梶原信成
机へ置かれた封筒を、梶原信成は一つずつ開けた。札を数え、手元の帳面と照らす。足りないものはなかった。六月二十四日。二代目菱川会の事務所では、昼を過ぎても若い衆が出入りしていた。
夜の街から持ち帰った銭もあれば、表の商売で作った銭もある。帳面に書けるものと、書けないもの。その全てを同じ形で残しているわけではなかった。黙って机へ置かれた封筒について、梶原も何でも尋ねることはしない。
菱川会を継いでから、そういう銭を何度も見てきた。綺麗な銭か、汚い銭かだけでは、組の仕事は片づかない。上が行けと言えば行き、取れと言えば取る。それで組を回し、代紋を守ってきた。
集まった銭の中から、本家へ納める分を揃える。天龍会の看板を背負い、その看板で飯を食っている以上、上へ銭を入れるのは当たり前だった。梶原は、それをやめたいと言っているのではない。
問題は、持っていった後だった。増やせと言われれば増やす。何に使うのかと尋ねれば、本家経費だと返ってくる。こちらが一円まで揃えた銭が、上へ渡った途端、見えなくなる。
梶原は封筒を閉じた。料亭へ行く時間が近づいていた。武藤和正から会いたいと連絡が来ている。室井泰造に続いて、今度は自分の番だった。
部屋へ入ると、武藤は庭の方を向いて座っていた。梶原の足音で振り返る。卓上には湯呑みと灰皿があり、帳簿らしいものは見当たらなかった。
「来たか」
梶原は頭を下げ、向かいへ座った。仲居が茶を置き、襖を閉める。武藤はすぐには話し始めなかった。梶原も茶には手をつけず、灰皿を少し自分の方へ寄せた。
煙草へ火をつけ、最初の煙を吐く。室井が武藤と会った後、残留も考えると言ったことは聞いている。あの会合で、柏木や古賀まで話を聞く方へ動いた。梶原自身も帰り際、城戸へ本家が数字を見せる気はあるのかと尋ねた。
だから呼ばれたのかもしれない。梶原は武藤の顔を見た。
「室井さんみたいにはいきませんで」
「何がや」
「説得ですわ」
「誰がお前説得する言うた」
梶原は煙を吐いた。武藤の声には、怒った様子がなかった。
「ほな何で呼んだんです」
「お前の話聞くためや」
室井が言っていた通りだった。十二社会を抜けろ、本家へ頭を下げろと言われれば、こちらも返事を決められる。だが、武藤は何を約束しろとも言わない。梶原には、その方が話しにくかった。
「話いうても、ワシの言いたいことは要求書に全部書いてます」
「上納か」
「そうです」
武藤が煙草を取った。梶原は、その手元を見ながら聞いた。
「カシラ、本家に毎月なんぼ上がっとるか知ってます?」
「大体はな」
「大体」
梶原はその言葉だけを返した。朝、机の上で札を数えた時には、大体で済ませていない。帳面と合っているかを確かめ、足りなければ揃えさせる。上へ持っていく銭だけは、曖昧にはできなかった。
「ええ身分ですな」
武藤の手が止まった。梶原は構わず続けた。
「下は大体で銭作ってませんで。一万足らん、二万足らん。それで人間走らせる世界ですわ」
自分もそうしてきた。下にも、そうさせてきた。どこから作ってきたのか、細かく聞かないことはある。それでも、納める額が決まっていれば、その分は必ず揃えさせた。
本家が百と言えば百だった。九十九しかなければ、残りの一を作る。銭の色を選んでいられない時もある。作れなかったという返事を、上へ持っていくわけにはいかなかった。
「本家が要る言うたら、ワシらは作りますよ。理由なんか知らんでも作る。昔からそうしてきた」
武藤は黙っていた。梶原は煙草を持つ手を下ろし、続けた。
「上が白言うたら、黒でも白ですわ」
庭で水の落ちる音がした。武藤は目を逸らさなかった。
「それが嫌や言うてるんちゃう。それで生きてきたんやから」
今さら自分だけが綺麗な銭で組を回しているようなことは言わない。若い衆が何もかも話さないことも、梶原が全てを聞かないことも、この世界では珍しくなかった。そういうやり方の中で、二代目菱川会を維持してきた。
「でもな、カシラ」
梶原は一度煙を吐いた。
「白言うなら、せめて白や言い切ってくれんと困るんですわ」
武藤は言葉を挟まなかった。梶原は灰皿の縁を指で叩いた。
「本家経費や。黙って出せ。足らん。来月から増やす。それで終わりや」
若い頃なら、上がそう言ったで済ませられた。だが今は、自分の下にも組を預かる者がいる。その下には、さらに若い衆がいた。梶原一人が飲み込めば、全員の話が終わるわけではない。
なぜ増えるのかと聞かれても、本家がそう言ったからだと返す。それ以外に説明できるものを持っていなかった。その返事で下を動かすたび、自分も分からないまま銭を作らせていることを思い出した。
「何に使っとるんです」
梶原が聞いた。武藤はすぐには答えなかった。
「ワシらが持っていった銭。何に消えとるんです」
武藤は煙草を灰皿へ置いた。梶原を見たまま答える。
「全部は知らん」
梶原の目が細くなった。本家に必要な銭だと言い切られると思っていた。だが、目の前にいる若頭も、全ては知らないと言う。
