京極組
八百屋の店先で、空になった木箱が重ねられていた。五月二十七日の夕方、龍司は相沢と二人で神楽町の商店街を歩いていた。買い物帰りの女たちが道を譲り合い、少し先の居酒屋では、店主が背伸びをして暖簾を掛けている。
「龍ちゃん、今日は二人か」
八百屋の親父が、木箱を持ったまま声をかけた。
「おう。何かあった?」
「何もないわ。毎日何かあったら、商売にならんやろ」
龍司が笑うと、親父も笑って店へ戻った。相沢は道端へ寄せられた箱を避け、先へ進む。いつもと同じやり取りだったが、龍司は店先を離れてからも、何もないという返事を少し考えていた。
神楽町から、揉め事が消えていた。榊組のシマの境目をうろついていた連中は、双方が引いてから姿を見せなくなっている。店からの相談もなく、若い衆同士の小競り合いも起きていない。このままなら、それでよかった。
「何か気持ち悪いな」
龍司が呟くと、相沢が横目で見た。
「静かなんがか?」
「ああ」
「さっきのおっちゃん、何もない言うてたやろ」
「せやけど、急におらんようになったままやんけ」
少し前までなら、退屈だと思って終わりだった。何も起きなければ、飯を食って事務所へ戻る。そのうち誰かに用を言いつけられ、榊か水谷に叱られる。神楽町の外で何が起きているかなど、考える必要もなかった。
今は、本家と直参の親分たちの間で話が始まっていると知っていた。十二人が集まり、要求書を出した。久世の話を聞いて、言い分に筋があっても、それだけで話が済むわけではないことも教えられた。
ただ、その話がどうなったのかは知らない。誰が何を認め、何を断ったのか。龍司のところまで、そんなことは下りてきていなかった。
「兄貴らは、何か知っとんのかな」
「知っとったとしても、俺らに全部言うわけないやろ」
「聞いたら教えてくれたらええのに」
「聞くたびに、知らんでええ言われとるやんけ」
相沢に言われ、龍司は口を閉じた。分からないことが増えたからといって、聞けば分かるようになるわけでもない。それが余計に落ち着かなかった。
商店街を抜けると、道を行き交う人が少なくなった。店の看板が途切れ、建物の隙間から細い路地が見える。シマの端へ近づいたところで、半歩先を歩いていた相沢が足を止めた。
龍司も足を止め、相沢の視線を追った。路地の向こうに、男が三人いる。店へ入るでもなく、道端で煙草を吸っていた。そのうちの一人に見覚えがあった。
「……あいつ」
以前、この辺りで揉めた男だった。龍司は顔を確かめるように首を伸ばし、そのまま一歩踏み出した。相沢の手が胸元を押さえる。
「待て」
「何やねん」
「奥、見ろ」
路地の奥から、さらに数人が出てきた。先にいた三人と短く言葉を交わし、一人が表の通りへ目を向ける。偶然そこで顔を合わせたという様子ではなかった。
向こうも龍司たちに気づいた。見覚えのある男が煙草を口から外し、隣の男へ何かを言う。それでも誰も近づいてこない。龍司を見たまま、道端に立っていた。
「何しとんねん、あいつら」
「知らん。せやから、ここで見とけ」
相沢は龍司の胸元から手を離したが、すぐ横に立ったままだった。以前なら、目が合えば何か言葉が飛んできた。龍司も黙ってはいなかっただろう。今日は、向こうが口を開かない。
男たちは龍司だけを見ているわけではなかった。時々、表の通りへ顔を向ける。誰かを待っているらしいと分かった頃、背後から車の音が近づいてきた。
黒いセドリックが二人の脇を通り、ゆっくりと路地の前へ停まった。龍司が車へ顔を向けると、道端にいた男たちの姿勢が変わった。煙草を消す者がいて、建物の入口に立っていた者は扉へ手をかけた。
助手席から若い男が降り、後部座席の扉を開けた。中から出てきたのは、四十代ほどに見える男だった。落ち着いた色の背広を着ている。派手な装身具も、大きな身振りもなかった。
「お疲れ様です」
周囲の男たちが、一斉に頭を下げた。
龍司は黙ってその光景を見ていた。さっきまで自分を見ていた男も、車から降りた男へ身体を向けている。その男が歩き出すと、前にいた者が道を空けた。
男は路地へ入る手前で、龍司たちに気づいた。視線が合い、龍司は顎をわずかに上げた。相手の顔には、怒りも驚きも浮かばない。龍司を見て、隣の相沢へ目を移し、それからもう一度龍司を見た。
