば、顔を合わせるたびに似たような話になる。
佐伯が箸を置いたところで、真田も猪口を卓上へ戻した。
「昭三」
声の調子が変わった。佐伯は茶碗へ伸ばしかけていた手を止めた。
「何で十二社会入った」
「今さらそれ聞くんか」
「お前の口から聞いとらん」
「天龍変えるためや」
「十二人集まってか」
真田の声が低くなった。佐伯は膝へ手を戻し、相手を見た。
「不満あるなら一人で本家来たらええやろ」
「一人で言うて変わったんか」
佐伯はすぐに返した。真田が口を開く前に、続ける。
「今まで何人が言うた。上納がきつい。本家がでかくなりすぎた。下の声が届かん。全部ずっと前から出とった話や」
「せやから十二人で本家脅すんか」
「脅しちゃう。要求や」
「同じじゃ」
真田が吐き捨てた。佐伯の眉が動く。要求書を作るまでに、十二人で何度も話してきた。中身を聞かず、集まったことから責められるのは、本家の返事を受け取った時にも味わったことだった。
「武雄。お前かて今のままでええとは思てへんやろ」
「思てへん」
「ほな何が違う」
「やり方じゃ」
即答だった。真田は猪口へ手を伸ばさず、佐伯を見据えた。
「四代目がまだおるんやぞ」
太い声が座敷へ響いた。佐伯も視線を逸らさなかった。
「会長が生きとるうちから十二人で固まって、出て行く言うて突きつける。それが筋か」
「会長がおるから何も変えられんのやったら、いつ変えんねん」
佐伯も声を強めた。卓上へ出した手に力が入り、指先が畳へ触れた。
「五代目になったら変わるんか。その五代目を誰にするかで、また本家の中だけで話決めるんやろ」
「決まってもない先の話で代紋捨てるんか」
「代紋捨てたい言うてへん!」
真田が黙った。佐伯はその顔を睨み、息を吐いてから続けた。
「残したいから言うとるんや」
天龍会の看板が邪魔になったから、十二社会へ入ったのではない。この代紋の下でやってきたからこそ、言わずにはいられなかった。それを捨てるつもりだと受け取られることが、佐伯には腹立たしかった。
「このまま腐っていく天龍見ながら、昔からこうやったからで済ませる方が、ワシにはよっぽど代紋捨てとるように見えるわ」
真田の顔から、僅かに怒気が引いた。佐伯は若い頃から、天龍の話になると熱くなる男だった。自分が損をした話だけなら、ここまで声を荒らげない。
三十年も付き合っていれば、そのくらいは分かる。分かっているから、真田も呼んだのだった。
「腐った柱残して建て直せるか」
佐伯が言った。
「いっぺん壊すしかない」
口にしてから、昨日の武藤の顔が浮かんだ。だが、今は真田が目の前にいる。佐伯は言葉を引っ込めず、返事を待った。
真田はしばらく何も言わなかった。膳へ目を落とし、猪口を取り上げる。一口飲んでも、すぐには続きを口にしなかった。
二人とも、天龍会が今ほど巨大ではなかった頃を知っていた。九頭竜会と天龍組が大阪で血を流した、あの戦争も知っている。昨日まで隣で酒を飲んでいた男が、翌日には帰ってこない。次に顔を見る時には、もう言葉を交わせないこともあった。
今、こうして座敷で向かい合っている二人は生き残った。その代わりに、ここへ呼べなくなった男たちがいた。
「壊すんは一晩や」
真田は猪口を置いた。
「九頭竜会との戦争の時、どんだけ血流れたと思とんねん」
佐伯の目が細くなった。その話を知らずに言っているのではない。自分もあの中にいた。
「それでも勝ったから、今の天龍があるんやろが」
「せやからや」
真田が佐伯を睨んだ。
「作るんに何十年かかった思っとんねん」
佐伯は返しかけた言葉を止めた。昨日も、別の部屋で似たように口を閉じた。武藤は一万人の人間と、その下にいる家族や商売を挙げ、壊した翌日に誰がまとめるのかと聞いた。
壊したあと、誰が作るんや。
今日は真田が、そこへ至るまでの年月を持ち出している。佐伯自身が知っている顔と、失ってきた者のことを言っていた。
佐伯は卓上の酒瓶へ手を伸ばした。猪口へ注ごうとして、中身が残っていることに気づく。瓶を戻し、その酒を飲んだ。
「何もせんかったら腐るだけや」
「誰が何もせん言うた」
「お前や。本家に残って何すんねん」
真田の目が鋭くなった。佐伯も、今度は答えを聞くつもりでその顔を見た。
「守るんじゃ」
「何を」
「今ある天龍をや」
佐伯は鼻で笑った。
「それが腐っとる言うとるんや」
「ほな腐ったとこ切ったらええ。柱ごと燃やす必要あるんか」
二人とも黙った。佐伯は膝の上で手を握り、真田は猪口の縁へ指を掛けていた。
残って直せるのなら、最初からそうしている。佐伯には、まだその思いがあった。何年も言って変わらなかったものが、今度だけ変わると信じる理由は足りない。
一方で、真田が今の本家に不満を持ちながら残ることも、ただ従っているだけだとは言い切れなかった。残しておかなければならないものがあると、この男は考えている。その中には、佐伯が残したいと思っている天龍会も含まれていた。
真田は酒瓶を取り、自分の猪口へ注いだ。今度は佐伯の方へも手を伸ばす。佐伯は少し猪口を寄せ、注がれるのを待った。
「十二社会抜けろとは言わん」
佐伯が意外そうに顔を上げた。真田は酒を注ぎ終え、瓶を置いた。
「自分で考えろ。ただな、昭三」
佐伯は返事をせずに聞いていた。真田も声を張らなかった。
「壊す言うんやったら、その先まで見てから壊せ」
佐伯は猪口へ目を落とした。残れと命じられたのなら、断れた。十二社会を抜けろと言われたのなら、こちらが入った理由をもう一度話せた。
だが、真田は決めることを佐伯へ返した。その上で、壊すと言う自分に、先を見ろと求めた。
佐伯は猪口の酒を一息に飲んだ。喉を通った後で、小さく息を吐く。真田は新しい酒を注がず、こちらを見ていた。
武藤と真田。話し方も、腹を立てるところも違う二人から、同じところを問われた。武藤は壊した後の一万人を挙げ、真田は今の天龍会を作るまでに失った者を挙げた。
天龍会を変えなければならない。その思いは消えなかった。今日ここで酒を飲み、昔の話をしたからといって、下の声が届くようになるわけでもない。
それでも佐伯は、空になった猪口を持ったまま、続きを言えずにいた。直すには壊すしかない。そう言うたび、その後で自分が何をするのかを、二人の顔を思い出して考えなければならなくなっていた。
この話は執筆が捗りました。




