鳴海清隆
八百屋の軒先へ、店の婆さんが水を撒いていた。六月二十八日の昼過ぎ。濡れた道の端を避けながら、柳龍司は一人で商店街を歩いていた。
夜には客の声が漏れる店も、今は戸を閉めている。酒屋の前には配達の車が停まり、積み下ろしを終えた男が、首へ掛けた手拭いで汗を拭いていた。龍司はその脇を通り、見慣れた看板へ目を向けた。
昨夜、水谷に言われたことが、まだ頭に残っていた。自分が今、何を背負っているのか。考えてみても、うまく言葉にはならない。ただ、いつもなら通り過ぎる店先で、誰が何をしているのかを見るようにはなっていた。
八百屋の前で、一人の男が婆さんと笑っていた。
五十を少し過ぎたくらいに見えた。上等そうな背広を着ているが、連れはいない。店先の野菜を眺めていたらしく、婆さんが袋へ何かを足すのを、男は困った顔で見ていた。
「こんな要らんて」
「持って帰り。いつも世話なっとるんやから」
「ワシ、何もしてへんがな」
「ほな、食べるん手伝うて」
婆さんは袋を男へ押しつけた。男は受け取って中を覗き、また笑った。断りながらも邪険には扱わず、潰れないように持ち直している。
龍司が何となく足を緩めると、男が振り返った。目が合ってからも、向こうは龍司の顔を探るような見方をしなかった。
「兄ちゃん、この辺の子か」
「まあ、そんな感じです」
「ええ街やな」
「飲み屋ばっかりですけどね」
男は声を上げて笑った。婆さんも横で笑い、龍司にまで何か持たせようと店の中を振り返った。龍司が手を振ると、男は自分の袋を少し持ち上げた。
「逃げるんやったら、今やで」
「聞こえとるわ」
婆さんの声に、男はもう一度笑った。龍司も口元を緩めた。初めて話す相手だったが、いつもの店先のやり取りへ、そのまま混ぜられたような気がした。
気取ったところのない男だった。背広も靴も、龍司が普段着ているものとは違う。それでも、こちらが襟を正して話さなければならないような空気はなかった。
ふと、久世征一郎を初めて見た時のことを思い出した。
創天五家の一人。親分の、そのまた親分。会う前には、顔を見るだけで息が詰まるような男を勝手に想像していた。実際の久世は、自分の肩書を並べることも、若衆の龍司を初めから相手にしないこともなかった。
今、目の前で野菜の袋を持っている男にも、少し似たところがあった。そう思っただけで、龍司はすぐに考えるのをやめた。人当たりのいい男を見かけるたびに、久世と比べるのもおかしな話だった。
男が、龍司の胸元へ目を向けた。ポケットから煙草の箱が少し出ている。
「一本くれへんか」
龍司は箱を取り出し、差し出した。男が一本抜いたのを見て、自分も咥える。ライターへ手を伸ばすと、男は煙草を咥えたまま、少し顔を寄せた。
龍司が火をつける間、男は空いた手で風を囲った。
「おおきに」
自分の煙草にも火をつけ、龍司はライターをしまった。男は通りの人を避けて軒先から離れ、煙を吐いた。
「兄ちゃん、仕事は?」
「この辺です」
「怪しいな」
「そっちも人のこと言えんでしょう」
言ってから、少し失礼だったかと思った。向こうは仕事を聞いただけだったし、背広を着ている男が、皆こちらと同じ稼業というわけでもない。
だが、男は腹を立てなかった。自分の背広を一度見下ろして、楽しそうに頷いた。
「確かにな」
婆さんへ挨拶をして、男が歩き出した。龍司も同じ方へ向かうつもりだったので、その横へ並んだ。男の手では、野菜の入った袋が歩調に合わせて揺れていた。
少し行くと、魚屋の親父が店の奥から顔を出した。男を見るなり声を掛け、今度顔を出すと言っていたのに来ないと文句を言う。男は笑って謝り、店先の魚を覗き込んだ。
龍司は横で煙草を吸いながら待った。親父は龍司にも気づいて顎を上げたが、二人が一緒にいる理由は聞かなかった。ひとしきり話をして歩き出すと、今度は喫茶店の女将に呼び止められた。
どちらでも、男は急がなかった。相手の話を途中で切らず、どうでもいい冗談にも足を止めて笑っている。店の者も、この男が何か用事を持ってきたとは思っていないようだった。
「よう知ってるんですね」
喫茶店を離れてから、龍司が言った。男は煙を吐き、通りの先へ目を向けた。
「長いからな」
「この辺住んでるんですか」
「まあ、似たようなもんや」
曖昧な答えだった。龍司も仕事を聞かれて似たような返事をしていたので、それ以上は尋ねなかった。
