貫く者
兄弟喧嘩回
あれから十日。三層の大通り、その裏手の路地でアノスはゴミをあさっていた。
ここ数日まともな食物を口にしていない。強靭な精神で己を律そうとも空腹を誤魔化すことはできなかった。
「これは……果物、か?」
ため込まれたゴミの底から黒く変色したなにかを見つけたアノスは、それを躊躇なく口に放り込む。
腐った果肉から流れ出る汁は強烈な不快感を催させるが、そんなものにかかずらっている余裕もなかった。
カノイ殺し捜索の手はすでに王都全体に及んでおり、顔と名を知られたアノスは無実の罪で騎士たちから追われる身となっている。
三層の路地裏まで逃げ延び、追っ手を振り切ることはできたが、再び上層へ登る手段が失われてしまったことは致命的だった。
犯罪者として顔が割れた今、通行証の有無に意味はない。
一層の本部に囚われたソラハを助けに行こうにも、二層への門を突破する手段が今のアノスにはなかった。
「ここまで捜索の手が伸びるのも時間の問題か」
王が城を離れ、王都を下りながら神への感謝を民に訴える感謝祭。
その開催を間近に控え、都全体が活気づいてきている。
祭り当日の夜に王が通る道には多くの騎士たちが既に配置され、日をまたぐごとに警備が強化されている。
前日には逆徒の一斉確保も執り行われるだろう。
いつまでも身を潜め続けているわけにもいかなかった。
「おい、お前ッ!」
なんとか上層への到達手段を見つけられないかと考えていた時、背後から怒りの声が投げかけられる。
振り返れば逆徒と思わしき隻眼の男が恐ろしい剣幕でアノスを睨みつけていた。
「ここは俺の場所だッ! どっから流れてきたか知らねえが、飯をあさるなら別を探せッ!」
大声でまくしたて、目を血走らせながら向かってくる逆徒を見たアノスは疲れたように息を吐く。
路地裏に逃れてからこのような事態に陥らない日はなかった。
構造が複雑で身を隠しやすい三層の路地裏は、その分逆徒の縄張り争いが激化している地域でもあった。
廃棄物がたまる場所、雨風を凌げる場所、騎士が手を伸ばしづらい場所、
めぼしいすべての場所には既に縄張りを主張する逆徒がいる。
アノスが居座れる空間などここには残っていなかった。
「悪かったな。争うつもりはないんだ、すぐに消えるとも」
もちろん力ずくであれば逆徒を屈服させることもできるだろう。
しかし数の多い逆徒と出会う度に騒ぎを起こしては騎士に嗅ぎつけられやすくなる。
感謝祭を控え、ただでさえ警戒を高めている逆徒たちを刺激することはあまりにも愚行だろう。
「……まて、お前その恰好。最近ここらをうろついてるやつだな」
しかし、いくら避けようとしても少しずつ溜まっていく軋轢を躱すことはできない。
ここ数日、各所の縄張りで目撃されたアノスへの不満は逆徒たち共通の問題となっていた。
ゆえに、結果彼らが導き出した答えは至極単純なものであった。
「おいお前らッ! 例の黒服が出たぞッ!」
抵抗らしい抵抗を見せなかったことも災いした。
弱者と判断されたアノスは周辺の逆徒たちから排除すべき対象とみなされていた。
彼らにしてみれば自宅に十日間も部外者が住み着いている感覚なのだろう。
「小奇麗な顔しやがって、お前逆徒じゃねえだろ。
信徒様がこんなとこまできて俺たちの邪魔すんじゃねえよッ!」
十日間の路地裏生活が続いたとはいえ、アノスの姿は逆徒たちと比較すればまだまだ悲愴とは言い難い。
美しい容姿も相まってか、周囲を囲むように続々と集まってくる逆徒たちは皆敵意のこもった眼差しを向けていた。
「私が、信徒か……」
アノスはかつて逆徒の証が刻まれていた己の左手を見つめる。
戦いによって失われた身体を死骸によって再生していく中で、いつの間にか失われていた掌紋。
おかげで逆徒として迫害されることはなくなったが、自分が信徒になったと考えたことも彼にはなかった。
「それも、お前たちの知るところではないか」
考えがどうであろうと逆徒たちはアノスを信徒と判断した。
どんな言葉を並び立てようとも、その確信を覆すことはできないだろう。
同族を示す証が刻みつけられた焼き後以外に存在しないとは、何とも皮肉なことだと彼は笑った。
「なに笑ってんだ。俺たちが何人集まっても怖くねえってかッ!
