金庫番
新道宏一は伝票を一枚抜き、開いていた帳面の横へ置いた。記された日付を確かめ、金額へ目を移す。六月二十四日。本家の部屋へ差していた夕方の光は薄くなり、机の上では灯りをつけていた。
帳面、伝票、封筒。机には、目を通す順に紙が並んでいる。表へ出せるものもあれば、相手の名前をそのまま残せないものもあった。天龍会の本家へ入る銭と、そこから出る銭を、一冊だけで追えるわけではない。
新道は、必要な紙がどこにあるかを覚えていた。何年何月、どの組から入ったものか。誰が持ってきて、どこへ渡したか。帳面の数字だけでは足りない時には、その時に話した人間の顔まで思い出して確かめた。
上納が遅れる組にも、増えた銭をすぐに納める組にも、それぞれ事情がある。金額が同じでも、毎月揃えてくるものと、一度だけ大きく動いたものでは意味が違った。長年、本家の銭を預かる中で、新道は数字と一緒に、そういう動きも見てきた。
「新道さん」
顔を上げると、武藤和正が戸口に立っていた。新道は伝票へ置いていた指を離した。
「何や」
「頼みあります」
新道は武藤の顔を見て、眉を寄せた。
「お前がそういう顔して来る時は、ろくな話ちゃうな」
武藤が笑った。新道は帳面を開いたまま、続きを待った。
「梶原と会うてきました」
新道の指が止まった。武藤が次に梶原と会うと言っていたことは覚えている。十二社会の要求の中で、あの男が何を重く見ているかも分かっていた。
「金か」
「ああ」
「何言われた」
武藤は少し間を置いた。新道は椅子へ座り直し、その返事を聞いた。
「ワシらが稼いだ銭で、本家の連中が飯食っとる、やと」
新道は黙った。机の端へ置いた煙草を一本抜き、火をつける。吸い込んでから、武藤を見た。
「ようお前に言うたな」
「ワシもそう思う」
「ほんで?」
武藤は向かいへ座った。机の間には、何冊もの帳面と伝票が残っていた。新道は煙草を指に挟み、武藤が口を開くのを待った。
「見せたろ思います」
煙を吐きかけたところで、新道の手が止まった。
「何をや」
「数字」
「本家のか」
「ああ」
新道は武藤を見ていた。梶原が何を言ったにしても、その場で数字を見せると答えるのは、武藤一人で済む話ではない。手元の帳面へ目を落とし、煙草を灰皿へ置いた。
「全部は無理やぞ」
「分かっとる」
「分かってへん」
声が少し低くなった。武藤は口を挟まずに聞いていた。
「本家の銭いうんは、帳面一冊見せて終わる話ちゃう。相手の名前出されへんもんもある。出したら揉める金もある。向こうが知らん方がええ金もある」
数字を出せば、その相手について聞かれる。相手を隠せば、なぜ隠すのかという話になる。銭を払った理由を説明することで、今まで伏せてきた付き合いまで表へ出してしまうこともあった。
新道は、梶原がその辺りを知らない男だとは思っていない。菱川会にも、同じような銭はあるはずだった。だからこそ、何を見せるのかを曖昧にしたまま約束すれば、後でかえって揉める。
「せやから、見せられるもんだけでええ」
武藤はすぐに返した。
「十二社会から上がっとる上納が、何に使われとるか。それだけでも整理できるやろ」
新道は返事をしなかった。机には、使途を確かめるために集めた伝票も置いてある。数字は合っていても、なぜ増えたのか、何のために要るのかを、払う側へ説明する形にはなっていなかった。
六月十日に帳簿を見直した時、そこは自分でも気になった。本家経費とまとめてある数字を見せるだけでは、納める者へ答えたことにならない。新道は灰皿から煙草を取り、短く息を吐いた。
「会長には」
「ワシから話す」
「反対されるぞ」
「されるやろな」
武藤は平然としていた。新道は煙草を口へ運びかけ、手を下ろした。
「お前な。簡単に言うな」
「簡単やないから、新道さんに頼んどるんです」
武藤が笑った。新道はその顔を見てから、帳面へ目を戻した。
「調子ええ奴や」
開いた頁の隅へ挟んでいた紙を抜く。本家へ入った銭と、使った銭を、相手へ示せる形に直す。必要なものを揃えるだけでも、すぐには済まなかった。
武藤は、机の上を動く新道の手を見ていた。新道はもう断る話をしなかった。どの帳面から始めるかを考えながら、伝票の束を手元へ寄せた。
夜になっても、新道組の事務所には灯りがついていた。ほかの者を帰し、新道は一人で帳面を広げている。老眼鏡を掛け直し、本家へ入った銭と、出ていった銭を別の紙へ拾った。
