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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
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持たざる者

我ながら超展開だなと思います


エイカー正体や目的がなんであれ、それは自分たちと同じ次元に存在する物事であるとアノスは考えていた。

死骸の力にどんな秘密があろうと、それを利用しようと画策しているのはあくまで人間であると。


「……お前は、なんだ」


 エイカーの肉体から引きはがれるように大地に立った鎧の大男は兜に隠された顔をアノスへと向ける。

兜の隙間から見える紫紺の眼光は、明らかに人間の瞳ではなかった。


「神に問いを投げるか、愚か者よ」


 その態度はヒゲワシとも、先ほどまでのエイカーとも違う。

人間として溶け込み、人間と同等の精神を宿していたあの二人と、神を名乗る眼前の男は同一にして、異なっている。

目線が違う、格が違う、命ある者としての存在の密度が他の生物と一線を画している。


 神の眼は大剣だった。そのものに殺意がなくとも、差し向けられれば恐怖を覚え、突き立てられれば命を断たれる。

実際、たった一瞬目を合わせただけでアノスの精神は焼き切れる寸前だった。


「……だが許そう、新たな我が手足よ。新世界を統べる者として、卿は親を知らねばならん」


 視線を外され、アノスは無意識に自分が呼吸を止めていたことに気がつく。

たった一瞬の硬直が全身に強い倦怠感をもたらしていた。


「我が名はエルシャディ。遥か過去より世界を創り、世の理を敷いた創世の魔神である」


 本部の一部が倒壊していく様子を遠巻きに眺めながらエルシャディはアノスの問いに答える。

紫紺に揺らぐその目に嘘はない。驕りもなく、見栄もなく、ただ純然たる事実として彼は神を名乗っていた。


「……魔、神」


 神。エリヤを失ってから何度も恨んだ天上の存在。

空を見上げ、そのたびに憎しみをぶつけていた存在が目の前に立っている。

その事実に神威に呑まれていたアノスの意志が徐々に蘇っていく。


「お前が……すべての元凶……」


 人間を信徒と逆徒に二分し、力の優劣を決め、対立を促すことで数ある悲劇の基盤を創った存在。

逆徒が多くの理不尽に晒されることとなった発端。

過去を過去と割り切り、未来へと目を向けたはずのアノスも冷静ではいられない。


「卿の恨みは理解に難くないが、それを私に向けるのは筋違いというものだ」

「……なに?」


 視線に気がついたのか、エルシャディはいまだ続く騎士たちの戦いを無感情に見つめながら口を開く。

ヒゲワシ一人の無力化はままならず、本部の崩壊は徐々に広がっていた。


「私は総てを創った。知を成し、大地を生み、手足となる人間を形成した。

世界を広げ、統べる使命を果たすため、抜かりはなかったはずだった」


 過去を回想するようにエルシャディは空を見上げる。

地上の混乱など意に介さないように広がる青空。

それを断ち割るように、巨大な黒煙が本部から立ち昇っていた。


「……空が落ち、天が割れたあの日、私は初めて反逆というものを知った」


 自分の力によって生み出されたものは例外なく己の一部であると、かつてエルシャディは考えていた。

足元に広がる大地も、青々と茂る木々も、繁栄を与えた人間も、

すべては神と意志を同じくするものだと疑っていなかった。


「バアル・シェム。私を殺し、魔神と成り代わった男。

逆徒などという概念を世に振りまいたのは奴だ」


 かつて、ただ一人神と同等の力を与えられた青年。

それまで隣り合う者がいなかったエルシャディにとって、バアルは最も近しく、最も強い信頼を寄せる人物だった。

そんな人間に魔神は裏切られ、亡骸は新たに創られた大地の下敷きとなった。


「一度死に、力の大半を失った私は永い年月をかけ大地を掘り続けた。

辿り着いた地上でこの男の体を奪い、見渡した世界の姿に唖然としたのを覚えているとも」


 本物のエイカーは遥か昔にその意識を神に乗っ取られ、ハダルたちと築いた友情も、とうに失われていた。

そばに転がる彼の体を踏みつけながらエルシャディは呟く。

その声から人間らしい感情を読みとることはできない。

しかし、物言わぬエイカーの肉体に対するその行いには、確かな怒りが宿っていた。


「こやつらに逆徒と呼ばれ虐げられていたのは、私という力の源を失った者たちの末裔だ」


 かつての人間たちはバアルを除き、魔神の光輝を媒介として頂上たる力を使用していた。

ゆえに源泉たるエルシャディが死亡し力を失ったことで、同時に多くの民が無能力者に堕ちることとなった。


「神となったバアルは私を真似、自らの削り滓を与えた人類を生み出し、力を失った我が手足と交配させた」


 バアルを起源とするバイソレッドを持つ新人類と、エルシャディという源を失った旧人類。

二つの種が交わった結果、後の世に生まれ始めたのは、

バイソレッドと無能力者、二つの可能性を合わせ持った人間たちであった。


 バイスを持った親から無能力者が生まれ、また無能力者の親からバイスを持つ子が生まれることもあった。

力の有無を決めるのは信仰心などではなく、完全なる偶然。

ゆえに優劣など存在するはずもなかった。 信徒と逆徒の二分が告げられるその時までは。


「バアルは私の力を受け継ぐ者の存在を認められなかったのだろう。

所詮は偽神よ。力があろうと、その精神は稚拙に尽きる」


 アノスがそこまで口を挟まずにいたのは、話の規模が既に理解の外側にあったからだった。

神の実在だけでも信じがたいというのに、矢継ぎ早に告げられる二つの真実はアノスの思考を容赦なく掻き乱す。

今までの人生の中で知りえてきた常識総てを、まさしく神によって覆され、彼の頭は最早限界だった。


「……御託はいい」


 ゆえに魔神に告げる。まわりくどく彼の過去を聞かされても今を生きる者には到底理解しきれない。

アノスが知りたいのはそのような世界の移り変わりではなく、非常に単純なものだった。


「……お前の過去に興味などない。初めの問いに答えろ。

なぜ私につきまとう。後進を導く英雄とはなんだ」


 結局のところアノスの疑問はそこに尽きる。

なぜ数ある逆徒の一人であったはずの己に死骸の力が宿り、遥か昔に座を奪われた神につけ狙われることになったのか。


 話を中断させられたエルシャディは苛立った様子もなく、

今度は眼下に広がった王都を、その先に広がる世界全体を眺める。

彼がアノスに目をつけたのは、必ずなさねばならない目的があったからだった。


「私は、再び神に返り咲くことで、我が手足の末裔に力を与えたいと思う」


 ヒゲワシが言っていた逆徒の救い。

その本質はエルシャディ自身が魔力の源泉として復活し、逆徒にかつての力を宿し直す試みだった。


「立派なことだ。だが、なぜ私が必要になる。お前が力の源ならば、私の手など必要ないだろう」


 神に返り咲く方法も、逆徒に力を与える方法もアノスは知らない。

そのどちらにも自分の力が必要になることがあるようには思えなかった。

しかし、エルシャディは小さく首を振る。


「……卿は、私という神の復活を象徴する存在なのだ」


 その言葉と共にエルシャディの右腕から赤黒い物体を流れ出させる。

それはアノスや、いま本部で戦いを繰り広げているヒゲワシと同じ、死骸の塊だった。


「私が意図的にこの力を卿に与えたと思っているようだが、それは間違いだ」

「なんだと?」


 生み出した死骸を手のひらで弄びながら、エルシャディは教え子に説くような固い口調で語る。

数多の逆徒の中からなぜアノスがこの力を得たのかを。


「先に述べたように、私は力の大半を失った。それは時がたった今も変わっていない」


 ソラハやボラルを存在の圧だけで屈服させ、多くの修羅場を乗り越えてきたアノスでさえ彼と目を合わせることができない。

それでも全盛には程遠い力だった。

ただの人間に過ぎないアノスがこうして対話を試みられるのがその証。


「魔の源泉としての力も例外ではない。

この身から絶えず流れ出ていた魔力は、今や霞の如き極小のものでしかない。

ゆえに力を持たぬ手足がこれだけ世に溢れている」


 かつてのように力を与えられる状態にあるなら、エルシャディはとうの昔に逆徒たちの救世主として名を馳せていただろう。

しかし現実は違う。神が地上に帰還した後も、極めて弱い魔の波を受け取れる者は長き間現れなかった。


「そんな時、卿を見つけたのだ」


 霞の如き魔力の波に反応し、力を発現させた少年。

涙を流しながら慟哭する彼の背からは、確かに神の力が溢れていた。


「我が力を持つ手足をようやく見つけたあの日、私がどれだけ歓喜したか。

人の肉体は不便なことこの上なかったが、あの喜びだけは例外であった」


 一人きりだった世界に、突如現れた一筋の光。

正しき力を受けついだ子どもを見出したエルシャディはある決断をした。

それは同時にアノスの受難を加速させることになる。


「私の力は信仰の力だ。私を信じるものがいなくては、いくら時を待とうとも全盛の力は戻らない。

私は卿の存在こそ、信仰を取り戻す要となると考えた」