男は袋を逆の手へ持ち替えた。八百屋からここまで、大した距離ではない。それでも、何度も呼び止められたせいで、思ったより時間が経っていた。
「この街、好きか」
不意に聞かれ、龍司は男を見た。向こうは歩いたまま、返事を待っている。
好きかどうかなど、普段は考えなかった。朝、事務所へ行き、用があれば街へ出る。馴染みの店で飯を食い、呼ばれれば裏口へ回る。神楽町へいるのは当たり前で、わざわざ好きだと言ったこともなかった。
「嫌いではないです」
「それは好きいうことや」
「勝手に決めんといてくださいよ」
男は楽しそうに笑った。龍司は前へ向き直ったが、言い返す言葉は続かなかった。
嫌いなら、毎日こんなふうに歩いていないのかもしれない。昨夜、店の男に呼ばれた時も、面倒だから行かないとは思わなかった。そう考えると、今の返事は、わざわざ遠回りをしただけのような気もした。
通りの分かれるところで、男が足を緩めた。
「好きな場所あるんは、ええことやで」
龍司が顔を向けると、男は煙草を持った手を軽く上げた。野菜の袋を提げ直し、そのまま商店街の向こうへ歩いていく。
龍司は少し見送ってから、自分の行く方へ足を向けた。名前も聞かなかったし、こちらも名乗らなかった。顔の広い、よく笑う男。それくらいしか分からないまま、事務所へ戻った。
玄関を開けると、奥から柴崎健吾が出てきた。誰かを探していたらしく、廊下の先へ顔を向けかけてから、龍司に気づいた。
「龍司、お前どこ行っとった」
「街ですけど」
「鳴海の親分が来とったんやぞ」
龍司は靴を脱ぎながら顔を上げた。柴崎は事務所の中へ戻りかけていたが、龍司が動かないので振り返った。
「鳴海?」
「鳴海清隆や。天翔組の」
そこで龍司の手が止まった。
創天五家。二代目天翔組組長、鳴海清隆。名前は知っている。顔を見たことはなかったが、榊組の若衆が呼び捨てにしていい相手でないことくらいは分かった。
「……今日ここ来てたんですか」
「さっきまでな」
龍司は脱いだ靴へ目を落とした。揃えようとしていたのに、片方だけ少し前へ出ている。そこへ手を伸ばしかけ、八百屋の袋を提げた男の顔が浮かんだ。
背広姿で、一人で歩いていた。店の人間をよく知っていて、五十を少し過ぎたくらいに見える。
「なあ、柴崎の兄貴」
「何や」
「鳴海の親分って、五十ちょいくらいで……よう笑う人ですか」
柴崎が龍司を見た。今度は廊下の先へ目を向けず、そのままこちらへ向き直った。
「お前、会うたんか」
龍司は黙った。
煙草まで一本渡した。仕事を聞かれ、この辺だと答えた。向こうから怪しいと言われたので、そっちも人のことを言えないと返した。
思い返すと、口にした言葉が一つずつ気になった。相手が誰か分かっていれば、あんな言い方はしなかった。龍司が黙っているので、柴崎の眉間へ皺が寄った。
「何や、その顔」
「いや……知らんかったんで」
「何を言うた」
龍司はすぐには答えなかった。どこから話せばいいのかを考えているうちに、柴崎が短く息を吐いた。
だが、久世と会った時ほどの驚きはなかった。あの時は、目の前の男が自分からどれほど遠いところにいるのかを知って、ただ頭を下げるしかなかった。今日は、正体を知る前に一緒に歩き、どうでもいい話までしていた。
自分の仕事も名前も曖昧なままなのに、鳴海は話をやめなかった。こちらの返事を聞いて笑い、店の人間に呼ばれれば足を止めた。創天五家の一人だと分かった後でも、その姿は変わらず思い出せた。
「……上におる人間って、よう分からんな」
龍司が呟くと、柴崎が眉を上げた。
「何がや」
「いや。何でもないです」
龍司は靴を揃え、立ち上がった。柴崎について奥へ歩きながら、さっき鳴海が尋ねたことを思い返した。
この街、好きか。
自分が榊組の人間だと名乗っていれば、別の話になったのだろうか。それとも、鳴海は同じように聞いたのだろうか。もう別れてしまったので、確かめようがなかった。
久世も鳴海も、龍司が若いというだけで、初めから見下すことはしなかった。同じ創天五家でも二人の話し方は違ったし、笑い方まで似ていたわけではない。それでも、話している間、こちらの言葉が届いていることは分かった。
偉い極道というものを、龍司はまだうまく説明できなかった。ただ、鳴海清隆という名前を聞けば、これからは天翔組の組長という肩書だけでなく、野菜の袋を提げて笑っていた男の顔も浮かぶのだろうと思った。




