要求書
五月十日、午後九時過ぎ。
料亭の座敷から笑い声が消えてから、すでに一時間近くが経っていた。城戸源蔵の前に置かれていた白紙には、梶原信成の筆で少しずつ文字が増えている。先ほどまで酒を飲みながら好きに話していた時とは違い、十二人の視線は自然とその一枚へ集まっていた。
口で言うだけなら簡単だった。本家が直参へ口を出しすぎる。上納の負担が重い。人事が本家の中だけで決まりすぎている。いずれ来る五代目選定にも、直参の意見を聞く場所が必要ではないか。
だが、それを紙へ残して本家へ出すとなれば、曖昧な愚痴では済まない。何を変えてほしいのか。どこまで求めるのか。十二人が一つずつ言葉を選ぶ必要があった。
「上納については、負担の見直しと使途の説明を求める。これぐらいでええですか」
梶原が書いた文面を読み上げる。
「弱いやろ」
海老沢豪がすぐに言った。
「見直しやなくて、減額でええがな」
「俺が言いたいんは金額だけちゃう」
梶原は筆を置いた。
「今ここで下げても、何に使われとるか分からんまま二年後また上がったら一緒や。金取るなとは言うてへん。取るんやったら、ある程度は説明せえいう話や」
「本家の財布ん中まで見せろ言うんか」
「何でそうなんねん」
「ほな、どこまで見せろ言うねん」
「せやから今それ決めとるんやろ」
また始まりそうになったところで、城戸が止めた。
「梶原のでええ」
海老沢が城戸を見る。
「減額まで書かんのですか」
「書かん。負担の見直しで意味は通る。最初から金額までこっちで決めたら、要求やのうて命令になる」
「向こうはこっちに命令してきますけどね」
「海老沢」
城戸が名前を呼ぶと、それ以上は続かなかった。
海老沢は不満そうに徳利を取り、残っていた酒を自分の猪口へ注いだ。梶原は文面をもう一度読み直し、余計な言葉を削ってから次へ進んだ。
上納については、負担の見直しと使途の説明。
最初の一つが決まった。
「次、人事やな」
赤松隆一が煙草の灰を落とした。
「本家の役付き決める時に、直参の意見を聞く場を設ける。これぐらいですかね」
「誰を上げるかまで俺らで決めるんは違うやろ」
室井泰造が言った。
「そこまでは言うてませんよ」
「せやったら、それでええんちゃうか」
柏木寛治も頷いた。
「八十人全員で人事決めるんは無理や。けど何も知らんまま決まるんも違う。その間ぐらいでええやろ」
「その『間ぐらい』を文章にすんのが難しいんですわ」
梶原が苦笑すると、何人かが笑った。
口で話している間は簡単だったものが、紙へ落とすたびに形を変える。強く書けば本家への挑戦に見え、弱く書けば十二人で集まった意味がない。梶原が一行書くたびに誰かが口を挟み、城戸が話を戻す。その繰り返しで、紙はなかなか埋まらなかった。
それでも時間を掛ければ、少しずつ十二人の共通するところが見えてくる。
人事については、本家執行部だけで決定するのではなく、直参組長の意見を聞く機会を設けること。
そこまでは大きく揉めなかった。
三つ目の縄張りに入ったところで、再び意見が割れた。
「過度な介入を控える、でええやろ」
城戸が言うと、石渡慎吾が首を振った。
「曖昧すぎません?」
「何がや」
「何が過度なんか、向こうが決めるんでしょう。そんなん今までと変わらんやないですか」
「ほな本家は一切口出すなって書くんか」
「それぐらい書かな伝わらんでしょう」
「無茶言うな」
室井が呆れたように息を吐いた。
「直参同士で収まらん話まで本家は知らん顔せえいうんか。そんなもん組織ちゃうやろ」
「何でも本家に決められるんも組織ちゃいますやろ」
「何でも言うてへん」
「今はな」
石渡の声が少し強くなった。
城戸は二人をしばらく見てから、卓上を指で軽く叩いた。
「本家が入るなとは書かん」
石渡が何か言おうとしたが、城戸はそのまま続けた。
「揉め事止めるんも本家の仕事や。せやけど、当事者同士で話もしてへんうちから結論だけ降ろすんは控えてくれ。俺らが言いたいんはそこやろ」
梶原が筆先を紙へ戻す。
「直参各組の縄張り及び利害に関する問題については、当事者間の協議を尊重し、本家による過度な介入を――」
「長い」
海老沢が言った。
「文章にしたらこうなるんや!」
梶原が珍しく声を荒らげ、座敷に笑いが起きた。
「もう海老沢は黙っとけ」
城戸まで笑っている。
「俺だけ扱い酷ないですか」
「お前が一番横から言うからや」
海老沢は納得いかない顔をしながらも煙草へ火を点け、それ以上は口を挟まなかった。
夜が深くなるにつれ、仲居が下げる皿の数も増えていった。新しい酒を頼む者はもう少ない。十二人の前に残っているのは灰皿と湯呑み、それに梶原が何度も書き直した紙だった。
三つの項目が形になったところで、梶原の筆が止まった。
「最後、どうします」
何のことかは全員が分かっていた。
五代目選定。
