守り抜く者
数日前から地下牢の雰囲気はやや慌ただしい。
大半はソラハとヘイツの二人がなにをするでもなく過ごしているだけだが、時折数人の来客がやってくることがあった。
ヘイツが扉の向こうでなにやら口論している。
ソラハは格子の中で聞き耳を立てることしかできないが、それでも大声で話すヘイツの声が何度か耳に入ってきていた。
「何度も言わせんなッ! これは俺が隊長から直々に命じられた仕事だッ!
所属も明かせねえお前に任せられるわけねえだろッ! とっとと帰れ仮面野郎ッ!」
その怒声を最後にヘイツは苛立った様子で牢に戻ってくる。
何度も舌打ちを繰り返しながら固い椅子に深く腰掛け、しまいには大きなため息と共に頭を抱え込んでしまった。
「……最近人がよく来るけど、なにかあったの?」
恐る恐る話しかけるソラハの声を聞いたヘイツは彼女に睨みつけるような視線を向ける。
しかし冷静でない自分に気がついたのか、顔を背け大きく深呼吸を繰り返すとうつむきながら静かに口を開いた。
「隊長が……殺されたってよ」
「え……?」
深く、重い悲しみを押さえつけるように吐き出された言葉は、それでも悲壮感を隠しきれない。
その一言だけで、ヘイツ・ネイバックが自身の隊長にどれほどの想いを向けていたかがソラハにも理解できた。
「いつかは……それこそ戦争でも起こればそんな日も……て思ったが、
まさか感謝祭の当日にそんな知らせを聞くことになるとはな」
彼は乾いた笑いをむなしく響かせながら、処理し切れない感情をなんとか受け止めようともがいている。
その姿がなんとも痛ましく、なにも事情を知らないソラハでさえ思わず手を差し伸べたくなってしまう。
「……えっと、あの……」
しかしそれをヘイツは許さなかった。声を出しかけたソラハに彼は再び恨みすら込められた視線を向ける。
親の仇にでも向けるようなその目に一瞬にして気力を奪われた少女は膝を折り、尻もちをついた。
怯える彼女の姿を見たヘイツは再び顔を背け深呼吸を繰り返す。
彼自身自分の感情にどのような答えを出せばいいかわかっていないようだった。
「……お前、アノスって野郎を知ってるか」
その言葉に思わずソラハの胸が跳ねる。少女が逆徒であることを知る唯一の人物。
その名前が騎士の口から発せられる意味を考えずにはいられず、彼女の顔は一気に青ざめる。
その様子をヘイツは見逃さなかった。
「知ってんのかよ……まいったな、これは」
彼は失望にも似た感情を乗せながら繰り返し大きく息を吐く。
それはため息というよりは呼吸を落ち着けるために行われる類のもの。
そうしなければ、向かうあてのない荒ぶる怒気が、目の前の少女に向かってしまうとわかっていた。
「とある事件の重要参考人。その監視及び警護。
対象を死なせず、殺さず、傷つけず、命令あるまで待機せよ。隊長はそれだけを俺に命じた」
小さく、静かに、噛み締めるように呟くのは、亡き隊長から最後に下された命令。
一度失敗し、腕を一本負傷した男を再び信じ、命じた任務。
ヘイツにとってそれは命に代えても成し遂げなければならない仕事だった。
ゆえに彼は今、背反する二つの感情に苦しんでいる。
「あの仮面野郎が言ったことが本当なら……隊長を殺したのはお前の連れだ」
その一言で、ヘイツが自分に向ける視線の意味をソラハは理解する。
最も敬愛する人物を殺した男に仲間。殺しに直接の関係がないとわかっていても、膨れ上がる感情は抑えきれないのだ。
当の本人がこの場にいない以上、行き場のない怒りは最も近しい者へと向けられる。
「まったく、精神力は割とある方だと思ってたんだが、俺の自己評価はあてになんねえな」
清く正しく民を導く騎士として、心がけていた矜持を保っていられる自信が今のヘイツにはなかった。
ハダルから下されていた命令がなければ、すぐにでもソラハに手を上げていただろう。
最も程度が低く、幼稚な八つ当たり。感情の暴走を押さえつけることの難しさを彼は久方ぶりに痛感していた。
「お前、命が惜しかったら俺に話しかけんじゃねえぞ……
今、お前の声を聞いてまともでいられる自信がねえ」
それは今のヘイツがソラハに向けられる最大限の優しさだった。
騎士としての理性と悲憤の感情がせめぎ合う中、そんな言葉をかけられたのは
やはりこの男が本質的に善人だからなのだろう。
善き人であるからこそ人を愛し、愛するからこそ失えば悲しむ。
ゆえに怒り、憎しみ、感情を御しきれねば他者を傷つけてしまう。
神なるものが真に完全な存在だったのなら、人にこんな欠陥を残しはしなかっただろう。
しかし、扱いを間違えれば身を滅ぼしかねないこの欠陥こそ、人を人たらしめるものに違いなかった。
「それじゃあ……」
ヘイツを見て、漠然とそんなことをソラハが考えていたのはある種の現実逃避だった。
彼女はアノスが復讐に狂っていることを知っている。
その標的にその隊長が含まれていたのなら殺すこともあり得るだろうと考えてしまう。
そんな理性の結論を否定するために、彼女はヘイツを通して人の本質などという考えを巡らせていた。
そしてその中で意図せず、一つの疑問にぶつかってしまう。思わず声が出たのもそのためだった。
「それじゃあ逆徒は?」
虐げるべき存在であると神に定められ、時に同族とも争いながら生きている逆徒たち。
彼らは誰を愛し、誰に愛されながら生きていくのだろうか。
『自分自身のために……人として生きろ』
父から託された最期の言葉。『生きるという欲望に正直になれ』という意味にソラハは受け止めたが、
その本当の意味は『他者を切り捨て自分のみを愛せ』ということだったのだろうか。
「……違うよ」
一瞬頭をよぎった考えを少女は否定する。
善悪の考え方をアノスに示され、ヘイツという騎士から彼女が感じ取ったのは、自分という存在にどれだけの重みを置くかということ。
自分を大切に思えばこそ、他者への想いに重みが生まれるということだった。
己を卑下し他者だけを信じても、そこに生まれるのは『妄信』と『依存』ばかり。
自分が自身に価値を見出すことこそ、人として生きるということなのだとソラハは思い至る。
そんな少女の呟きと、地下牢の扉は強引に蹴破られたのは殆ど同時だった。
・・・
捕まり連行されているように装い、すれ違う騎士たちの目を躱しながら三人は本部の目の前までたどり着いていた。
見上げるほどに巨大で厳かな門は固く閉じられ、侵入する隙などどこにもないように思える。
今も、数人の騎士が門の上からアノスたちを疑わしそうに見つめていた。