お前が戦えねえってことはみんな知ってんだぞ」
思えばこの光景も奇妙なものだった。
本来群れることを好まず、個人単位で生き延びている逆徒たちが、アノスという共通の敵を見出したことで協力している。
あるものは背後から、あるものは屋根の上から監視し、彼を逃がさぬよう連携していた。
自分たちの居場所を守るために結託し、外敵を撃滅する。
その本質は信徒も逆徒も変わらないものだった。
「どちらも同じ人間だ。当然と言えば、当然か」
「なに寝言言ってやがるッ!」
怒号と共に逆徒たちが一斉にアノスへ襲いかかってくる。脅威ではなかった。
武器を持っている者も見当たらず、そのほとんどが自らの拳を握りしめている。
縄張り争いの中で磨かれた喧嘩術は逆徒同士の争いで大いに活躍するだろうが、アノスには通じない。
「むなしいな……」
それは逆徒たちではなく、自分自身に向けた言葉だった。
エリヤの記憶から得た技で逆徒たちをいなし、異形の力で強化した体でその場から逃げおおせる。
技術も身体能力も、結局は借り物。アノス自身の資質は、あの逆徒たちとなにも変わらない。
「自らの意志で得たものがなにか一つでもあれば、この力に快感を覚えることもあったのだろうか」
路地を駆け抜け、次第に逆徒たちの怒声が遠のいていく。
足を動かす力を徐々にゆるめながらアノスは小さなため息をついた。
「これを受け入れれば、なにかが変わるのか?」
嫌悪しながらも、復讐のために使うことを惜しんでこなかった異形の力。
力を嫌悪するがゆえに生まれなかった自信や誇り。
エリヤのためではなく、自分のために生きていくならば、いずれそんなものが必要になるのかもしれないと彼は胸に不安を抱いた。
「随分としみったれた顔するようになったな。兄弟」
その時聞こえてきた声に、アノスはいつの間にか俯けていた顔を上げる。
目の前にいたのは瑠璃色の毛並みを携えた兄、ボラルだった。
彼もまた、アノスと同じように薄汚れ、身体の所々には新しい傷跡が見える。
しかし、悲惨な姿とは裏腹にその声は明るかった。
「ボラル……お前、捕まっていたんじゃ」
ソラハと同様にエイカーによって囚われたと思っていたアノスは珍しく呆けた顔を晒す。
そんな兄弟の表情を見たボラルは吹き出すように短く笑うと、事の顛末を簡潔に語りだした。
「お前の忠告は正しかったぜアノス。店に騎士がきた時、最初に見つかったのが俺だった。
だが奴さん俺をただの犬だと思ったんだろう。俺を無視してオゼリィとソラハをバイスで眠らせやがった」
人前で喋らせるのを禁止していたことが幸いし、エイカーはボラルが人間である情報を得られなかったのだろう。
「流石にやばいと思って戦おうとしたんだが、あっさり眠らされちまって。
気がついたらソラハだけがいなくなってた」
そう言って申し訳なさそうにうなだれるボラル。
しかしアノスは彼の背に手を置き、謝るのは自分の方だと首を振る。
「お前たちを残して行動する選択をしたのは私だ。
お前たちを守り切る自信を持てなかった私の落ち度だ……無事でよかった」
問題がすべて解決したわけではないが、兄が囚われていなかったという事実にアノスの表情は安堵にゆるむ。
それほどまでにボラルの存在は彼にとって大きなものだった。
「それでボラル。なぜお前はこんなところに? オゼリィはどうした」
「それはこっちの台詞だぜ。ソラハは帰ってこねえし、店長はずっと怯えたまま。
なんかできることはねえかって情報集めてたら、お前がカノイを殺したって話まで聞こえてくる始末だ」
弟の名前を貴族殺しの名として聞き及んだ時の衝撃はどれほどのものだったのだろうか。
