黒崎獅童
黒崎獅童は、書類の最後の頁へ判を押した。朱肉の蓋を閉じ、署名と印影を確かめてから、済んだ書類を卓上の右側へ移す。左側には、まだ目を通していない資料が残っていた。不動産の契約書、建設に関する見積書、金融の資料。どれも、その日のうちに判断を求められているものだった。
六月六日。大阪市内の一等地にあるビルの最上階で、黒崎は朝から仕事を続けていた。階下には会社名の並ぶ案内板があり、受付には背広姿の男が立っている。大理石の床を通り、昇ってきた客がこの部屋へ案内されるまでに、極道の事務所を思わせるものはほとんどなかった。
扉が静かに開いた。黒崎は手元の書類から顔を上げた。
「会長、赤松の親父がお見えです」
黒崎は腕時計へ目を落とした。広げていた資料を閉じ、卓上へ揃える。
「通してください」
間もなく、赤松隆一が入ってきた。戸口で一度頭を下げ、黒崎の方へ歩いてくる。
「兄貴、お疲れ様です」
「お疲れ様です。どうぞ」
黒崎は向かいのソファを示した。赤松が腰を下ろすのを待ち、自分も座った。卓上へ煙草の箱を置いたが、まだ手には取らなかった。
「それで、どうでした?」
赤松は聞き返さず、少し身を乗り出した。
「だいぶ割れてきてます」
黒崎は何も言わず、続きを待った。赤松は膝の上で両手を組み、二日前の座敷を思い返すように目を落とした。
「城戸さんは、まだ本家と話する言うてます。室井さんと柏木さんもそっちです」
「なるほど」
「海老沢さんはもう限界ですね。石渡も同じです。片岡も、いつまでも頭下げてられん言うてます」
「そうですか」
黒崎の返事は、それだけだった。赤松は一度口を閉じた。誰が何を言ったのかを話せば、もっと細かく尋ねられると思っていたが、黒崎はすぐに次の言葉を求めなかった。
煙草を一本取り出してから、黒崎が聞いた。
「大庭さんは?」
「まだ分からんです」
赤松が苦笑した。大庭は、次も本家が折れなければどうするのかと尋ねた。だが、自分がどうするつもりなのかは言わなかった。
「あの人は多分、最後まで様子見ますわ。勝つ方につくんちゃいますか」
黒崎の口元に薄い笑みが浮かんだ。
「それも一つの生き方でしょう」
火をつけ、煙を吐いた。赤松は黒崎の顔を見たが、大庭を責める言葉も、評価を決める言葉も続かなかった。
座敷では、交渉を続けるというだけで言い合いになった。ここでは同じ話をしても、相手は声を荒らげない。赤松はソファへ座り直し、黒崎へ尋ねた。
「兄貴は、どう思います?」
「十二社会を?」
「はい」
黒崎はすぐには答えなかった。窓の外へ一度目を向け、それから赤松へ戻した。
「城戸さんの言っていることは、分かりますよ」
赤松の目が動いた。黒崎は煙草を指に挟み、続けた。
「上納に不満がある。人事の基準が見えない。本家がシマへ介入しすぎる。直参として意見を言いたくなるのは、何もおかしなことではないでしょう」
「そうですよね」
赤松が頷いた。十二社会の要求を出したこと自体が間違いだったとは、赤松も思っていない。その中身を分かると言われると、座敷で話がまとまらなかったこととは別に、少し息がつけた。
「俺もそう思うんです」
黒崎は煙草の灰を落とした。
「ただ、本家にも本家の事情がある」
赤松は頷きかけたまま、手を膝へ戻した。
「一万人の組織をまとめるには、本家の権限も必要です。直参がそれぞれ自分の理屈だけを通せば、天龍会そのものが成り立たなくなる」
「それは……まあ、そうですけど」
「どちらが正しい、という話ではないと思います」
黒崎の声は穏やかだった。赤松が言い返すのを遮ることも、返事を急がせることもなかった。
「だから難しいんでしょうね」
赤松は卓上の箱から煙草を取り、咥えた。黒崎がライターを滑らせる。赤松は軽く頭を下げ、手に取った。
「ありがとうございます」
火をつけ、ライターを元の場所へ戻した。煙を吐いてから、赤松は黒崎を見た。
「でも、このままやったら本家も動かん気するんですよ」
