知らん世界
五月十四日。
連休が明けた神楽町は、すっかりいつもの顔に戻っていた。商店街には朝から自転車が行き交い、八百屋の軒先には段ボール箱が積まれ、喫茶店の扉が開くたびに珈琲の匂いが歩道まで流れてくる。休みの間だけ目立っていた家族連れの姿は減り、代わりに背広姿の男や買い物籠を下げた主婦が通りを埋めていた。
柳龍司は、その中を相沢直樹と並んで歩いていた。二人とも榊組の事務所を出てから一時間ほどになる。集金先を何軒か回り、頼まれていた封筒を届け、帰りに煙草を買って戻る。それだけの仕事だった。
「龍ちゃん、今日は二人なん?」
乾物屋の店先から声を掛けられ、龍司が振り向いた。
「せやで。相沢とデートや」
「誰がお前とデートすんねん」
「照れんなや」
「朝から気色悪いこと言うな」
店の女将が笑いながら二人を見送る。神楽町では、こんなやり取りが一日に何度もある。龍司にとっては組事務所の中と同じくらい慣れた空気だった。
商店街を抜けると人通りが少し減り、相沢が煙草を一本取り出した。歩きながら火を点け、煙を吐いてから龍司を見る。
「お前、気づいてる?」
「何が」
「静かやろ」
龍司は辺りを見た。
「昼やからちゃうん」
「そういう意味ちゃうわ」
「ほな何やねん」
相沢は答えず、そのまま歩いた。
二人が向かっている先には、少し前まで何度も足を運んだ境目がある。榊組のシマと、その先の地域を分ける通り。最初に売人を見つけたのも、柴崎健吾と一緒に出向いて龍司が相手を殴ったのもこの辺りだった。
京極の名前が出てからは榊組だけの話ではなくなり、龍司たちが勝手に動くことも止められた。あれほど何度も様子を見に来た場所なのに、ここしばらくは誰も龍司を行かせようとしなかった。
久しぶりに来てみれば、本当に何もない。
例の連中が立っていた場所には自転車が一台停まっているだけで、その横を買い物帰りらしい女が普通に通り過ぎていく。誰かがこちらを見張っている様子もなく、見覚えのない車が停まっているわけでもなかった。
「ほんまにおらんな」
「せやろ」
「いつから?」
「知らん。連休前にはもう引いとったんちゃう」
「京極の奴らも?」
「見てへんな」
龍司は道路の向こうへ目をやった。
「終わったん?」
「何が」
「シマの話」
「知らん」
「お前何も知らんな」
「お前に言われたないわ」
相沢が煙を吐く。
「柴崎の兄貴に聞いても、もう行かんでええしか言わへんしな」
「水谷の兄貴は?」
「聞けるんやったらお前聞いてこいや」
「嫌や。絶対説教長なる」
「ほな黙っとけ」
二人は境目を越えず、通り沿いを歩いた。少し前なら向こう側に誰がいるのか気になって仕方がなかったのに、今はその相手すらいない。殴り合いになったわけでもなければ、榊組が何かを取ったわけでもなく、京極側に何かを取られた様子もない。ただ両方から人が消え、それまで続いていた揉め事だけが突然止まっていた。
「何か気持ち悪いな」
龍司が言った。
「お前もそう思う?」
「喧嘩やったら勝った負けたあるやん。話し合いやったら、決まったとか決まってへんとかあるやろ。何もないまま終わることあんの?」
「俺に聞くなって」
「お前二個上やろ」
「二十三なったら天龍会のこと全部分かるようになると思ってんのか」
「ならへんの?」
「なるか」
龍司は少し考えた。
「ほな二十五ぐらい?」
「年齢の問題ちゃうねん」
相沢が呆れた顔をする。
二人は角を曲がり、神楽町へ戻っていった。境目から離れるにつれて、パチンコ屋から漏れる音楽やトラックのエンジン音、店先で客を呼ぶ声がまた大きくなる。数本向こうで何があったかなど関係ないように、街はいつも通り動いていた。
