佐伯昭三
佐伯昭三は、武藤和正の前へ茶を置いた。若い衆に運ばせず、自分で盆を持ってきたのは、ほかの者を部屋へ入れたくなかったからだった。武藤が礼を言うと、佐伯は短く頷き、向かいへ腰を下ろした。
七月七日。佐伯会の事務所へ武藤が来ることに、驚きはなかった。室井、梶原、海老沢。十二社会の親分を一人ずつ訪ねていると聞けば、いずれ自分のところにも来る。連絡を受けた時も、都合をつけるのに迷いはなかった。
「カシラも大変ですな」
佐伯は空になった盆を脇へ置いた。
「十二人、一人ずつ説得して回るんですか」
「説得やない。話聞いとるだけや」
「それで室井は残る言い出した。梶原まで揺れとる」
「本人が決めたことや」
武藤は煙草を取り出した。佐伯が灰皿を寄せると、手で応じてから火をつける。その顔には、二人の考えを変えてやったという得意げなところはなかった。
佐伯は鼻で笑った。昔から、こういう男だった。言い負かして従わせるより、相手が答えなければならないところを聞く。聞かれた者が自分で考え、決めた後で、本人の決めたことだと言う。
気に食わない。だが、室井も梶原も、武藤に脅されたとは言っていなかった。自分で考えたと言う相手へ、それは考えさせられたのだと言ったところで、話にはならない。
「ワシは変わりませんよ」
「そうか」
「今の天龍は、一回壊した方がええ」
武藤は黙って煙を吐いた。眉をひそめることも、口を慎めと言うこともない。佐伯は茶へ伸ばしかけた手を戻し、そのまま続けた。
「上納だけの話ちゃいます。組織がでかくなりすぎた。上と下が離れすぎとる。本家が決めたら直参が従う。直参が決めたら、その下が従う。誰も途中で止められへん」
武藤は佐伯を見ていた。何か言いたいことがあっても、途中で挟むつもりはないらしい。佐伯は座り直し、膝へ置いていた手を卓上へ出した。
「昔はそれで良かったんでしょう。けど一万人ですよ。昔のやり方のまま回る人数ちゃう」
組が小さければ、上で決めた男の顔も、その考えも、下まで伝わった。言いたいことがあれば、怒鳴られる覚悟で顔を出すこともできた。今は、何人もの間を通るうちに、誰が何を決めたのかさえ曖昧になる。
下へ届く時には、もう決まったことになっている。理由を尋ねれば、上で決まったと言われる。引き受けられないと返しても、その返事がどこまで届いたのか分からない。
佐伯は、そのたびに自分のところで話を止めてきた。下の者へ言い聞かせる時もあれば、上へ掛け合う時もある。それでも結局、決まったものを変えられず、自分が下を抑える側へ回ることがあった。
「それをいつまで続けるんです」
声に熱が入っていた。武藤は遮らず、煙草を灰皿の上へ動かした。
佐伯は天龍会を嫌っているわけではなかった。若い頃から、この代紋で生きてきた。仲間を失い、自分も血を流した。組が大きくなったことを誇らしく思った時期もある。
その天龍会で、下の声が上へ届かなくなっていく。看板が大きくなった分だけ、その下にいる人間のことを分かったつもりで決める者が増えた。黙って従うことを忠義とされれば、言うべきことまで言えなくなる。
佐伯には、それを見過ごす方が耐えられなかった。
「せやから壊すんか」
武藤がようやく聞いた。
「そうです」
「壊して、十二社会で新しいもん作るんか」
佐伯は少し考えた。十二人が全員、同じ先を見ているわけではない。海老沢と室井の間で交わされた言葉も、集まりのたびに黙る者の顔も覚えていた。
「十二社会がそのまま新組織になるかは分かりません。けど一回更地にせな、変えられんもんもある」
武藤は灰を落とした。佐伯の言ったことをすぐには否定せず、煙草を持つ手を少し下ろした。
「ほな聞くけどな、昭三」
名前で呼ばれ、佐伯が顔を上げた。武藤は身を乗り出さず、座ったままこちらを見ていた。
「壊したあと、誰が作るんや」
「……何です?」
「一万人おるんやぞ」
静かな声だった。佐伯は武藤の顔を見たまま、返事を待った。