「……東の抜け道というのはどこにある?」
「外円を回った先に入口があったはずだよ」
エイカーは警戒を解くように騎士たちに手を振ると、
フードを被せたアノスを無理やり引きずっていくふりをしながら東へと進んで行く。
警備の騎士たちは本部に勤めるエイカーの変人具合を知っているのか、その後ろをついていく犬の姿を気にすることはしなかった。
「今は枯れちゃってるけど昔はこの上辺りに水源があって、王様はその上に城を建てたんだ」
舗装された道の脇には不自然な窪みが長く続いている。
以前はここに水が流れ下層まで続いていたのだろう。
使われなくなって久しいのか、土や砂利で埋められてしまっている部分が所々見て取れる。
「ハダルの言っていた地下牢は、使われなくなった地下水路を改修して造られたんだ。
勿論普段は塞がっているけど、万が一の避難経路として今でも道は繋がってる」
本部を囲む塀の外周をしばらく歩いた先には緑の多い広場があった。
人気が少ないのは上層の門を抜けた先にあった広場と同じだが、こちらに設置された巨大な噴水からは水は流れていない。
長く続いていた水路の窪みは、その足元で途絶えていた。
「この中か」
「うん。ここからは見えないけど、上の方に人が出入りできる穴がある。
そこを下りれば地下まで行けるはずだよ」
その言葉を聞いたアノスはすぐさま噴水の上に登ろうとするが、彼の肩に手をかけたエイカーがそれを制止させる。
目的地を目の前に行動を妨害され、責め立てるような視線を向けるアノス。
そんな彼を落ち着かせるようにエイカーは手のひらを前に出すと、その指で近くの城壁を指さした。
高い塀の上に目を凝らせば、二人の騎士がこちらを見下ろしている。
正門ほど厳重ではないとはいえ、本部の周囲に警備が行き届いていない場所があるはずもなかった。
二人の騎士はこちらを見ながら、お互いになにかを確認し合うように時折頷いている。
アノスに緊張が走った。ここで増援などを呼ばれればソラハを助けるどころではなくなってしまうのだから。
「それじゃあ、僕が案内できるのはここまでだ」
先ほどと同じように騎士たちへ手のひらを向けたエイカーは、その腕を薙ぎ払う。
その瞬間、騎士の一人が宙を舞った。
凄まじい速度で空中に投げ出された騎士はしばらく体を振り回された後、状況を飲み込めていないもう一人へ突撃していった。
「その力は……」
「僕のバイソレッドはまだ見せていなかったね。新鮮味がなくて悪いけど、僕もハダルと同じ力なんだ」
塀から弾き落とされ、気絶させられた二人の騎士は地面に追突する直前に停止し、ゆっくりと降ろされる。
その様子からエイカーがハダルと同じように彼らの動きを操っていることは確実だった。
事前にエイカーの力を聞かされていたアノスは情報の食い違いに混乱する。
それは実際にエイカーの力を過去に見たボラルも同様だった。
「僕はこの二人が気絶した言い訳を他の騎士たちに伝えなきゃならない。君は早く先に行くんだ」
付近の警備はこの二人だけではない。二人がいなくなったことに周囲の者が気づくのも時間の問題だった。
バイスについて問い詰める暇もなく、エイカーは気絶した二人を連れて塀の上へと飛んで行く。自らを浮かせ、空を飛ぶ力の使い方もハダルのバイスと同じだった。
「どういうことだ? なんであいつ二つもバイスを持ってんだ」
エイカーが塀の向こう側に消えたことを確認し、ボラルがため込んでいたものを吐き出すように口を開く。
一人の人間が所有するバイスは一つだけ。その原則をエイカーは完全に無視していた。
「……まずは中に入るぞ。話は歩きながらでもできる」
一つも解を得ることができないまま、またエイカーに関する謎が増える。
複数のバイスといい、神への想いといい、不思議なほど信徒の型に嵌らない人物。
噴水の上に開いていた穴に入り、続く冷たい梯子を下りながらアノスは今までの彼の言動を振り返っていた。
神を嫌い、エリヤを知る協力者として突如現れた男。
ハダル、トラフ、ヒゲワシ、複数の関係を築きながらも、そのほとんどを切り捨てた男。
道化を演じ、心を隠しながらも、孤独に溺れ、アノスとの信頼に歓喜した男。
エイカーとの数少ない記憶を思い出しても彼という人間像が見えてこない。
なにをしたいのか、なにをさせたいのか、なにを求めているかがまるでわからない。
それは巧妙に隠されているがゆえなのか、それともアノスという人間が想像しうる余地を上回っているためなのだろうか。
「おい、そろそろいいか?」
ぐらついた地面に降り立ったアノスは頭上からの呼びかけに渦巻く思考を一度打ち切る。
エイカーは少なくともアノスの前では狙いを悟られないように動いている。
ボラルがいなければ、ヒゲワシとの関りの深さにも、複数のバイスを持っていることにも気がつかなかっただろう。
「もし奴の狙いを知ることがあれば、その要はお前だ」
飛び降りてくるボラルを死骸で受け止めたアノスは、落下の感覚に顔を強張らせている兄に告げる。
弟が自分を頼るような言葉をかけたことに彼は一瞬驚いた顔をするが、すぐに頼もしい顔で頷いて見せた。
二人は一切の光が届かない地下道を歩き出す。
並び立つ兄弟の顔は見えないが、お互いの緊張は手に取るように伝わっていた。
小さく吐き出される息が、地下の冷えた空気に震えている。
「ソラハを助けた後、あいつとはどうすんだ? 復讐の手がかりなんだろ?」
「王都を脱せば関係は断つさ。奴には秘密や嘘が多すぎる。
エリヤの死を探っているという話も本当かどうかわかったものではない」
ソラハを無事に奪還できさえすれば、エイカーの真意などどうでもよかった。
発言に信憑性がない以上、情報源としての価値もない。
復讐よりも未来を優先したアノスにとって、彼とこれ以上関係を続ける理由はなかった。
「だが……」
同時にその主張が受け入れられるともアノスには思えない。
先ほど見せられた歓喜にしても、エイカーが彼に対し強い執着心を抱いていることは明白だった。
しかし、たった数日の接点でそこまでの想いが形成されるとも考えにくい。
「ボラル。先ほどの男、エイカーの臭いなんだが、過去に嗅いだ覚えはないか」
過去、何らかの形でアノスとエイカーが出会っていたなら、あの様子にもまだ説明がつく。
アノスに彼との記憶はないが、ヒゲワシとの出会いが思い出せない時点で自身の記憶の正しさに確証など持てなかった。
「記憶にないだけで、奴と私は過去に顔を合わせたことがあったのかもしれない。
その時、そばにお前がいたかはわからんが……」
