波紋
五月二十日。
四代目天龍会本家。
朝から正門を黒塗りの車が何台も出入りしていた。石塀と白壁に囲まれた広大な敷地の奥には、手入れの行き届いた庭と重厚な日本建築が連なり、玄関から長い廊下にかけて若い衆が一定の間隔で立っている。
一万人近い構成員を抱える四代目天龍会。その中心へ、十二人の直参組長が連名した要求書が正式に届いた。
本家の大会議場には、執行部の男たちが集まっていた。中央には数枚の要求書が置かれている。上納制度の見直し、人事への意見反映、直参同士の縄張り問題に対する本家介入の制限、そして将来の五代目選定への直参組長会の関与。
最初に紙を手に取ったのは、本部長の新道宏一だった。六十八歳。本家の金庫番を長く務め、天龍会の金の流れを誰より把握している。
「上納が重いいう不満自体は、前から一部で出とりました。ただ、負担を下げる話と、使途をどこまで見せるかいう話は分けて考えた方がええでしょうな」
「見せる必要あるんか」
若頭補佐の黒岩剛三が低い声を出した。
「本家の金やぞ」
「元を辿れば、直参から上がっとる金でもあります」
「新道さんは向こうの肩持つんか」
「数字の話しとるだけや」
新道は顔も上げなかった。黒岩が眉を寄せる横で、神崎隆臣が口を挟む。
「要求書は要求書として見たらええでしょう。中身見る前から敵扱いしてもしゃあないです」
「問題は出し方や」
今度は鷲尾勝政が口を開いた。
「直参十二人がまとまって、本家へ連名で物申す。これを何事もなく認めたら前例になる」
秩序と格式を重んじる鷲尾にとって、要求の内容以上にその形が問題だった。
「紙出しただけで徒党扱いも早いでしょう」
矢吹宗一郎が返した。
「中身も見んと、出し方だけで切ったら余計こじれますよ」
同じ若頭補佐でも考えは違う。十二人の行動を本家への挑戦と見る者もいれば、まず要求そのものを精査すべきだと考える者もいる。
その中で、黒崎獅童はほとんど口を開いていなかった。三十八歳。若頭補佐の中では最年少である。要求書よりも周囲の男たちへ目を向け、誰が強く反発し、誰が理解を示し、誰が誰の発言に反応するのかを静かに見ていた。
「人事の話も気に食わんな」
舎弟頭の阿波野和重が要求書を指先で叩く。
「本家の役付きを決めるたびに、直参へお伺い立てるんか」
「そこまでは書いてません。意見を聞く機会を設けろ、です」
「最初に入口作ったら、そのうち権利になる」
阿波野は鼻で笑った。
そのやり取りを、若頭の武藤和正は黙って聞いていた。五十五歳。四代目天龍会若頭。誰も正式に決めたわけではないが、國枝重政の次を誰が継ぐのかという話になれば、真っ先に名前が挙がる男だった。
だからこそ、要求書の最後に記された一項は武藤自身にも無関係ではない。
「カシラはどう思います」
神崎に問われ、武藤は要求書へ目を落とした。
「まだ全部聞いとる途中や」
それだけ答えた。
しばらくして大会議場の外が慌ただしくなり、入口にいた若い衆が姿勢を正した。
「会長がお見えです」
それまで意見を交わしていた男たちが一斉に口を閉じた。
四代目天龍会会長、國枝重政が姿を見せる。
六十四歳。天龍会を一万人規模まで拡大させ、長年その頂点に立ってきた男だった。
國枝が姿を見せるのは、五月七日の執行部会以来だった。その後に風邪をこじらせて肺を悪くし、ここ数日は医者から外出を止められている。本来なら今日も自宅で休んでいるはずだった。
それでも、十二人の直参から要求書が出されたと聞いて本家へ出てきた。
國枝は誰の手も借りず、自分の足で大会議場へ入ってきた。ただ、二週間ほど前より頬は痩せ、顔色も良くない。歩みも普段よりわずかに遅かった。
「会長、今日は休まれた方が」
武藤が立ち上がる。
「風邪ぐらいで寝とれるか」
掠れ気味の声だったが、その一言で部屋の空気が締まった。
「座っとれ」
國枝に言われ、武藤も席へ戻る。
正面へ腰を下ろした國枝が大会議場を見渡した。
「何の話や」
「十二人から来た要求書です」
武藤が答える。
「城戸らか」
「はい」
「見せろ」
要求書が國枝の前へ置かれた。
國枝は急ぐことなく、一枚ずつ目を通していった。途中で一度だけ咳をしたが、そのまま読み進める。上納、人事、縄張り。最後の項目に入ったところで、その手が止まった。
次期五代目選定への直参組長会の関与。
数秒、その一文を見つめる。
「ワシ、まだ生きとるぞ」
國枝が小さく笑った。
誰も笑わなかった。
「何や。誰も笑わんのか」
「会長、冗談に聞こえませんわ」
新道が言うと、國枝は鼻で笑った。
「縁起でもない顔すな。肺やられただけや」
そう言った直後、國枝が咳き込んだ。
一度、二度と続き、三度目は少し深かった。武藤が再び腰を浮かせる。
「会長」
「座っとれ言うたやろ」
國枝は口元を押さえたまま武藤を睨んだ。しばらくして咳が収まると、何事もなかったように要求書を机へ戻す。
「こんなんで死ぬか」
声にはまだ力があった。
武藤もそれ以上は何も言わなかった。
「それで」
國枝が要求書を指先で叩く。
「お前ら、さっきから何を揉めとった」
新道がそれまでの議論を簡潔に説明した。上納の負担については見直す余地があるという意見もある。一方で、本家人事や縄張りへの介入、十二人がまとまって要求を出した形そのものを問題視する声も強い。
國枝は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「武藤」
「はい」
「お前はどう思う」
大会議場にいる男たちの視線が若頭へ集まった。
武藤は要求書を見たまま少し考えた。
「全部が無茶やとは思いません。上納も、人事も、縄張りも。ここまで組織が大きなったら、不満が出ること自体はおかしくないです」
「ほな飲むんか」
阿波野が聞く。
「それとこれは別です」
武藤は顔を上げた。
「飲める話と、飲まれへん話を分けて考えたらええと思います」
國枝は小さく頷いた。
「せやな」
それだけ言うと、要求書をもう一度手元へ引き寄せた。
「最初から全部蹴る必要もない。せやけど、何でも飲んだらええいう話でもない」
國枝の指が最後の項目で止まる。
「特にこれは別や」
五代目選定への直参組長会の関与。
國枝はその一文を見たあと、武藤へ一度だけ視線を向けた。
「続きやれ。ワシも聞いとく」
会長の一言で議論が再開された。
咳は残っている。顔色も悪い。二週間前と同じ体調ではないことは、そこにいる全員が分かっていた。
それでも國枝重政はまだ、四代目天龍会の頂点に座っている。
十二人から届いた要求書を前に、本家はようやく正式な答えを出すための議論へ入った。




