片岡忠志
龍司が路地へ目を向けるたび、相沢は隣で溜息をついた。五月二十八日。二人は昨日、片岡忠志を見かけた場所を再び歩いていた。
水谷には、見たものをそのまま伝えた。片岡が来ていたことも、京極の若い衆が集まっていたことも、榊へ話しておくと言われている。それで済ませるつもりだったが、一晩経っても、龍司の頭にはあの男の目が残っていた。
「お前、絶対なんか考えとるやろ」
「何も考えてへん」
「それが一番怖いねん」
相沢が言っても、龍司は答えなかった。昨日の建物の前には、今日も京極組の若い衆がいる。入口に一人、少し離れたところに二人。龍司たちに気づいた男が顔を向けたが、声はかけてこなかった。
そこは榊組のシマではない。連中が境目を越えたわけでもなく、神楽町の店へ入ったという話も聞いていない。それでも、すぐそばに人を置かれると気になった。何をするつもりなのか分からないまま、毎日その横を通ることになる。
昨日の片岡は、龍司を見ても何も言わなかった。若い衆が口を開きかけると止め、そのまま建物へ入っていった。怖がられたわけでも、怒らせたわけでもない。自分など相手にする必要がないと判断されたようで、それが腹に残っていた。
「戻ろや」
相沢が言った。龍司が路地から目を戻しかけた時、建物の扉が開いた。
片岡忠志が出てきた。後ろには二人の若い衆がついている。入口にいた男が頭を下げ、扉を押さえた。昨日は名前を知らずに見ていた男を、今日は知った上で見ていた。
龍司の足が止まる。片岡も二人に気づいた。数歩進んだところで立ち止まり、龍司へ顔を向ける。
「お前」
低い声だった。
「榊んとこのガキやろ」
龍司の眉が動いた。相沢が横でわずかに身構える。片岡は相沢には目を向けず、龍司を見ていた。
「柳龍司や」
龍司が答えると、片岡は興味なさそうに煙草を咥えた。後ろの若い衆が火を差し出し、片岡は顔を少し寄せた。一度煙を吐いてから、ようやく口を開く。
「名前なんか聞いてへん」
龍司の奥歯が噛み合った。自分から呼び止めておきながら、名を答えればそれだった。片岡は煙草を指に挟み、返事を待つでもなく龍司を見ている。
「ほな声かけんなや」
相沢が龍司の腕を掴んだ。
「龍司」
片岡の後ろにいた若い衆が一歩前へ出た。片岡は振り返らず、空いている片手を上げる。それだけで男は足を止め、元の位置へ下がった。
昨日も同じだった。周りの男たちは、片岡が何をするかを見てから動く。龍司の言葉に腹を立てても、片岡が止めれば従っていた。
「榊も大変やな」
片岡が薄く笑った。
「何がや」
「こんなん飼うとったら、いつか首輪切れてどっか噛みに行くで」
龍司が一歩前へ出た。相沢の手に力が入る。片岡との距離が近くなっても、相手は退かなかった。煙草を持った手も、ゆっくり下ろしたままだった。
「誰が犬や」
「犬とは言うてへん」
片岡は笑みを消した。
「ガキや言うたんや」
龍司の肩が動いた。相沢が腕を引き、身体ごと二人の間へ入る。龍司は相沢の肩越しに片岡を睨んだ。
「龍司、やめろ」
「離せや」
「やめとけ」
相沢は腕を掴んだまま離さなかった。入口にいた若い衆も、道端にいた男も、いつの間にかこちらを見ている。まだ誰も手を出していない。ここで龍司が動けば、その全員が動くことになる。
相手は二代目京極組の組長だった。目の前の男を殴れば、殴った者と殴られた者だけでは済まない。相沢にはそれが分かっていたし、龍司にも、水谷へ報告した昨日とは違う話になることくらいは分かった。