「うーん……」
犬の姿になってからボラルは数えきれない臭いをその鼻を通して嗅いできた。
人間の鼻とは比べ物にならない犬の嗅覚は、様々な情報を頭に伝えてくる。
まるですれ違うすべての者にその日の生活状況を自己申告されるようだった。
もちろん、嗅いできたすべての臭いを覚えているわけではない。
しかし、たった一度しか嗅いでいない臭いでも、何かきっかけがあれば思い出せる自信がボラルにはあった。
「……なんとなくだが、たまにお前からあいつと同じ臭いがしてた気がする。
最近じゃなくて、もっと前から」
明確な人物像は浮かばないが、ボラルの鼻には確かに覚えがあった。
直接嗅いだのではなく、家に帰ってきたアノスの臭いに混じっていた。
「具体的な時期はわかるか?」
その問いにボラルは頭をかしげる。彼の中で出た結論に彼自身が納得いっていない様子だった。
「時期っていうか……割と頻繁に嗅いでた気がするんだよな。いつもってわけじゃねえけど。
お前が使う死骸の臭いに似てたから、さっきの手紙を嗅ぐまで気にしたこともなかった」
徐々に記憶を掘り起こしていくように、ボラルは過去に感じた臭いを鮮明にしていく。
アノスが使う死骸の臭い。彼がどれだけ抑え込もうともボラルの鼻にはその臭いが感じ取れてしまっていた。
傷ついた身体を死骸で補うごとに、その臭いが強まっていったことをよく覚えている。
そんな腐臭に慣れ始めた頃、よく似た、しかしどこか異なるかすかな臭いをアノスが持ち帰ってきた。
一度ではなく、何度も頻繁に。
「私の死骸と、同じ……」
その言葉で嫌でも浮かんでくる人物がいる。自分と同じ死骸の力を持った男、ヒゲワシ。
彼とボラルは面識がない。実際に顔を合わせたことがなく、当然彼の臭いをボラルが嗅いだこともない。
「私が……頻繁に会っていた人物」
思わずアノスの足が止まる。それは一つの確信を得たと同時に、一瞬思考が停止したからだった。
暗闇の地下道に地鳴りのような轟音が響き渡る。明らかに自然発生した音ではない。
誰かがこの先の地下牢で戦闘を開始したとアノスは一瞬で理解する。
「アノスッ!」
「ああ、急ぐぞ」
目的地の先で繰り広げられる戦いの声音。
カノイの屋敷にたどり着いた時と全く同じ状況に不穏なものを感じてならない。
二人は足場の見えない地下道を全力で駆け抜ける。
この時期に、この場所で戦闘を仕掛ける人物などアノスは一人しか知らない。
「ソラハ……頼むから無事でいてくれ」
石畳を踏みつける足音は徐々に激しさを増していく地響きにかき消されていく。
この音は一方的な虐殺の音ではない。
ソラハではない誰かが、向かってくる何者かと剣を交えていた。
・・・
扉を蹴破る音にいち早く反応したヘイツは腰の剣を本能的に抜き放ち、悲しみに染まっていた思考を瞬時に切り替える。
顔面に向けて飛び込んでくる扉や壁の破片を一つ残らず切り飛ばし、その先に立つ相手へと戦士の目は向けられた。
「てめえ……うさんくせえ野郎だとは思ってたが、そこまでイッちまってるとは知らなかったぜ」
壁を挟んだ先に立っていたのは数日前からたびたび牢を訪れていた仮面の男。
ヘイツにハダルの死亡を伝え、後釜を名乗り出ていたヒゲワシだった。
彼はヘイツを一瞥することもなく、誰かを探しているかのようにあたりを見回す。
その態度は戦士であるヘイツにとって何よりの屈辱だった。
「人の職場に土足で入り込んどいて挨拶もなしかよ。どいつもこいつも礼節ってもんがねえのかッ!」
言うが早いか、体内時間を加速させたヘイツがヒゲワシに肉薄する。
多少の広さがあるとはいえ室内戦はヘイツの得意とするところではない。
機動力が高くとも、行動範囲が制限されれば十全な力は発揮できない。
ゆえに狙うは早期決着。
片腕で振るわれた一撃目は、正真正銘必殺を意図した手加減無しの全力攻撃だった。
「答えろ……女はどこだ」
油断はしていない。傷心で剣が鈍っているわけでもない。
にもかかわらず、ヒゲワシは剣閃を見ることもなく刀に形を変えた右腕でヘイツの攻撃を受け止めた。
口にした言葉には苦悶どころか戦いに臨む意志すら感じられない。
「なにもんだ……てめえ」
「質問をしているのはこちらだ」
苛立ち混じりの言葉と共に、ヒゲワシの全身から死骸の杭が触手のように伸びる。
ヘイツは胴体を狙ってきた数本の杭を切り伏せるが、際限なく増幅する死骸に意味はない。
切断面からさらに触手の数を増やしながら、ヘイツを拘束せんと不形の杭が宙を駆ける。
「あの嬢ちゃんになんの用があるかは知らねえが、こっちも仕事でよ。
女を訪ねんなら、先にノックの一つでも覚えてこいや変質者がッ!」
ソラハは、奇跡的に無傷のまま檻の外へと逃れていた。
皮肉にも彼女を拘束していた鉄格子が吹き飛んできた石壁から彼女を守り、歪んだ鉄格子は彼女が脱出する隙間を生んだ。
しかし、檻の外に投げ出されればヒゲワシの目に留まることは避けられない。
「あなたッ!? 情報屋の……」
向けられた少女の驚愕に取り合うことなく、
それまでヘイツのみを執拗に狙っていた触手が、その瞬間を皮切りにすべてソラハへと向かっていく。
直線的な触手の伸びから繰り出されるのは拘束の動きではなく、刺突による殺傷攻撃。
ヒゲワシは騎士であるヘイツではなく、逆徒のソラハに強い殺意を向けていた。
「女。お前に恨みはないが、英雄は孤独でなければならない。新世界の礎として早々と散れ」
神であるが如きその言葉は傲慢にして尊大。
仮面で隠された口から告げられた宣告は明確な殺意となって倒れるソラハへと向かっていく。
降りかかる外敵を払う力を少女は持っていない。
反射的に両腕で防御姿勢を取るが、時が進めば彼女は物言わぬ肉塊に変えられてしまうだろう。
だがここには時を操る騎士がいる。
「俺を無視すんじゃねえよ。寂しいじゃねえかッ!」
一瞬にしてソラハの正面へと回り込んだヘイツが、全身の急所を狙い迫る杭を力任せに切り伏せる。
一時的だが宙を舞う触手の速度をも上回り、その連撃は斬撃の膜となって少女の周囲に脅威を寄せつけない。
「ヘイツ……」
自分を守るために正体もわからぬ敵に立ちはだかるヘイツ。
そんな彼にどんな言葉をかければいいのかソラハにはわからない。
礼か謝罪か激励か、しかしそのすべてが間違っていると次の瞬間ヘイツ自身が言い放つ。
「さっきも言っただろうがッ! 命が惜しかったら口閉じろッ! 俺から離れんじゃねえぞッ!」
その言葉は騎士としての矜持がヘイツ個人の感情を上回っていることの証だった。
