最初の一人
案内された座敷にいたのは、武藤和正だけだった。室井泰造は襖の前で一度足を止めた。庭へ向いた武藤の横に、資料の束も鞄もない。広い座敷の向こうまで見ても、ほかに座っている者はいなかった。
六月十七日。料亭へ来るよう連絡を受けてから、室井は何を言われるのか考えていた。本家の返事は既に届いている。その後も十二社会は交渉を続けると決めたが、それで全員の腹が収まったわけではない。本家の若頭が今、自分一人を呼ぶ理由は、思い当たるようで分からなかった。
本家の若い衆も、兵頭組の者も、この部屋にはいなかった。室井を案内した仲居が脇へ退く。武藤は茶を飲んでいた手を下ろし、振り返った。
「失礼します」
「おう。悪かったな、呼び出して」
「いえ」
室井は向かいへ座った。仲居が新しい湯呑みを置き、静かに襖を閉める。廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、室井は卓上へ目を落としていた。茶と灰皿のほかには、何も置かれていなかった。
「それで……何の話でしょう」
「十二社会のことや」
やはりそうかと思った。室井は膝の上へ両手を置き、少し背を伸ばした。何を聞かれても、座敷で決めたことと違う返事はできない。ここで自分だけが何かを約束すれば、残りの十一人へどう説明するのかという話になる。
「本家の返事は、もう聞いてます」
「知っとる」
「ほな、これ以上何を」
「お前の話を聞こう思ってな」
室井は眉を寄せた。武藤の顔を見ても、言葉の続きはすぐには来なかった。
「俺の?」
「そうや」
武藤は茶を一口飲んだ。湯呑みを戻してから、室井へ目を向ける。
「要求書は読んだ。城戸の話も聞いとる。せやけど、お前が何考えとるかは聞いてへん」
「書いてある通りです」
「どれが?」
室井は口を閉じた。四つの要求は、十二人で話して出したものだった。自分もその場にいて、反対はしていない。どれか一つだけを選んで答えるようなことは、これまで求められていなかった。
「上納か。人事か。シマか。五代目か」
「全部です」
「全部同じくらい腹立っとるんか」
答えかけて、室井はやめた。全部必要だと言うことはできる。だが、自分が日々の仕事で困っていることと、将来の五代目をどう決めるかということを、同じ重さで考えていたかと聞かれると、すぐには頷けなかった。
武藤は返事を急がせなかった。卓上に要求書があれば、書かれた言葉を指して話せた。何もないために、室井は自分で言葉を選ばなければならなかった。
「……上納は、正直あります」
「うん」
「額が上がっても説明がない。払うこと自体が嫌なんちゃいます。でも、何に使うかくらいは分からせてほしい」
口にしてから、室井は武藤の反応を見た。本家に必要な金だと言われると思っていた。組を預かる以上、上納を納めるのは当たり前だという話も、聞くつもりで来ていた。
「そらそうやな」
あまりに簡単に返され、室井は顔を上げた。
「本家もそこは直した方がええ」
「……カシラがそれ言うんですか」
「おかしいもんはおかしいやろ」
武藤は平然としていた。室井は湯呑みへ手を伸ばしたが、持ち上げずに指を離した。ここで認められるとは考えていなかったために、用意してきた言葉が少し余った。
「ほかは?」
「シマもです。現場知らん本家の人間に後から口出されたら、やりにくい」
「それも分かる」
室井は頷いた。直参同士で話をつけようとしているところへ、後から別の判断を持ち込まれる。現場の事情を説明するより先に、誰の言葉に従うのかという話になる。それでは、相手と向き合ってきた時間まで無駄になってしまう。
「五代目のことも――」
そこで言葉が鈍った。武藤は室井を見たまま、短く聞き返した。
「五代目も?」
「……直参の意見くらい聞いてもええんちゃうかとは思います」
「誰になってほしい」
室井の目が止まった。その名前を、この場で言わせるのかと思った。
「いや、それは……」
「ワシ以外でええぞ」
思わず武藤を見ると、笑っていた。室井が返事をしないでいると、武藤は続けた。
「別に怒らへん」
「そういう話ちゃいますやろ」
室井も少しだけ笑った。膝の上に置いていた手が緩む。誰を五代目にしたいのか、今すぐ名を挙げるつもりはなかったが、言わなかったことで責められる気配もなかった。
武藤は煙草を一本取り出した。箱を卓上へ置き、室井の方へ向ける。
「吸うか」
「いただきます」
室井は一本抜き取った。二人が火をつける間、話は途切れた。庭の方から風が入り、立ち上がった煙が座敷の中へ薄く流れていく。室井は一口吸ってから、ようやく茶へ手を伸ばした。
「室井」
「はい」
「お前、天龍嫌いか」
煙草を持つ手が止まった。武藤の顔には、先ほどの笑みが少し残っていた。
「……何ですか、急に」
「嫌いなんか」
「そんな話してないでしょう」
「ほな好きなんか」
室井は苦い顔をした。何と答えても、用意していた話とは違うところへ連れていかれそうだった。