黒崎は答えなかった。赤松は煙草を持つ手を下ろし、続けた。
「城戸さんは、まだ話したら分かる思うてます。でも海老沢さんらは、もうそれじゃ無理やって」
城戸が交渉を続けると言った時、海老沢は、戦わなければ変わらないこともあると返した。柏木は若い衆の血を流したくないと言い、片岡は喧嘩になってはいけないのかと聞いた。赤松は、そのどちらにも口を挟まなかった。
「赤松さんは?」
聞かれ、赤松の手が止まった。
「俺ですか」
「ええ」
黒崎は赤松を見ていた。城戸や海老沢の話をしていた時と、目つきは変わらなかった。
「あなた自身は、どう思っているんです?」
赤松は少し考えた。誰が何を言ったかなら、そのまま伝えられる。自分の考えを尋ねられると、座敷で黙っていたことまで思い出した。
「……もうちょい強く出てもええと思ってます」
黒崎は否定しなかった。煙草を口へ運ぶ前に、短く返した。
「そうですか」
「本家も、こっちがそのうち割れると思って待っとるだけかもしれんし」
「その可能性もありますね」
赤松の顔が上がった。
「やっぱり兄貴もそう思います?」
黒崎は僅かに笑った。
「可能性がある、と言っただけですよ」
赤松も笑い、煙草の灰を落とした。言われたことより先まで受け取っていたと気づき、少し座り直す。
「ただ――」
黒崎が続けた。赤松は灰皿から目を戻した。
「十二人が割れることを本家が待っているのだとしたら、一番してはいけないのは、感情で動くことでしょうね」
「感情で?」
「ええ」
黒崎は灰皿へ煙草を置いた。
「誰かが先に手を出せば、本家はそこだけを問題にできる。要求の中身ではなく、やり方の話に変えられてしまう」
赤松は黙った。石渡が本気だと分からせると言った時、室井は、その方法を尋ねた。石渡は答えなかったが、室井は喧嘩になると受け取った。
その場では、止める者と進もうとする者の言い合いに聞こえていた。だが、先に手を出した後で何を問われるのかを考えると、室井や柏木の言葉にも、別の重さがあった。
「城戸さんが慎重なのは、その辺りも考えているからじゃないですか」
「……なるほど」
黒崎はそれ以上言わなかった。赤松もしばらく黙って煙草を吸った。窓の外を車が流れていたが、この高さまで、その音はほとんど届かなかった。
やがて赤松が、自分から口を開いた。
「ほな、手ぇ出さんと圧かける方法考えた方がええんかな」
黒崎はすぐには答えなかった。赤松を見て、静かに言った。
「それは、十二社会の皆さんで決めることです」
赤松は煙草を灰皿へ押しつけた。具体的に何をするのかは、まだ思いついていなかった。それでも、強く出ることと手を出すことを、一緒に考える必要はない気がした。
少しして、赤松は立ち上がった。黒崎も顔を上げ、帰りの挨拶を受けた。
「兄貴、また何かあったら来ます」
「ええ。気をつけて」
赤松が部屋を出ると、扉が静かに閉まった。黒崎はソファに座ったまま、灰皿の煙草へ目を落とした。短くなった一本を消し、卓上へ手を戻す。
少しして、極真獅子堂会若頭の黒田家信が入ってきた。
「帰りました」
「そうですか」
黒田は閉じた扉を一度見た。それから、黒崎へ顔を向ける。
「何か言いました?」
黒崎は卓上の書類へ手を伸ばした。
「何も」
「でも、赤松の親父、来た時より機嫌良さそうでしたよ」
黒崎の手が一瞬止まった。黒田を見てから、書類を開いた。
「話を聞いただけです」
黒田はそれ以上尋ねなかった。黒崎の前に残っていた資料へ目をやり、仕事を邪魔しないように部屋を出た。
黒崎は契約書の頁をめくった。先ほどまで赤松が座っていた場所には、もう誰もいない。卓上にはライターが戻され、灰皿には二人分の吸い殻が残っていた。
赤松は、手を出さずに圧をかける方法を考えた方がいいのかと、自分の口で言った。その方法も、十二社会でどう話すのかも、この部屋では決まっていない。
黒崎は書類の一箇所で目を止め、机の方へ戻った。十二社会への指示を書き留めることはなく、未処理の資料を一枚、手元へ引き寄せた。