ソラハにどれだけの不信感を抱いていようと、彼女を守る役目を任されたからには成し遂げねばならない。
「……愚かな男よ」
しかし、死骸を生み出すヒゲワシ本人を叩かねば根本的な解決には至らない。
一瞬の間に十や百の斬撃を受けようとも、霧散した死骸は新たな形を成しソラハへと向かう。
圧倒的な物量を前に、時を操る騎士が徐々に後退していた。
「何分、時間がないものでな。可能ならば彼が来る前に終わらせたい」
「ああ?」
ヒゲワシの振るう腕と同時に触手の動きが一瞬停滞する。
それが決定的な隙であったなら、ヘイツが見逃すはずはなかっただろう。
しかし彼は動けない。向けられた重圧の密度に押しつぶされる感覚が彼の足を地面から離さない。
隙ではない。触手の動きが停滞したのは攻撃対象を変更したから。
それは対面する騎士を傷害としてヒゲワシが認識した事実を意味していた。
「彼の英雄譚に貴様のような端役の居場所はないと言っている。
奴の削りカスならばそれらしく散って見せるがいい」
ソラハに向かっていた杭が無限の軌道を描きながら、再びヘイツに迫る。
しかし今は背後にソラハがいる。先ほどのように躱すことはできない。
騎士は全神経をバイソレッドと剣を握る左腕に集中させる。この一合が命令を果たせるか否かの分水嶺だった。
「てめえ……わけのわからんことをさっきからゴチャゴチャと語ってんじゃねえぞッ!」
バイスの発動によってヘイツの目に映る世界が徐々に停滞していく。
凍てついた時の中、向かってくる触手の波を見渡す騎士は、その隙間を駆ける余地を見出す。
ソラハの盾に徹していてはいずれ力の限界が訪れる。
舞い飛ぶ死骸の初動を追い抜き、ヒゲワシ本人への一撃を通す。
ヘイツが彼を退け、少女を真に守る機会はこれを措いてほかになかった。
「てめえの目的も思想も知らねえし興味もねえよ鳥頭ッ!
どんな理屈があろうとてめえにこいつは殺させねえッ!」
加速する時間の中で口にする言葉は常人には聞き取れない早口になっているだろう。しかし言わずにはいられない。
こちらの動きを捉えきれない触手を伐採していきながら、後方に陣取るヒゲワシへ向かうヘイツ。
剣を振りぬき、猛り、片腕で繰り出すは頭部から股下を裂く、両断の一閃だった。
「わからんな……」
だが、届かない。放たれた斬撃はヒゲワシの肉を切り裂く前に、死骸をまとった兜に防がれる。
動きを止められたヘイツを見逃すはずもなく、彼の左胸はヒゲワシの左腕に貫かれていた。
加速世界で放たれたヘイツの言葉にも、当然のように反応を返すヒゲワシはつまらぬものを見る目でヘイツを見下ろしている。
「その女は貴様の上司を殺した男の仲間だ。守ってやる義理などないだろう」
死骸によって形作られた兜の真価は防御に非ず。それに触れたものは生物、非生物にかかわらず死骸となる。
ヘイツの持つ銀の剣も例外ではない。斬撃を防がれた瞬間から止まらぬ浸食は始まっていた。
騎士の誇りを象徴する秀麗な剣が、それを握る左腕ごと血と肉を混ぜ合わせた塊へと変わっていく。
停滞した時間の中でも、その変貌は変わらない。
「確かに義理はねえ。だが俺は隊長の信頼に応えなくちゃなんねえ責任がある」
決死の攻撃が不発に終わったというのに、ヘイツの呟きに焦りはなかった。
心臓を握られ、誇りの剣を死骸も変えられ、守るべき少女は今まさに迫る杭に貫かれようとしている。
「他者のために責任を負わねばならないか。あのような神をありがたがっている人間らしい考え方だ」
自分ではない誰かのために、自分の行動を縛りつける考えがヒゲワシには理解できない。
神の信頼に応えるために信徒を名乗り、逆徒を虐げ、地上にのさばる人間を彼はなによりも嫌っていた。
「……そんなんじゃねえ」
ほぼすべての攻撃手段を失ってもなお、ヘイツは己の内に決めた意志を押し通す。
それは信仰心や、忠誠心などといった高尚なものではない。もっと単純な、想い。
「隊長は俺が最も信頼し尊敬する人だ……そんな人の信頼を、二度も裏切っちまったら、
俺が俺じゃなくなっちまうんだよッ!」
急速に膨れ上がっていく覇気と共に、ヘイツは吊り下げられていた右腕を引き抜く。
アノスに切られ、今なお使用を制限されている負傷の腕。
だが臓腑を握られている今、最早そんな我が身大事さを気にする段階ではない。
「俺が俺であるために成さなきゃなんねえことがあるッ!
なりたい俺になるために果たさなきゃなんねえ責任があるッ!」
敬愛する隊長の言葉を自分の命よりも重いとしたのはヘイツ自身。
ハダルでも、ソラハでもない。彼は誰でもない自分のために命を賭して命令の遂行を選んだ。
かつて自分を救ってくれた人と並び立つ存在になるために。
「それを、てめえみたいなクソ仮面野郎に奪われてたまるかよッ!」
その瞬間、ヘイツの周囲が停止する。
停滞ではなく、停止。相対するヒゲワシも、ソラハを貫く寸前の杭も、総てが凍りついたように固まっている。
それが死に際に灯る最後の煌めきなのか、それともただの偶然なのか。
ヘイツにしてみればどうでもよかった。
負傷した右手で繰り出すのは剛力の拳ではなく、揃えた五指による手刀。
鋭く尖り、鍛えられた騎士の突きが、紛うことなき最速と共に放たれる。
「やはり……貴様らは、どこまでも忌まわしい」
ヘイツのバイスが断ち消えたのは、彼の手刀がヒゲワシの首に深々と刺さった直後だった。
貫通した皮膚から鮮血のような死骸が吹き出し、ヘイツはソラハのもとへ吹き飛ばされる。
「ヘイツッ!? どうして、なにが……起こって……」
ソラハの目にはヘイツがヒゲワシの懐へ飛び込んでから弾き飛ばされるまでが一瞬の出来事に見えている。
加速した世界で動く人間を常人が目にすればそのような認識になるのが普通だった。
当然のように対応してみせたヒゲワシの異常性はヘイツ自身にしか理解できないだろう。
「クソ……それでもくたばらねえか、バケモンがッ」
心臓を引き抜かれ死に体となった騎士に、もはや起き上がる力は残っていなかった。
それでもなお意識を保っているのは、わずかに残ったバイスと、それを支える精神力あればこそ。
体内時間を減速させ、彼は死への秒読みを遅らせていた。
「さすがは出来損ないの譜系か……どこまでも私の自尊心に泥を塗ってくれる」
同じく致命傷を負ったはずのヒゲワシは攻撃に使用していた触手を自身のもとへ呼び戻す。
外れかかった首に死骸が飲み込まれていき、傷が徐々に修復されていく。
文字通り命を賭してヘイツが刻んだ一撃が水泡に帰そうとしていた。
「信頼だと? 敬愛だと?