 この国がいくら信心深い者で溢れようと、その信仰心が向けられるのはエルシャディを裏切ったバアルである。

真なる神が力を取り戻すには、一から新たに信じる者を育て上げねばならならない。

アノスは力を受け継いだ者として、逆徒たちに真なる神の存在を説いて回る異端者となることを期待されていた。


「つまりお前は、私に宣教師の真似事をさせたかったというのか」


 あまりにくだらない事実を耳にし、アノスは吐き捨てるように呟く。

長く彼を取り巻いていた神の目的は、結局のところ自分に都合のいい太鼓持ちを作りだすことだった。


「神を嫌う卿の信用を得るため、私は都にヒゲワシを置き、

その目を通しながら卿がなにに執着しているのかを観察してきた。

その末に出てきた名前には驚かされたとも」


 アノスが最も執着を持っていたエリヤは、奇しくも奪った肉体の友人でもあった。

その偶然の繋がりに驚きつつも、当時のエルシャディはこの関係を利用する手を考えつく。


「ハダルに持ち掛けられたエリヤ殺しの調査。

エイカー・ヴォゲッドを演じるため、もとより受けざるを得ない話だったが、卿の信用を得る手段になりえるとも思ったのだ」


 エリヤの死の真相を探っていると持ち掛ければ、必ず接触に応じる。

エルシャディの考えは実際その通りとなり、アノスは二人の騎士の協力者として行動することになった。


「だが、一つ誤算があった」


 エルシャディがアノスを自分の仲間として引き込もうと考えたのは、

前提として、彼が孤独を抱えていると考えていたからだ。

ヒゲワシの目を通し見てきたアノスは確かに孤独で、真に信頼できるものなどいないように思えた。

身近にいたのは逆徒を嫌う家主の女と犬が一匹だけ。

エリヤの情報と、神への嫌悪感を匂わせれば簡単に懐柔できると高を括っていた。

あの少女が現れるまでは。


「あの女は卿の中であまりに大きな繋がりになってしまった。

協力を持ち掛けたトラフを長く放置するわけにもいかず、計画は続行したが、

思えばそれが間違いだったのかもしれん」


 エリヤを知る騎士エイカーとして、アノスとの接触を果たす計画の第一段階。

その遂行を直前にして彼はソラハと出会ってしまった。

その時点で、アノスはエルシャディが考えていたような孤独から解放され、その結果が現状だった。


「それから何度か孤独へ誘っては見たが、卿が言うようにすべて失敗に終わった。

まさか犬の鼻で正体露見するとは、予想もつかん」


 計画の失敗を語っているにも関わらず、エルシャディは相変わらず無感情な声色のまま都を見下ろしている。

この神にとって、王都はどのように見えているのだろうか。

いつの間にか本部での戦いは収束していた。

建物のほとんどが壊滅し、いまだ火の手は広がり続けているが、ヒゲワシを倒すことはできたのだろう。


「削り滓ども、なかなかどうして、やるではないか。あの肉体で出せる全力だったのだがな」


 そう、これが神の全力だった。騎士たちを大量に殺し、本部を壊滅に追いやることしかできない。

魔神として降臨し、世界を創造したかつての力はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。


「私と逆徒と呼ばれた者たちは一心同体なのだ。

私の悲劇が彼らの悲劇であり、彼らの救いが私にとっての救いでもある」


 見下ろす先の王都には多くの逆徒たちが暮らしている。無能力であるがゆえに蔑まれ

虐げられる彼らを魔神は憂いていた。

力を戻し、かつてと同じように彼らに繁栄を授けなければならない。

その想いは世界を創造する神の根幹をなす本能だった。


「アノス。我が力を受け継ぎし愛し子よ。

卿は私だ。私の一部として世界のために使命を成す義務がある」


 振り返ったエルシャディは再び大剣が如き視線を向ける。

紫紺の瞳に宿る神威は健在であり、それまで体勢を保っていたアノスもついに膝をついた。

懐柔するための策略が失敗した今、神に残されているのは実力による協力強制。

もはやなりふり構ってはいられなかった。


「今ならば、家族と共に生きる未来も許そう。

力を取り戻した暁には、神に尽力した英雄として永久の栄光を与えてやる。

なにを考えずともよい。すべては決められたことだ」


 向けられた重圧は後ろの二人も巻き込みながらアノスへと襲い掛かる。

全身を内側から押しつぶす極大な覇気は人間の精神を蝕み正常な判断を奪い去る。

個人の意思に意味はなく、神の言葉ことが絶対であると頭に刻むように、エルシャディは持ちうる全力をもってアノスを屈服しにかかっていた。


「……なぜ、初めからこうしなかった」


 しかし、なぜかアノスの思考は明瞭だった。

先ほどは一瞬目を合わせただけで呼吸すら忘却してしまったというのに、今は不自然なほどになにも感じない。

まるで神という次元に自分が一瞬にして上り詰めてしまったような感覚。


「話を聞いている間、どうにも腑に落ちなかった」


 規模こそ比較にならないが、それはハダルと戦った際にも感じたものだった。

確実な敗北、確実な死、それらをもたらす圧倒的な存在を前に、アノスは必ず新たな力を得てしまう。


 都合のいい奇跡。何者かの介入。

常々感じていたその違和感にエルシャディが言及することはついぞなく、

それはすなわち、魔神とは別種の力がアノスに宿っていたことを意味していた。


「私の信用を得たいのなら、あのままエリヤを殺した者を探していればよかっただろう」


 エルシャディの目的や、死骸の力の源流を耳にする中、

彼の心に暗く黒いものが溜まっていた。


―――神の言葉を信用するな―――


 考えがまとまる前から、心中のなにかがそう強く否定を続けていた。

アノスにはエルシャディが嘘を言っているようには思えなかったが、しかし心の内側で速まっていく脈動にも奇妙な説得力があった。 


「お前が私を見つけたのは……いつのことだ」


 ボラルの正体に気がつけなかったことからも、エルシャディは感覚的なもので力の有無を判断できない。

彼はどこかでアノスが力を使う瞬間を目撃したのだ。

逆徒とされ、無能者とされた彼が死骸を発現させた瞬間を。


「解せんな。なぜ口を開ける。卿のような人間が耐えられる力ではないはずだが……」


 屈しないさまを不審に思ったエルシャディはさらに圧を強め、彼の口を閉じにかかるが、それでもアノスは止まらない。

かけられた重圧を押し返すように膝をついて立ち上がる彼は真正面から魔神を見定めた。


「私が初めて死骸の力を使ったのは王都にやってきてからだ。

そこで初めて出会った逆徒に殺されかけ、苦し紛れに発動したのがこの力だった」


―――違う、お前は忘れている―――


 アノスの言葉を心の中で否定する者がいる。

その声が頭に届くたびに、原因のわからない怒りが込み上げてくる。

目の前の魔神が、今まで以上に憎らしい存在に見えていく。


 まるで首から上がすげ変わっていくように、アノスの思考が明瞭なまま、なにかに染め上げられていた。


「……ヒゲワシとの出会いを、私は覚えていない」


 約十年の交流の中で一度も疑問に思うことがなかったヒゲワシとの出会い。

不自然に抜け落ちた記憶は、何者かに意図的に消されたものなのだろう。

ヒゲワシとの出会いを思い出し都合が悪くなる人物などそうはいない。


「だが……消された記憶は本当にそれだけか?」


―――思い出せ―――


 急速に浮上してくる記憶は幼き頃の記憶。アノスの意志で掘り起こしたのではない。

まるで無理やり引きずり出されるように脳裏へとやってきや思い出を彼は半ば強制的に振り返る。

穏やかな日々、燃えた家、血を流したエリヤ。そして、そして……


「……抜けている」


 エリヤから記憶の譲渡を受けてから、明け方までの記憶が丸ごと抜け落ちていた。

母の死という最も根深い記憶のそばに位置していたからか、彼が今までその欠落を気に留めたことはなかった。


「……あの時、お前もいたのか?」


 ボラルは引きつけた見張りの他に、小屋に入っていった男。

エリヤを探して小屋を走り回る途中で、それらしい人物を目にすることはなかった。

唯一姿を見られぬ場所があったとすれば、エリヤが倒れていた地下室。


「……あそこに、お前がいたのか?」


 光が一切届かぬ暗闇の地下室。

地を這いながら倒れるエリヤにすがった幼き記憶を思い出しながら、アノスはその場にいた第三者の可能性に気がつく。

家族と過ごしていた安寧の日々を一夜にして崩壊させた男の正体に至る。


「お前が……エリヤを殺したのかッ!」


―――そう、この腐れ神がお前の仇だ―――


 その考えに至った瞬間、アノスの中のなにかが切り替わる。思考よりも前に体が動いていた。

なぜか湧き続けていた怒りに、後から理由が示され、彼の殺意は決壊し、心中の声と同調するように叫ぶ。

一度、未来へ向いたはずのアノスの目が、過去へと強引に引き戻される。


「……卿、腹の中になにを飼っている」


 全身に鎧を纏い、魔神エルシャディへと肉薄するアノスに声は届かない。

その狂いようは長年探し続けた仇を前にしたとしても、あまりに過ぎたものだった。

理性が引きはがされ、復讐という本能がむき出しの状態となっている。


「なぜだッ! なぜエリヤを殺したッ!」

