久世の客
五月十六日。
昼を少し過ぎた頃、二代目天真会の事務所に見慣れない男が訪れた。四十代半ばほどの男で、濃紺の背広に派手さはなく、連れも一人しかいない。受付にいた若い衆へ名刺を渡すと、余計なことは何も言わず「久世会長にお目通り願いたい」とだけ告げた。
名刺を受け取った若い衆の表情が変わった。二代目辰巳組――城戸源蔵のところの人間だった。すぐに奥へ話が通され、男は応接室へ案内された。
「急にすんません」
男が頭を下げると、久世征一郎はソファに座ったまま手を上げた。
「ええよ。座り」
「失礼します」
男が向かいへ腰を下ろす。付き添いの若い男は部屋へ入らず、廊下で待っていた。久世が煙草を一本取り出すと、男は内ポケットから封筒を出して両手で差し出した。
「城戸からです。本家へ出す文書です」
「本家へ出すもんを、何で先に俺んとこ持ってきたんや」
「五家の筆頭である天真会の久世会長に何も知らせんまま本家へ出すんは筋が違うやろ、と」
「なるほどな」
封はされていなかった。久世は中から数枚の紙を取り出し、黙って目を通していく。
書かれていたのは、上納の負担と使途、人事に直参組長の意見を反映させる機会、直参同士の縄張り問題に対する本家の介入、そして将来の五代目選定についてだった。十二人が先日の料亭でまとめた内容が、要求書として形になっている。
「これ、十二人全員か」
「はい。連名で出す予定です」
「もう本家には?」
「まだです。近日中に城戸のところから正式に出します」
久世は煙草へ火を点け、もう一度紙へ目を落とした。
「城戸さんは何て?」
「喧嘩するための文書やない、と。天龍を出るつもりも、本家を潰すつもりもない。中におるからこそ、変えてほしいことを正式に伝えるいう話です」
「海老沢も同じこと言うとるんか?」
男が一瞬だけ黙った。それを見た久世は小さく笑う。
「そこは答えにくいか」
「十二人全員が、全部同じ考えいうわけではありません」
「せやろな」
城戸が十二人をまとめているとはいえ、その内側まで一枚岩ではない。それは久世も最初から分かっていた。
「分かった。城戸さんには、見たと伝えといて。ただし、俺が賛成したとも反対したとも言わんでええ」
「はい。確かに伝えます」
男は深く頭を下げて応接室を出ていった。扉が閉まってからも久世はしばらく要求書を眺め、やがて受話器を取った。
「俺や。榊おるか。今からこっち来い言うといて」
神楽町の榊組に電話が入ったのは、それから十分ほど後だった。
「親父が?」
榊宗次郎が受話器を持ったまま眉を寄せる。机の向こうでは水谷が書類を整理しており、ソファには龍司と相沢がいた。
「分かった。今から行くわ」
受話器を置いた榊が上着を取る。
「ちょっと親父んとこ行ってくる」
「久世の親分とこ?」
新聞を読んでいた龍司がすぐに顔を上げた。
「おう」
「俺も――」
「行かんでええ」
「まだ最後まで言うてへんやん」
「どうせ連れてけやろ」
図星だったのか、龍司が黙る。相沢が横で笑い、榊はそれ以上相手にせず事務所を出ていった。
扉が閉まってしばらくすると、龍司は今度は水谷を見た。
「兄貴、何やと思う?」
「知らん」
「最近みんなそればっかりやな」
「お前が知らんでええことばっかり聞くからや」
水谷は書類から顔も上げなかった。龍司は不満そうに新聞へ戻ったが、競馬欄を追っていた目はほとんど動いていなかった。
榊が天真会の事務所へ着いた時、城戸の使いはすでに帰ったあとだった。応接室には久世が一人で残っており、机の上には先ほどの要求書が置かれている。
「親父」
「おう。座れ」
「はい」
榊が向かいへ腰を下ろすと、久世は要求書をそのまま滑らせた。
「城戸さんとこの人間が持ってきた」
榊は一枚目から順に目を通した。上納、人事、縄張り、そして五代目選定。最後まで読み終える頃には、最初に紙を受け取った時より表情が硬くなっていた。
「……これ、本家に出すんですか」
「近いうちにな。十二人の連名や」
「思ったよりちゃんとしてますね」
「もっと無茶苦茶書いとる思ったか」
「多少は」
久世が笑った。
要求そのものは、どれも理由のないものではなかった。上納に苦しむ組があることも、執行部だけで人事が進むことへ不満を持つ直参がいることも事実だった。今回の京極との一件を考えれば、縄張りへの本家の介入について意見が出るのも分からなくはない。
問題は最後の一項だった。
「五代目のところ、親父はどう見てるんです?」
「本家はそこを一番気にするやろな」
「武藤のカシラがおりますからね」
「ああ」
誰も正式に決めたわけではない。それでも四代目の次を誰が継ぐのかと聞かれれば、多くの者が武藤和正の名を思い浮かべる。そこへ直参組長会の意見を反映させろと要求すれば、単なる制度の話だけでは受け取られない可能性がある。
「城戸さんは、武藤のカシラを降ろしたいわけやないんですよね」
「そう言うとるらしい。ただ、書いた側がどういうつもりかと、読んだ側がどう受け取るかは別や」
榊は要求書を机へ戻した。
「それで俺も呼んだんですか」
「片岡がおるからな」
その一言で榊にも意味は通じた。
十二社会には二代目京極組の片岡忠志がいる。榊組と京極の境目をめぐる揉め事は、双方が若い衆を引かせたことで表面上は止まっていた。だが、要求書をめぐって本家と十二人の間に別の対立が生まれれば、二つの話がいつまでも無関係でいられるとは限らない。
「今まで通り、動くないうことですね」
「そういうことや」
「分かりました」
「龍司にも言うとけよ。余計なことすんなって」
「あいつは何も知らんですよ」
「そのままでええ」
榊は苦笑した。何も知らないまま大人しくしているような男なら、久世もわざわざ名前を出さなかっただろう。
「ほな、戻ります」
「おう。本家に出たらまた呼ぶ」
「お願いします」
榊が応接室を出ていくと、久世は再び要求書を手に取った。
十二人が何を求めているのかは分かった。
だが、その四つを本家がどう受け取るのかは、まだ分からなかった。
夕方、榊が事務所へ戻ると龍司はまだいた。
「親父。何やった?」
「城戸さんとこの人間が来とったらしい」
「城戸って、十二人の?」
「そうや」
龍司の顔から笑いが消えた。榊は机へ戻りながら、詳しい内容には触れず、本家と直参の親分たちの間で話が始まりそうだとだけ教えた。
「何の話?」
「そこまでは知らんでええ」
「またそれか」
「嫌やったら偉なれ」
龍司は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
境目から人が消えても、その上ではまだ話が続いている。
そして今度は、その話が天真会まで下りてきていた。