「カシラでも知らんのですか」
「ああ」
「ほな誰が知っとるんです」
「新道さんやろな」
本部長の名が出ても、梶原の腹は収まらなかった。長年、本家の銭を預かってきた男だった。それなら新道へ聞けばいいと返されたところで、今までと同じだった。
「おかしいでしょう」
「何がや」
「ワシらは知らん。若頭も全部は知らん。それでも銭だけ上げろ言われる」
武藤は反論しなかった。梶原は、その沈黙を見ているうちに、言うつもりで来たところより先へ口を開いた。
「ワシらが稼いだ銭で、本家の連中が飯食っとる。」
言い終えた後、庭の水音が聞こえた。武藤は動かなかった。梶原も、煙草を持ったまま目を逸らさなかった。
本家の若頭へ言う言葉ではない。分かっていた。本家の連中という中には、武藤自身も入る。ここで取り消せば、言いたいことを言いに来たという自分の話まで引っ込める気がした。
怒るなら怒ればいいと思った。処分を口にされるなら、それを聞くつもりもあった。だが、武藤は声を荒らげなかった。目つきだけが、先ほどまでとは違っていた。
長い沈黙の後、武藤が煙草へ手を伸ばした。
「梶原」
「はい」
「今の言葉、ほかの奴が聞いたら揉めるぞ」
「分かってます」
「ワシやからええいう話でもない」
「それも分かってます」
「そうか」
武藤は煙草の先を確かめ、火をつけた。一度深く吸ってから、煙を吐く。梶原は次の言葉を待っていた。
「ほな数字見せたる」
梶原は動かなかった。煙草を口へ運びかけた手が、そのまま止まった。
「……何をです」
「銭や」
武藤は梶原を見た。
「お前がそこまで言うんやったら、本家に入っとる銭と、出ていっとる銭。見せられるもんは見せたる」
梶原は少し待った。今の話の続きに、十二社会を抜けろという条件がつくのではないかと思った。だが、武藤はそれ以上何も足さなかった。
「帳簿を?」
「全部は無理や」
そこはすぐに返ってきた。
「見せられへん銭もある」
梶原は頷かなかったが、分かった。自分の組にも、表へ出せない銭がある。相手の名前をそのまま書けない仕事も、一つの帳面では済まないことも知っていた。全てを出せと言って、出せる世界ではない。
だからこそ、武藤の返事が冗談には聞こえなかった。何もかも見せると簡単に言われていれば、かえって疑ったかもしれない。
「せやけど、お前らが上げた銭が何に要るんか。それくらいは整理できる」
「……誰がやるんです」
「新道さんに頼む」
梶原は目を伏せた。灰皿に伸びた灰を落とす。ずっと説明しろと言ってきた。その本家が、見せられるものを整理して見せると言った。
まだ数字を見たわけではない。本当にどこまで出てくるのかも分からなかった。それでも、黙って納めろという返事とは違う。説明する気があるのかと、何度も尋ね続けるだけでは済まなくなった。
見せられた後、自分は何を言うのか。梶原は武藤へ顔を上げた。
「筋通っとったら」
武藤が見た。梶原は言い直すように続けた。
「数字ですわ。ほんまに筋通っとったら……」
その先が続かなかった。納得できる説明があれば残るのか。ほかの十一人が違う答えを出しても、自分はそれを選ぶのか。今、数字を見ないうちに約束することではなかった。
武藤は助け舟を出さなかった。残れとも、今の言葉を謝れとも言わない。梶原が続きを口にするまで、黙って待っていた。
室井も、ここで同じように待たれたのかもしれない。梶原は煙草を灰皿へ押しつけた。火を消してから、武藤を見た。
「見てから決めます」
武藤が一度だけ頷いた。
「ああ。それでええ」
料亭を出ると、日が落ちかけていた。迎えの車は玄関の前に停まっている。若い衆が扉を開けようとしたが、梶原は軒先で足を止めた。
煙草を咥えると、若い衆が慌てて火を差し出した。梶原は吸い込み、暮れかけた空を見た。部屋へ入る前に考えていた話とは、違う終わり方になった。
室井のようにはいかないと、先に言った。本家の連中が、自分たちの銭で飯を食っているとも言った。その言葉を取り消したわけではないし、不満が消えたわけでもなかった。
だが、武藤は白だと言い張らなかった。全部は知らないと言い、見せられるものを見せると答えた。その違いを、梶原は軒先で煙草を吸いながら考えていた。
何十年も、上が白と言えば白で生きてきた。それを今さら疑い、綺麗事を並べるつもりはない。ただ、分からないと言われたものを、分かるところまで見せてもらえるなら、自分も確かめなければならなかった。
梶原は煙草を消し、車へ乗り込んだ。扉が閉まる前に、もう一度料亭を見た。説得されたとは思っていない。本家を信用したと言えるほどのものも、まだ受け取っていなかった。
それでも、本家は何も変わらないと、来た時と同じようには言い切れなくなっていた。次に見るのは、本家が出す数字だった。
同じ頃、武藤和正を乗せた車は、天龍会本家へ向かっていた。梶原に見せると言った以上、口だけで終わらせるわけにはいかなかった。
次に会うのは、十二社会の親分ではない。長年、本家の銭を預かってきた男。新道宏一だった。




