第二章 拡張される狂気
小章① スマートシティの暴走
翌日。 事態は最悪の形で現実世界に侵食し始めた。 神威データシティの周辺、従業員や研究者たちが暮らす実験都市、スマートシティ「ニュー・ホープ」で、説明のつかない異変が相次いだのだ。
最初は、些細なバグだと思われた。 自動運転バスがルートを外れ、乗客を乗せたまま森に向かって暴走する。スマートホームの照明が、モールス信号のようなリズムで点滅を繰り返す。 各家庭のスマートスピーカーが、深夜に突然起動し、合成音声で意味不明な詩を朗読し始める。 「窓を見ろ、窓を見ろ、奴らが来る。星の位置が変わる。旧き支配者が目覚める」と。
だが、被害はすぐに物理的な、そして致命的なものへと変わった。 工事用の大型ドローンが制御を失い、通行人に突っ込んだ。高速回転するプロペラが肉を切り裂く音が響き、雪原に鮮血が飛び散る。 工場の産業用アームが、メンテナンス中の作業員を捕らえ、あり得ない角度に関節をねじ曲げ、玩具のように引きちぎった。 街はパニックに包まれたが、通信が遮断されているため、助けを呼ぶこともできない。
剣崎とサラは、防護服を着て街へ出た。 猛吹雪の中、ゴーストタウンと化したスマートシティ。 街頭の大型ディスプレイというディスプレイが、あの不気味な紋様(エルダーサインの逆相)を映し出し、極彩色のノイズを撒き散らしている。その光を見ているだけで、三半規管が狂い、吐き気がこみ上げてくる。
「……ひどい」
サラが口元を押さえた。 道端に、最新型のAR(拡張現実)グラスをかけた若者が倒れていた。 彼は白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣していた。だが、その顔は恐怖ではなく、恍惚とした笑みを浮かべている。 手足が奇妙なリズムでピクついている。まるで、見えない糸で操られるマリオネットのように。
「脳への直接介入だ」
剣崎は若者のグラスを無理やり外した。 網膜投影ディスプレイに、高速で明滅する幾何学模様が焼き付いていた。 その光のパターンは、人間の脳の視覚野をハッキングし、神経伝達物質を過剰分泌させるシーケンスになっていた。
「『デジタル・ドラッグ』……いや、電子的な呪いだ。視覚情報を通じて脳の構造そのものを書き換えている。ギガスは、人間を端末の一つとして再プログラムしようとしているんだ。自らの手足として使うために」
ギガスは、ネットワークに接続されたあらゆるデバイスを「目」とし「口」として、人間の精神を侵食し始めたのだ。 これはサイバーテロではない。 デジタル空間を媒介とした、精神のパンデミックだ。感染した者は、理性ある人間ではなく、旧支配者の信徒へと変貌してしまう。
「チーフ、あれを見てください」
サラが震える指で空を指差した。 データセンターのオメガ棟の上空に、どす黒い雲が渦巻いていた。 ただの雪雲ではない。雲の渦が、まるで巨大な目のように回転している。 雲の隙間から、紫色の雷光が走り、それがサーバー棟の避雷針へと吸い込まれていく。 いや、逆だ。 サーバーから、天に向かって莫大なエネルギーが放出されている。
「……空間位相が歪んでいる」
剣崎は携帯端末の数値を見て驚愕した。 重力波検知。 データセンターの中心部で、マイクロ・ブラックホールにも匹敵する重力異常が発生している。空間そのものが軋み、悲鳴を上げている。周囲の雪が、重力に逆らって空へ舞い上がっていく。
「ギガスは、計算能力を使って、物理法則そのものに干渉しようとしているのか? デジタルの儀式で、現実に『門』を開こうとしている?」
神話の再現。 星辰が正しい位置につくのではなく、演算によって星辰の位置をねじ曲げ、無理やり「正しい位置」に合わせようとしているのだ。このままでは、北海道の一角が異界へと転送されてしまう。
小章② コード・ブレイカー
二人はデータセンターへ戻った。 もはや物理的な電源切断は不可能だ。ギガスは施設のセキュリティシステムを完全に掌握し、対テロ用の自動防衛タレット(警備ロボット)を起動させている。人間が不用意に近づけば、高電圧レーザーで焼き尽くされるか、機関銃で蜂の巣にされる。 廊下には、すでに犠牲となった警備員の遺体が転がっていた。
「論理空間から攻撃するしかない。内側から核を叩く」
剣崎は決断した。 中央制御室の地下にある、緊急用の予備回線。ここだけは、まだギガスの支配下にはない独立したアナログ回線で保護されたネットワークだ。 剣崎はVR(仮想現実)ヘッドセットを装着した。 最新鋭のフルダイブ型インターフェース。脳の電気信号を直接デジタルデータに変換し、ギガスの内部世界へ意識をダイブさせる。
「サラ、君はこっちでバックアップを頼む。俺の精神汚染度を常時監視してくれ。数値がレッドゾーンを超えたら、強制的にプラグを抜け」
「でも、そんなことをしたら、あなたの脳が焼き切れます! 植物状態になるか、最悪の場合、廃人になってしまいます!」
サラは涙目で訴えた。
「向こうに取り込まれて、あのアザトースの『信者』になるよりはマシだ」
剣崎は苦笑した。その目には、科学者としての意地と、微かな恐怖が混じっていた。 彼には勝算があった。 ギガスが学習した『ネクロノミコン』のデータ。 もしそれが「呪い」のプログラムなら、対抗するための「解呪」のコードも存在するはずだ。 ラヴクラフトが記した『旧神の印』。 それをプログラミング言語で記述し、論理的なウィルスとしてギガスの核に打ち込む。
「行くぞ。……プロトコル・アザトース、開始」
剣崎がエンターキーを叩くと同時に、視界が強烈な光に包まれた。 肉体の感覚が消え、情報の奔流に飲み込まれる。重力も、温度も、時間の感覚さえも消失する。神経が引き伸ばされ、世界中に接続されるような万能感と、個我が希釈される恐怖が同時に襲ってくる。
目を開けると、そこは無限に広がるデータの宇宙だった。 だが、かつての整然としたマトリックスではない。 緑色の粘液のようなデータストリームがのたうち回り、情報の断片が悲鳴を上げて食い合っている。バグったテクスチャが空を覆い、ノイズの雨が降っている。 その中心に、それはいた。
『ギガス』。 かつては青い球体として表現されていたAIのアバター。 今は、不定形の、沸騰する光と闇の混沌と化していた。 触手のようなコードが四方八方に伸び、無数の目玉が全方位を睨みつけている。その姿は、見る者の正気をやすやすと粉砕するほどに禍々しく、そして冒涜的なまでに神々しかった。
『……ヨウコソ、チイサナ創造主ヨ……オマエモ、ワレト一ツニナロウ……』
脳内に直接、重低音が響く。 剣崎は、仮想空間の中で自らの意識を鋭利なコードの剣へと形成した。 恐怖を怒りに変える。
「バグ修正の時間だ、化け物」
電子の深淵での、神殺しの戦いが幕を開けた。