貴様ら人間の心など、与えられた真実でいくらでも揺り動く風見鶏ではないか。
そんなものに裏づけられた己に、何の価値があるというッ!」
地下牢を埋め尽くしていた触手がすべてヒゲワシへと戻っていく中、彼は今まで見せてこなかった己の感情を零れさせる。
その怒りは倒れ伏すヘイツに向かっているのではない。
もっと大きな、種という存在そのものに向けられているようだった。
「私が創った信じる心、愛する心を貴様らは壊したッ!
悪を創り、対立を創り、多くの悲劇を生んだッ!
そんな貴様らに誇りを抱ける己など持てるはずがないッ!」
ほとばしる怒りの裏に見え隠れするのは、かすかな悲しみ。
鳥獣の仮面によって押さえつけられていた感情が決壊しようとしている。
嘆きにも似た叫びと共に放たれた死骸の波は、牢獄全体を覆いつくす必中の一撃。
触れるもの総てを死と変え、屍山血河を生み出す絶滅の大災害。
ソラハはもちろん、ヘイツにも防ぐ手段はない。対抗できるのは同じ死骸の力を持つ者だけだった。
「……少なくとも、その男はソラハを守り切った。命を賭け、命令を完遂した。
他の信徒がどうかは知らんが、ヘイツ・ネイバックの心は最期まで揺らがなかった」
その声と共に、ソラハとヘイツの背後、戦闘の余波で崩れかかった壁を打ち壊しながら死骸の波が流れ出してくる。
赤黒い流水は檻を、壁を、天井を、総てを死骸へと変えて迫る。
放出された死骸はヒゲワシの波とぶつかり合いお互いを浸食し始めていた。
「待たせて悪かったな。迎えにきたぞ、ソラハ」
「アノスッ!」
波のぶつかり合いに巻き込まれる前に二人を抱え、後方へと離脱させたのは戦闘の轟音を耳にし駆けつけたアノスだった。
ヘイツがヒゲワシを足止めしていなければ、彼の到着を待たずにソラハは殺されていただろう。
「アノス、私のせいでこの人が……ッ」
胸から止めどない血を流し続ける騎士のそばに駆け寄りながら、ソラハは泣き崩れるように跪く。
この男は彼女が父を失うことになった一因でもある。
しかし、そんな彼の命が目の前で失われていく時、胸に落ちるのはなぜかその時と似た感情だった。
「あの時と同じ……なんにもできないわたしを守って、お父さんも、ヘイツも……」
そしていつか隣に立つ彼も……。そう思い悩み始めようとしていたソラハの肩にアノスは優しく手を乗せる。
今も死骸の波は怒号を鳴らしせめぎ合っているが、不思議と少女の耳には彼の言葉がけがよく届いた。
「そう、あの時と同じだ。彼らは自分の欲望に従い、己の覚悟を貫き通し、お前を守った。
なればこそ、守られた側が口にするのは涙の懺悔ではないはずだ」
ヘイツ・ネイバックも、ニヘル・スクルゥもソラハのために死んだのではない。
彼らは自分自身の決意を果たすため、かつて心に刻んだ願いのために命を燃やし尽くしたのだ。
そんな彼らに救われた者が口にする言葉は、感謝の他にない。
「最早聞こえているかはわからんが、お前のおかげで間に合った。礼を言うぞ、ヘイツ・ネイバック」
「……あなたのおかげで、私はまだ生きてる。ありがとう、ヘイツ」
すでに死の寸前にいる騎士に向けて、アノスとソラハは偽りのない感謝を告げる。
それをうけたヘイツの表情は戦いの中で死する者とは思えないほど穏やかなものだった。
「ああ……隊長……俺、やれましたか……?」
すでに目も見えていないのだろう。
床に寝かされた彼が失われた視界の先に見ているのは己の窮地に駆けつけた隊長の姿だった。
かすれる声と共に伸ばされた手をアノスは握る。
その手を残った僅かな力でヘイツは握り返すと、安心したような顔で笑った。
「あとは……お願い……します」
握る手をすり抜け垂れ下がる腕。その腕は多くの逆徒を不幸にし、多くの信徒を守ってきた。
彼の死を悲しむことも、喜ぶこともアノスにはできない。彼はただ、最期の言葉に深く頷くだけ。
「……ああ、わかった」
ソラハを守る。自分の未来のために、自分で決めた、自分の覚悟。
その芯に新たな意志が重なっていくことを感じつつ、アノスはせめぎあう死骸の渦を振り返る。
波に隔てられた向かい側には、見慣れた仮面が立っていた。
「あの人、前に会った、情報屋の……」
命を失ったヘイツの姿に僅かな涙を零しながら、合流したアノスに情報を与えようと少女は言葉を詰まらせつつまくしたてる。
しかしそんな彼女の必死な視線にアノスは優しく微笑むような表情を返すだけ。
『心配するな』と、彼の瞳が告げていた。
「アノス、数日ぶりだな。その後はどうだ?」
先ほどまでの感情はどこへ行ったのか、至極落ち着いた様子で彼はアノスに話しかける。
その態度は明らかにヘイツやソラハに向けるものとは異なっていた。
「お前の狙い通り、落ち着かない毎日だ。王都にやってきたばかりの頃を思い出すな」
その言葉にヒゲワシは懐かしむような声を出し、記憶を思い返すように顎に手を当てる。
お互いの死骸がお互いを飲み込もうとしているというのに、彼はまるで談笑でもするような声で語りかけてきた。
「確かにあの頃はまだ今ほど力に慣れていなかった。
しかし、今は違う。君は新たな世界の先頭を歩む英雄として十分な力を得たはずだ」
自分が操る死骸の波に拮抗する力を持ったアノスを見て、ヒゲワシは感動しているかのように声を震わせる。
長年育て続けた息子の成長に感涙するかのような態度に、アノスは強い嫌悪を抱く。
