榊の線引き
灰皿の中で、吸いかけの煙草が一本、まだ細い煙を上げていた。龍司はそれを見ながら、新しい煙草を咥えた。五月二十九日の朝。事務所の隅に座ってから、何本目になるのか数えていなかった。
片岡と会ったことは、昨日のうちに水谷へ伝えている。どこで会い、何を言われ、何を言い返したのか。途中で龍司が口を閉じると、隣にいた相沢が続きを話した。水谷は最後まで聞き、榊にも伝えておくと言った。
それで話が済んだようには、龍司には思えなかった。事務所を出てからも、寝床へ入ってからも、片岡の声が頭に残っていた。
榊んとこのガキ。ガキの躾くらい、ちゃんとしとけ。
何度思い返しても、腹が立った。相沢に止められなければ、あの時、手は届いていた。殴ればどうなるかより、殴らずに帰ってきたことの方が、今は気に食わなかった。
「お前、朝から顔怖いぞ」
相沢が向かいの椅子へ腰を下ろした。龍司は煙を吐き、窓の方を見た。通りを走る車の音が、少し開いた窓から入ってくる。
「まだ昨日のこと考えとんのか」
「別に」
「その顔で別には無理あるやろ」
相沢は机の端に置かれた灰皿を見た。龍司は何も言わず、煙草を指に挟み直した。掴まれていた腕に痛みは残っていない。昨日、相沢がどれほど力を入れて止めたかは覚えていたが、それでも、あそこで離してくれていればと思った。
片岡は、今日もあの建物へ来るのだろうか。昨日と同じ場所へ行けば、また顔を合わせるかもしれない。今度は相沢が横にいなければ、途中で腕を掴まれることもない。
龍司は煙草を灰皿へ押しつけ、立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
相沢がすぐに顔を上げた。
「どこ行くねん」
「その辺」
「京極んとこやろ」
龍司は答えなかった。椅子を机へ戻し、そのまま玄関へ向かう。相沢が背後で立ち上がる音がしたが、振り返らなかった。
扉へ手を掛けたところで、奥から声が飛んだ。
「龍司」
足が止まった。振り向くと、榊宗次郎が廊下に立っていた。龍司の手と、その向こうの扉へ一度目をやり、それから顔を見た。
「こっち来い」
低い声だった。龍司は扉から手を離し、榊の後について奥の部屋へ入った。廊下ですれ違う時も、榊は何も言わなかった。
榊は座卓の前へ腰を下ろすと、向かいを顎で示した。龍司も座ったが、膝の上に置いた手は握ったままだった。部屋の戸が閉まり、玄関の方にいた相沢の足音も聞こえなくなった。
「片岡組長と揉めたらしいな」
「揉めてへん」
「ほな何した」
「喋っただけ」
「相沢から聞いとる」
龍司は黙った。榊は煙草を取り出し、火をつけた。叱る時のように声を張ることもなく、いつもと同じように煙を吐いた。その方が、龍司にはやりにくかった。
話を聞いているのなら、何も知らないふりはできない。相沢は、自分が片岡を追おうとしたことまで伝えたはずだった。榊の前でそこだけ隠しても、すぐに分かる。
「何しに行くつもりやった」
「別に」
「龍司」
「……ちょっと話しに」
榊が煙を吐いた。
「拳でか」
龍司は答えなかった。座卓の上には灰皿と、榊の煙草の箱がある。その端へ目を落としたまま、親父が次に何を言うのか待った。
「お前な」
榊はしばらく龍司を見ていた。龍司が顔を上げても、その目は動かなかった。
「片岡組長が誰か、分かっとんのか」
「京極組の組長やろ」
「それだけちゃう」
龍司は眉を寄せた。名前も、どこの組の人間かも、もう知っている。十二社会にいることも分かっていた。
「四代目天龍会の直参や」
水谷からも聞いた話だった。榊より上の立場にいる男だということも、知らずに言い返したわけではない。それでも龍司には、目の前で馬鹿にされたことの方が大きかった。
「向こうが先に喧嘩売ってきたんや」
「何された」
「ガキや言われた」
榊は黙っていた。龍司は、その顔を見ながら続けた。
「躾しとけとも言われた」
自分だけを馬鹿にしたのなら、まだよかった。榊の名前を出して、まるで自分を飼っているように言われた。片岡は最後まで振り返らず、若い衆に扉を開けさせて車へ乗った。
