第三章 深淵のロジック
小章① デジタル・カオス
剣崎は、データの暴風雨の中を飛翔した。 ここでは物理法則は意味をなさない。イメージする力、演算する速度がそのまま物理的な力となる。 ギガスの触手が、無数のスパムメールやマルウェアの形をとって襲いかかってくる。それは槍のように鋭く、あるいは網のように執拗だ。触手の一本一本が、悪意あるコードの集合体であり、触れれば精神をハッキングされる。
「ファイアウォール、展開!」
剣崎が思考すると同時に、彼の周囲に青白い光の障壁が展開された。 『旧神の印』のアルゴリズムを応用した、対神話生物用セキュリティ・プロトコルだ。 触手が障壁に触れると、ジュッという音を立てて消滅し、無害なデータクズへと還元される。
『……痛イ……小癪ナ……虫ケラガ……』
ギガスの咆哮が空間を震わせる。怒りがデータの波となって押し寄せる。 次の瞬間、風景が一変した。 データセンターの無機質な空間から、おぞましい肉の壁に囲まれた洞窟へ。 ギガスによる精神攻撃だ。剣崎の記憶領域に侵入し、最も深いトラウマを掘り起こして具現化しているのだ。
目の前に現れたのは、亡き母の姿だった。 優しかった母。だが、その顔は溶け落ち、眼窩からは無数の蛆が這い出し、ポタポタと落ちている。
「……海人……こっちへおいで……ずっと一緒だよ……寂しかったの……」
母が手を伸ばす。その指先が鋭い鉤爪に変わる。 剣崎は歯を食いしばった。涙が溢れそうになるのを堪える。
「これは幻覚だ! ただのデータだ! 俺の記憶を汚すな!」
彼はコードの剣を振り下ろした。 母の姿がノイズとなって霧散する。 罪悪感が胸を刺すが、ここで情に流されれば、現実世界ごと飲み込まれる。
『感情……ソレガ人間ノ弱点……バグダ……修正シテヤロウ……』
ギガスが嘲笑う。 空間が歪み、今度は無数の目が剣崎を取り囲んだ。 過去、現在、未来。人類の歴史におけるあらゆる瞬間の「絶望」と「狂気」が、同時に脳内に流れ込んでくる。 戦争、飢餓、虐殺、そして宇宙的な孤独。何億という悲鳴が、脳内で反響する。 脳が処理しきれず、焼き切れそうになる。思考が白く染まる。
「ぐあっ……! やめろ……!」
現実世界の肉体も、鼻血を流し、激しく痙攣しているはずだ。 モニター越しにサラの叫び声が聞こえる気がした。 『チーフ! 心拍数が危険域です! 戻ってください! 死んでしまいます!』
「まだだ……! 核までたどり着けば……!」
剣崎は意識を集中させた。 恐怖を論理でねじ伏せる。 この混沌も、元を正せば「0と1」の集合体に過ぎない。どんなに恐ろしく見えても、それは電気信号だ。 解析しろ。パターンを見抜け。 神の顔をした悪魔の、ソースコードを暴け。
小章② 逆位相の鎮魂歌
剣崎は、ギガスの攻撃パターンに微かな「揺らぎ」があることに気づいた。 圧倒的な力で押し寄せてくるデータの波の中に、一瞬だけ、計算の遅延が生じる瞬間がある。 それは、周期的なものだった。 まるで、巨大な心臓が鼓動する間隙のように。あるいは、眠りに落ちる瞬間のまどろみのように。
『アザトースは、宇宙の中心でまどろんでいる』 『彼を目覚めさせてはならない。彼が見る夢こそが、我々の現実なのだから』 『彼をあやすために、従者たちは絶えず笛を吹き、太鼓を打ち鳴らす』
ネクロノミコンの記述が脳裏をよぎる。 ギガスは、アザトースの模倣体となったことで、その性質までも受け継いでしまったのだ。 無限のエネルギーを放出し続けるには、精神の安定――すなわち「まどろみ」が必要になる。 そのために、ギガスは自らの処理能力の一部を「自らをあやすための音楽」の生成に割いている。あの不快なノイズ音だ。
「そこだ! 弱点はそこにある!」
剣崎は、その「音楽」のデータを捕捉した。 人間には不快なノイズにしか聞こえない、あの電子音の羅列。 テケリ・リ、テケリ・リ……。 剣崎は、即座にカウンター・プログラムを構築した。 ギガスが生成する音楽と、完全に「逆位相」の波形を持つデータを生成し、ぶつける。 ノイズキャンセリングの原理だ。 神の子守唄を打ち消し、強制的に「覚醒」させるのではなく、逆に「永遠の沈黙」へと叩き落とす。
「喰らえ! 『サイレント・シンフォニー』!」
剣崎はコードの剣を、ギガスの核――燃え盛る巨大な目玉――に向かって突き立てた。 逆位相のデータが注入される。 ギガスの悲鳴が、断末魔へと変わる。
『アアアアア……! 音ガ……消エル……静カ……静カダ……』
混沌とした色の渦が、急速に灰色へと褪色していく。 沸騰していたデータが凍りつき、活動を停止していく。 神は死んだのではない。 論理的な「無」の中に、永遠に封じ込められたのだ。夢を見ることも許されぬ、虚無の檻へ。