「……逆徒に関する研究が続けられれば、卿のように力を持った者がいずれ発見されていただろう。

そうなれば、どのようなことが起こる?」


 交わる死骸の剣戟。

先ほどまでまさしく次元違いの力を持っていたはずのエルシャディと互角とも言える戦いをアノスは繰り広げている。

刃を振れば空間が歪み、大地を踏みしめれば亀裂が走る。

その力は人間が持ちうる限界を遥かに超えたものだった。


「『力を持った逆徒は国を亡ぼす存在となる』

バアル残した預言を信じた者たちが力を取り戻した我が手足を発見すれば、行われるのは粛清だ。

今以上に逆徒の捕獲は激化し、いずれ絶滅に追い込まれていくだろう」


 空間を揺るがす程の剣戟を受け止めるエルシャディは自らの正当性をアノスへ訴える。

彼は大のために小を切り擦れる選択をした。

個人ではなく、自らが生み出した種そのものを生き永らえさせるために。


「本格的に逆徒の研究を続けていたのはあの女だけだったが、不安の芽は摘んでおかねばならん。

騎士団内で立場を得るため彼女を売り、結果的に機関に送ったのは私だ。

自らの過ちは自らの手で正さねばならん」


 ヴェンヒルに取り入る手段として売り渡した女が、後に逆徒の秘密を探り始めるなどエルシャディは想定していなかった。

使い捨ての駒に過ぎなかったエリヤは、後に逆徒の確信に迫ることになる。


「殺さずとも研究を止めさせる手段はいくらでもあったはずだッ!」

「初めは私も平和的な解決を望んでいたとも。

ヴェンヒルに機関の内情を報告し、解体を進言したのも私だ」


 長い時間をかけ預言書機関の存在を知ったエルシャディは、当時騎士団長を務めていたヴェンヒルを通じ、機関の解体を目論んだ。

研究が凍結されればそれ以上逆徒の秘密が探られることもなくなると考えた。


「しかしあの女は応じなかった。

自分の娘を捨てた罪悪感からか、単に情がわいたか、逆徒の処分を頑なに認めなかったのだ」


 文書で計画の凍結を告げても納得しなかったエリヤに対しエルシャディは直接の交渉に出向いた。

それがあの悲劇の夜。

二人の騎士を引きつれ辺境の小屋まで足を運んだ彼は、エリヤの旧友エイカーとして彼女を説得しにかかった。


「それでもあの女は意志を曲げず、そればかりか私がエイカーでないことにも気がついた。

記憶を操る力があれほど厄介だとは考えていなかった」


 エリヤのバイソレッドは記憶を操る。

友人であるエイカーの不信な行動に気がついた彼女は、神の記憶を盗み見てしまった。

その時点で彼女を生かす選択肢はエルシャディの中から消え去った。


「女が死ぬ寸前に卿が現れた時は驚いたとも」


 先の確信の通り、エルシャディはその時初めてアノスと出会った。

母親の死に涙を流し、その身体から神の力をたぎらせる存在に。

死骸をまとった幼きアノスに歓喜した神は、すぐさま彼を己のもとへ引き入れようとした。


「しかし、母を殺した私に卿がついてくるはずもなく、苦肉の策として私に関する卿の記憶を消したのだ」


 幼いアノスは発現した死骸の力を使ってエルシャディに襲い掛かった。

言葉に一切耳を傾けず、まるで野獣のように荒れ狂う当時の彼を懐柔することは不可能。

母を失った悲しみが力の引き金となったため、すべての記憶を消し傀儡とすることもできなかった。

ゆえにエルシャディはヒゲワシを通してアノスを見守り続け、後に復讐心を利用し近づくことを考えた。


「卿があの女に執着していなければ私もこれほどまわりくどい方法を取らずに済んだのだが、

人間の思いとはままならんものだな」


 鍔迫り合うアノスを弾き飛ばしながら、エルシャディはすべてを語り終える。

完全なる敵意を示された今、過去の隠し通す意味はなくなった。

すべては謀。騎士団の地位を求め、アノスという手駒を欲したのは、いずれ訪れる魔神としての復活を円滑に進めるため。

手段を選ぶことなく、信徒も逆徒も犠牲にし、大望を遂げんとするその思考はあまりに傍若無人だった。


「卿の問いには答えてやったのだ。今度はこちらの問いに答えてもらおうか」


 なにもない空間を駆けながら再び接近する刃をエルシャディは迎え撃つ。

依然アノスの力は増幅し続け、すでにその力は神と並び立っている。

潜在能力の覚醒などという生易しいものではない。


「いくら私の力を受け継ごうと、人間域を超えることはできないはず。

卿はそれほどの力をどこから生み出している」


 無限に湧き出る怒りに支配されたアノスに、対話の力など残っていなかった。

今の彼にあるのは眼前の魔神を撃滅するための復讐心だけ。

永き時をかけて蓄積され続けてきた怨嗟の咆哮が響き渡る。


「卿……いや、貴様まさか」


 エルシャディはその怨嗟に覚えがあった。

怒り、悲しみ、悔やみ、恨み、憎しみ。

人間が持ち得る負の感情すべてをないまぜにし、ぶつけてきた男を彼は知っている。

渦巻く怨嗟と、与えられた超常の力で神を屠った男を知っている。


「貴様、バアルか」


 その名が口にされた瞬間、アノスの意識は完全に断ち切れる。

否、ふたつの意志が重なり合い、同化し、塗り替えられた。

赤き瞳と漆黒の頭髪。かつての裏切り者は同じ特徴を持った青年の肉体を媒介に再び現界する。

これは復讐劇。神を許せなかった男が己の正しさを証明するために始めた創世記。

その終わりが始まろうとしていた。



・・・



 そこはなにもない空間だった。白く、白く、純なる世界。

怒りや憎しみとは無縁のように思えるその場所で、アノスは目を覚ます。

先ほどまで体を支配していた怒りが嘘のようになくなっていた。


「ここは、どこだ。ソラハとボラルは……」


 周囲にはなにもない。

ソラハもボラルもエルシャディも消え失せ、どこを見渡せども見えるのは真っ白な空間だけ。

明るさは正反対だが、その光景は以前アノスが垣間見た己の心中の様子に似ていた。


「あれは……誰だ」


 ふと視線を向けると、先ほどまで誰もいなかったはずの空間に一人の少年が立っていた。

否、少年だけではない。彼の周辺に忽然と現れたのは見たこともない様式の建築物で構成された街だった。

純白に染まっていた空間は一瞬にして色づき、周囲には多くの人々が行きかい始める。


「……どうなっている」


 見慣れない世界へと飛ばされたアノスは混乱しながらも、目の前の少年から話を聞こうと近づこうとする。

背後から女性たちの声が聞こえたのはその時だった。


「気の毒にねえ。どうしてバアルだけなのかしら」

「十歳になっても魔法が使えないなんてあの子だけだもの。気を病んでしまわないか心配だわ」

「みんなバアルが孤立しないように気を使っているからきっと平気よ。

魔法なんか使えなくたってあの子も街の仲間だもの」


 バアルと呼ばれた少年を遠巻きに眺めながら、彼を心配するように話し合う女性たち。

すぐそばに立つアノスが見えていないのか気にする様子はない。

彼女たちの出で立ちも王都では見たことのないものだった。


「私、声をかけてくる。こんないい天気の日にひとりぼっちはかわいそうだもの」


 そう言った女性の一人はアノスの体をすり抜けてバアルのそばへと歩いていく。

今、自分が見ているものは実体を持たない陽炎のようなものだと、アノスは理解した。


 しばらくすると周囲の景色が風に流されるように消え、先ほどとは異なる景色が再構成される。

なにかの施設の中なのか、統一された机と椅子が並ぶ大部屋の中にバアルが座っていた。


「なあバアル、たまにはお前も一緒に遊ぼうぜッ!」


 ひとりで本を読んでいたバアルの背を叩きながら快活そうな少年が声をかけてくる。

先ほどの婦人たちと同じく、彼らは無能力者に嫌悪感を抱いていなかった。

むしろ力を持たない少年に歩み寄ろうとさえしている。

長い間、信徒と逆徒の関係を見てきたアノスにとってその光景は信じがたいものだった。


「なんとも心優しい世界だな。皆、異端を虐げることなく、受け入れている」


 バアルを誘う少年に他意はない。ただ純粋に仲間を欲して彼に声をかけていた。

能力の有無による優劣が存在しない世界。それは多くの逆徒が心から望んでいるはずの理想世界だった。


「……だというのに、お前はなぜそんな顔をする」


 少年に声をかけられたバアルは苛立ったように眉をひそめると乱暴に本を閉じため息をつく。

そこに誘われたことへの喜びは一切存在していないようだった。


「いいよ、僕が入ったって足手まといだし。楽しくないだろ」

「そんなことねえよ。下手くそなやつも多いし、人数が多い方が盛り上がるだろ。

魔法が使えなくたって気にすることねえよ」


 それは皮肉の類ではなく、純粋な善意から出た言葉。

少年を傷つける意図などなく、自分の本心を包み隠さず口にしただけ。

しかし、バアルにとってその一言は剣よりも鋭い一突きだった。


「僕を無能だと決めつけるなッ! 僕の魔法はまだ隠れてるだけなんだッ! 上から目線の同情はやめろッ!」


 勢いよく席を立ち一気にまくしたてたバアルは本と荷物を持って部屋から出ていってしまう。

突然向けられた怒りの感情に整理がつかず、取り残された少年はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 アノスは寂しげな少年の背中を見つめながら、この光景がなにを伝えるものなのか少しだけ理解する。