事務所へ戻ると、水谷恭平が電話をしていた。柴崎はソファに座って新聞を広げ、寺島昭夫は奥の机で何かを書いている。
「戻りました」
「おう」
柴崎が新聞越しに返事をする。
龍司は買ってきた煙草を机へ置き、領収書と残った金を水谷の机の端へ置いた。電話を終えた水谷がそれを見て、金を数え始める。
「釣り合っとるか?」
「多分」
「多分て何や」
「相沢が見てたから大丈夫や」
「俺に振んな」
「お前も確認せえ」
龍司はその横に立ったまま、少し待った。
「兄貴」
「なんや」
「境目の話、終わったん?」
水谷の手が止まった。
「何でや」
「今日通ったら誰もおらんかったから」
「そら引かせたからな」
「京極も?」
「向こうもや」
「ほな終わったんや」
「まだや」
龍司が眉を寄せる。
「どっちやねん」
柴崎が新聞を少し下げた。
「お前はほんま白黒つけたがるな」
「だって、引いたんやろ?」
「現場からはな」
「ほな終わりやん」
「上が終わってへん」
柴崎はそれだけ言うと、また新聞へ目を戻した。現場には誰もいない。榊組も京極も若い衆を引かせ、揉め事そのものは消えている。それでも上では話が続いているらしい。
「上って、天真会?」
水谷が釣り銭を机へ置いた。
「もっと上や」
「本家?」
「ああ」
「俺が殴ったやつの話、本家まで行ったん?」
「お前の喧嘩が議題になっとるわけちゃう」
水谷が笑った。
「そこまで大物ちゃうわ」
「なんやねん」
「安心したやろ」
「ちょっとな」
「すんな」
柴崎が新聞の向こうから言い、寺島まで奥で笑った。
「ほな何で本家まで行くん」
今度は誰もすぐに答えなかった。水谷は机の上の金を片づけ、領収書を引き出しへ入れる。柴崎も新聞を畳まないまま黙っている。
「何やねん」
「別の話が重なっとんねん」
水谷がようやく言った。
「別の話?」
「お前が今知る必要ない」
「またそれや」
「またそれや」
水谷は平然と返した。
「お前は榊組の若衆や。上の話全部知っとかな仕事できんわけちゃうやろ」
「気になるやん」
「気になるんと、首突っ込むんは別や」
「聞くだけやん」
「お前は聞いたら首突っ込むやろ」
否定しようとして、龍司はやめた。
柴崎が新聞を畳んだ。
「龍司」
「はい」
「今は静かや。それでええ。向こうが引いとる間に、こっちから余計なことすんな。それだけ覚えとけ」
「……はい」
龍司は頷いてソファへ腰を下ろした。納得したわけではないが、柴崎の言うことが間違っていないことぐらいは分かる。少し前なら、相手が消えたと知れば向こうのシマまで見に行っていたかもしれないし、何で引いたのか直接聞けば早いと本気で考えていた。
今はそこまではしない。
しないが、気にはなる。
「兄貴」
「今度は何や」
「本家って、どんなん?」
水谷が龍司を見る。
「何がどんなんや」
「行ったことないから」
「そらお前が行く用事ないからな」
「デカいん?」
「何がや」
「建物」
水谷が一瞬黙り、柴崎が吹き出した。
「お前、今までの話聞いて気になるんそこか」
「知らんもん」
「デカいで」
柴崎が答えた。
「ほんま?」
「ああ」
「榊組の何倍ぐらい?」
「比べんな。悲しなるわ」
寺島まで奥で笑い、龍司もつられて笑った。
結局、その日はそれ以上のことを教えてもらえなかった。境目から人が消えた理由も、本家で何の話が続いているのかも、龍司には分からないままだった。
十二社会という名前も、十二人が要求書をまとめたことも知らない。
ただ、境目の揉め事は終わっていない。
目の前から消えただけだった。