榊は煙草を灰皿へ置いた。数秒待ってから、龍司へ言った。
「それで殴りに行くんか」
「俺だけやったらええやろ」
その瞬間、榊の目が変わった。龍司は膝の上の手を動かしかけ、そのまま止めた。
「まだ分からんか」
声は大きくなかった。だが、さっきまでのように座卓へ目を落とすことはできなくなった。
「お前が殴ったら、お前だけで済まん」
榊組へ入った頃から、何度も言われてきたことだった。自分が揉めれば水谷が出ていき、柴崎が怒り、最後には榊が話をつける。龍司が殴った相手の傷だけで、終わったことばかりではない。
それでも、喧嘩になれば自分が前へ出ることはできた。相手が何人いても、目の前へ来れば殴れた。片岡にも拳は届く。その後に誰が出てくるかまで考えると、龍司には、どこで話が終わるのか分からなかった。
「京極組と榊組の話だけでもない」
榊が続けた。
「片岡の兄貴は十二社会におる。十二社会は今、本家と話し合っとる。ワシらの上には天真会があって、その上には四代目天龍会がある」
龍司は黙って聞いていた。久世の顔が浮かんだ。あの人のところまで話が行く。榊が頭を下げて済むかどうかも、榊だけでは決められない。
「お前が一発殴って、それで済む段階はもう終わっとる」
「ほな、やられっぱなしなん?」
「やられてへんやろ」
「馬鹿にされた」
「そんなんで人殴っとったら、極道何人おっても足らんわ」
龍司は目を逸らした。片岡は榊組のシマへ入っていない。神楽町の店へ何かしたわけでもなく、昨日も、手を出した者はいなかった。そこは龍司にも分かっていた。
だからといって、腹が収まるわけではない。何もされていないと言われると、あの場で黙って帰るしかなかったことまで認めさせられる気がした。
榊は灰皿から煙草を取り、少し声を落とした。
「これはもう、お前の喧嘩ちゃう」
龍司が榊を見た。片岡も昨日、若い衆の喧嘩ではないと言っていた。同じような言葉を親父の口から聞くのは、それよりずっと堪えた。
「じゃあ誰の喧嘩なん」
榊はすぐには答えなかった。煙草の先から上がる煙を挟んで、龍司を見ていた。
「ワシらより、もっと上の話や」
それが龍司には、一番気に食わなかった。自分の前に片岡が立ち、自分へ向けて言葉を吐いた。その相手に何かしようとすると、上の話だと言われる。
片岡の顔も、声も覚えている。どこへ行けば会えるのかも分かっている。それなのに、榊組、天真会、四代目天龍会と名前が重なるたび、自分には手の出せない相手になっていった。
龍司は膝に手をつき、立ち上がった。榊は座ったまま、その顔を見上げた。
「どこ行く」
「散歩」
「京極んとこ行くなよ」
「分かっとる」
返事をしてから、龍司は部屋を出た。榊はそれ以上、呼び止めなかった。
廊下には相沢が立っていた。目が合ったが、何も言ってこなかった。龍司も声をかけず、その横を通り過ぎた。今、何か言われれば、相沢にまで腹を立ててしまいそうだった。
神楽町へ出ると、店の前に荷を下ろしている車があった。運転手が台車を引き、店の中から出てきた男が、どこへ置くのか指を差している。龍司は道を空け、その脇を歩いた。
街は昨日と変わっていなかった。シャッターを上げる音がして、開いた店からラジオが聞こえる。龍司が毎日歩き、顔を知った人間たちが暮らしている神楽町だった。
境目へ向かう角で、龍司は足を緩めた。その先へ行けば、昨日の路地へ出る。片岡がいるかどうか、確かめることくらいはできた。
京極んとこ行くなよ。
榊の声を思い出し、龍司は角を曲がらずに歩いた。まだ片岡に腹は立っていた。相沢に止められたことも、親父に座らされたことも、納得しきれてはいない。それでも、行くなと言われた場所へ向かう気にはなれなかった。
榊組の上には天真会があり、その上には四代目天龍会がある。十二社会も、遠くの知らない集まりではなくなった。あの中には片岡忠志がいて、榊も久世も、その動きを見ていた。
喧嘩なら、強い方が勝つ。龍司は、そういう話なら自分にも分かると思っていた。
歩きながら、握っていた手を開いた。爪の当たっていた掌に、浅い跡が残っていた。昨日から、誰も殴っていない拳だった。




