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龍は天を仰ぐ  作者: lala
十二社会篇

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神楽町の若造



 六月二十七日。神楽町は、何も変わっていなかった。夕方になれば商店街に灯りがつき、飲み屋が暖簾を出す。仕事帰りの男たちが路地へ流れ込み、店先から上がる焼き物の煙が、通りを歩く者の腹を空かせた。


 柳龍司は相沢直樹と並んで、いつもの道を歩いていた。自転車を押した女が通れば端へ寄り、馴染みの店から声が掛かれば片手を上げる。相沢は惣菜屋の前で足を緩めたが、龍司がそのまま歩くのを見て、買うかどうか迷っていた顔を戻した。


 少し前までなら、これが龍司の知っている世界のほとんどだった。榊組があり、親父がいて、水谷や柴崎がいる。神楽町で何か起これば自分たちが動く。事務所へ戻って兄貴分に叱られても、翌日にはまた同じ道を歩いていた。


 それで十分だった。街の境目で誰かが勝手なことをすれば、顔を見に行けばよかった。相手が何を言おうと、こちらにも引けないものがある。そう考えていた頃は、自分が何をすればいいのかで迷うことは少なかった。


 今は、嫌でもその向こうが見えてしまう。


 十二社会。本家。直参組長。そして、若頭の武藤和正。名前を聞いたところで顔も知らない男たちが、何千人もの極道の行く末を左右する話をしている。榊組も、自分も、その中にいるはずだった。


 室井が揺れた。本家のカシラが、十二社会の親分と一人ずつ会っている。本家が上納の数字まで見せるらしい。事務所で耳にした話には、そうしたものが混じるようになっていた。


 誰がどこまで知っているのかは分からない。同じ話でも、口にする者によって言い方が違った。本家が折れると言う者もいれば、十二社会を割るためやと言う者もいる。龍司が近くにいても話は続いたが、詳しく尋ねると、結局は人から聞いた話だと返ってきた。


 榊や水谷がどう見ているのかも、龍司には分からなかった。


「お前、また余計なこと考えとるやろ」


 隣を歩く相沢が言った。龍司は顔を向けた。


「何でやねん」


「顔見たら分かるわ。お前がその顔しとる時、ろくなことせえへん」


「歩いとるだけやろ」


「せやから、そのまま歩いとけ」


 相沢は前を向いたまま言った。龍司は舌打ちし、煙草を咥えた。火をつけるために立ち止まると、相沢も二、三歩先で待った。


 煙を吐き、また歩き出す。通りの向こうでは、酒屋の男が空き瓶の入った箱を積み直していた。持ち上げるたびに瓶が鳴り、その横を学校帰りの子供が駆け抜けていった。


 事務所へ戻ると、水谷恭平が奥で帳面を見ていた。卓上には何枚かの紙が広げられ、水谷はその数字を確かめながら、帳面へ書き込んでいる。


 龍司は入口で靴の泥を落とし、奥へ進んだ。相沢が後ろから入ってくる。水谷は二人に一度目を向けただけで、また手元へ戻った。


「兄貴、ちょっとええですか」


「嫌や」


 水谷は顔も上げなかった。


「まだ何も言うてませんやん」


「お前がその言い方する時は、ろくな話ちゃう」


 後ろで相沢が笑った。龍司が振り返って睨むと、相沢は笑ったまま奥へ行ってしまった。引き止めることもできず、龍司は水谷の前へ腰を下ろした。


 水谷はすぐには顔を上げなかった。紙に記された数字を帳面と見比べ、一箇所へ印をつける。龍司はその手が止まるのを待ちきれず、口を開いた。


「本家のカシラ、動いてるんですよね」


 そこでようやく、水谷の手が止まった。


「誰から聞いた」


「みんな言うてますよ。十二社会の親分と一人ずつ会うてるって」


「それがどないした」


「俺ら、何もせんでええんですか」


 水谷が顔を上げた。龍司は膝へ置いていた手を組み直し、その目を見た。


「何すんねん」


「それは……分からんけど」


「分からんのに何かしたいんか」


 龍司は黙った。口にする前は、もう少し言いたいことがあったはずだった。だが、何をするのかと聞かれると、答えになるものは出てこなかった。


 十二社会の事務所へ行っても、自分に何ができるわけでもない。本家へ出向いたところで、二十一歳の若衆がいきなりカシラに会えるはずもなかった。誰に会い、何を言うのか。そのどちらも思いつかない。


