連休
五月四日。
神楽町は朝から人が多かった。
普段なら仕事へ向かう男たちが足早に抜けていく商店街にも、今日は親子連れや若い男女の姿が目立つ。軒先に小さな日の丸を出している店もあり、どこからか子供の笑い声が聞こえていた。
世間は連休だった。
それでも榊組の事務所はいつも通り開いている。組員全員が揃っているわけではないが、誰もいない日を作ることはない。電話が鳴れば取る人間が必要で、誰かが訪ねてくれば応対する人間もいる。
龍司にとっては、それが普通だった。
旅行へ行った記憶もほとんどない。子供の頃から連休だからといって特別な予定があったわけでもなく、榊に拾われてからはなおさらだった。
その日も朝から水谷に買い出しを頼まれ、煙草や茶菓子の入った紙袋を両手に抱えて神楽町を歩いていた。
「龍ちゃん」
商店街の食堂の前を通ると、女将に呼び止められた。
「何?」
「ちょっと手ぇ貸して」
店の奥にはビールケースが積まれていた。
龍司は嫌そうな顔をしたものの、結局は紙袋を店先に置いて二ケースを裏まで運んだ。
神楽町ではよくあることだった。
榊組の若衆であろうが、近所の人間にとって龍司は昔から知っている「龍ちゃん」でしかない。重たい物があれば呼ばれ、酔っ払いが店先で寝ていれば起こしてくれと頼まれ、子供が路地で喧嘩していれば止めろと言われる。
極道として扱われていないような気もするが、龍司自身も本気で嫌がってはいなかった。
仕事を終えると、女将が冷えたラムネを一本くれた。
「子供ちゃうぞ」
「ほな返し」
「飲むわ」
栓を抜いて店先に腰を下ろす。
目の前を小さな男の子が駆け抜け、その後ろを母親が追いかけていった。少し離れた店からはラジオの音が聞こえ、商店街の入口では知らない家族が記念写真を撮っている。
何も珍しくない休日だった。
「龍ちゃんはどっか行かへんの?」
女将に聞かれ、龍司は首を振った。
「行くとこない」
「旅行とかしたらええやん」
「何しに?」
「温泉入ったり、美味しいもん食べたり」
「ここにも風呂屋あるし飯屋あるやん」
女将は呆れた顔をした。
「一生神楽町から出られへんで」
「別にええけど」
龍司はそう答えて、残ったラムネを飲み干した。
冗談でも強がりでもなかった。
今の龍司にとって、神楽町の外へ出たいと思う理由は特になかった。
事務所へ戻ると、寺島が競馬新聞を広げていた。
柴崎は窓際で煙草を吸い、水谷は電話の横で帳面を確認している。相沢はソファに座り、暇そうに雑誌をめくっていた。
連休らしさなど欠片もない。
龍司が買ってきた物を机へ置き、自分もソファへ座る。
四月三十日に十二人の直参が集まったという話を聞いてから、四日が経っていた。
何か起きるのではないか。
最初は龍司もそう思っていた。
だが、何も起きなかった。
京極組との境目は静かなままだった。あの場所で商売をしていた男たちも戻ってこず、榊組から様子を見に行くこともない。天真会から新しい指示が来た様子もなく、榊も水谷も十二人について話そうとはしなかった。
龍司が何度か聞いても、返ってくるのは「まだ何も分からん」の一言だけだった。
分からないなら動かない。
五月一日に榊から言われた「引け」という言葉が、そのまま組全体の空気になっているようだった。
龍司には、まだその感覚が完全には理解できない。
喧嘩なら相手がいる。
殴られれば殴り返せるし、目の前に敵がいれば何をすればいいのか分かる。
だが今回は違った。
十二人が集まった。
それだけだった。
誰かが榊組に何かをしてきたわけでもなければ、天真会に喧嘩を売ったわけでもない。それなのに榊たちは気にしている。
何も起きていないことを、気にしている。
龍司にはそちらの方が難しかった。
「兄貴」
帳面を見ていた水谷が顔を上げる。
「なんや」
「十二人、まだ何もないん?」
「ああ」
「ほんまに集まっただけなんかな」
水谷は少しだけ考えてから帳面を閉じた。
「それが分からんから待ってんねん」
「いつまで?」
「分かるまでや」
龍司はそれ以上聞かなかった。
少し前なら、分からないことほど答えを欲しがっていた。
今も気にはなる。
ただ、分からないまま置いておくこともあるらしい。
その程度のことは、少しずつ分かり始めていた。
昼を過ぎた頃、榊が事務所へ顔を出した。
特別な話はなかった。
水谷から何枚か書類を受け取り、寺島の競馬新聞を覗き込み、柴崎の煙草を一本勝手に抜いた。
龍司が何か用事はないのかと聞くと、「暇やったら掃除せえ」と返された。
結局、相沢と二人で事務所の裏を片付けることになった。
古い雑誌や空き瓶をまとめ、使わなくなった椅子を倉庫へ運ぶ。途中からどちらが多く運ぶかで言い合いになり、柴崎にうるさいと怒鳴られた。
そんなことをしているうちに午後が過ぎた。
夕方には寺島の使いで近所の銭湯へ行った。
帰り道、路地に集まっていた子供たちに呼び止められた。遊んでいたゴムボールが商店の庇に乗ったらしい。
「龍ちゃん、取って!」
「自分で取れや」
「届かへんもん!」
龍司が見上げる。
確かに子供では届かない。
店から脚立を借り、庇に乗ったボールを取ってやると、子供たちは礼を言いながらすぐに走っていった。
隣で見ていた相沢が笑っている。
「何笑ってんねん」
「いや。極道も大変やな思って」
「どこがやねん」
脚立を店へ返し、二人は再び歩き出した。
夕方の神楽町には、飯を作る匂いが漂い始めている。
商店が一軒ずつ明かりを灯し、銭湯の煙突から白い煙が上がる。昼間より人通りは減ったが、居酒屋からは早くも笑い声が漏れていた。
四月の終わりに街の境目で起きた揉め事も。
京極組という名前も。
十二人の直参が集まったという話も。
龍司の目の前にある神楽町を変えることはなかった。
少なくとも、今のところは。
五月四日。
連休の神楽町は、いつもより少しだけ賑やかで、いつもと変わらず平和だった。