心配そうに覗き込んでくるボラルの表情にいたたまれなくなったアノスは、その顔を無造作に撫でる。
「心配するな、誤解だ」
「そんなことわかってんだよ。ただここまで情報が広がってんなら捕まるのも時間の問題だ。
今すぐにでも王都を出た方がいい」
それは恐らく、アノスが無事に生き残るための最善策。
感謝祭が終われば、そこに割かれていた人員もカノイ殺し捜索に加わることになる。
そうなる前に騎士団の本拠地である王都から離れられれば、少なくとも騎士の影に警戒する毎日からは解放される。
「指名手配はまぬがれねえだろうが、それでも奴らの膝元にいるよりはずっとマシだ。
復讐を諦めるいい機会でもあるだろ」
アノスがこの王都で暮らすそもそもの理由がエリヤの復讐にあった。
それさえ諦めてしまえば危険がつきまとう街にいる意味はなくなる。
しかし、その提案に頷くアノスではなかった。
「……駄目だ。まだソラハが本部に囚われたままだ。彼女を助けなくては」
「アノス……」
その言葉にボラルは深く、深くため息をつく。
呆れと、そして憤りを含んだ声はアノスの耳に届くが彼の意志は変わらない。
落ち着かない様子で舌打ちし、首を振りながらその場を回るボラル。
気持ちの整理がついたのか、大きく息を吸って口を開いたのはその後だった。
「本当に、何度目になるかわかんねえけどよ。俺が折れれば終わりだから、言わせてもらう」
再会を喜んだ笑みとは対照的な怒りの表情。獣に成り果ててしまった兄が、死に急ぐ弟へできる唯一の抵抗。
それが成功したことは過去に一度もなかったが、それでも言わずにいられないのは、彼が真にアノスを愛しているから。
肯定だけが、想いを示す行いではないことをボラルはよく知っていた。
「ソラハのことは諦めろ。捕まっちまったのがお前の落ち度なら、それを受け入れろ。
あいつを助け出す手段はねえ」
三層ですら捜索の手が伸びている。殺しの現場である二層の警戒度合いはここの比ではないだろう。
本部がある一層も言わずもがな、たどり着くことすらできないだろう。
それらすべてをかいくぐりソラハを助けることがどれほど非現実的か、言葉にするまでもなかった。
「今まで俺がお前の復讐に折れていたのは、実力行使で止められねえってこと以上に、
まだ生き残る可能性があったからだ」
アノスは強い。意志も実力も、自分とは比べ物にならないものを持っているとボラルは知っている。
だからこそ弟が死に向かっても、無事な姿で帰ってくることを信じてこられた。
どれだけ傷を負っても家族を残して死ぬような男ではないと。
「だが、今日だけは違う。お前は神様じゃねえんだアノス。
どれだけ強くても、騎士団に殴り込みをかけて生き残れるはずがねえ」
今回ばかりはアノスの無事を信じられない、勝利に希望を持てない。
彼が無敵の存在などではないと知っているから、考えなしの子どものままだとわかっているから。
兄は弟を真正面から否定する。
「それでも、お前がそれでも行くっていうなら、未来を捨てて過去を選ぶってんなら……」
ボラルは悔しそうに歯を食いしばる。絶対に言いたくなかった言葉が喉元まで迫っている。
しかしもはや目をそらすことはできない。
恐らく、アノスを最も傷つける言葉を、彼は涙すら浮かべて言い放つ。
「俺を……殺していけ」
唯一生き残った家族。彼はアノスの過去が現実のものだったと証明する唯一の繋がりであり象徴だった。
エリヤの影を追い求めていたアノスが、度々反論を口にするボラルを手放せなかったのもそれが理由だった。
「俺はずっと、お前が今を大切に思えるようになればいいと思ってた。