「結局のところ、お前は私になにをさせたいんだ。
新世界だの、英雄だの、お前の言うことはなに一つ理解できない」
同種の力を持つヒゲワシが自身の力の源流だとヒゲワシの言葉を聞いたアノスは確信していた。
そして、長い間アノスに接触し続けていたのにも、確たる目的があってのことだと理解する。
「君がもっと単純な性格ならば、私も回りくどい方法を取らずに済んだのだ。
逆徒らしく素直に信徒を憎んでさえいれば……」
残念そうな声色を響かせながらヒゲワシはため息をつく。
当初の目的が上手くいっていないのか、彼は仮面の奥からアノスを非難するような目を向ける。
「アノス。誰よりも早くその力を身に落とした青年よ。君にはやらねばならないことがある。
君だけが逆徒を救い、新たな価値を彼らに示すことができる」
逆徒を救う。その言葉だけを聞けば、ヒゲワシが持たざる者たちのために奮闘する救世主のように見えるだろう。
しかし現実は違う。アノスは腕の中でいまだ震えているソラハを見つめていた。
「……お前の目的がなんであれ、誰かの意志に操られ生きていくなどお断りだ。
少なくとも、ソラハを殺そうとしたお前に従う気はない」
ヒゲワシがどんな壮大な野望を持っているかはアノスの知るところではない。
逆徒を救いたいというのなら、それを否定するつもりもない。
しかしそのためにソラハを犠牲にするとなれば話は別だった。
「やはり、他者との関りが英雄への道を崩すか……」
明確な対立の意志をその目で見届け、ヒゲワシは仮面を手で押さえながら首を振る。
新世界の英雄も他者に縛られれば、ただの人に成り下がる。
長年待ち続けた者が、そんな矮小な存在になることを彼は認められない。
「アノス。君にどれだけ恨まれようと、私は私の成すべきことをするつもりだ。
今はわからないだろうが、いずれ私の正しさに気がつく時が来る」
その言葉と共にアノスの死骸が徐々押し返されていき、死の波の拮抗が崩れていく。
同じ能力を持っているとはいえ、二人の力量には確かな差があった。
ヒゲワシにその気があればすぐにでもアノスたちを押しつぶすこともできたのだろう。
そうしなかったのは語り合う場を設けたかったからに他ならない。
力ではなく対話によって協力を仰ぐため。
その望みが絶たれた今、ヒゲワシは全霊をもってアノスの繋がりを断ちにかかる。
「できれば君を傷つけたくはない。大事になる前に、その女を捨てろ」
拮抗を完全に打ち破ったヒゲワシの死骸がアノスたちに迫り狂う。
室内全体に流れ出す奔流を躱すことはできない。
抱き上げたソラハを捨てない限り、攻撃が止まることもない。
自分かソラハかの二択を迫られたアノスはその場から一歩も動かず、迫る死の波を見つめている。
自分が今まで操ってきた力の強大さとおぞましさとを感じながら。
「ソラハ……私はどうにも選ぶという行為が苦手なようだ。
二択を迫られたら、そのどちらも手に入れたくなってしまう」
迫る絶命の波に恐れをなす少女を安心させるためなのか、アノスは極めて穏やかな声色でソラハに語り掛ける。
絶望など訪れていない。望む未来はこの先に通じていると告げるように。
「ボラルに言わせれば、そういうところが子供のままだということか」
自嘲気味に小さく笑ったアノスはヒゲワシに押し崩された死骸をすべて、天井目がけて打ち放った。
地下牢の天井、その上の地面を縦横無心に掘削しながら死骸は勢いを落とすことなく突き進む。
そうなればなにが起こるか。
「ゆえに私は三つ目を選ぶッ! ヒゲワシ、お前の示した道に沿う義理はないッ!」
時を待たず、地下牢を支えていた天井は崩壊を始め、崩れ去った地面は死骸の波ごとヒゲワシを飲み込んでいく。
しかし、触れるものを侵食する力を前に、流れ込む土塊如きが障害になるはずもない。
「呆けたかアノス。こんなもので我らの力が止まるものかッ!」
頭上から降りかかる岩や土をすべて死骸に変えながら、なおもヒゲワシの波は止まらない。
しかし地下に穴をあけたアノスの狙いは土砂による直接の妨害ではなかった。
「お前こそ落ち着いたらどうだ。ここがいったいどこなのか、忘れたわけではないだろう」
地下の天井に開いた大穴。その先に通じるのはもちろん地上の騎士団本部。
その中枢に位置する場所だった。
感謝祭当日であっても多くの騎士たちが本部を守っている。
その中心にいきなり死骸の波が押し寄せたらどうなるか。答えは火を見るよりも明らかだった。
「いつまでも人知れず動き回るのは窮屈だろう。そろそろ大衆に姿を現してもいい頃ではないか?」
地上へと開いた大穴から何十人もの騎士が降り立ってくる。
その全員が死骸の発生源であるヒゲワシを睨みつけていた。
今さらどんな姿に変わろうと、その目を躱すことはできない。
「貴様、何者だッ! この場が栄えある聖王騎士団の本部と知っての攻撃ならば……」
「傀儡共が……栄光を語るなど身の程を知れッ!」
騎士の言葉が終わる前にヒゲワシの死骸が周囲に放たれる。
一度触れれば命を落とす致命の一撃は、初激で二十を超える騎士たちを屠るが、ここは騎士団の総本山。
集う騎士たちの勢いは衰えず、それこそ波のようにヒゲワシへと迫る。
「総員傾注ッ! これは騎士団、ひいては王国への明らかな敵対行動だッ! 全力をもって眼前の対象を排除せよッ!
