海老沢豪
海老沢豪は、武藤和正が部屋へ入っても立たなかった。ソファへ深く腰を下ろし、煙草を持った手だけを灰皿の上へ動かす。武藤を案内してきた若い衆が戸口で頭を下げ、扉を閉めた。
七月一日。海老沢組の事務所には、昼を過ぎても何人もの男が出入りしていた。廊下を歩く足音が途切れ、外で交わされていた声も、扉が閉まると遠くなった。
海老沢は、この組を一代で二百八十人まで膨らませた男だった。十二社会の中でも気性の激しさを隠さず、片岡忠志ら強硬派からは兄貴分として慕われている。本家の若頭を迎えた今も、愛想を作る気はないようだった。
武藤は向かいへ腰を下ろした。卓上には灰皿が二つ置かれている。海老沢の側には、既に何本もの吸い殻が溜まっていた。
「久しぶりやな」
「そうでもないでしょう」
海老沢は煙草を咥えたまま答えた。武藤が座り直すのを待ち、その顔へ目を据えた。
「室井と梶原に会うたらしいですな」
「ああ」
「随分熱心や」
「十二人おるからな」
武藤は煙草を取り出した。火をつける間も、海老沢は黙ってその手元を見ていた。灰が落ちそうになってから、自分の煙草を口から離す。
「ワシも説得するんですか」
「話しに来ただけや」
「同じことでしょう」
武藤は否定しなかった。話を聞けば、考えが変わる者もいる。こちらが変えなければならないところも見つかる。結果として残る者が増えることを望んでいるのだから、海老沢の言い方が全て間違いというわけではなかった。
だが、向こうは既に、武藤が何を言うかまで決めて待っていた。本家へ残れ。要求は引っ込めろ。そう言われた時に返す言葉を、用意しているように見えた。
「何が一番引っ掛かっとる」
「要求書に書いてますやろ」
「読んだ」
「ほな、分かるでしょう」
海老沢は灰を落とした。上納の負担も、人事も、縄張りへの介入も、十二人で話して文面にした。受け取った本家が返事まで出した後で、同じことを一から説明するつもりはないという顔だった。
武藤は煙草を指に挟み、海老沢を見た。要求の中身に不満があることは分かっている。それだけなら、直せるところを示し、通せないところを話せばよかった。
海老沢には、その話を始める前から残っているものがあった。
「会長のこと、まだ許してへんのか」
海老沢の目が変わった。灰皿へ向かいかけていた手が止まり、煙草の先から細く煙が上がった。
「何の話です」
「分かっとるやろ」
海老沢は答えなかった。武藤も、昔の出来事を並べはしなかった。若い頃から國枝重政と折り合いが悪かったことは知っている。何があったかをここで持ち出しても、海老沢が素直に口を開くはずはなかった。
ただ、國枝の名に向ける反応は、要求書の項目を話していた時とは違っていた。武藤を見ている目にも、先ほどまでより強いものがあった。
「カシラ」
低い声だった。
「昔の話をしに来たんなら帰ってください」
「昔の話が今に残っとるから言うとんねん」
「残ってませんよ」
「ほなええ」
武藤はあっさり引いた。海老沢の眉が僅かに動く。それ以上問い詰められると思っていたのか、口を開きかけたまま、武藤の続きを待った。
武藤は煙を吐き、灰皿へ手を伸ばした。
「ワシは、お前に会長を好きになれ言いに来たんちゃう」
海老沢は身じろぎもしなかった。武藤が持ち出した昔の話も、自分が否定した言葉も、そのまま二人の間へ残っていた。
「本家に頭下げろとも言わん。ただ、この先ほんまに出るんか。それ聞きに来た」
海老沢は少し黙った。煙草を口へ運び、一口吸ってから離す。答えるために考えているというより、武藤がそこまで聞くことを確かめているような間だった。
「出ますよ」
迷いのない返事だった。武藤は視線を動かさずに聞いた。
「二百八十人連れてか」
「そのつもりです」
「若い衆も全員、それ望んどるんか」
海老沢の目が鋭くなった。背もたれへ預けていた体を少し起こし、武藤を見返す。
「ウチのことまで口出しますか」
「親分が決めたら下は従う。それが極道や。分かっとる」
武藤の声は変わらなかった。海老沢組の若い衆を集め、一人ずつ意思を確かめろと言いたいのではない。親分が出ると言えば、出たくない者もついていく。そのことは、武藤自身が誰よりよく知っていた。
「せやから聞いとる。お前が二百八十人の人生まで背負って、それでも出る言うとるんか」
