金の匂い
本家の帳簿を開いてから、二時間が過ぎていた。新道宏一は老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。窓から入る光が、机の上へ広げた伝票の端を照らしている。六月十日。昼前に始めた確認は、まだ半分も終わっていなかった。
月ごとの上納、本家経費、系列への貸付、慶弔費。帳簿を替えるたびに、横へ置く伝票の束も増えた。数字だけを見れば、どれも帳尻は合っている。記された額と伝票を照らしても、計算の間違いは見つからなかった。
新道は眼鏡を掛け直し、上納の一覧へ戻った。直参ごとに額が違い、同じ組でも年によって変わっている。組織の規模も、抱えている若い衆の数も違うのだから、一律でないこと自体はおかしくない。ただ、変わった数字の横に、その理由が見当たらなかった。
「……分からんな」
向かいに座っていた本家の事務方が顔を上げた。新道が手を止めるまで、男も別の帳簿を確かめていた。机の間には、互いの顔が隠れるほどではないにしても、何冊もの帳簿が積まれている。
「何がです?」
「この増額や」
新道は一覧の一箇所を指で叩いた。男が椅子を寄せ、示された数字を覗き込む。
「去年から上がっとる。理由は?」
「本家経費の増加やと思います」
「思います?」
男の目が、数字から新道へ動いた。それから手元の帳簿を開き、何頁か戻る。新道はその間、指を置いたまま待っていた。
「細かいところまでは……」
男は言葉を切った。確かな説明を持っていないことは、もう分かった。新道はしばらくその顔を見てから、一覧へ目を戻した。
責めても仕方がない。この男が増額を決めたわけではなく、言われた額を記し、入った金を確かめてきただけだった。ここで声を荒らげても、帳簿の空いたところへ理由が現れるわけではない。
「その時の書類は残っとるか」
「探してみます」
「今はええ。こっちを先に見よ」
新道は一覧を脇へ置き、次の帳簿を開いた。本家経費と記された支出が続いている。添えられた伝票まで見れば何に払ったのか分かるものもあったが、まとめた数字だけでは、金を出した直参へ説明するには足りなかった。
十二社会が要求している上納負担の見直しと、その使途の説明。最初に聞いた時、新道自身にも、金を払いたくない人間がもっともらしい理由を並べているだけではないかという気持ちがあった。本家には本家の仕事がある。組織をまとめるための金まで惜しむのであれば、それは通せないと思っていた。
だが、数字を追っているうちに、要求書の見え方が少し変わってきた。上納を取ることと、なぜその額なのかを説明することは、同じではなかった。
「これも本家経費か」
「はい」
「中身を聞かれたら、この数字だけ見せるんか」
事務方は返事をしなかった。新道も答えを待たず、伝票へ目を落とした。一枚ずつ確かめれば支出は追える。それを集め、出す側に分かる形へ直す仕事が、これまで十分にされていなかった。
不正と呼べるものは見つからない。誰かが抜いた金も、帳簿から消えた金も、今のところはない。それでも、負担が増えた理由を尋ねて本家経費とだけ返されれば、払う側が納得しないことはあるだろう。
「城戸らが怒るんも、分からんではないか」
新道は小さく呟いた。事務方が顔を上げたが、それ以上は言わなかった。要求の全てを認めるかどうかと、この帳簿に説明の足りない部分があるかどうかは、分けて考えなければならなかった。
新道は開いた頁に紙を挟み、帳簿を閉じた。次の資料を取ろうとして、横に置かれていた別の束へ手を止める。十二社会に属する組の、ここ数か月の動きをまとめたものだった。
本家への上納とは、直接関係がない。事業への出資、短期の貸付、新しい会社との取引。新道は一枚ずつ捲り、記された組の名と日付を確かめた。
極道が金を動かす。それだけなら、珍しい話ではない。組を維持するには金が要るし、表の会社と付き合いを持っている組も多い。資料の中には、新道が以前から知っている取引もあった。
ただ、新しく出てきたものの時期が、妙に近かった。
新道は読み終えた紙を机へ戻し、椅子へ深く座り直した。先ほどの上納一覧へ手を伸ばしかけ、やめる。
「これ、誰がまとめた」
「経理から上がってきた資料です」
「元は?」
「各組から出た報告と、付き合いのある会社から拾ったものやと」