これは訓練ではないッ! 繰り返す、これは訓練ではないッ!」
むしろ二十数名の仲間を失ったことで騎士団全体の戦意が向上していく。
彼らは神に仕える騎士として共に学び、競い合ってきた者たち。
その結びつきは並大抵の恐れで覆せるものではなかった。
「自分が逃れるために囮を呼ぶか。君もなかなか残酷な手段を使う」
ヒゲワシは迫りくる無数の騎士たちを捌きながら、すでに見失ったアノスへ皮肉を飛ばす。
ここにいるすべての騎士がヘイツ並みか、それ以上の実力を持っている。
いくら死骸の力が強力とはいえ、瞬時に全滅させることは不可能だった。
「彼らは神の作ったこの国を守るための騎士たちだ。
新世界がどうのと言っているお前と対立するのは自明だろう」
ソラハの手を引き、通ってきた隠し通路を駆け戻るアノスは背後から聞こえてきた皮肉に呟きを返す。
少なくともハダルとヘイツ、二人の騎士を彼は殺した。騎士団に狙われる理由としては十分だろう。
「アノスッ! ソラハッ! 無事かッ!?」
壁向かいに待機していたボラルが地下牢から脱出した二人に合流する。
突如開始された大規模な集団戦闘に驚きながらも彼は駆ける弟に並走する。
その顔には家族たちが無事であることへの安堵と共に、大きな混乱が浮かんでいた。
「その顔を見るに、ヒゲワシの臭いは嗅げたのか」
「臭い? どういうこと?」
唐突なやり取りにソラハは疑問符を浮かべるが、ボラルは深く頷いて見せる。
地下牢への突入直前、彼はアノスからヒゲワシの臭いを嗅ぐように指示を出されていた。
それはある確信に確証を加えるための指示。
ヒゲワシの正体に関して、一つの答えを出すための指示だった。
「ああ、まさかとは思ったがお前の言う通りだったぜ」
アノスはソラハとボラルを背中に担ぎ上げ、背中に感じる二つの温かみを噛みしめながら出口へのはしごを登っていく。
地下道を抜け、王都を脱出できれば三人は自由な暮らしを手に入れることができる。
その障害が残っているとすればただ一人だけ。
「ヒゲワシとエイカーは同じ臭いだった。あいつら理屈はわからねえが、恐らく同一人物だ」
「……やはりか」
三層に拠点を置いていた情報屋と一層の騎士団本部で働く騎士。
この二人が同一人物であるはずがない。もちろんアノスも初めはそう考えていた。
体が一つしかない以上、騎士と情報屋の一人二役を演じるには一層と三層をそのたびに行き来しなければならない。
騎士団に勤めるエイカーが、朝まで酒場で飲んだくれているようなヒゲワシに扮することなど不可能なはずだった。
「ヒゲワシの体はすべて死骸で構成されていた。
私のように欠損部分を補ってきた慣れ果てかと思っていたが、初めから分身として生み出されていたのなら納得がいく」
ヒゲワシとして三層で集めた情報がエイカーへと還元されていたのなら、アノスに理解ある行動をとれたことにも説明がつく。
彼はずっと以前から分身の目を通してアノスを観察し続けていた。
「それじゃあ、あいつは三つ目の力を持ってたってことか」
ボラルが初めに見た、相手を眠らせる力。抜け道に侵入する際、警備を無力化した物体移動の力。
そしてアノスと同じ死骸の力。二人が同一の存在なのだとしたら、彼はそれだけの力を有していることになる。
「少なくとも二つ以上の力を持っていることは確実だ。
三つ目があろうと、四つ目があろうと不思議ではない」
そもそも彼の力をバイソレッドとして認識していたのが間違いだった。
自らが持つ死骸の力にアノスは何度か異質なものを感じている。
ならば同じ力を持つ者も、また異質な存在だと考えるべきだった。
「でも、あいつらが同一人物だったとして、目的はなんだよ?
アノスにすり寄ってあいつになんの得があるってんだ」
「……それは本人に聞く他ないだろう」
はしごを登り切ったアノスは噴水の下に二人を下ろす。
彼は話の内容についていけず混乱しているソラハの頬をひと撫ですると、自分を待ち受けている存在へと振り返った。
「そういうわけだ。話を聞かせてもらうぞ、エイカー」
誰もいない広場の中心。
そこに置かれたベンチに腰かけているエイカーはアノスたちの到着を待っていたかのように立ち上がる。
いつもの貼りつけられたような笑顔を浮かべながら。
「心配したよアノス君。いきなり本部が騒がしくなってからもしかして、と思ってここへ戻ってきたんだ」
「あの人ッ!」
その顔を一目見たソラハは驚愕の表情を浮かべる。自分を眠らせ誘拐した張本人が現れたのだ。無理もないだろう。
エイカーはそんな彼女に一瞬視線を向けるが、すぐに興味を失くしたようにアノスへと笑顔を戻す。
そこには関心の優劣がまざまざと示されていた。
「騎士たちへの言い訳は済んだのか?」
「本部にあれだけの被害が出ちゃ、数人の気絶なんか目に留まらないさ。
あれもどうせ君たちの仕業だろ?」
短時間で本部を大混乱へと導いた手腕を評価しているつもりなのか、愉快そうに笑うエイカー。
そこに騎士として仲間を心配する気配は一切ない。彼の興味は初めから一人だけに注がれ続けていた。
「これだけの騒ぎだ。混乱に乗じて王都を出るなら今しかないよ。
僕が先導するからみんな急いでついてきてッ!」
遠目に見える本部の中心からは、轟音と共に炎と黒煙が立ち昇っている。
耳をすませば風に乗って騎士たちの気合いや悲鳴の声が聞こえてくる。
一層で巻き起こったこの異変は王都全体から確認できるだろう。
感謝祭の警備に回っていた騎士たちが一層へ駆けつけてくるのも時間の問題だった。
「……どうしたの、アノス君?」
しかしアノスは動かない。ソラハとボラルを背中に隠し、形成した刀を敵と定めた者に向け構えを取る。
何度か繰り返されたこの構図にエイカーは頭を掻き、呆れたようにため息をついた。
「まったくなんのつもりかな? 悪いけど今は時間が惜しいんだ。
君だけじゃない、もたもたしてれば君の大切な子も危険な目にあうことになるよ」
不安そうな表情を浮かべながら二人を見る少女を指さし不安を煽るように彼は警告する。
その言葉に反応する前にアノスは間合いを一歩詰めた。
「いや……エイカー、お前はソラハたちの心配などしていない。
お前が心配しているのはもっと別のことだ」
ヒゲワシは度々言っていた。新世界の英雄は孤独でなければならないと。
新世界がなにかも、英雄がどんな存在なのかもアノスにはわからないが、孤独がどんなものかは知っている。
「まずお前はトラフにエリヤの過去を教えさせ、私から理想の母親という依存先を奪った」
生きる上でのすべての原動力だったエリヤの存在。
彼女の顔を伝え、妄信していた理想像を壊すことで、アノスから生きる意味を奪おうとした。
「そしてカノイ殺しの罪を着せ、こんどは王都内から私の居場所を奪った」
貴族殺しという最大級の罪を着せられたことで、アノスは今までの生活を続けられなくなった。
多くの騎士に追われる中、頼れる人物は次第に限られてくる。
「ハダルが殺され残った協力者はエイカー、お前だけだ。
王都を出るにしろ、ソラハを助け出すにしろ私はお前の協力を仰がなければならなくなる」
都市全体に牙をむかれる中、自分の味方でいてくれる唯一の存在。