それでも、榊の名まで持ち出して馬鹿にされ、黙って帰る気にはなれなかった。龍司は相沢の手を振りほどかず、片岡へ声を向けた。
「何しに来とんねん」
片岡の目がわずかに細くなる。
「ここら辺に何の用や」
「お前に言う必要あるんか?」
「うちのシマのすぐ横や」
「横やろ」
片岡は煙草を指に挟み直した。龍司が言い返す前に、続ける。
「榊のシマには入ってへん。文句あるんやったら、榊本人に言わせろ」
龍司は言葉に詰まった。境目を越えた者を追い出すのとは違う。向こうは向こうの側にいて、片岡もそのことを分かった上で来ている。
自分の街のすぐそばだと言っても、それだけでは追い払えない。龍司が返せずにいると、片岡は鼻で笑った。
「上で何が起きとるかも知らんガキが、首突っ込む話ちゃうぞ」
「十二社会のことやろ」
その言葉に、片岡の顔から笑みが消えた。煙草を口へ運びかけた手が止まり、初めて龍司を見る目が変わった。
「……誰から聞いた」
「知っとるわ、それくらい」
龍司は答えたが、それ以上のことは言わなかった。十二人が何を求めているのかも、久世から聞いた範囲でしか知らない。本家の返事がどうなったかなど、なおさら分からなかった。
片岡は龍司を見たまま黙った。相沢も二人の間に立ち、腕を掴む手を緩めない。先ほどまで龍司の言葉に反応していた若い衆も、今は片岡の顔を見ていた。
やがて片岡は、煙草を地面へ落とした。靴底で火を消してから、龍司へ目を戻す。
「ほな余計に分かっとけ」
声は静かだった。
「これは、お前みたいな若い衆の喧嘩ちゃう」
龍司は何も返さなかった。久世からも、組織が大きくなれば簡単にはいかないと教えられた。だが今、片岡が言っているのは、話の難しさではなかった。龍司が口を挟む立場にないということだった。
片岡はそれ以上話す気もないようだった。龍司たちの横を通り、表の通りへ向かう。相沢が身体を少しずらし、龍司の腕を引いた。
「榊に言うとけ」
すれ違う時、片岡が足を止めずに言った。
「ガキの躾くらい、ちゃんとしとけってな」
龍司が振り返った。
「おい!」
片岡は振り向かなかった。若い衆を連れ、停めてあった黒いセドリックへ向かう。一人が先に走り、後部座席の扉を開けた。
龍司はその背中を追おうとした。相沢が腕を掴み直し、今度は両手で止める。
「離せ」
「無理や」
「相沢」
「今行ったら、お前ほんまに殴るやろ」
龍司は答えなかった。相沢はその顔を見て、手を離さなかった。言い返したいだけなら、腕を掴まれていても声は出せる。だが龍司は口を閉じたまま、車へ乗り込む片岡を見ていた。
後部座席の扉が閉まり、若い衆が助手席へ乗った。エンジンの音が少し高くなり、セドリックが走り出す。路地に残った男たちは車を見送り、それから龍司たちへ目を向けた。
相沢がようやく片手を離した。龍司は車が角を曲がって見えなくなるまで、その場を動かなかった。掴まれた腕より、噛み締めていた奥歯の方が痛かった。
「戻るで」
相沢が言った。龍司はしばらくしてから、短く頷いた。
何を言われたのかは、事務所へ戻れば話さなければならない。榊の名を出されたことも、自分が言い返したことも。水谷にどういう顔をされるかまで、今は考えたくなかった。
龍司は車の消えた方へ、もう一度目を向けた。十二社会という名前を聞いても、これまでは上の親分たちの話だった。今は、その中に片岡忠志の顔があった。
榊んとこのガキ。首輪。躾。
片岡が口にした言葉は、一つ残らず覚えていた。龍司は相沢と並んで歩き出したが、事務所へ向かう間も、握った手は開かなかった。




