一人ずつ
松の葉から落ちた雫が、縁側の先の石を濡らした。雨は夜のうちに上がり、庭の池には薄い朝の光が映っている。六月十四日。武藤和正は縁側に座り、昨日、執行部が集まっていた座敷を背にしていた。
卓は片づけられ、灰皿も下げられている。黒岩が処分を求め、神崎が要求書を十二人の総意だと言い、阿波野が二千人を超える組織の離脱を案じた。男たちの顔と声は、部屋が空になった後も、武藤の頭に残っていた。
十二人おるなら、十二人と話したらええ。
自分で言った言葉だった。口にした時、誰もすぐには賛成しなかった。一括処分の話は止まったが、それで十二人に会うことまで決まったわけではない。國枝も、昨日の座敷では最後まで聞いていた。
相手は十二人の直参組長である。それぞれが組を持ち、その下に何十、何百という人間を抱えている。本家の若頭が会いたいと言えば、それだけで警戒する者もいるだろう。処分を言い渡すために呼ばれたと思えば、話す前から構える。
城戸には城戸の筋があり、海老沢には海老沢の怒りがある。室井が迷っていることと、石渡が譲れないことも、同じではないはずだった。十二社会という名前を外せば、そこにいるのは十二人の男だった。
武藤は庭から目を戻した。昨日、矢吹は十二人をまとめて呼ぶのかと聞いた。それが一番早いことは分かっている。だが、十二人を一つの座敷へ並べれば、また同じ看板を背負った返事を聞くことになる気がした。
「カシラ」
背後から声がした。振り返ると、本家の若い衆が廊下で頭を下げていた。
「会長がお呼びです」
「ああ」
武藤は立ち上がった。若い衆が脇へ退き、奥の部屋へ向かう道を空ける。廊下を歩く間、庭の枝から落ちる雫の音が聞こえた。
襖の前で声をかけ、返事を待ってから開けた。國枝重政が一人で座っている。昨日のような大人数の座敷ではなく、卓上には茶が二つ置かれていた。
「座れ」
「はい」
國枝が顎で示した向かいへ、武藤は腰を下ろした。國枝はすぐには話さず、湯呑みを手に取った。飲む前に一度、顔を横へ向けて咳をしたが、武藤へ目を戻す時には、いつもの表情になっていた。
武藤も急かさなかった。自分の湯呑みには手をつけず、國枝が口を開くのを待った。
「ほんまに十二人と会うんか」
「そのつもりです」
「一人ずつ」
「はい」
國枝は湯呑みを卓へ戻した。指を離してからも、しばらく武藤を見ていた。
「昨日の連中、まだ反対しとるぞ」
「でしょうね」
「十二社会を認めることになる言うとる」
武藤は少し考えた。昨日の黒岩の言葉を思い返す。本家へ要求を突きつけた集まりを、若頭自ら訪ねる。その形だけを見れば、本家が圧に応じたと受け取る者がいることは分かった。
「認めるんは十二社会やないです」
國枝の目が動いた。武藤は、その目を見て続けた。
「十二人の直参です」
國枝は何も言わなかった。武藤は膝の上の手を動かさず、考えていたことを話した。
「十二社会いう看板と話したら、向こうも十二社会として答えるしかない。でも一人で呼べば、その人間の言葉で喋れる」
盟主が横にいれば、盟主の言葉を待つ者がいる。強く出る者が先に口を開けば、引くつもりでいた者も言い出しにくくなる。十二人が名前を並べた要求書だけでは、その違いまでは見えなかった。
「本家に腹立てとる奴もおるでしょう。ほんまに天龍出たい奴もおるかもしれん。周りに流されとるだけの奴もおる」
「お前に見分けられるんか」
武藤は少し笑った。
「分かりません」
國枝の眉が僅かに動いた。武藤は笑みを引き、続けた。
「分からんから会います」
國枝はしばらく武藤を見ていた。若頭になってからも、この男は、分からないことを分かったふりで押し通さなかった。それで話が早く済む場でも、自分が納得していなければ、一度足を止める。反面、自分でやると決めたことを、人へ渡して済ませることもなかった。
「十二人全部と会ういうたら、時間かかるぞ」
「かかりますね」
「その間に何か起きたら」
「起こさんために会うんです」
國枝は鼻から短く息を吐いた。武藤の返事を聞いても、時間のかかることが変わるわけではない。一人と話している間にも、残りの十一人は、それぞれの場所で考え、動いている。
「口は達者やな」
「会長に鍛えられましたから」
