室井の答え
煙草を取ろうとして、室井泰造の指が空の箱に触れた。軽く振ってから、中を覗く。一本も残っていなかった。灰皿には、夜のうちに吸った煙草が溜まっている。六月二十日。窓の外は、もう明るくなっていた。
横にはなったが、ほとんど眠れなかった。目を閉じると、昨夜の座敷で自分を見ていた男たちの顔が浮かんだ。海老沢は、武藤と一度会っただけで変わったのかと聞いた。柏木はカシラの話を聞くと言い、古賀も頷いた。城戸は、室井が残留を考えると言っても責めなかった。
その沈黙を、どう受け取ればいいのか。考えていると、最後には武藤の問いへ戻った。
お前一人やったら、どうする。
十二社会へ入ったことを、間違いだったとは思っていない。上納の使い道を知りたいという要求も、直参同士の話し合いを尊重してほしいという要求も、引っ込めるつもりはなかった。本家が拒んだからといって、納得したことにはできない。
ただ、それを通すために十二組で天龍会を離れるのかと考えると、手が止まった。まだ離脱が決まったわけではない。それでも、本家が次も変わらなければどうするかという話の先に、それを置いて考えることが増えていた。
室井は空の箱を卓上へ戻した。十二社会にいることと、十二人で同じ道へ進むこと。その二つを、どこまで一緒に考えていたのか、自分でもはっきりしなかった。
昨夜は、残留も考えるとだけ言った。だが、その場の返事として言ったつもりはない。城戸が何を言うかを待ち、ほかの者の顔色を見ているだけでは、武藤に聞かれたことへ答えられなかった。
灰皿に置いていた最後の一本を、指で押しつけた。火が消えたのを確かめ、電話へ手を伸ばす。城戸と話したかった。十二人の座敷で続きを言う前に、自分の考えを二人で伝えておきたかった。
昼過ぎ、城戸源蔵が部屋へ入ってきた。供の若い衆は廊下へ残し、一人で座る。会合に使う広い座敷ではなく、奥の小さな部屋だった。四人も入れば狭く感じる場所で、二人の直参組長が向かい合った。
室井は膝の上へ手を置いた。城戸は茶に手をつけず、顔を見ていた。何の話かと尋ねることもなく、室井が口を開くのを待っている。
昨夜、皆の前で残留も考えると言った時には、言葉を出すことに精一杯だった。今は、その続きを盟主へ伝えなければならない。聞かれたから答えるのでも、海老沢へ言い返すのでもなかった。
「城戸さん」
「ああ」
「ワシ……考えたんですわ」
城戸は黙っていた。室井は膝の上で手を組み、続けた。
「昨日からやない。カシラと会うてから、ずっと」
障子の向こうで庭木の葉が擦れた。室井は一度目を伏せた。眠れなかった夜の間、何度も口にするところまで考えた言葉だった。それでも、城戸を前にすると、簡単には出てこなかった。
「集団離脱は、考え直したい」
言い終えてから、室井は城戸を見た。相手の表情が変わるのを待ったが、城戸は動かなかった。怒ることも、聞き返すこともなく、続きを待っていた。
胸の奥が少し軽くなった。一方で、今の言葉だけでは、十二社会そのものから離れると受け取られるかもしれない。そのつもりはなかった。
「十二社会を抜ける言うてるんちゃいます」
城戸の目は動かなかった。室井は言葉を重ねた。
「本家に不満がなくなったわけでもない。要求引っ込めろ言われても、それはできません」
城戸が僅かに頷いた。室井は、組んでいた手を解いた。
「せやけど、十二組まとめて天龍出るいうんは……ワシは違うと思い始めてます」
その言葉が、ほかの十一人へどう聞こえるかは分かっていた。皆で要求を出し、本家から返事を受けた。そこで一人が残る方も考えると言えば、まとまっていた話を崩すことになるかもしれない。
海老沢なら、結局は本家へ従うのかと聞くだろう。石渡や片岡も、武藤に何を言われたのかと疑うかもしれない。だが、その返事を先に考え始めると、また自分の答えが後回しになった。
室井は卓上の灰皿へ目を落とした。若い頃、自分の組を持っていなかった時から、天龍会の看板の下で生きてきた。嬉しいことばかりではない。頭を下げたくない相手に下げ、納得できない命令を飲んだこともある。
それでも、代紋を背負っているから通った話があった。自分の力だけでは守れなかったものを、看板が守ってくれたこともあった。その年月を、不満があるというだけで何もなかったことにはできなかった。
今は、自分の下にも若い衆がいる。室井が行くと言えば、ついてくる者もいるだろう。自分が腹を立てていることと、その者たちまで天龍会から離すことは、同じ返事では済まなかった。
「ワシ一人の話やったら」
室井は顔を上げた。
「まだ天龍でやれることあるんちゃうかと思ってます」
城戸は目を伏せた。灰皿の横に置いた煙草を取り、一本咥える。火をつける音が、小さな部屋に響いた。吸い込んでから、ゆっくり煙を吐く。