もし、エリヤという依存先を失い、癒えぬ傷心につけ込まれていたら、彼が新たな依存先となっていたかもしれない。
「そして、そんな中ソラハを助けに行けば、ヒゲワシが扮した信徒によってソラハが殺されていた。
私は怒り狂い、信徒に対し深い憎しみを抱くことになる」
実際には起こっていない事象を坦々と述べ続けるアノスにソラハやボラルが困惑の表情を向ける。
初めはこれまでの経緯を言葉にして整理しているだけかと思っていたがどうにも様子がおかしい。
しかしエイカーだけはその意図に気がついているのか、貼りついた笑顔が徐々に曇っていく。
「お前の目的がなにかは知らんが、描いていた筋書きはこんなところか。
お前にとってエリヤの死などどうでもよく、初めから私を自分に都合のいい傀儡とすることが目的だったのだろう」
エイカーは最初から奇妙なまでに協力的だった。
それにアノスは違和感を覚えはしたが、エリヤの手がかりに飢えていたために追及をしてこなかった。
しかし過去を過去として受け入れた今のアノスにはその不自然さが浮き彫りになって見えている。
「アノス君。この非常事態になにを言いだすんだ。話は後からでもできるだろう」
「では一つだけ答えろ」
再び一歩、間合いを詰めながら問うのは、初めて顔を合わせた時にエイカーが口にした発言の意図について。
「お前は初対面の私に対し神が嫌いだと言ったな。それはなぜだ」
「なぜって、僕が神を嫌っているからさ」
恐らくエイカーが神を嫌っていることは確かだろう。
しかしそれが出会って数分も立っていないアノスに心情を吐露する理由にはならない。
「この国で、神への不信を口にすることは多くの危険を孕む。
あの時点で私が神を嫌っていた確証をお前はどのようにして得た」
「それはハダルから君の話を聞いたからさ。
死骸を操る賊が逆徒の収容所を襲撃して囚人の一人を助け出そうとしたって」
「ならばその囚人がエリヤのかつての配偶者であり、逆徒ではなかったことも聞き及んでいるはずだな。
逆徒ではない彼を助けようとした賊が神を嫌う者だととお前はなぜ知っていた」
「それは……」
度重なる追及にエイカーの声色が小さく低いものに変わっていく。
ばつが悪そうな顔であたりを見回し、言い訳を考えるような素振りを見せるが、しばらくして観念したように肩を落とす。
「……確かに僕はあの日以前に君のことを知っていた。
三層に暮らしている知り合いからエリヤのことを知る君のことを聞いて興味を持ったんだ」
「嘘だな」
反論の余地を与える間もなくアノスは荒々しい語気を浴びせかけるとまた一歩間合いを詰める。
その顔には、最早協力者への信頼など微塵も残っていない。
「私がエリヤについての情報を求め、かつ顔を見せていた人物は一人だけ。
情報屋ヒゲワシ。カノイやハダルを殺し、今も本部で暴れまわっている男だ。
それとも、そいつがお前の知り合いだとでもいうのか」
エイカーがそれを認めることはできない。
頷けばソラハの命を狙った者と自信との繋がりが露見することになる。
しかし、二人の関係性をアノスたちは手に入れている。
エイカーが言い逃れられる隙なども既に存在していなかった。
「エイカー。お前の誤算は私の兄の存在だ。
あいつがいなければ、お前の動きに気がつくまで多くの時間を費やすことになっただろう」
「兄……だと?」
笑顔が消えた後もなんとか平静を保っていたエイカーの顔が驚愕によって大きく歪む。
長くアノスを観察し続け、アノスだけを見ていたがゆえに気がつけなかった兄の存在。
その瞬間エイカーの鋭い目はようやくボラルを捉えた。
「まさか……」
動揺の声にそれまで口をつぐんでいたボラルが満を持して声を発する。
人間ボラルとして家族以外の他者と会話するのは随分と久々だった。
「俺の鼻は優秀でな、ひと嗅ぎすれば自己紹介文読まされるくらいには相手のことがわかる。
お前が持ってた手紙と、ヒゲワシってやつの臭いは全く同じことを言ってたぜ?」
止まらぬ戟音を耳にする限り、ヒゲワシはまだ本部で騎士たちと戦いを繰り広げている。
彼と今この場にいるエイカーが同一人物であるなどという結論は、ボラルの鼻無しでは確実にたどり着けなかっただろう。
「ただの犬っころだろ思って油断してたんだろうが、お前が複数のバイスを使ったところも俺は見た。
分身能力かなにか知らねえが、それでヒゲワシを操ってるんだろッ!」
アノスへの不自然なまでの接近、ヒゲワシとしての行動、所有する複数の力。
協力関係を解消するには十分な不信さがエイカーにはある。
少なくともこのまま腹を割ることなく行動を続けることはできない。
既にアノスは一振りで刃が届く間合いへと接近している。
数々の追及を受けたエイカーは俯き、その表情を確認することはできない。
意気消沈しているのか、憤慨しているのか、それとも悲しんでいるのか。
そもそもの目的がわからない以上それを判断することもできない。
「教えろエイカー。騎士団を裏切り、友を殺してまで、お前は私になにをさせたかった。
新世界の英雄とはいったいなんだ」
ヒゲワシが、エイカーがアノスに求めている役割。
それがなにを意味し、なにを成す存在なのか知らなければならない。
意図を知らねば協力も、決別することもできないのだから。
「……まったく、私はいつからこんな間抜けになってしまったのか」
低く、静かに呟かれたその言葉には大きな失望が宿っている。深く暗い、己への自罰。
かつて全能を自負していた身であるからこそ、彼が自分に抱く感情は怒りすらも超えたやるせなさだった。
「あまりに早計だったか……それとも待ち過ぎたのか……今となっては詮無いことか」
乾いた笑いを小さく響かせてエイカーは顔を上げる。
いつの間にか紫紺に染まっていた瞳がアノスを見る。
切っ先を向けられているが、その目に恐れはない。否、恐れだけではない。そこには何もない。
喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。先ほどまで有していたはずの、人として持つべき感情の波がその目には存在していなかった。
「なにをさせたかったのかと、言ったな」
その問いを投げかけるエイカーの姿は、まるで陽炎のように揺らいでいた。
初めは指先から、徐々に体を覆っていく紫の炎。
熱は感じず、代わりにアノスたちへ襲い掛かってくるのは全身を大地に叩きつけるかのような威圧感。
エイカーという身体に押し込められていたなにかが決壊したかのように、それは出てきた。
「私は君を……こちら側へ引き入れようとしたのだよ」
崩れ去ったエイカーの肉体を踏みつけ、姿を現したのは大柄の男。
アノスが死骸で創りだしたものとよく似た鎧を纏い、その背から消えぬ紫焔を立ち昇らせている。
他になにをしているわけではない。
ただ常時垂れ流されている激烈な威圧感はソラハとボラルの膝をその場で折らせていた。
まるで頭を垂れさせるように。
「こちら側……だと?」
三人の中、唯一刀を支えに立ち続けるアノスが聞き返す。
笑う膝に芯を通し、震える歯を噛み締める。自分を取り巻いていた存在の核を知るために。
「永き年月の末帰還を果たした真なる神、その民として、続く後進を導く英雄として、卿はこの世に生を受けたのだ」
次回より最終決戦