過去を乗り越えて、二人で協力して今を生きていけたらって、そう考えてた」
ゆえに、ボラルもアノスから離れなかった。
いつか弟が過去と決別し、今を生きることに目を向けてくれる日を信じて待ち続けた。
しかし、それは欺瞞だったと今となってボラルは考える。
兄である、家族である彼こそ、弟の意志が変わらぬことを一番知っていたはずなのだから。
「結局俺はどっちつかずのままなんだよ。
この体を言い訳にして、弟を止められない自分を、どっかで仕方ないことなんだって納得してた」
最後の手段を選ぶことはいつでもできたはずなのに、彼がそれをしなかったのは怖かったから。
もしアノスが、自分を捨ててエリヤを選んでしまったら。
今を捨てて、過去を求めてしまったら。
そう考え、眠れぬ夜もあった。
「だが、そうやって逃げるのも今日で最後だ」
覚悟を決めたボラルは残酷な二択を迫る。
過去か今か、エリヤかボラルか、生か死か。
「答えねえのは許さねえ。もし今、俺に背を向けるようなことがあれば……お前を喰い殺す。
返り討ちになっても、反撃されても、お前に殺されるまで俺は牙を離さねえ」
それはどっちつかずな自分たち兄弟に選択を強いる覚悟だった。
自分自身で逃げ道を潰し、残した道は二つだけ。
相反するお互いの想いに決着をつけるために兄が用意した分かれ道。
どちらを選ぶがは、弟次第だった。
「……過去と今。どちらかを選べと、お前は言うんだな」
それまで黙ってボラルの想いを受け止めていたアノスがゆっくりと口を開く。
兄の覚悟が本物なのか確認するように呟かれた言葉にボラルは応じない。
ただ迷いのない目はまっすぐ弟を見つめ、紡がれる答えを聞き逃さんとする意志だけが流れ出ていた。
「そうか……ならば、言わせてもらう」
ゆえに、アノスは己の意志で流れ出る兄の意志に立ち向かう。
ボラルが覚悟を決めたというならば、それ以上の覚悟で迎え撃つ。
譲れないものを持っているのは皆同じだった。
「そんな二択は、お断りだ」
その瞬間、ボラルがアノスへ飛びかかる。遠慮も躊躇もなにもない。
確かな殺意を持った牙が素早く喉元へと喰らいつく。
バイスに対抗するものを何一つ持たない牙だが、ひとたび喰い込めば肉を丸ごと引きちぎる力があった。
「戦いも、血を見るのすら苦手なお前が、私に挑んでくるとはな」
「こうでもしねえとお前は選べねえだろうがッ!」
首への攻撃を躱し、手足に飛び込んでくる爪を避け、一向に攻めに転じないアノスはその手に刀も出していない。
それが腹立たしいのか、障害にもならない自分が不甲斐ないのか、ボラルは吠え猛りながら走る。
「兄弟喧嘩は久しぶりだなボラル。
その姿になってやけに聞き訳が良くなっていたが、棘が抜かれていないようで安心したぞ」
「てめえ舐めてんじゃねえぞッ! これは喧嘩じゃねえッ!
選ばなきゃなんねえもんを選ばせるための戦いだッ! いつまでもガキのまんまでいるんじゃねえよッ!」
身軽な動きで地を這い、壁を飛ぶボラルは縦横無尽な動きで周囲を駆け回る。
その中心に立つアノスは視界の端で動き回る兄に、いまだ声をかけ続けていた。
「なにを言っている。互いが互いの考えを認められずに殴り合っているんだ。
誰が見ても子どもの喧嘩だろう」
「ふざけんなッ!」
命を懸けた覚悟を鼻で笑われ、ボラルの怒りは頂点に達する。
この期に及んで弟はまだ子どものままなのかと、母親の幻影に囚われたままなのかと絶望する。
もつれそうになる四肢を限界まで動かしながら、彼は本音を吐き出す。
「いっつも、いっつもそうやってお前は余裕かましやがるッ!
