金の根
黒崎獅童は、開いていた決算書へ紙を挟み、机の端へ寄せた。向かいに座る黒田家信の前には、まだ報告の済んでいない書類が残っている。黒崎はその一枚を受け取り、上から順に目を通した。
七月三日。大阪市内のビルの最上階には、朝から会社の決算書や土地の資料、融資に関する書面が集まっていた。その中に、十二社会についてまとめた報告が混じっている。黒田が持ってきたのは、武藤和正との面会を終えた親分たちの動きだった。
「海老沢は変わりません」
黒田が言った。黒崎は手元の紙から目を上げず、続きを待った。
「武藤のカシラと会った後も、離脱の意思は変わっていないようです」
「そうですか」
黒崎は読み終えた紙を机へ戻した。声にも顔にも、喜んだ様子はなかった。黒田は海老沢についてそれ以上付け足さず、次の報告へ移った。
「室井は逆です。梶原もだいぶ揺れてます。城戸さんも、最初から何が何でも離脱という考えではない」
黒崎は紙の端を揃えた。室井が残る道を考え始めたことは、既に聞いている。梶原も、本家の数字を見てから決めると言っている。十二人が揃って天龍会を出るという話は、武藤が会うたびに、違う答えを持つ親分の話へ変わっていた。
黒田は一度言葉を切り、黒崎の顔を見た。
「武藤のカシラ、思った以上に効いてますね」
黒崎は返事をしなかった。十二社会の報告を脇へ置き、別の紙へ手を伸ばす。黒田もそちらへ目を落とした。
今度の紙には、組の名前ではなく、いくつもの会社名と金額が並んでいた。貸付、事業資金、紹介料。名目はそれぞれ違う。黒崎は日付を確かめてから、一箇所で目を止めた。
「赤松のところは?」
「今月も回してます。直接ではありませんが」
「石渡さんは」
「そっちも問題ありません。下にも流れてます」
黒崎は頷き、紙を一枚めくった。黒田は尋ねられた金額と、その先の動きを答えた。受け取った後で、どこまで使われているのか。手元に残っている分があるのか。黒崎が確かめるのは、そうしたことだった。
十二社会へ金を入れるだけなら、難しくはない。必要としている親分へ渡せば、その場の付き合いはできる。だが、それだけでは、受け取った男の考えが変われば終わってしまう。返されるか、別の金で穴を埋められれば、こちらとの関係も切れた。
黒崎が見ている紙には、その先があった。
親分のところへ入った金は、傘下の組へ流れる。そこから、さらに下へ渡る。事務所を借りる金になり、車を買う金になり、シノギで空いた穴を埋める金になる。最初に受け取った親分だけの都合では、もう片づかなくなっていた。
その金で支払いを済ませた者もいれば、これからの仕事を始めた者もいる。受け取った本人でさえ、元がどこなのか知らないことがあった。目の前の付き合いから入ってきた金として扱い、その金があるつもりで、次の支払いを考えている。
黒田は机上の紙を見渡した。海老沢と室井の考えが違うように、組ごとの事情も違う。それでも、どこへ金が渡っているのかを追うと、親分たちの発言だけを聞いている時には見えないものがあった。
「随分、根を張りましたね」
黒崎は僅かに笑った。
「金は、人より正直ですから。」
黒田が顔を上げた。黒崎は手元の数字を指で押さえ、淡々と続けた。
「人間は恩を忘れる。約束も破る。昨日まで味方だった人が、明日には敵になることもある」
声に誰かを責める響きはなかった。そういうことがあると述べているだけだった。黒田も口を挟まずに聞いていた。
「ですが、金が必要だという事実は変わらない」
黒崎は紙から指を離した。そこには、誰が國枝を嫌っているのかも、十二社会の席で何を言ったのかも書かれていない。親分同士の付き合いや、昔からの恩義も記されていなかった。
代わりに、入った額と出た額がある。外からの金がなければ、どこが苦しくなるのか。その金を使った後で、どれだけ次を必要としているのか。口では何を言っていても、支払いの日は来る。その時に足りないものは、考え方を変えただけでは埋まらなかった。
黒田は十二社会の報告へ目を戻した。室井は残留を考え、梶原も武藤の話を聞いている。城戸には、もともと天龍会の中を直したいという考えがある。武藤の面会が続けば、離脱を望む者がさらに減ることもあり得た。
「ただ、このまま武藤のカシラがまとめたら」
黒崎の手が止まった。黒田は机へ置かれた紙を見ながら言った。
「根を切られるところも出てきますね」
黒崎はすぐには答えなかった。窓の外へ目を向ける。昼の光が入り、机の端へ揃えた書類を照らしていた。
「切られますかね」
「え?」
黒田が聞き返すと、黒崎は顔を戻した。
「根というものは、上から見える部分だけ切っても残るものです」
黒田は黙った。十二社会の親分が本家へ残ると決めても、その下で使われた金まで元へ戻るわけではない。既に借りた事務所があり、始めた仕事がある。親分の決定を待たず、毎月かかる金もあった。
黒崎はそれ以上説明しなかった。黒田も、紙に書かれた数字をもう一度確かめた。十二人がまとまるか、割れるか。それだけを見ていては、この机で確かめていることの半分も見ていないのかもしれなかった。
武藤を止めろという言葉は出なかった。室井を引き戻せとも、梶原へ働きかけろとも言わない。黒崎は十二社会の中へ流れた金が、どこまで届いているかを確かめ、報告を聞いていた。
黒田は長く黒崎の側にいた。だからこそ、指示がないことを、関心がないという意味には受け取らなかった。赤松が来た時も、黒崎は話を聞いた。今も、金の動きと親分たちの返事を、同じ机で見ている。
誰かを呼びつけ、答えを迫る方が、何をさせたいのかは分かりやすい。黒崎が何も命じず、相手の動きを待っている時には、どこまでを見込んでいるのか、黒田にも分からないことがあった。
黒崎は最後の紙へ目を通し、報告書を閉じた。
「今まで通りで構いません」
「分かりました」
黒田は書類を揃えた。増やせという指示も、止めろという指示もなかった。武藤の動きが効いていると伝えた後でも、黒崎の決めたことは変わらなかった。
椅子を戻し、扉へ向かう。取っ手へ手を伸ばす前に、黒崎が呼び止めた。
「黒田さん」
「はい」
振り返ると、黒崎はまだ机の前に座っていた。閉じた報告書へ片手を置き、黒田を見ている。
「無理に増やす必要はありませんよ」
黒田は黒崎の顔を見た。今まで通りという言葉へ、自分から何かを足す必要はない。そう確かめるように、次の言葉を待った。
「水をやりすぎても、根は腐りますから」
穏やかな声だった。黒田は一度だけ頷き、部屋を出た。扉が閉じると、黒崎は机へ目を戻した。
十二社会の報告書を脇へ置き、先ほどの決算書を手元へ戻す。挟んでいた紙を抜き、途中まで読んだ頁を開いた。こちらにも会社名と数字が並び、判断を待つものが残っていた。
十二社会の中では、残る者と出ようとする者が、それぞれの理由を持ち始めている。武藤はその一人ずつに会い、話を聞いていた。黒崎は、その動きを止める指示を出さなかった。
金は既に流れていた。受け取った者の手を離れ、その下で使われ、次の支払いを生んでいる。親分が本家へ残ると決めた後にも、その金を必要とする人間は残る。
黒崎は決算書の頁をめくった。一度その金を頼りに暮らしを動かし始めれば、自分から断つのは容易ではない。そのことを確かめるために、今、誰かを動かす必要はなかった。




