揺れる
海老沢豪が話している間、室井泰造は煙草を指に挟んだまま聞いていた。灰が長くなっていることに気づき、卓上の灰皿へ落とす。六月十九日の夜。十二人が揃った料亭の座敷は、前に集まった時と変わらなかった。
床の間には同じ掛け軸があり、障子の開いたところから庭が見える。卓上には酒と料理が置かれていたが、箸を持っている者は少なかった。話が本家の返事へ戻るたび、食べる手が止まった。
室井は、座敷へ入ってから一度も自分から口を開いていなかった。海老沢が強く言えば、その通りだと思うところはある。柏木寛治が慎重な言葉を返せば、頷きたくなる。それでも今夜は、どちらかの言葉に続いて返事をする気になれなかった。
二日前、武藤和正と向き合った座敷を思い出していた。あの部屋には、要求書も、ほかの十一人もいなかった。自分の返事を待つ本家の若頭と、二人分の茶があっただけだった。
お前一人やったら、どうする。
室井は煙草を口へ運んだ。まだ答えは出ていない。上納にも、縄張りへの介入にも不満は残っている。武藤に会ったことで、本家の回答が変わったわけでもなかった。
「本家が、また話したい言うてきとる」
城戸源蔵の声で、室井は顔を上げた。海老沢が口を閉じ、座敷の視線が城戸へ集まる。城戸は卓上へ手を置き、全員の顔を見てから続けた。
「今度はカシラが、一人ずつ会うそうや」
石渡慎吾の目が鋭くなった。片岡忠志は口元を歪め、海老沢は灰皿の縁を指先で叩いた。誰もすぐには返事をしなかったが、室井には、何を疑っているのか分かった。
十二人で出した要求に対して、十二人を分けて会う。本家が一人ずつ懐柔し、集まりを内側から崩そうとしている。そう受け取る理由はあった。自分も、武藤に呼ばれた時には、残りの十一人へ説明できない約束をさせられるのではないかと考えていた。
だが、何も約束はしていない。要求を取り下げろとも言われなかった。そのことを、この座敷でどう話せばいいのか、室井はまだ決めていなかった。
「室井さん」
古賀慎二がこちらを見ていた。
「さっきから静かですね」
室井は煙草を灰皿へ押しつけた。城戸も、海老沢も目を向けている。吸い殻から指を離し、座り直した。
「カシラと会うた」
灰皿を叩いていた海老沢の指が止まった。片岡は口元の歪みを消し、室井を見た。酒を注ごうとしていた古賀も、瓶を卓上へ戻した。
言わずに済ませるつもりはなかった。それでも、口にした途端、向けられる目が変わるのは感じた。本家と何を話し、自分だけで何を決めたのか。その答えを、全員が待っている。
「一昨日や。料亭へ呼ばれて、二人で話した」
「何を言われた」
海老沢が聞いた。室井は一度卓上へ目を落とし、それから顔を上げた。
「十二社会を抜けろとは言われてへん。本家に頭下げろとも言われんかった」
「ほな何や」
「ワシがどうしたいんか、聞かれた」
説明しているうちに、室井自身にも、あの時の居心地の悪さが戻ってきた。要求書に書いてある通りだと答えれば、どれが一番気になるのかと聞かれた。全部だと言えば、全部同じくらい腹が立っているのかと返された。
誰かの言葉を借りて話すことができなかった。城戸の考えも、海老沢の怒りも、その場には持っていけない。室井泰造がどうしたいのかを、武藤は聞いていた。
「それで?」
海老沢の声が低くなった。室井は、その目を見た。
「ワシは、本家に腹立っとる」
そこは変わっていない。金を払う以上、何に使うのか知りたい。現場で話をつけているところへ、後から違う判断を持ち込まれたくない。人事についても、下から意見を出す機会があっていいと思っている。
「せやけどな」
室井は言葉を切った。膝の上に置いた手へ目を落としかけ、やめる。ここで曖昧にすれば、武藤と会ったということだけが残ってしまう。
「天龍出るんが答えなんかは、分からんようになった」
庭で鹿威しが鳴った。乾いた音が座敷へ届いても、石渡は室井を見たままだった。片岡も動かない。海老沢の指は、灰皿の縁へ置かれたまま止まっていた。
室井は城戸へ目を向けた。
「残る言うてるんちゃうで。十二社会抜けるとも言うてへん」
城戸は返事をせずに聞いていた。室井は一度息を吐き、続けた。
「ただ、残留も考える」
海老沢が座り直した。古賀は俯き、煙草の箱を手元へ引いた。柏木は腕を組んだまま、室井を見ていた。
慎重にした方がいいと言うだけなら、これまでもあった。交渉を続けたいという話も、初めてではない。だが、もしこの先、離れるか残るかを迫られた時、残る方も自分で考える。その言葉を武藤と会った後に出す意味は、室井にも分かっていた。
古賀がライターを擦った。一度では火がつかず、もう一度指を動かす。柏木は何も言わず、室井の話を否定もしなかった。梶原信成は酒に手をつけず、灰皿から上がる煙へ目を落としていた。
三人が何を決めたのかは分からない。それでも、室井の言葉を聞いてすぐに本家の切り崩しだと返した者は、その中にはいなかった。
「一回カシラと会うただけで、そこまで変わるんか」
海老沢が言った。室井は首を振った。
「変えられたんちゃう」
「ほな何や」
「考えただけや」