室井は待っていた。裏切りだと言われるかもしれないと思った。十二組が揃っているからこそ、本家も無視しきれない。自分が別の道を考えると言えば、残りの十一人の立場まで弱くする可能性はあった。
分かっていて、それでも話した。城戸が何と言うにしても、聞かなければならなかった。膝の上へ戻した手に、少し力が入った。
「室井」
「はい」
「お前、十二社会が何のためにできたか覚えとるか」
室井は顔を上げた。城戸は煙草を指に挟んだまま、返事を待っていた。
「本家に物言うためです」
「それだけか」
室井はすぐには答えられなかった。城戸は障子の向こうへ目を向けた。
「ワシはな、十二人で天龍出るために集めたつもりはない」
室井の眉が僅かに動いた。城戸は、庭を見たまま続けた。
「このままの天龍でええんか。変えるなら何を変えるんか。残るんか、出るんか」
そこまで言って、室井へ目を戻した。
「それを決めるための十二社会や」
室井は何も言えなかった。責められると思っていた。少なくとも、今それを言うのかと、失望はされるつもりで来ていた。だが、城戸の顔にそういう様子はなかった。
「考えて、残るいう答え出した奴を裏切り者にしたら」
城戸は灰皿へ灰を落とした。
「最初から答え決まっとるやないか」
室井は組んでいた指を緩めた。城戸が本家と話を続けたいと言っていたことを、改めて思い出した。天龍会を出たいのではなく、中を直したい。その考えを聞いて、自分も十二社会へ加わったのだった。
「……すんません」
「何で謝んねん」
城戸が少し笑った。室井も顔を上げたが、その笑みはすぐに消えた。
「ただし」
室井は背を伸ばした。
「中途半端にはすんな」
城戸の声が低くなった。室井は膝へ手を置き直し、その目を見た。
「残るなら残るで、本家に言うことは言え。カシラと話して丸め込まれました、では誰も納得せん」
「分かってます」
残る道を考えることが、不満をなかったことにする返事になってはいけない。武藤が話を聞いてくれたからといって、上納の説明がされたわけではなかった。現場へ口を出されるやりにくさも、そのまま残っている。
そこを曖昧にして本家へ従えば、ほかの十一人だけでなく、自分の下にいる者にも説明がつかなかった。室井は頷いた。城戸はその顔を見ながら続けた。
「お前の下にも若い衆がおる」
「はい」
「そいつらの人生まで動かすんや。自分の頭で決めろ」
室井は深く頷いた。誰かが残ると言うから残り、誰かが出ると言うから出る。その返事では、組を預かる自分の仕事を、ほかの人間へ渡してしまう。
武藤にも、同じことを言われた気がした。あの時は、自分一人ならどうするのかと聞かれた。今、城戸は下の若い衆の人生まで動かすのだから、自分で決めろと言っている。
二人の立場は違う。本家の若頭と、十二社会の盟主だった。それでも、室井がどちらへ進むのかを、代わりに決める者はいなかった。
城戸は煙草を消した。湯呑みへ手を伸ばし、冷めかけた茶を一口飲む。室井も、ようやく自分の茶を手に取った。話すことばかり考えていたために、そこに置かれているのを忘れていた。
少しして、城戸が立ち上がった。室井も続いて腰を上げる。城戸は戸口へ向かったが、襖へ手を掛ける前に室井が声をかけた。
「城戸さん」
「何や」
「城戸さんは……どうするんです」
襖へ伸びた手が止まった。ほんの僅かな間だった。室井は、その背中を見ていた。
「まだ決めてへん」
城戸は振り返らずに答えた。
「せやからワシも、ここにおる」
襖が開き、廊下にいた若い衆が頭を下げた。城戸が出ると、静かに戸が閉まる。室井はその場に立ったまま、遠ざかる足音を聞いていた。
城戸も、まだ決めていない。盟主の答えを聞けば、自分の立場が決まるわけではなかった。そのことが、今は昨夜ほど心細く感じられなかった。
室井は座卓の前へ戻った。灰皿には城戸の吸い殻が一本ある。自分は煙草を取らないまま、話を終えていた。
十二社会へ加わったことを取り消したいのではない。要求も残っている。ただ、十二組で離れるという道を、そのまま自分の答えにはできなくなった。天龍会の中で、まだやれることを考えたい。それを城戸へ、自分の口で伝えた。
次に本家と話す時には、言うことを言わなければならない。残るなら何でも受け入れるという返事にはしない。城戸に言われたことを思い返しながら、室井は湯呑みを卓上へ戻した。
昨夜、十二人の前で口にした残留という言葉に、ようやく自分で理由をつけられた気がした。ほかの十一人がどうするかは、まだ分からない。城戸も、それぞれが考えることを止めなかった。
室井泰造は、集団離脱を考え直す。その答えを持って、これからも十二社会の座敷へ座るつもりだった。