國枝の口元が僅かに緩んだ。武藤もそれ以上は言わず、ようやく湯呑みへ手を伸ばした。茶はまだ温かかった。
「武藤」
「はい」
「ワシはな、十二社会の言い分を全部飲む気はない」
「分かってます」
國枝は卓上へ目を落とした。今、要求書は置かれていない。だが、どの要求を認められないと答えたのかは、紙を見なくても分かっていた。
「五代目を直参の多数決で決める気もない。シマのことも、本家が手ぇ引いたら済むほど簡単ちゃう」
「はい」
直参組長会の意見を反映するという要求を、どこまで認めるのか。縄張りについて本家が口を出す範囲を、誰が決めるのか。会うことになったからといって、既に出した回答をそのまま引っ込めるわけにはいかなかった。
「せやけど」
國枝は庭へ目を向けた。障子の開いたところから、濡れた石と池の端が見える。
「十二組まとめて切るんも違うと思っとる」
武藤は湯呑みを置いた。國枝は四代目だった。切れと言えば、それが本家の決定になる。座敷にいる者が反対しても、最後に会長が言い渡せば、処分は下へ伝わっていく。
十二組、二千人を超える人間。その後ろには、家族や、組と付き合って生きている者もいる。組長十二人の名を消して終わる話ではないことを、國枝も知っていた。
「昨日、お前が言うたやろ」
國枝が続けた。
「まだ誰も死んでへんて」
武藤は頷いた。
「はい」
「ワシも、そこは同じや」
國枝が武藤へ目を戻した。昨日の座敷で処分を求める声を聞いていた時と、同じ目だった。
「死んでから話し合い言うても遅い」
庭で雫が落ちた。武藤は國枝を見たまま、返事をしなかった。今、会長が口にした言葉を、そのまま受け止めていた。
國枝は煙草を一本取り出した。指に挟み、火をつける前に言った。
「やれ」
武藤の目が動いた。
「十二人、全部会うてこい」
「……はい」
武藤は頭を下げた。昨日、自分が口にしたことが、本家の若頭として引き受ける仕事になった。十二人のうち誰かと話せばいいのではなく、全員と向き合うことを、國枝は命じていた。
「誰から行く」
顔を上げ、武藤は少しだけ考えた。頭の中に、要求書へ並んでいた十二の名前が浮かぶ。
城戸から始めれば、盟主との会談になる。城戸が十二社会として答えようとすることも、他の十一人がその返事を待つことも考えられた。まず本人の考えを聞きたいという武藤の意図が、そこで変わってしまう。
海老沢からでもなかった。最初から強く出ている相手を選べば、本家がそこを押さえに来たと受け取られるかもしれない。誰から会うかという順番にも、見られ方があった。
「室井です」
國枝が煙草へ火をつけた。最初の煙を吐いてから、武藤へ聞く。
「理由は」
「一番、話を聞いてくれそうやからです」
「弱いとこから崩すんか」
武藤は首を横に振った。
「崩しに行くんちゃいます」
國枝が、煙の向こうから武藤を見た。武藤はその視線を受けたまま、続けた。
「聞きに行くんです」
室井が何を心配し、何を求めて十二社会へ加わったのか。城戸と同じように交渉を続けたいと考えていても、その理由まで同じとは限らない。まずは相手が話し、こちらがそれを聞けるところから始めたかった。
國枝はしばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ笑った。
「ほな行ってこい」
武藤は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
部屋を出ると、廊下の先へ朝の光が差していた。呼びに来た若い衆が離れたところで待っており、武藤が歩き出すと、静かに頭を下げた。
十二人を説得できる保証はない。一人目から追い返されるかもしれず、本家の若頭が来たことで、かえって怒りを強める者もいるだろう。座敷では言わなかったことを聞けば、こちらも考え直さなければならなくなる。
武藤は廊下を進んだ。十二人と会うと決めた以上、都合のいい話だけを持ち帰るつもりはなかった。國枝が聞けと言ったのも、従う返事だけではないはずだった。
縁側の前を通ると、先ほど座っていた場所が見えた。庭はまだ濡れているが、雨は止んでいた。
まず、室井泰造と話す。十二社会の一人として名前を数えるだけだった男に、何を考えているのかを尋ねる。
武藤は足を止めず、玄関へ向かった。