新道は返事をせず、もう一度、数字を追った。赤松組、石渡の高瀬組、片岡の京極組。ほかにもいくつか、十二社会に名を連ねている組がある。組の名前だけでなく、取引の相手と日付にも目を通した。
金額は大きくない。少なくとも、一つの組を丸ごと動かせるほどではなかった。この程度の金なら、商売の都合で時期が重なることもある。貸した先が同じ方面で仕事をしていれば、なおさらだった。
それでも、十二社会が本家への不満を強め始めた頃と、近すぎる気がした。
新道は資料を机へ並べた。離れた頁に記されている時には、ただの取引に見えていた。日付の順に置くと、短い間に幾つもの金が動いていることが分かる。その全てに、十分な説明がついているわけではなかった。
「この会社、調べられるか」
一枚の伝票を抜き、向かいへ差し出した。事務方が両手で受け取り、記された会社名を見た。
「どこまでです?」
「表で分かるとこまででええ。余計なことすんな」
「はい」
男は伝票を持って部屋を出た。新道は残った資料を一つに揃え、煙草へ火をつけた。吸い込んでから、背もたれへ体を預ける。机の上には、本家の帳簿と、各組の取引をまとめた紙が残っていた。
疑えば、何でも怪しく見える。取引の時期が近いことも、相手の会社を知らないことも、疑うつもりで読めば、いくらでも理由になる。新道は、そういう見方を一番嫌っていた。
証拠もないうちから人を疑い、決めつける。役を預かる者がそれを始めれば、下の者も同じように人を見るようになる。一万人を抱える組織が、互いの腹を探るだけの集まりになれば、内側から腐っていく。
新道は煙草の灰を落とした。十二社会が本家へ要求を出したからといって、あの十二人の金を、初めから悪いものとして扱うわけにはいかなかった。
今は、ただの金だった。どこから来たのか、何のために流れたのか、資料だけでは分からない。十二社会の動きと関係があるのかさえ、まだ分からなかった。
新道は取引の一覧を読み直した。一度目に気になった箇所を、今度は何でもないものとして見ようとした。それでも、日付の近さは残った。会社の名を確かめようと、伝票を抜いた理由も消えなかった。
しばらくして、事務方が戻ってきた。部屋へ入ると、手にしていた伝票を机の端へ置いた。
「本部長」
「何や」
「さっきの会社なんですけど……登記上は普通の会社です」
「そうか」
新道は伝票へ目を落とした。会社として存在し、登記もされている。それだけでは何もおかしくない。事務方が続けるのを、煙草を持ったまま待った。
「ただ、設立してまだ一年経ってません」
新道の煙草が止まった。目だけを上げ、男を見る。
「それで?」
「それ以上は、まだ」
男は首を振った。新しい会社だということまでしか、確かめられていない。誰がどこまで関わっているのかも、その取引がどう始まったのかも、答えは持っていなかった。
新道は頷いた。
「もうええ。今日は触るな」
「はい」
事務方は頭を下げ、部屋を出た。扉が閉じてから、新道は煙草を灰皿へ置いた。伝票を手に取り、記された会社名をもう一度読む。
設立して一年経っていない会社と付き合った。それだけで、何かを言うつもりはなかった。新しい商売を始めれば新しい会社もできるし、古くからある会社だから信用できるとも限らない。今ある話をつなげても、誰かへ問いただすには足りなかった。
それでも、その伝票を元の束には戻さなかった。別にして、机の端へ置く。確かめていないことを、確かめたことにして片づける気にもなれなかった。
新道は十二社会の要求書を取り出した。上納負担を見直し、その使途を説明すること。読んだばかりの帳簿を思い出しながら、その箇所を確かめた。
金を出す側が、使い道を知りたいと言っている。そこには、理解できる理由があった。一方で、あの集まりにいる幾つかの組では、本家の帳簿とは別のところで金が動いていた。その出所も意味も、今の新道には見えていない。
要求書を机の中央へ戻し、端に避けた伝票と見比べた。片方には不透明な金への不満があり、もう片方には出所の見えない金がある。どちらも、まだ答えにはならなかった。
新道は老眼鏡を外した。二つの紙は離して置いてある。それを同じ話として扱っていいのか、今は決められない。
ただ、同じ場所から、違う二つの金の匂いがしているように思えた。