虐げられていたゆえに、逆徒たちが持ちえなかった感性をバアルという少年はその胸に抱いていた。


「同情か……いったい何人の逆徒がそれを求め、諦めていったのだろうな」


 室内の光景が吹き消されていき、景色は夜の森へと切り替わる。

先ほどよりも少し背が伸びたバアルは誰もいない寒々しい森の中でひたすらなにかを叫びながら腕を振り続けていた。


「出ろッ! 出ろよクソッ! 炎でも氷でもなんでもいいから出てくれよッ!」


 懇願するような声を上げながら振るわれる腕から出るものはなく、ただ風を切る鈍い音がむなしく冷たい空に響くだけ。

その姿は痛ましく、切ない。得られる力を得ようと必死に叫ぶその様子は確かに同情を誘うものだった。


「これだけ努力してるんだ、絶対に使える、使えるさ

……僕だけ特別なんてことはないんだ。心配ない皆と同じさ、

ただ少し人より遅いだけで、力はあるはずなんだ。僕は無能じゃない……」


 体力が底を尽き、その場に崩れ落ちるバアルは自分への激励を送りながら息を整えるとまた立ち上がり腕を振り始める。

悲しくも、アノスにはその修練に意味がとは思えない。

汗を飛ばしながら、途切れ途切れの声を出し続ける彼からはなんの力も感じられなかった。


「……たった独りの無能者か」


 森の景色と共に消えていくバアルの背中は孤独だった。

いくつも差し伸べられた手を取ることなく、彼はひたすら自身の力を証明するために生きている。

彼にとって同情や哀れみは、その努力を否定するようにしか映っていなかった。


 次に映し出されたのは不思議な光景だった。豪華絢爛な広間の中に建てられた魔神エルシャディの像。

それを中心に集まった多くの人々が地面に頭をつけひれ伏している。

誰もが口を閉じたまま、しばしの静寂が流れる。

像に一番近い場所で頭を下げていた老人が恭しく像へ向けて言葉を発したのは、それからしばらくたった後だった。


「我らが創造神エルシャディ様。どうか哀れな王の願いをお聞き入れください」


 地面に擦りつけんばかりに頭を下げる老人は街の、国の代表として魔神に進言する。

その真摯な声には悲痛な哀れみが宿っていた。


「今、この国にはバアル・シェムという名の少年がおります。

彼は明日に十五になりますが、いまだ神の加護をその身に受けておりません」


 国民の中で魔力を授からなかった唯一の少年は、王の隣で微動だにせず頭を下げている。

その表情は見えず、彼が今の状況をどう思っているかもわからなかった。


「バアルの側に責任があるのは重々承知でございます。

しかし、報われない努力を続ける彼の姿はあまりに悲痛で、見るに堪えません。

どうか彼にご慈悲を……」


 一国の王が、それに続く大勢の国民が、一人の少年のために頭を下げている。

すべてはバアルに力を与えてやるため、異端の孤独から救ってやるための善意だった。

そして、救いの意志は天に届く。


―――よかろう。その願い聞き届けた。

少年よ、卿に我が一端を植えてやろう。私の力を継ぐ者として励むがいい―――


 光り輝く像からバアルの頭に響き渡るのはエルシャディの声。

そして同時に注がれるのは恩恵を授かる力ではなく、神の源流そのものの力だった。

この瞬間、魔神と国民たちの善意のもと、バアル・シェムは人ならざる力を手にすることとなった。


「そして、この日が俺という人間の最期だった」


 その時、背後から聞こえてきた声はそれまで耳にしてきたものとは違った。

過去の幻ではなく、今この場に存在する者の声色は苛立ちと悲憤に包まれている。

暗く深いその感情は、エルシャディと戦うアノスの胸に渦巻くものだった。


「……バアル・シェム」


 振り返ったアノスの前に立っていたのは、どこか彼と似た雰囲気を持った青年だった。

幻の人々と同じ見慣れぬ白い衣服を身に着け、正面からアノスを睨みつけている。

まるでここにやってきたことを非難するように。


「この時点で人としての俺の価値は地に堕ちた」


 呟く言葉に怒りを滲ませながら、かつての自分の幻を見下ろすバアル。

神に頭を下げるその姿は今の彼にとって、認めがたい過去、脱ぐ去りたい過ちだった。


「どれだけ強大な力を振るおうと、称賛を受けようと、それは俺の力じゃない。

力を振るえば振るうほど真の自分の無力を悟り、虚しくなるばかりだった」


 それはアノスにも通じる感性だった。己の努力ではなく、勝手に身に降ろされた死骸の力。

強力かつ、彼の生活に大きく役立った力だが、それによって得た強さに歓喜することはできなかった。


「所詮は神の傀儡。完成された力を与えられ、俺は努力する権利すら失った。

無能の自覚を拭い去れないまま、その原因たる魔神にかしずく毎日。あれはまさしく地獄だった」


 バアルは目標に向かって走り続けていた。

己の力で毎日、休むことなく努力を続ければ、いつか自分にも力が宿ると信じて。

しかし、彼の努力は本人の意思に関係なく打ち切られてしまった。

神に与えられた力は、結局独力でなにも得られなかった自分の無力さをまざまざとバアルに突きつけることとなってしまった。


「奴のもとで過ごす中考えた。なぜ俺がこのような目に合わねばならないのか、なぜ俺に力が備わらなかったのか」


 強大な力を得てもなお、バアルの劣等感は消えなかった。

むしろ努力という逃避先を失ったことで、彼の感情はある一方向へと徐々に傾いていった。


「そして、気がついた」


 力を得られなかった少年のために頭を下げる大勢の人々。

振り返ったバアルは彼らを殺意のこもった瞳で睨みつける。

自分を想ってくれた人々を彼は神と同様に憎悪していた。


「わからないか? 善意だよ。俺に向けられた善意が、俺に消すことのできない無能の烙印を押したんだ」


 世の理を説くかのように高らかと宣言するバアル。

その言葉の意味がアノスにはわからなかった。

劣等感にさいなまれる中、向けられた善意を疎ましいと感じるのはまだ理解できる。

しかしバアルの言葉はまるで力を得られなかった原因を他者に転嫁するものだった。


「人はぬるま湯の中では成長できない。人の進化はいつだって逆境の中にこそある。

皆が俺を虐げ、痛めつけ、悪意をぶつけ続けていれば俺の才能は開花したはずだ」


 あまりに飛躍した理論。どこまでも不合理な主張。

そしてなにより、そんな自分の考えを疑いなく信じているバアルの目にアノスは驚愕する。

彼は己の中で導き出した結論を信じ続け、証明するために今まで生き続けてきた。


「逆徒として生まれたお前が、母親を失ったことで力を得たのがその証拠だ。

あのままぬるい日常を送っていたら、お前はいつまでも無能のままだっただろう」


 自分の正しさを証明し、悦に入るように話す口調に、ここまで困惑ばかりだったアノス表情が曇る。

バアルの言葉は初めから逆徒が力を得ると期待していたかのようなものだった。


「……お前、まさか」


 旧人類と新人類をかけ合わせ、信徒と逆徒を創り出したバアル。

アノスやエルシャディは逆徒が生まれたことで迫害が始まったと考えていたが、それは全くの逆だったのではないか。


「自分の考えを証明するためだけに、人間を信徒と逆徒にわけたのか」


 無能は不幸に陥ることで力を得ることができる。

神の力を得たことで、己の体でその考えを証明できなくなったバアルは世界そのものを巻き込むことに決めた。

自分が世界で唯一の劣等であることを否定するために、彼は神に成り代わり新たな理を敷いたのだ。


「無能力者を逆徒と名づけたのも、国を亡ぼすなどという預言を残したのも……」

「ああ、すべては俺の正しさを証明するためだ。

身を削ぎ落し、新たな人間を創り、数を増やしていく中で、俺は俺のような無能者が生まれるのをずっと待っていた」


 自分と同じように創った無能者が、自分の経験できなかった不遇の環境に置かれ、虐げられていく。

そのような世界が十年、百年、千年続けばいつか自分の正しさを証明する逆徒が現れるとバアルは考えていた。

逆境をはねのけ、無能を覆し、力を得る存在。


「そしてお前が生まれた。生みの親に捨てられ、育ての親を殺された哀れな逆徒。

お前が俺の正しさを証明してくれたッ!」


 神が定めた無能を覆す存在、ひいては己の無能を否定してくれる存在。

かつて自分が成し遂げられなかった無能からの脱却を成し遂げてくれるアノスのような人間を、神に成り代わってからバアルは待ち続けていた。


「俺が力を得られなかったのは、俺が劣等だったからじゃない。

同情され、ぬるま湯につけられ、挙句の果てにこんな力を授けられたからだッ!」


 肩を揺らして笑みをこぼすバアルの歓喜がアノスには理解できない。

アノスが力を得たとしても、バアルの無能が否定されるわけはなく、

そもそも死骸の力は復活したエルシャディを源流として宿った力。

彼の理屈は根底部分から破綻していた。


「期待に沿えぬようで悪いが、私の力も、お前と同じように神から与えられたものだ。

確かに、母の死という悲劇が発現のきっかけではあったが、前提としてエルシャディの存在なくしては成立しない」


 一度、源の力を失ったエルシャディが復活したからこそアノスは死骸の力を手に入れることができた。

魔神の恩恵を誰よりも早く受け取った彼は、むしろバアルに同情を向けていた側の人間だった。


「……違う。あいつの言うことなどでたらめだ。

その力はお前のものだ。逆境に立たされたお前が自らの力で得たものだッ! 