 ただ、何もできないことが気に入らなかった。


 神楽町の小さな揉め事から始まった。それが別の組へ繋がり、その上に十二社会があり、さらに天龍会本家があった。片岡忠志と向き合った時でさえ、こちらを若造として扱う相手に、言い返すのが精いっぱいだった。


 それでも龍司には、目の前に相手がいる方がまだ分かった。今は誰に腹を立てればいいのかも、自分たちが何を待っているのかも分からない。話に出てくる組や役職が増えるほど、自分の知っていることが足りなくなる。


「俺かて極道ですよ」


 龍司が呟いた。


「知っとるわ」


「ほな、何で俺らだけ――」


「龍司」


 水谷が遮った。声は大きくなかったが、龍司は口を閉じた。


「何でも首突っ込んだら極道ちゃうぞ」


 水谷はペンを置き、煙草の箱へ手を伸ばした。一本抜いて火をつける間、龍司は卓上の帳面を見ていた。開かれた頁には数字が並んでいる。これも組の仕事なのだろうが、何の数字なのか、龍司には分からなかった。


 水谷が少し煙を吐いた。


「上には上の仕事がある。せやけど、下は黙っとけいう話ちゃう。自分が今、何背負っとるか分かれいう話や」


「俺が?」


「お前が毎日歩いとる街、誰のシマや」


「ウチです」


「そこで揉め事起きたら誰が行く」


 龍司は答えなかった。答える必要もなかった。


 店から呼ばれれば、自分が行く。相沢と歩いていて妙な男がいれば、顔を見る。水谷や柴崎から言われることもあったが、誰かに言われる前に足が向くことの方が多かった。


 それを、本家がどうなるか分からないからと、やめるわけにはいかなかった。十二社会の話が決まるのを待っている間も、店は開き、人は働き、夜には酔った客が路地へ出てくる。


 水谷は煙草を灰皿へ置き、また帳面へ目を落とした。


「今のお前が見るんは、そこや」


 龍司は組んでいた手を解いた。納得したわけではなかった。神楽町を見ていれば、それだけで済むのかという気持ちは、まだ残っていた。


 だが、水谷は本家の話をしている間も、目の前の仕事を止めていなかった。龍司が黙ると、広げていた紙を一枚引き寄せ、再び数字を確かめ始めた。


 龍司はそれ以上食い下がらず、立ち上がった。


「……分かりました」


 水谷は小さく頷いた。龍司が席を離れる頃には、またペンが動いていた。


 外へ出ると、神楽町はすっかり夜になっていた。暖簾の奥から笑い声が漏れ、通りを曲がってきた男が、店の灯りを確かめるように足を止める。夕方にはまだ閉まっていた店も戸を開け、狭い路地へ客を迎えていた。


 龍司は一人で、いつもの道を歩いた。頭の中にはまだ十二社会も武藤も残っている。本家のカシラは、十二人の親分と何を話すのだろう。相手が腹を立てても、自分のように声を荒らげることはないのだろうか。


 考えてみても、うまく姿を思い浮かべられなかった。自分なら何を言うかと考え始め、そもそも何を聞けばいいのか分かっていないことに気づく。


 いつか自分も、ああいう場所へ行くのだろうか。


 そんなことを考えている自分が、少し可笑しかった。榊組の事務所で、水谷に何をするのかと聞かれただけで黙ってしまったばかりだった。


 煙草へ火をつけ、路地の角を曲がる。ここを通れば誰の店があるのか、どの戸が裏口なのかは分かる。少し前に足を止めた惣菜屋は、もう店先の品を片づけていた。


「龍ちゃん」


 馴染みの店の男が、戸口から声を掛けてきた。龍司が足を止めると、男は暖簾を押し上げて外へ出た。


「何や」


「ちょっと見てくれへんか。裏でまた揉めとんねん」


 男は店の脇を指した。龍司はその先へ目を向けた。路地の奥から声が聞こえるが、ここではまだ何を言っているのかまでは分からない。


 天龍会一万人の行く末とは何の関係もない、小さな揉め事だった。本家で誰が何を決めるかを待っていても、この男の困り事は片づかなかった。


 龍司は煙草を足元へ落とし、靴の裏で火を消した。


「分かった。行こか」


 男が先に立ち、龍司も並んで歩き出した。何があったのかを聞きながら、奥の声へ耳を向ける。さっきまで頭にあった本家の話は、男の説明を聞くうちに遠のいていった。


 巨大な天龍会から見れば、柳龍司など名前すら知られていない若造だった。だが今の龍司には、神楽町がある。



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