ガキの癖に、口調と外見だけ大人ぶって、身の丈に合わねえもん全部自分で抱えてよッ!」
ボラルは時折考えていた。もし、自分が人間の姿のままだったなら、アノスのような力を得ていたら、自分もアノスのように復讐を目指していただろうかと。
「むかつくんだよお前ッ! 馬鹿の癖に、ガキの癖に、俺より重てえもん後生大事に抱えやがってッ!
俺が肩代わりできねえもんを、当然な顔して背負ってんじゃねえよッ!」
協力してやると言えればどれだけよかったか。足手まといだと自覚せずにいられたらどれだけ楽だったか。
同じ復讐に酔っていられたならどれだけ幸せだったか。
ボラルはその牙と爪を使って胸の内に秘めていた無念さを喚き散らす。
「エリヤがなんだ、復讐がなんだッ! 意味ねえし取り戻せねぇんだよッ!
お前が命かけてやろうとしてることの全部が自己満足だッ!
そんな下らねえもんのために、俺の弟を奪われてたまるかよッ!」
怒りと狂気にまみれた牙は純粋な愛情によって形成されている。
大切な母を失ったからこそ、残った家族をその手からこぼれさせたくない。
その悲しみを知っているからこそ、二度と味わいたくはなかった。
あるいはその想いこそ、ただの自己満足なのかもしれない。
だとしても、だからこそ、彼の根底に根づき、ボラルという人間を形作るものとして存在する感情たりえている。
「結局のところ、自分が気に食わないことをするな、ということだろう。
お前こそ下手に言葉を選んで格好つけるな」
そんな思いもアノスには届かないのか。涼しげな顔を崩さずに、彼は兄の言葉を受け流す。
怒りもせず、悲しみもせず、取るに足らない戯言だとでも言うように、その表情は変わらない。
「クソガキがッ! いい加減黙れよッ!」
それが悔しく、そして虚しく、だが足を止めることはできず。ボラルはアノスへと駆ける。
もはや周囲を飛び回る体力も残っていない。
それでもなんとか尽きかけている気力と殺意を振り絞って牙を向けるのは、彼が誰よりも家族を愛しているから。
兄として、弟を導くと決めているから。
そうしなければアノスはいつまでも子どものままだからと思っているから。
その思いを否定しなければ止まらない、止められない。
「お前こそ、いい加減黙ったらどうだボラルッ!」
ゆえにアノスは受け止める。差し向けられた牙を己の腕で受け止める。
鎧で防ぐこともせず、肉を喰い破り、骨を貫く痛みに耐えながら、ボラルの感情を文字通りその身で受け入れる。
「さあ、これでもう……話せないだろう」
まさしく身を貫く痛みに息を荒げながらアノスは笑う。
この状況に、腕に喰らいついたボラル自身が驚愕していた。
彼が殺意を込め、殺す気で戦っていたのは紛れもない事実。
しかし、その実想定していたのは、自分がアノスに切られる未来だけ。
自分のちんけな牙が弟を貫く事態など考えてもいなかった。
「お前の話は聞いてやったんだ。今度は私の話を聞いてもらおう。拒否権はない」
腕に喰い込む牙が外れないようにアノスは兄の顎を死骸で固定する。
ボラルは死に物狂いで抵抗するが、幾多の強敵と戦ってきた力を打ち破れるはずもなかった。
「散々言いたい放題言ってくれたなボラル。お前が私のことをどう思っているかがよく分かった。
だが喧嘩には互いの主張が不可欠だろう。
お前の小さな頭でも理解できるように話してやるから、そのでかい耳でよく聞いておけ」
兄が口にした嘘偽りのない言葉を受け、彼はどのような反論をしようというのか。
笑みを浮かべる弟の表情を見たボラルは悲しげに目線を下げる。
結局自分には選択を迫る力もなく、切り捨てる脅威にすらなれなかった。