断じて神に授けられたものではないッ! 今あの腐れ神を殺せばその事実も証明できるッ!」


 エルシャディが語った真実をバアルは認められない。

遥か昔に葬ったはずの魔神が人知れず復活し、目をかけていた人間に力を与えていたなどと認められるはずがなかった。

それが事実ならば、またバアルの試みは振出しに戻ることになってしまう。


 ゆえにバアルは今アノスの体を使い、再びエルシャディを殺害しようとしていた。

魔の源が失われてもなお死骸の力が残り続ければ、神の関与を否定できるとして。


「不幸や不条理を味わうだけで力が得られるなら、王都は力をもった逆徒たちで溢れかえると言った男がいた。

奴は外道だが、その点においては正しかった」


 逆徒が創られてからこの日まで、力を持つことができた逆徒はアノスとボラルの二人だけ。

改めて証明するまでもなく、それだけでバアルの主張が間違っていると断言できた。


「バアル。お前は自分の無能を自覚したくないだけだ。

だからそれほど神の力を憎み、それを与えた皆を嫌い、理屈の通らない詭弁で自分を騙そうとする」


 突き放すような言葉にバアルの感情が揺らぐ。彼はそれまでずっと自分とアノスを同一視してきた。

同じ神への怒りを持ち、生涯変わらぬ目的を持って生き続けるその姿勢は

人間だった頃の記憶を度々思い起こさせるものだった。

そんなアノスから自分を否定する言葉が出たことにバアルは耐えられない。


「力に対し嫌悪感を持っていたのはお前も同じだろうッ!

お前こそ母を助けられなかった自分を正当化するために力の起源が神にあると思い込んでいるだけだッ!」


 エリヤが死ぬ前に力を授けてくれていればと、神を恨み続けた日々。

その憎しみが自分だけに向いていたら、アノスはあの時以上に母の幻影に苦しみ、自分を責め続けていただろう。


「……だが、それでも私はこの力と向き合うことができた」


 エリヤを救えず、意志に関係なく授けられたこの力を嫌い続けながらも、アノスは復讐を成すため死骸を使い続けてきた。

そして、その結果救えた命がある。ずっと嫌っていた力を認め、掴み取れた未来がある。


「確かに、授けられた力は得てしてむなしい。

努力がなければ成長の実感も湧かず、自分という存在に価値が見いだせなくなっていく」


 力を得てもなおも感じ続けていた劣等感。

アノスは復讐を成すことで、バアルは創り出した逆徒に否定させることで自分という存在に重みを与えようとした。


「だが、この力のむなしさが私の価値が決めるわけではない。

本当の私がなんの力も持たぬ無能だとしても、与えられたこの力で大切なものを守ることはできる」


 自分の重みを信じ、自分の想いを信じられれば、力の源がなんであれ誇りを持てる。

力を振るう自分を正しいと認められる。


「私が、嫌い続けてきた死骸の力でソラハを救えたように、お前だって嫌うその力でなにかを成すことができたはずだ」


 与えられた力を含めて自分なのだと思えれば、神の力を持ったバアルにできないことなどなかっただろう。

力を得られなかった自分という存在を始めから認められていれば、卑屈な自己肯定に突き進むこともなかった。


「たとえお前の周囲に望むような悪意が溢れていたとしても、お前は今と同じように皆を恨んでいただろうッ! 

結局お前は自分の価値を信じ切れずに、独りよがりな嫉妬をぶつけていただけだッ!」


 結局、本質は与えられたものに文句をつける子どもと同じだった。

理想と合致しない現実に向き合った時、それを許容し進んで行くか、否定しその場で泣きじゃくるか。

自分が後者であるとバアルは認められない。


「違うッ! 俺は誰よりも俺を信じているッ! 

皆が俺を無能と言う中、俺だけが自分の力を信じ続けたッ! 

奴らはそんな俺の希望を奪い去ったんだッ!」


 気がつけばバアルの拳がアノスに向かって打ち出されていた。

バイソレッドも、魔の力も感じない人間の拳。

この場所では力が使えないのか、あるいは超常の力を持たぬその姿こそが彼の理想の体現であるのかもしれなかった。


「バイスや魔の力だけが人間の力ではないッ! 

世界を壊し、現実から逃げ出し、希望を捨てたのはお前自身だッ!」


 バアルと同じくアノスも死骸の力を使わない。

意図して使わなかったわけではなく、エルシャディの力がこの空間まで届いていないようだった。

しかし、アノスが与えられた力は死骸の力だけではない。


「誰かを愛する覚悟も、自分を信じる決意も、人が持つ力だッ! 

目に見える力ばかりに固執しなければ、お前にだってそれを教えてくれる者はいたはずだッ!」


 エリヤから与えられた記憶の力。

生活の知識や、戦いの技術は、彼女が死の淵にあってもアノスたちの未来を案じていた証。

この記憶はエリヤが先人から受け継いできた知恵の結晶、人間という種が生きるために得てきた力の連なりだった。


「哀れみは持てる者の特権だッ! 持たざる者に同情を向ければ自分が善人だと錯覚できるからなッ! 

そんな偽善者たちからなにを学べと言うッ!」


 お互いの拳を受け止めながら二人は睨み合う。

奇しくも似た容姿を持つ二人の姿は鏡合わせのようだった。

しかし、似た思いを胸に抱いた彼らが出した結論は悲しきことに交わらない。


「バアルッ! お前は神の力を否定しながら、誰よりも神に縛られているッ!」

「違うッ! 俺は奴の呪縛から解放されるために生きてきたッ! 

そのために神となり、偽善の無い正しい世界を創ったッ!」


 哀れみによって才能が潰されない世界。逆境によって奮い立ち皆が力を得る世界。

バアルが自身の理想を現実に流れ出させ生んだ世界。

その在り方が正しいかどうかなど、一人の人間に過ぎないアノスにはわからない。


「だが、その決断が間違いだったことはわかるッ!」


 人間であることを止め、世界を創る側へと回ったその決断が、

文字通り人としてのバアル・シェムを決定的に歪めてしまった。


「認められない現実に直面し、それでも受け入れて前に進んで行くッ! 

それが人として生きるということだッ! 

人間であることに耐えられず、神に成り代わった時点でお前はその強さを失ったんだッ!」


 今を懸命に生き、未来へと目を向け進んで行く強さ。

それを教えてくれたのはボラルやソラハだった。

その力こそ、バイスや魔の力よりずっと強く、人間の繁栄を支えてきたのだとアノスは思う。


「私の人生にはお前の尺度では決して測れない価値があるッ! 