自分を知っているのかどうかも分からなかった。ただ、その目を先に逸らす気にはなれなかった。
見覚えのある若い衆が、龍司へ身体を向けた。口を開きかけたところで、背広の男がその肩を軽く叩く。若い衆は男の顔を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。
男は龍司に何も言わず、路地の奥へ歩いていった。周りの連中も、その後ろへ続く。入口の男が扉を押さえ、最後の一人が入ると、静かに閉めた。
車の運転手は残っていたが、龍司たちへ声をかけることはなかった。さっきまで何人も立っていた路地から人が消え、龍司は閉まった扉を見つめた。
「戻るぞ」
相沢が言った。
「前に揉めた奴らおったやんけ」
「見たら分かる」
「ほな――」
「せやから戻るんや」
相沢の声は低かった。龍司が顔を向けると、相沢はすでに事務所の方へ身体を向けていた。
「今の男、誰か分かっとんのか」
「知らん」
「知らんのに戻るんか」
「知らんから、兄貴に言うんやろ」
龍司はもう一度、路地の奥を見た。入っていった男が、下の人間でないことは分かる。何人もの若い衆が頭を下げ、肩を叩かれた男は、それだけで口を閉じた。龍司が今から扉を開けても、前に揉めた相手だけが出てくるとは限らなかった。
相沢が歩き出す。龍司は舌打ちしたが、それ以上は言わず、その後を追った。
榊組の事務所へ戻ると、水谷は机で書類を見ていた。相沢が声をかけると、手を止めて顔を上げる。龍司はソファへ座らず、相沢の横に立った。
「境目で、京極の連中を見ました」
相沢は場所から順に話した。道端にいた人数と、あとから路地を出てきた者。以前揉めた男がいたこと。黒いセドリックが停まり、一人の男が降りてきたこと。
水谷は途中で口を挟まずに聞いていた。車から降りた男へ全員が頭を下げたと伝えると、書類を机に置いた。
「向こうから何か言うてきたんか」
「いえ。誰も何も」
「お前らは」
「俺も何も言うてへんで」
龍司が答えた。水谷は龍司を一度見てから、相沢へ視線を戻した。
「その車、間違いないんやな」
「はい。黒のセドリックです」
水谷は煙草を灰皿へ押しつけた。相沢に男の見た目を確かめ、入っていった建物の場所をもう一度聞いた。相沢が答えている間、龍司は机の向こうの水谷を見ていた。
いつものように、余計なことをするなと叱られると思っていた。だが水谷は、龍司の顔より、相沢の話を気にしていた。
「二代目京極組や」
水谷が言った。
「それは分かっとる。俺が聞きたいんは、あとから来た男や」
「片岡忠志や」
龍司は黙った。さっきの男の顔と、その名前が頭の中で重なる。周りの連中が頭を下げていたのも、若い衆が一言も返さず従ったのも、組長なら当然だった。
「……京極の親分か」
「そうや」
「何しに来たんや」
「そこまでは分からん」
水谷はそう答え、灰皿から手を離した。
「片岡は、十二社会の一人や」
龍司が顔を上げた。
「本家に紙出した、あの十二人か」
「ああ」
十二人が集まっていることは知っていた。城戸という名も聞いた。だが、その顔ぶれを一人ずつ知っているわけではなかった。龍司にとっては、久世や榊が話をし、水谷が詳しく教えてくれない、ずっと上の親分たちだった。
その一人が、今日、自分の目の前にいた。以前揉めた若い衆を連れ、榊組のシマのすぐそばで車を降りた。
「ほんで、またあいつら動くんか」
「見ただけで決めつけるな」
水谷が言った。
「来とったことは分かった。それでええ。親父には俺から言うとく」
相沢が返事をし、龍司も少し遅れて頷いた。水谷は二人の話した場所と人数を、手元の紙へ書き留めた。龍司はその手元を見ながら、路地で自分へ向けられた視線を思い出していた。
片岡は何も言わなかった。若い衆が口を開きかけても止め、そのまま建物へ入っていった。龍司には、その方がかえって引っかかっていた。
商店街の店からは、何もないと言われた。境目にも、しばらく人はいなかった。それでも今日、前に揉めた男は戻ってきていた。その肩へ手を置いた男の名前を、龍司は事務所へ戻ってから知った。