「子供ちゃうんですから」
「せやな」
武藤が笑った。それ以上聞いてこなかったので、室井も口を閉じた。煙草の先を灰皿へ寄せ、灰を落とす。自分がこの看板の下で何年生きてきたのかを、今さら数える気にはなれなかった。
若い頃には、殴られたこともあった。納得できない命令を受け、それでも従ったことがある。一方で、自分だけではどうにもならない時、上の人間に助けられたこともあった。天龍会の名前があったから、守れたものもある。
不満を挙げろと言われれば、幾つも出てくる。だが、それだけで今までの全てを話したことにはならなかった。室井は庭へ目を向けた。竹の葉が揺れ、擦れる音が座敷まで届いていた。
「ワシはな」
武藤も庭を見ていた。
「十二社会をやめろ言いに来たんちゃう」
室井は、その横顔へ目を戻した。
「本家に頭下げろとも言わん」
「じゃあ、何しに来たんです」
武藤が室井へ向き直った。
「聞きに来た言うたやろ」
「何を」
「お前がどうしたいんかをや」
室井は眉を寄せた。自分たちが望んでいることは、既に書いて渡してある。それを認められないと返したのは、本家の方だった。
「だから要求書に――」
「要求書の話ちゃう」
武藤の声は静かだった。遮られた室井は、続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
「城戸の話でも、海老沢の話でもない。室井泰造が、どうしたいんや」
庭で竹が揺れた。室井は煙草を持つ手を膝の近くへ下ろした。上納を見直してほしい。使い道を説明してほしい。シマの話には、現場の判断を尊重してほしい。浮かぶ言葉は、先ほど話したものばかりだった。
武藤は、その話を聞いた上で尋ねている。要求が正しいかどうかを、もう一度説明させたいのではないらしかった。それでも室井には、ほかに何を答えればいいのか分からなかった。
「もしな」
武藤が言った。
「本家が何一つ変わらんかったら、お前は天龍出たいんか」
室井は顔を上げた。武藤はその目を見て、続けた。
「十二社会の話ちゃうで。ほかの十一人が全員出る言うても関係ない」
室井は動かなかった。煙草の先に灰が伸びていたが、落とすことも忘れていた。
「お前一人やったら、どうする」
答えが出なかった。十二社会に入ってから、本家がどう返すか、城戸が次にどうするか、海老沢たちがどこまで強く出るかを考えてきた。交渉を続けるという話にも賛成した。喧嘩になるようなやり方には、慎重でいたかった。
だが、ほかの十一人を抜きにして考えたことはなかった。城戸が残ると言うのでも、海老沢が出ると言うのでもない。室井自身が、自分の組を連れて天龍会を離れるかどうか。その返事を、自分一人で決めるところまでは考えていなかった。
指の間で煙草が短くなっていた。室井は灰を落とし、もう一度吸った。煙を吐いても、答えはまとまらない。武藤は黙ったまま待っていた。
「……分かりません」
長い沈黙の末に言った。要求を出した直参が、今さら分からないと答えるのは頼りなく聞こえるだろうと思った。それでも、出たいとも、何があっても残るとも言えなかった。
武藤は頷いた。
「それでええ」
室井が顔を上げる。
「分からんのに決めたらあかん」
武藤は煙草を灰皿へ押しつけた。火が消えたのを確かめ、手を離す。
「人間、腹立っとる時は何でも捨てられる気になる」
室井は黙って聞いていた。武藤は座卓へ手をつき、立ち上がった。
「でも捨ててから、やっぱり要った言うても戻らんもんもある」
室井は何も言わなかった。武藤が立ったので、自分も腰を浮かせかけたが、手で軽く制された。そのまま座り直すと、武藤はもう十二社会の要求へ話を戻さなかった。
上納をいくらにするとも、縄張りへの介入をどこまで控えるとも、約束はしていない。室井も、本家へ何かを持ち帰ってほしいとは言わなかった。来る前に考えていた話の終わり方とは、違っていた。
襖の前で、武藤が振り返った。
「答え出たら教えてくれ」
「カシラにですか」
「ワシやなくてもええ」
武藤は笑った。
「自分にだけは嘘つくな」
室井は頭を下げた。襖が閉まり、廊下を歩く足音が遠ざかる。顔を上げてからも、しばらく座ったままでいた。向かいの湯呑みには茶が残り、灰皿には二人分の吸い殻があった。
説得されたとは思わなかった。十二社会を抜けろとも言われていない。本家へ頭を下げろとも、要求を取り下げろとも言われなかった。上納への不満も、現場を知らずに口を出されるやりにくさも、話す前と変わらず残っていた。
それなのに、来た時と同じ返事だけを持って帰ることはできそうになかった。城戸がどうするかを聞けば済む話でも、次の座敷で皆の意見を待てば済む話でもない。武藤が尋ねたのは、自分一人ならどうするかだった。
室井は煙草を消した。冷め始めた茶を一口飲み、庭へ目を向ける。竹は先ほどと同じように揺れていた。
自分は、本当に天龍を出たいのか。
初めて自分に向けて考えたその問いが、席を立とうとしても消えなかった。