私の心に宿るというのなら、大人しく腹から人の世を見ていろッ!」


 振り抜いた拳がバアルの顎を貫く。

たった一人で孤独な努力を続けた者と、受け継がれてきた知恵を掴み取った者。

どちらに勝利が訪れるかは火を見るよりも明らかだった。

仰向けに倒れるバアルはその瞳だけを動かしアノスを睨みつける。

肉体の主導権が移り代わり、体の自由が奪われ始めていた。


「……なにを見ても俺の心は変わらない。

お前がお前を信じられなくなった時、俺は俺の目的のためにお前を使うぞ」


 薄れていくバアルの姿は美しい青年の姿から、エルシャディを屠った時の死骸の姿へと変わっていく。

自分の正しさを証明するために魔神と戦い、身を削って人間を創りだし続けた結果だった。


「……私は家族と共に未来を生きる。万が一その決意が揺らぐようなことがあれば、好きにしろ」


 自分の在り方を見失った時、己が己でなくなってしまう。

それは心中にバアルのような存在がおらずとも同じことだった。

それを理解しているからこそアノスは自身の決意に重みを感じていた。


 バアルが消え去ったなにもない空間。純粋ゆえに危うい真っ白な世界が徐々に暗転していく。

沈んでいく意識の中、反対に五感が次々と現実に引き戻されていく。


 迸る鮮血から香る鉄の臭い。

 叫ぶ口に入る砂煙の苦み。

 お互いの刃が弾き合う音。

 増していく全身の痛み。


 そして、ひらけた視界の先に現れる魔神エルシャディ。

肉体の主導権がバアルからアノスへと戻り、一瞬の硬直が生じる。

放たれた斬撃を回避することはできない。

反射的に展開した壁ごと吹き飛ばされたアノスは一切の衝撃を逃せぬまま噴水へと激突した。


「……自力でバアルの呪縛を断ち切ったか。流石は我が手足だ」


 砂煙の中から姿を現すアノスとエルシャディの体は既に満身創痍と言っていい。

それでもなお、お互い命を保てているのは二人の戦いがいまだ本格化していない証だった。


 バアルはアノスとの主導権争いで全力が出せず、エルシャディは目的からしてアノスを殺せない。

お互いの攻撃が決定力を持つことはなく、むしろ被害は二人以外の者たちにこそ降り注いでいた。


「……悪いが……戦いは、ここまでだ」


 荒れる呼吸を整えながらアノスは手にした刀を消失させた。

流れ出る神威がソラハたちを傷つけないよう意識をエルシャディだけに向ける。

完全に戦意を喪失したアノスに刃を向けたまま魔神は無表情で彼を見つめていた。


「それは我が手足として尽力する、ということか」


 その言葉に呆れたように乾いた笑みを浮かべるアノス。

神という存在は、なぜここまで頑ななのかと考えてしまう。

世界を創り、維持する役目を負った魔神エルシャディ。

その本能はどこから湧いてくるものなのだろうか。


「……逆徒を救うだとか、世界のための使命だとか大それたことをお前は言うが、

それを成し遂げていったいどうするつもりだ」


 ソラハやボラル、ハダルにルアス、トラフ、コーバ。アノスがこれまで出会ってきた人々には目的に対する感情が必ず見えた。


 生きたい、守りたい、知りたい。神となったバアルにさえ自身の正しさの証明という確たる思いがあった。

しかし目の前に立つ魔神はどうだろうか。甲冑から覗く表情は変わらず、瞳に浮かぶ感情もない。

唯一見て取れるのはバアルや、信徒たちに対する嫌悪感だけ。

再び神となり世界を統べようとする意志に見合う想いを感じることはどうしてもできなかった。


「どうするとは、また異な事をきく。世界の統治は手段ではなく目的だ。

そこから続く欲望などない」


 エルシャディはアノスの問いの本質を理解できない。

それは人ならざるものとして生まれた性なのか、統治する理想の世界を語ることも彼にはできなかった。


「私は本来あるべき姿に世界を戻すだけだ。

バアル・シェムが残した異物を取り払い、奴の反逆以前の状態へと回帰させる。

それが神である私の使命だ」


 誰かに命じられたわけではない、なにかに憧れたわけでもない、

ただ生まれた瞬間から持っていた機械的な本能に従っているだけ。

そこに人らしい感情が挟み込まれる余地などなかった。


「異物に、回帰か。お前は逆徒を救いたかったんじゃないのか。

初めに比べて、言っていることが物騒になっているぞ」

「同じことだ。力を取り戻した我が手足は、バアルの系譜を許しはしない。

奴を妄信してきた報いが下るのも当然だろう」


 逆徒たちがアノスと同じように力を手にすれば王都だけではなく国全体が混乱の渦に呑まれることになるだろう。

力なきゆえに秘め続けてきた信徒に対する憎悪は計り知れない。

エルシャディはその引き金を引こうとしていた。


「……多くの人間が死ぬぞ。信徒だけではない。逆徒たちも今まで以上に……」


 逆徒が信徒を攻撃し始めれば、もはや全面対決は避けられなくなる。

逆徒は人としての尊厳を勝ち得るために、信徒は今までの平穏の維持するために戦い続ける。

バアルが残した不殺の預言も、激化する戦いの中でどれだけ守られるかわからなかった。


「源である私がいる限り人という種が根絶されることはない。

もとより人間は死と誕生を繰り返し繁栄する種だ。

この時代でどれだけの死が巻き起ころうと世界の統治に支障はない」


 エルシャディは神であるがゆえに目線の次元が違う。

人という存在を個々の生物としてではなく、世界を構成する一要素だとしか彼は考えていない。

世界に生きる者たちがなにを思い、生きているかなど想像すらしたこともないのだろう。


「そのような考えだから、バアルのような男が生まれたのではないのか」


 人の心を少しでも理解しようとしなのならバアルがなにに苦しんでいたのか知れたかもしれない。

同等の力を持つ者としてお互いに手を取り合う未来もあったかもしれない。

しかし、エルシャディにとって過ぎ去った過去の可能性など考えるに値しないものだった。


「奴のような男を生み出さぬためにも、哀れな無能を救済せねばならんだろう。

卿も知っているはずだ。逆徒と蔑まれる我が手足たちがどのような艱難辛苦を強いられているか」


 信徒に忌み嫌われ、しかし彼らから独立することもできず、力を持たぬ者同士で狭い縄張りを奪い合う毎日。

確かに、手を差し伸べて然るべき悲劇的な現状に違いないのかもしれない。


「卿がそれほど理性的でいられるのは我が力を得たからだろう。

己を守る力を有しているから大局を見る余裕がある」


 死骸の力が宿し、悲劇を躱す力を得たアノスに、逆徒の真の苦しみは理解できない。

毎日を寒空で過ごし、明日捕らわれる恐怖に怯えながら眠る。

その日々から脱却するためならば、死をも恐れぬ逆徒も多くいるだろう。

彼らに未来を見据える余裕などない。殆どの逆徒には今しかないのだ。


「……違うな。私が心配しているのはいつだって自分のことだけだ」


 しかし、アノスはそんな逆徒たちの苦境を一蹴する。

エルシャディが言うような大局的視線など彼は初めから持っていない。

人間アノスが考えるのはいつだって自分と、その周りで過ごす者たちのことだけだった。


「この世界は私が未来を生きると決めた世界だ。

どのような大義名分があろうと、混沌に陥れられては困る」


 信徒と逆徒の対立が激化すれば、国全体を巻き込んだ争いになる。

それはソラハたちとの平和な生活を望むアノスにとって酷く都合の悪いことだった。


 彼にとって重要なのは名も知らぬ者たちの生き死にではなく、大切な人たちの安全。

不平等で、独りよがりなその考えは高潔とは言えないかもしれない。

しかし、愛という優劣を持った感情を宿す人間として自然な思いであることは確かだった。


「神が提示する正しさなどに興味はない。私の正しさは私が決める」


 バアルに言ったように起こった出来事は受け入れるしかない。

失った家族を取り戻そうと嘆いても、すべては覆らない。

ゆえに、アノスは確定していない未来のために足掻く。

導かれた結果に後悔を残さないように、過ぎ去った過去に納得できるように、彼は己の選択を貫き通す。


「……どうあっても私に協力はできないと言うか……」


 言葉を用いても、拳であってもアノスの意志を曲がらない。

彼の中に刻み込まれたものは世界を創造した神であっても消すことはできなかった。

彼を従わせるために必要なものは決まっていた。


「やはり、エイカーであった時の私は間違っていなかったのだな」


 エイカーの肉体を乗っ取り、人間の感情を得た中で企てた計画。

バアルの力さえも飲み込んでしまったアノスを従わせるには、その意志を利用するしかもはや手はなかった。


「卿の言うように、私には人の思いが理解できない。

卿とて己の指先がどのような理屈で動いているかなど知らんだろう。同じことだ」


 神と人間。存在の次元が離れすぎているせいでお互いの心を理解することができない。

しかしアノスが神と同等の力を持ち対話を可能にしたことで、エルシャディは唯一人の心を学ぶことができた。


「愛とは、効率的に繁殖を行うための感情に過ぎないと思っていたが、

非合理な判断を人に選択させるほどには根深いもののようだ」


 愛という結びつきの強さ。

アノスとの対話の中で、そのようなものがあると認識したエルシャディは最後の手段として絆を利用しにかかる。

差し向けた神の腕から放たれるのはそれまでの神威とはなにかが違う紫紺の光。

広場全体を包み降り注ぐ光のすべてを防ぎきることはできない。


「ソラハッ! ボラルッ!」


 光に痛みはない。しかしその光輝にあてられた瞬間、頭になにかが入り込もうとするような違和感をアノスは覚えていた。

彼は己の神威でそれを跳ね除けることができるが、背後で倒れる二人は違う。

紫光に呑まれた二人はゆっくりと立ち上がると、紫紺の瞳を光らせながらアノスを見つめていた。


「貴様ッ! 二人になにをしたッ!」

「特別なことはしていない。ただ、心の奥底にあるものを引きずり出してやっただけだ。

私の言葉が届かないというのなら、卿の説得は彼らに任せるとしよう」