海老沢の眉間に皺が寄った。室井は目を逸らさず、続けた。
「今まで考えてへんかったことをな」
石渡が鼻で笑った。片岡も口を開きかけたが、城戸が片手を上げた。二人は城戸を見て、それ以上は言わなかった。
城戸は室井を責めなかった。しばらく顔を見てから、煙草を一本取り出した。火をつける間も、室井へ問いを重ねることはなかった。
十二社会は、天龍会を離れるために作った集まりではない。本家へ意見を出し、天龍会の中を変えたい。そのために要求をまとめた。室井も、その考えでここへ来ていた。
だが、返事を拒まれ、次も変わらなければどうするのかという話が続くうちに、離れることが現実の選択肢として座敷に上がるようになっていた。それを口にする者の声は強い。残るつもりなら、要求を拒まれたままでも従えるのかと聞かれる気がして、室井もそこまで考えを進めずにいた。
今夜、自分が出したのは、その答えではなかった。残ると決めたわけでも、離れる話を止めろと言ったわけでもない。まだ自分には決められないことを、決まっているようには話せなくなっていた。
「ワシも、カシラの話は聞くで」
柏木が言った。腕を解き、卓上の湯呑みへ手を伸ばす。それだけで、理由は続けなかった。
古賀も、俯いたまま小さく頷いた。梶原は何も言わない。海老沢は煙草を取り出し、火をつけた。室井は、その手元を見ながら黙っていた。
誰かが立ち上がって出ていくことはなかった。会合はそのまま続き、終わる時にも十二人は十二人だった。武藤に会うと言ったことが、要求を捨てるという返事になったわけではない。
それでも帰り支度を始める頃には、一人ずつ会うという本家の話を、全員が同じ意味では受け取っていなかった。室井は席を立ち、卓上へ残した煙草の箱を取った。海老沢と目が合ったが、互いに何も言わなかった。
梶原は城戸の近くに残っていた。ほかの者が戸口へ向かってから、声を落として尋ねる。
「本家、ほんまに数字見せる気あるんですか」
城戸は梶原を見た。上納の使途については、検討するという返事がある。だが、何をどこまで出すのか、まだ分かっていなかった。
「分からん」
梶原は少し待った。それ以上の答えがないと分かると、頷いて席を離れた。
赤松隆一は車へ乗り込むと、窓の外へ顔を向けた。料亭の前には、まだ帰りの車を待っている者がいる。運転手が車を出すと、その姿はすぐに窓の後ろへ流れていった。
室井が残留を考えると言った。柏木は武藤の話を聞くと言い、古賀も頷いた。梶原は最後まで大きな声を出さなかったが、帰り際に城戸へ数字のことを尋ねていた。
赤松は四人の顔を順番に思い出した。海老沢や石渡が強く出れば、城戸や室井が止める。それまでの会合でも意見は割れていた。だが今夜は、どう強く出るか、どこまで待つかという話から、残るかどうかを一人ずつ考える話へ動いた。
煙草を一本咥え、火をつけた。運転手が、いつもの帰り道へ入ろうとしている。赤松は前へ顔を向けた。
「極真獅子堂会、寄ってくれ」
「はい」
車は次の角を曲がった。赤松は背もたれへ体を預け、煙を吐いた。ほかの十一人には、この後どこへ行くのか伝えていなかった。
黒崎獅童は、赤松の話を黙って聞いていた。最上階の窓の向こうには、夜の大阪が広がっている。卓上へ置かれた灰皿には、赤松が落とした灰だけが溜まっていた。
「室井さんが、残ることも考える言うたんです」
赤松は黒崎の顔を見た。黒崎は小さく頷き、続きを待った。
「柏木さんも、カシラと会う言うてます。古賀も嫌がってへん。梶原さんは、帰りに本家が数字見せるんか、城戸さんに聞いとりました」
城戸が何と答えたのかまで話し、赤松は煙草を灰皿へ寄せた。ここへ来る車の中では、まだ室井一人の話だと考えようとした。だが、四人の名前を並べて伝えると、一度の会合で変わったことが思ったより多く感じられた。
黒崎は、すぐには何も言わなかった。煙草の箱へ手を伸ばし、一本取り出す。火をつけてから、卓上へライターを戻した。
「兄貴」
赤松は身を乗り出した。
「このままやったら、十二社会……」
最後まで言わずに口を閉じた。室井は抜けるとは言っていない。柏木も古賀も、会うと言っただけだった。それでも、皆で本家へ要求を出した時と同じようには進まなくなる気がしていた。
黒崎は煙を細く吐いた。
「まだ何も決まっていませんよ」
穏やかな声だった。赤松は一度頷き、ソファへ座り直した。そう言われれば、その通りだった。誰も十二社会を抜けていないし、武藤に会ったのも、今のところ室井だけだった。
黒崎は窓の外へ目を戻した。室井が武藤と会ってから、二日しか経っていない。一人が自分の考えを口にし、その話を聞いた三人も、本家との会談や数字の説明へ目を向け始めていた。
武藤和正が、十二人と一人ずつ会う。
黒崎は煙草を持ったまま、しばらく黙っていた。口元の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
「……思ったより早いですね」
窓の下を車の灯が流れていた。赤松が見てきた座敷から離れた街では、店の明かりも、人の行き来も、いつもの夜と変わらなかった。