廊下で足音がした。扉の前を通り過ぎ、その先で誰かに呼ばれて止まった。低く返事をする声が、部屋へ僅かに届いた。
海老沢は扉へ目を向けなかった。武藤の問いにも、すぐには言い返さない。煙草を持つ手を膝の近くへ下ろし、まっすぐ前を見ていた。
「背負ってますよ」
短く言った。
「その覚悟もなしに十二社会おる思てます?」
武藤は海老沢を見た。二百八十人という数を聞かせても、目は揺れなかった。若い衆を置いて自分だけが出るというつもりも、勢いで口にして引っ込める気もない。その答えは、既に自分の中で出していた。
十二社会全体で、離脱が決まったわけではない。室井は残る道を考え、梶原は本家が示す数字を見てから決めると言った。海老沢にとっては、その二人を待つ間にも、出るという考えが固まっていた。
武藤は煙草を口へ運んだ。室井と同じ問いを重ねても、海老沢から同じ答えは返ってこない。腹を決めたと言う男に、決めていないはずだと迫ることもできなかった。
「本家は変わる」
煙草を離し、武藤が言った。
「上納も会計も、直せるとこは直す。ワシが会長に話す」
海老沢は笑わなかった。何もかも通すと約束されたわけではないことも、武藤が自分の名で口にしていることも、分かっているはずだった。それでも、その顔に期待は浮かばなかった。
「遅いんですわ」
「何がや」
「全部です」
海老沢は煙草を灰皿へ押しつけた。火が消えてからも少し指を離さず、それから手を戻した。
「こっちが何年言うても聞かんかった。十二人集まって、離脱言い出して、ようやく本家が話聞き始めた」
武藤は黙って聞いていた。要求書が届いた時の本家の反応も、回答を巡る執行部の言葉も覚えている。海老沢の不満を、聞いていないという一言で退けることはできなかった。
「今さら数字見せます、話し合います、直します言われて、はい分かりましたで戻れると思いますか」
海老沢は武藤をまっすぐ見た。声を張ることも、卓上へ拳を落とすこともない。返事を待つ間も、その目は動かなかった。
武藤が何か言う前に、海老沢が続けた。
「もう話して済む段階は終わっとる。」
部屋は静かだった。怒鳴り声なら、収まるまで待つこともできた。売り言葉に買い言葉なら、話を戻す余地もあった。
今の海老沢は、武藤へ腹を立てた勢いで言ったのではなかった。本家がこれから何を見せるかより、それまで何をしてこなかったかを見ていた。今になって手を差し出されても、その手を取るつもりがない。
武藤は煙草の先へ目を落とした。長くなった灰を落とし、もう一度、海老沢を見る。向こうは何も付け足さなかった。
しばらくして、武藤が立ち上がった。
「分かった」
海老沢が怪訝な顔をした。座ったまま武藤を見上げ、卓上へ置いていた手を動かした。
「それだけですか」
「ああ」
「諦めるんですか」
武藤は灰皿へ煙草を押しつけた。火が消えたことを確かめ、手を離してから海老沢を見る。
「誰が諦める言うた」
海老沢の口が閉じた。武藤は立ったまま続けた。
「今日は、お前が何考えとるか聞きに来た。それは聞けた」
その場で残ると言わせるまで帰らないのでは、話を聞きに来たことにならなかった。海老沢が出ると言ったことも、直すという返事では遅いと言ったことも、武藤は持ち帰るつもりだった。
扉へ向かって歩き出しても、海老沢は呼び止めなかった。武藤が一度振り返ると、向こうはソファへ座ったまま、こちらを見ていた。
武藤は部屋を出た。廊下にいた若い衆が姿勢を正し、頭を下げる。案内を受けて歩きながら、小さく息を吐いた。
十二人の親分と話す。そう決めた時から、全員が同じ答えを出すとは思っていなかった。室井は自分の組の若い衆を考えて立ち止まり、梶原は本家の金を確かめようとした。海老沢は二百八十人を背負うと言い、その上で出ると答えた。
あの男にも守る組があり、自分で決めてきた年月がある。そこを認めずに、本家へ残ることだけを分からせようとしても、海老沢は聞かないだろう。
玄関の向こうには、海老沢組の看板があった。武藤は靴を履き、背広を整えた。送りに出てきた若い衆へ短く声を掛け、外へ出る。
話せば分かる。その言葉だけで、今日の海老沢をどうにかできるとは思わなかった。それでも武藤は、話すことをやめるつもりはなかった。