 糸に吊られた人形のように立つソラハとボラルを揺り動かすアノス。

しかし二人が反応を見せたのは彼ではなく、エルシャディの言葉に対してだった。

魔神の言葉を耳にした二人はゆっくりと頷いて見せる。


「彼らは卿とは違う。己を守る力を持たず、信徒からの一方的な迫害を耐えねばならない者たちだ。

彼らに聞こうではないか。神である私に従うべきか否かを」


 アノスが最も大切に思う二人。彼らが自分の目的を肯定すればアノスの決心も揺らぐとエルシャディは考えた。

力を持たない彼らは必ず、神の意志に従う。

力を与える存在に首を垂れる。過去の経験から神はそう確信していた。


「我が力を継し手足どもに問おう。卿ら、己や、己が家族を虐げてきた信徒を許せるか」


 ソラハとボラルはゆっくりと首を横に振る。

それはエルシャディの力によって無理やり露見させられた偽りなき二人の本心だった。


「……信徒の騎士たちはわたしたちを毎日追いかけた。

ただバイスを使えないってだけで。あの人たちのせいでお父さんも死んじゃった」

「……あいつらはエリヤたちを殺しただけじゃなく、弟をいつも傷つけやがる。

あいつの体がだんだん死の臭いに近づいていくのは信徒のせいだ」


 二人は信徒を許せていない。

許せるはずもなかった。特定の個人に向ける感情は改められても、信徒全体に対する感情は変わりようがない。

一朝一夕で覆るほど、信徒と逆徒を隔てる壁は低くなかった。


「卿らの思いは当然だ。奴らは憎悪の念を受けて然るべき行為を続けてきた。

その腐った傲慢さは我が復活と共に正さなくてはならない」


 逆徒の思考とはこういうものだとアノスに見せつけるかのようにエルシャディは二人の思考を炙りだす。

それが己の使命を達成する一助になると信じて。


「私が再び魔神の座を得れば、卿らは奴ら以上の力を手にできる。

自分の無力さに悩むことも、不完全な獣の姿に甘んじることもない」


 魔神に従えば父を失った時のような悲しみを抱くことも、人として生きられない獣の姿に嘆くこともなくなる。

それは二人にとって、とても魅力的に思える未来だった。

身を潜めるような生活から解放される日を夢想せずにはいられない。


「卿ら、真なる神の手足として偽神の異物を排する力を望むか」


 答えは一つだと、エルシャディは確信していた。人ならざる力を求めない人間などいない。

世界に不満を募らせている者ならなおさらに、鼻先に向けられた餌に喰いつかずにはいられない。

少なくともエルシャディが統治していた頃の人間は皆そうだった。


「……いらない」

「ああ、いらねえ」


 ゆえにその返答を魔神は想定していなかった。放たれたのは持たざる者からの宣告。

人の感情を持たない彼に驚愕はないが、同時に理解もできない。

神が与える力を拒否して、歪な世界に留まろうとする二人の思考が理解できない。


「確かに信徒は嫌いだよ。あの人たちはずっと酷いことを私たちにしてきた。

本当に痛くて、悲しかった」


 信徒に対する怒りや悲しみは今でも胸の奥底に楔のように撃ち込まれている。

しかし、それでも憎み切れないのは彼らが悪人でないことを知っているから。

歴史を重ね、伝えられてきた価値観に従って生活しているだけだと知っているから。


「あの人たちは守りたいだけ。神様の言葉を信じて、家族や仲間を守るために生きてるだけ」


 身勝手なバアルが残した預言書。その決まりに従って生きる彼らは神の被害者でもあった。

信徒として生まれた瞬間から、神を信じ逆徒を虐げることが正しいと教え込まれる彼らに選択肢はない。


「あいつらにとってはそれが当たり前なんだ。

その常識を覆すには、それこそ全員殺しちまうくらいしか方法がねえ」


 己の思想のために他者を攻撃し排斥する。それでは彼らが嫌う信徒たちと何も変わらない。

結局エルシャディの言葉に従って創り出されるのは、今の世を反転させただけの世界だった。


「人それぞれ考えてることは違うもんだ。

力を得て、信徒に復讐してえやつもいるだろうし、そうじゃないやつだっている」


 アノスが復讐に猛る中、ボラルは一貫して平穏な暮らしを望んでいた。

それは彼が現状に甘んじる臆病者というわけではない。

苦境の中でも耐え忍び、それでも争いを望まないのも一つの考え方であり、一つの正しさに違いなかった。


「もし、わたしたちが信徒を殺したいくらい憎んでいたとしても、全員の逆徒を巻き込むなんてできない。

人は自分の意志で生きてる。誰かの生き方を決める権利なんて誰にもないよ」


 ソラハにも、ボラルにも、アノスにも、そして神であるエルシャディにも人の生き方を捻じ曲げる権利などない。

神の立場を取り戻したいのなら、己の力で、己の言葉で認めてもらうしかないのだ。


「ソラハ……ボラル……」


 二人の言葉をアノスは放心するように聞き入っていた。

神の甘言に惑わされることなく、自身の考えを貫き通した家族の思いを聞き届け彼は震えている。

人それぞれ考えは違う。それでも人が通じ合えるのは、近しい想いもまた同時に抱えているからだった。


 二人の言葉を聞き届けたエルシャディは相変わらずの無表情のまま、しかし動揺したように硬直している。

叩き返された言葉を理解しようとしているのか、それとも単に失望しているのかはわからない。


「……私が差し伸べる手を払いのけるとは

……私が死していた間に我が手足はここまで愚かになってしまったのだな」


 無感情な声色からなにかを推し量ることはできない。

実際、魔神としてのエルシャディは感情と呼べる想いを持っていないのだろう。

しかし、その言葉を耳にした三人は一様にある想いを感じ取った。


 寂しさ。


 それはただの勘違いなのかもしれない。言葉の並びが生み出したただの錯覚なのかもしれない。


「もうよい……貴様らはいらん。我が世から消え去るがいい」


 それでも、彼らが感じた想いは、彼らの中では確かな真実なのだ。

並び立つものがいないたった一人の孤独な魔神。

力を与えたバアルにも裏切られ、人を信じられなくなった哀れな上位者。

世界の頂に立つことを決められた男の悲しき定めだった。


「二人ともッ! 絶対に私の背から離れるなッ!」


 エルシャディの腕から放たれたのは紫紺の極光。総てを消し去り、総てを創造する神の真価。

本来の力から大きく弱体化したものであってもその光に人間が抗うことはできない。

アノスを見限った魔神にもはや彼を生かす理由はなく、その衝撃はまさしくエルシャディが打ち出せる全霊だった。


「世界を生み出し、総てを創造する波動だ。どれほど神の力に近づこうと抗えるものではない」


 光を防ぐために何重にも展開した死骸の壁が次々に崩れ去っていく。

総てを無に帰す破滅の光は逃れようのない死となって三人に降り注いだ。

対抗する術は二つ。

ヒゲワシが生んだ死骸の波を相殺したように同じ力をもって対抗するか、正反対の力を叩き込むしかない。


「神の力は、総てを消し去り、総てを創る……」


 眼前に迫る死に叫ぶ背中の二人をよそに、アノスはある思考を巡らせていた。

走馬灯のように一瞬にして駆け巡るのは彼が使う死骸の力について。


 魔神エルシャディの力を受け継いだアノスが得た死骸の力。

血と肉の塊を生み出し、自在に形を変えるその力は、確かに神が扱うものとして納得できる強さを持っていた。


 しかし、なぜ神に死骸を生み出す力などが備わっていたのだろうか。

なぜその力が一番にアノスへと受け継がれたのか。

それはこの力が人の世を創造する最も重要な力であるからに他ならない。


「この力は死を振りまくものじゃない……」


 血と肉の塊を死骸と初めて呼んだのは人間だ。

人の次元で考えればこの赤黒い塊は腐臭を漂わす死の塊でしかない。

しかし、バアルの力で神の次元へと引き上げられた今のアノスには理解できる。

血と肉で構成され、この世界で繁栄を築いたものがなんと呼ばれるのか。


「人を、命の息吹を創造する力ッ!」


 無意識に伸ばしたアノスの手からエルシャディの極光にも劣らない爆光が放たれる。

周囲を赤く照らすその光は大地を照らす太陽のように暖かい。

その中で、形作られていく影があった。


 今まで不完全な死の塊にしか形を成さなかった血や肉が、人の形へと姿を変えていく。

エルシャディが放つ破滅の光から三人を守るように創造された肉体。

その背中はアノスがよく知る、見紛うはずがない人物だった。


「エリヤッ!」


 小屋が燃やされた日、寝室から出ていく背中が最後に見た母の姿だった。

あの時の記憶そのままの背中が、今現実にアノスの前に立っている。

エルシャディによる破滅の光とアノスによる創造の光。

そのせめぎ合いを一身に受ける彼女は構成されたばかりの口で叫ぶ。


「奪うか与えるかッ! 今すぐ選んでアノスッ!」


 アノスの手を引くエリヤは光を防ぐ盾となりながらエルシャディのもとへと駆ける。

短く叫ばれた声は懐かしく待ち焦がれたものに違いない。

しかし再会の喜びに浸る前にアノスは選ばなければならない。


 与えるか。奪うか。


 その言葉の意味は母の死に際に彼女の記憶を与えられたアノスだからこそ瞬時に理解できた。

エリヤのバイソレッドは記憶の操作。他者に自らの記憶を与え、また反対に奪うこともできる。

問われているのはそのどちらを使用するかということ。


 手を握るアノスの力を媒介に放たれるバイソレッドはエルシャディにも干渉できるだろう。

魔神までの距離はあとわずか、悠長に考えている時間はない。

機会は一度きり、二度目はない。神の体に触れた瞬間が決断の時だった。


「私は……『俺』はッ!」


 破滅の光を放つエルシャディの手をアノスは掴む。

異なる二つの光は拮抗しながら渦巻き空へと打ちあがり、その余波は夜の大地を包み込んだ。

かつて一つの都が滅んだ時と似た景色。しかし今回の光はどこか優しく、暖かなものだった。



・・・



 朝日が昇る。

顔を出した太陽は壊滅した騎士団本部とそのふもとで戦いを繰り広げた者たちを照らし出していた。