上納、本家運営費、組織の維持に要る支出、慶弔、交際。見せられる項目を並べ、その中身が伝わるようにまとめていく。表へ出せない支出や、相手を明かせないものは外した。説明できるところまで一緒に隠す必要はなかった。
一本線を引き、数字を確かめる。全てを出せなくても、十二社会へ示せるものは、考えていたより多かった。納めた銭が本家の中でどこへ使われているか、その一部だけでも追える形になる。
梶原の言い方を、そのまま認める気はなかった。本家が何の仕事もせず、上がってきた銭で飯を食っているだけではない。直参一組では済ませられない仕事があり、一万人の組織を維持するために要る支出もあった。
だが、それを説明してこなかった。必要だから納めろと言い、足りなければ増やす。その返事で長年通してきたことは、帳面を見ても消えなかった。
「……そら揉めるわな」
新道は独り言を落とした。紙を一枚めくり、次の数字へ移る。帳尻を合わせる仕事はしてきた。それとは別に、払う側が何を聞いているのかを確かめる仕事が足りていなかった。
机の横には、十二社会に属する組の資料もあった。上納の額だけを示しても、それが重いのかどうかは決められない。各組がどれほどの規模で、どんな負担を抱えているのか。比較するために、手元にある数字を拾っていた。
室井、梶原、佐伯、岩城。幾つかの組について紙を並べる。報告されているものと、本家で把握しているものを照らし、新道は一つの欄で指を止めた。
金額そのものは大きくない。一度だけ見れば、商売上のやり取りとして通り過ぎたかもしれなかった。だが、別の組の資料にも、似た形の入金がある。
本家から出した銭ではなかった。十二社会の中で融通し合ったものでもない。外から入っていた。
新道は椅子を机へ寄せ、別の帳面を引き寄せた。記された日付を確かめ、前の月へ戻る。さらにその前も見る。離れた紙にあった数字を、時期が分かるように並べ直した。
三つあった。まだ、それだけだった。誰が何をしたのかと、人へ問いただせるものにはなっていない。
「……何や、これ」
新道は煙草を咥えたまま呟いた。会社名が違う。名義も違っていた。一つは貸付で、別のものは商売上の銭だった。もう一つには、違う名目がついている。
紙に書かれた相手だけを見れば、つながらない。それでも、入ってくる銭の形と時期が、新道には気になった。額を確かめ、日付を戻して見ても、その感じは残った。
以前、赤松組や高瀬組、京極組などの取引を並べた時にも、時期の近さが目についた。会社を一つ確かめたが、設立して一年経っていないということまでしか分からなかった。その伝票は、ほかと分けてある。
今夜の紙を、すぐにその話へ重ねるつもりはなかった。新しい取引が増えれば、外から銭も入る。組同士が同じ時期に商売を始めることもある。似ているからといって、同じ相手が動かした銭だとは言えなかった。
新道は煙草へ火をつけた。一口吸い、椅子へ深く座り直す。並べた紙には違う会社名が記されている。その名前を見直しても、銭の出所までは分からなかった。
気になるのは、本家からでも、十二人が互いに回したものでもない銭が、十二社会の幾つかの組へ入っていることだった。その出所が、それぞれの名目通りなのかどうか。今ある紙だけでは、確かめきれなかった。
相手の名は変えられる。理由もつけられる。だが、受け取った側には、その銭が入った時期と額が残る。新道は三つの数字をもう一度見てから、開示用にまとめていた束から、その紙を抜いた。
別の封筒へ入れた。表には何も書かず、机の一番下の引き出しへしまう。梶原へ説明する本家の支出と、まだ意味の分からない外からの入金を、同じ話として渡すことはできなかった。
偶然かもしれない。普通の商売の付き合いかもしれなかった。それなら、確かめた後で元へ戻せばいい。分からないものを、分かったことにして片づける気にはなれなかった。
新道は灰を落とし、再び本家の帳面を開いた。武藤に頼まれた仕事は、まだ終わっていない。十二社会へ見せる数字の整理へ戻り、一つずつ支出を拾っていった。
外は深夜になっていた。机の上では、示せる数字が少しずつ一つの束になっていく。その下の引き出しには、別にした封筒が入っていた。
新道は机の下の引き出しへ一度目を落とし、開いていた帳面へ戻った。別にした銭の出所は、まだ分からなかった。