「直参だけちゃう。その下、そのまた下までおる。食わせなあかん家族もおる。シマもある。商売もある。それ全部いっぺん壊して、次の日から誰がまとめんねん」
「それは――」
言いかけて、佐伯は止まった。新しい仕組みを作る。今までのやり方を変える。その話をするつもりだったが、武藤が聞いているのは、仕組みの中身ではなかった。
「城戸か。お前か。海老沢か」
武藤は一人ずつ名前を出した。佐伯は口を閉じ、続く言葉を聞いた。
「十二社会の十二人でやるんか」
「できんとは言うてません」
「ワシも、できんとは言うてへん」
武藤は佐伯をまっすぐ見た。
「誰がやるんか聞いとる」
佐伯は答えなかった。茶碗へ手を伸ばし、持ち上げる前に止めた。温かいうちに飲むつもりで淹れた茶は、まだ二人とも口をつけていなかった。
壊すことは考えていた。その先も、考えていないつもりはなかった。直参の声が届く組織にする。本家だけで何もかも決めない天龍会にする。十二社会で話してきた要求は、そのために必要なものだった。
だが、それを誰が背負うのか。
城戸へ任せると言えば、自分は変えろと求めるだけの側へ戻る。十二人でやると言っても、今、その十二人が離脱するかどうかで割れかけている。新しい組織を作れば、その違いがなくなるわけではなかった。
自分がやる。その言葉を出すこともできた。だが、口にした途端に、佐伯会の若い衆だけを考えていれば済む立場ではなくなる。
明日も仕事へ出る男がいる。上納を持ってくる組があり、揉め事を持ち込む組もある。今の本家をなくした翌日、それらをどこへ行かせるのか。武藤は、そこへ座る人間の名を聞いていた。
「カシラは」
佐伯は茶碗から手を離した。
「今の天龍でええ思てるんですか」
「思てへん」
即答だった。佐伯の目が僅かに動いた。武藤はそのまま続けた。
「直さなあかんとこは山ほどある。今回の十二社会かて、本家が聞かなさすぎたんが原因の一つや」
「ほな――」
「せやけどな」
武藤が遮った。佐伯は続けかけた言葉を止め、その顔を見た。
「直すんと壊すんは、同じちゃうぞ」
佐伯は黙った。本家の若頭が、今の天龍会でいいとは思っていないと答えた。十二社会が要求を出したことにも、本家側の原因があると認めた。その上で、壊した後を尋ねている。
今まで通りに従えという話なら、言い返すつもりだった。本家の都合を説明されるだけでも、こちらの都合を返せた。だが武藤は、佐伯の言う新しい天龍会を、誰が実際に動かすのかと聞いていた。
武藤は煙草を灰皿へ押しつけた。短くなった一本を消し、手を離す。
「壊すんがあかんとは言わん。本当にそれしかない時もある」
そう言って立ち上がった。佐伯は座ったまま、武藤を見上げた。
「せやけど、壊した後まで背負う覚悟ない奴が壊したら、それは改革ちゃう。ただの破壊や」
佐伯は何も返さなかった。覚悟はあると言うだけなら、簡単だった。武藤も、それを口にさせるために待ってはいなかった。
背広を整え、扉へ向かう。佐伯が立とうとすると、武藤は軽く手を上げた。
「また話そや」
それだけ言って、部屋を出ていった。廊下で若い衆の返事がし、玄関へ向かう足音が遠ざかる。佐伯は腰を浮かせかけた姿勢から、ゆっくり座り直した。
卓上には、二人分の茶が残っていた。佐伯は自分の茶碗を取り、一口飲んだ。冷めかけていたが、そのままもう一口飲み、元の場所へ戻す。
今の天龍会を変えなければならない。その考えは変わっていない。上納だけを軽くし、数字を見せれば済むとも思わなかった。下の声が届かないままなら、同じ不満はいずれまた出る。
それでも、さっきまでと同じ言葉で、一回壊せばいいとは言えなくなっていた。
壊したあと、誰が作るんや。
佐伯は煙草を取り出した。一本咥え、ライターへ手を伸ばす。指を掛けたところで止まり、火をつけないまま机へ置いた。
三十年来の旧友、真田武雄の顔が、ふと頭に浮かんでいた。