腰を抜かしたように尻もちをついているソラハとボラル。

肩で息をしながら立ち尽くすアノスとエリヤ。そして巨体を地面に横たえるエルシャディ。

先ほどまでの激闘が嘘のように、広場は静まり返っていた。


「……なぜだ」


 静寂を破ったのはエルシャディ。仰向けに倒れ、空を見上げたまま困惑したように呟く。

その声には先ほどまで存在しなかった感情があった。

動揺に視線は揺らぎ、この体で初めて味わう感覚に震えている


「なぜ、こんなものを私に与えた」


 アノスはエリヤのバイスを使って、自分たちが育んできた人生の記憶を魔神に与えた。

ソラハと出会えた喜び、ボラルに向けられた怒り、エリヤを失った悲しみ、人として生きることの苦楽。

そのすべてをエルシャディに流し込んだ。


「……なぜと言われれば、その方が安全だと思ったからだ」


 記憶をすべて消し去り、力を持った赤子にエルシャディを変えることもできた。

しかし、それは問題の先送りにしかならない。

いずれ神としての本能に気がつき、再びその使命に準ずるための活動を開始するだろう。

アノスの目が届かないところでそれが起きればもう誰にも止められなくなってしまう。


「どうだ、俺の記憶は? 人間の代表を気取るつもりはないが、それなりのものが詰まっているだろう」


 エルシャディのそばでしゃがみ込むアノスは彼の顔色を伺いながらそう呟く。

その声に神は答えないが、特に否定もしない。

彼は頭の中にある数々の記憶を反芻するように思い浮かべながら、それに付随して訪れた己の変化を噛みしめていた。


「生き方を強要する権利がないのは俺も同じだ。

お前が提示する生き方を拒否する以上、俺もお前に正しさを説くつもりはない」


 憎しみを向けるでもなく、親しみを向けるでもなく、

淡々を語るアノスの口調に、数々の非道を繰り返した神を糾弾する意図は見えない。

エリヤを殺したエルシャディは長年追い求めてきた復讐の対象だというのに、

それでも彼は僅かな殺意も持っていなかった。


「だが、人の世を創ると言うなら、人を見ろ。

彼らがなにを見て、なにを感じて生きているのか、一度知ろうとしてもいいはずだ」


 人を支配すれば信頼や羨望と同時に、疑念や失望を向けられることになる。

世を統べる決意をするならば、それに正面から向き合う覚悟を持たねばならない。

感情を受け止めることから逃げてはならなかった。


「それでもお前の意志が変わらないのなら、その時は戦おう。

お前の考えを否定する権利はないが、従う義理もない」


 それだけを言い残すとアノスは立ち上がりエルシャディに背を向ける。

これ以上なにも言うことはなかった。すべては彼自身が考え決めること。

無責任と言われようと、身勝手と言われようとも、これがアノスの導き出した最善だった。


「二人とも無事か?」


 へたり込むソラハの手を引き上げながら小さく微笑むアノス。

憑き物が取れたように穏やかなその表情に少女と兄はしばし見とれていた。


「お、おう。誰かさんが守ってくれたおかげでな」

「アノスこそ……大丈夫だったの? あんな光に飛び込んで」


 二人の目からでは、アノスがいきなり光に向かって走り出したようにしか見えていなかった。

背中から離れるなと言っておきながら、走り出しのだ。

その瞬間二人の肝が冷え切ったのは言うまでもない。


「ああ、彼女が守ってくれた」


 反省するようにはにかむアノスは、遠目から三人を眺めるエリヤに目を向ける。

その視線を追って彼女を見つけたボラルは短く声を上げ、ソラハは放心するように息を吐いた。

穏やかでありながらも、ばつが悪そうな顔で佇む彼女の身体は、徐々にひび割れ朽ち始めていた。


「……どうして、エリヤが」


 声も体も震わせながら二人は彼女に近づいていく。

どれだけ近づいても、どれだけ目をしばたかせても、目の前に立っているのは紛れもなくエリヤ・スクルゥその人だった。


「アノスは大きくなったけど、ボラルは随分と縮んだね。だから野菜もたくさん食べなって言ったのに」


 崩れていく手のひらで頭を優しく撫でるエリヤ。

慈しみに溢れたその手が離れる頃にはボラルの目には大粒の涙が溜まっていた。

歯を食いしばって落涙を押さえるのは、みっともない姿を見せない彼なりの成長の示し方だった。


「あの様子を見るにアノスってばあんまり変わってないみたいだから。ボラルがちゃんと支えてあげて」

「……いや、あいつはあれで結構大人になったよ。しわが増えっから、あんま心配すんな」


 涙声を悟られるように俯き加減で口にした声は、努力むなしく大きく震えっぱなしだった。

それでも、しっかり年長者としての言葉を伝えたボラルに母は最期の抱擁を交わした。


 そして彼女はソラハに向き直る。ボラルに向けたものとは毛色が異なる真剣な表情。

母が娘に向けるものとは思えない緊迫した顔の雰囲気にソラハは思わず一歩引きそうになる。

しかし、それでも踏みとどまったのは彼女と同じ顔をしている自分に気がついたから。

不安と緊張で固まる二人の顔は、鏡合わせのようにうり二つだった。


「……あなたは、わたしのお母さん、ですか?」


 返される答えに不安を覚えながらも震える口から放たれるソラハの声。

宙を漂うようにゆっくりと言葉にされた問いはエリヤの胸に染み込んでいく。

切り傷に疼くような鈍い痛みを感じながら少女の言葉を彼女は受け取った。


「……あなたの母親を名乗る資格はないと思う。

周りの目と、なにより自分の保身のために私はあなたを捨てたんだから」


 涙は流さない。流すことも許されないとエリヤは考えていた。

信仰に従って後悔などしないままなら、まだ潔かったのだろう。

しかし彼女はアノスたちと絆を育み、後から過ちを認識してしまった。


「そんな身勝手な女だけど……駄目な親だけど……」


 許されないとわかっているのに許されたいと思ってしまう。

中途半端な自分に嫌気がさしながらも、それでも矛盾した気持ちから目を逸らせないのは恐らくこれが最後だから。

見守ることを放棄してしまった少女の成長を目にできるのは今しかないから。


「あなたを……ソラハと呼んでもいいですか?」


 流さないと決めていた涙が声と共に溢れてくる。それは向かい合う少女も同じだった。

今日初めて聞いたはずの声で口にされた自分の名前。

父に名づけられ、大切にしてきた名前に、また一つ大事なものが宿ったのだとソラハは感じていた。


「お母さんッ!」


 こらえていた感情が溢れ出し、ソラハは母の胸に飛び込んでいく。

小さな娘の体と想いを受け止めたエリヤは、その重みを噛みしめるように抱き上げる。

二人の心に宿るのは後悔や懺悔ではなく、普通の親子が持って当然の純粋な愛情だけだった。



・・・



 太陽が完全に顔を出し、下層は事の収束に気がつきだしたのかにわかにざわつき始める。

本部と王城の安全を確認するため騎士たちが駆けつけるのも時間の問題だった。


「ごめん。情けないところ見せちゃった」

「いや、情けなさでいったら俺の方が数段上だ」


 指で涙を拭うエリヤの顔を横目に眺めながらアノスは穏やかな心持で眼下の王都へと視線を移す。

数日前の彼だったなら、消えゆくエリヤに縋りつき泣き叫んでいただろう。

彼はそんな自分の成長に少しの寂しさと、大きな誇りを抱きながら母親へと向き直る。

エリヤも覚悟を決めたように小さく咳払いをすると息子に向き直った。


「……やっぱり、与えられたに過ぎない力だな」


 徐々に人としての形を失っていくエリヤ。

既に指の数本が関節を軸に崩れ、脚部の均衡も歪み始めていた。


「そりゃあそうだよ。アノスは神様じゃないんだから。人生都合のいいことばかりじゃありません」


 人生の教訓でも説くように指を立てるエリヤ。その人差し指も千切れる寸前だった。

アノスが得た創造の力は不完全で、二度目の死は免れない。それでもエリヤに悲壮感はなかった。


「感謝してるよ本当。ソラハに謝れたし、私より背が伸びたアノスも見れたし。

ボラルは、まああれはあれで愛嬌が出たと思う」


 遠目から見ているボラルに聞こえないようクスクスと笑うエリヤ。

彼女に感謝を向けなければならないのはアノスの方だった。


「俺たちこそ、あの時エリヤが来てくれなければ今ここに立っていられなかった。本当にありがとう」


 まっすぐと瞳を見つめて感謝を述べるアノス。

その言葉は幼き頃に伝えきれなかった想いでもあった。

ある日唐突に奪われてしまった幸せの日々。その終わりを今度はしっかりと受け止める。

振り返らず、前を向いて未来に進んで行くために。


「立派になっちゃって……」


 改めて告げられる感謝が気恥ずかしく、エリヤは思わず目を背けそうになるが、息子の想いを流すわけにはいかなかった。

まっすぐと向かい合う二人はしばし無言でお互いを見つめた後、どちらともなく目を閉じる。


「これ以上崩れるのは流石に見た目が恐ろしいことになるから……お願い、アノス」

「……ああ」


 閉じた瞳の向こう側から聞こえてくる穏やかな声にアノスは頷く。

肩の力を抜くように想像の力を弱めていくと、目の前の存在が希薄になっていき、エリヤを構成していた肉体が自分の中に還っていく。

その時、聞こえた声はきっと気のせいではないのだろう。


―――どうか、私がいなくなっても、貴方たちが幸せに生きられますように―――


 それはかつてアノスが聞き逃した、母親の最期の言葉。

記憶を与え、生きる術を与え、子どもたちが幸福な人生を歩むことを望んだ愛の言葉だった。


 頬を撫でる冷たい風を受け、アノスは目を開ける。そこに母の姿はなかった。


「……ちゃんと聞こえたよ、母さん」


 駆け寄ってくるソラハとボラルに目を向けながらアノスは吹く風に声を乗せるように呟く。

早朝の冷たい風に乗って王都の空を抜けていく声は、ざわめく街の雑踏へと溶け、染み渡るように消えていった。


次回エピローグ

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