それまで煙草を吸っていた室井が、灰皿へゆっくりと煙草を押しつけた。
「俺は、やっぱり外した方がええと思う」
「まだ言うとんのか」
石渡がすぐに反応する。
「当たり前や。國枝会長が健在のうちに出す文書やぞ。受け取る側がどう見るかぐらい考えなあかん」
「誰を五代目にせえなんか書かへんやろ」
「そういう問題ちゃう。跡目に口出しますいう意思表示になるんや」
「口出したらあかんのですか」
「言い方の話しとるんや」
室井は石渡から城戸へ視線を移した。
「城戸さん。上納も人事もシマも分かる。俺も言いたいことある。せやけど、これだけは別やと思う」
城戸はすぐには答えなかった。
四代目國枝重政は健在であり、若頭には武藤和正がいる。組織内では武藤が次を継ぐものと見る者が多く、城戸自身もそれを否定するために十二人を集めたわけではない。
それでも、五代目の決め方という問題を避ければ、今夜ここまで話してきた意味が一つ欠ける。
「梶原」
「はい」
「どう書いた」
梶原は下書きへ目を落とした。
「将来の会長選定に際しては、本家執行部のみで決定せず、直参組長会の意見を反映させること」
室井の表情が険しくなる。
「強いな」
「俺もそう思います」
梶原自身が認めた。
「けど弱めすぎたら、何を求めとるんか分からんようになります」
「それでええやろ」
石渡が言った。
「誰を五代目にせえとも、武藤のカシラがあかんとも書いてへん。ただ俺らの意見も聞け。それだけや」
その言葉に、城戸が石渡を見た。
「今言うたこと、忘れんなよ」
「何がです」
「誰があかんいう話やない」
城戸の声から笑みが消えていた。
「ここに武藤を降ろしたい奴がおるんやったら、今言え」
誰も口を開かなかった。
海老沢も、石渡も黙っている。
「國枝会長をどうこうしたい奴は?」
同じだった。
城戸は十二人を見渡した。
「ほな、そこ間違えんな。俺らが求めるんは仕組みを変えることや。誰かを引きずり下ろすためちゃう」
室井はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……その線を崩さんのやったら、俺はええ」
城戸が頷いた。
「崩さん」
梶原が最後の一項を書き加えた。
上納。
人事。
縄張り。
そして、将来の五代目選定への直参組長会の関与。
十二人が抱えていたものが、四つの要求として一枚の紙に並んだ。
梶原が筆を置く。
「これで全部です」
紙が城戸の前へ回された。
城戸は上から一行ずつ読み返した。何度も書き直した跡が残り、決して綺麗な下書きではない。それでも四月三十日に初めて十二人が顔を揃えた時には形すらなかったものが、今は文字になって目の前にある。
「清書は明日やな」
城戸が言った。
「本家へは誰が持って行くんです?」
古賀慎二が尋ねた。
「俺のとこから出す」
「城戸さんの名前で?」
「十二人の連名や」
その答えに、古賀が頷いた。
連名。
それは誰か一人の意見として逃げないということでもあった。
海老沢が猪口を置いた。
「城戸さん」
「なんや」
「向こうが蹴ったら、どうします」
座敷が静かになった。
先ほどまでとは違う沈黙だった。
城戸は海老沢を見る。
「その時に考える」
「またそれですか」
「今決めることちゃう」
「俺は決めといた方がええ思いますけどね」
海老沢の目から笑みが消えていた。
「こっちが十二人の名前並べて紙出す。向こうが読んで、全部あかんで終わり。それでもまた話しましょうでは、何のためにここまでやったんか分からんでしょう」
石渡が何も言わず頷いた。
片岡も海老沢を止めなかった。
城戸は三人の顔を順に見た。
「もう一回言うとくぞ」
低い声が座敷を通った。
「喧嘩するためやない」
海老沢は城戸から目を逸らさない。
「俺らは天龍を出たいんやない。天龍の中で、変えるべきところを変えたい。それを本家に言うための紙や」
城戸はそこで一度言葉を切った。
「最初から蹴られた後の喧嘩まで決めるんやったら、要求書やない。最後通牒や」
誰も口を挟まなかった。
「俺はそんなん出す気ないで」
「……分かりましたよ」
海老沢はそう答えたが、納得した顔ではなかった。
石渡も同じだった。
城戸にはそれで十分だった。十二人全員の考えを同じにすることなど、最初からできるとは思っていない。ただ、この一枚を出す間だけは同じ場所に立つ。それができなければ、本家へ何を求めても意味がなかった。
城戸はもう一度、紙へ目を落とした。
まだ清書もされていない。
本家の誰も、この紙の存在を知らない。
それでも、十二人が酒席で口にしていた不満は、今夜初めて要求という形を持った。
「これでいこ」
城戸が言った。
梶原が下書きを受け取り、折れないよう書類入れへ収める。
五月十日の夜。
十二社会は、四代目天龍会本家へ正式な要求書を提出することを決めた。