弟に変化を与えてやることができなかったと、悔しさを噛み締めた。
「ああ……そうだなボラル、お前の言う通りだ」
ゆえにそんな言葉を耳にするとは考えもしていなかった。
復讐を生きる意味としていたアノスが、それを否定したボラルの言葉に同意する。
エリヤを失い、王都へやってきてから今日この時まで、一度もなかったことだった。
「私はとうに死んでしまったエリヤを追い求めて、今を投げ捨てる大馬鹿者だ。
そのせいでお前をこんなところまで連れてきてしまった」
復讐に突き進んできたことに対する謝罪や後悔の声ではない。
アノスは今でもエリヤを殺した者を憎んでいるし、探し出したいと願っている。
しかし、この言葉は今までの盲目さとはなにかが違うとボラルは感じていた。
「後ろばかり見て、生傷を増やし、家族に心配をかけ、
それでも私は復讐を成し遂げることだけがエリヤの恩に報いる手段だと思っていた」
なにも与えられなかった自分がエリヤに返せるもの、
復讐を成すことこそ愛されるための証なのだと信じ、アノスはここまで進み続けてきた。
そうしていなければ不安に飲み込まれていたのだ。
「お前は言ったな。エリヤとソラハは別人だと、守る必要などないと」
顔が同じという理由だけで、アノスはソラハを守ろうとした。
守れなかったエリヤとソラハの存在を混同し、過去の後悔を払拭する手段として彼女を利用していた。
それを不毛だと感じたからこそボラルは過去にそう口にしたのだ。
「どれだけ顔立ちや声が似ていても、ソラハはエリヤではない。
お前に言われるまでもなくわかっていたつもりだったが、それを理解できたのはついこの間のことだ」
コーバとの戦いの最中、垣間見た己の心中で思い至ったこと。
誰かの幻影に依存することなく、自分自身の重みを信じ生きればこそ、揺るがない意志は生まれる。
それを教えてくれたのは亡き母ではなく、今を生きようとするソラハの言葉だった。
「ソラハはエリヤではない。そう理解できた今だからこそ私は彼女を守りたいと……いや」
過去の後悔から解放されたアノスの顔はどこか穏やかで、新たな決意を抱く目はまっすぐボラルに向けられている。
それを目の当たりにした兄はようやく自身の思い違いに気がついた。
「共に生きたいと思ったんだ」
その想いが向けられているのは過去でも、今でもなく、未来。
ボラルが提示した二つの選択肢の中には存在しなかった三つ目の答え。
過去を捨てることなく、今を犠牲にすることもなく、どちらも糧として共に生きる道を歩んでいく。
復讐のみを目的としていた過去のアノスからは決して出なかったであろう答え。
それを聞き届けたボラルは唖然としながら牙を抜く。拘束はいつの間にか解かれていた。
「今ばかりは過去もエリヤも関係ない。
生きる意味が誰かに与えられるものでなく、自分で決めるものだと私に教えてくれたのはソラハだ。
見捨てることなどできない」
向かい合う顔に迷いはない。導き出した答えを信じ、そのためならばどんな障害も乗り越え進み続ける。
彼の愚直さは相変わらずだが、そこに以前のような盲目さは感じられなかった。
「……変わったんだな、アノス」
執着する過去にしか生きる意味を見いだせなかった弟が未来を見ている。
復讐ではなく、生き続けるための決意を胸に抱いている。
ずっと待ち望んでいた家族の変化にボラルは複雑な思いだった。
「変わったから、行かなきゃならないんだな」
誰よりも望んでいた変化がアノス起こった結果、彼は死地に赴く覚悟をより強く固めてしまった。
ボラルの問いに深く頷くアノスの心に迷いはない。変化が起こっても、その頑固さは相変わらずだった。
「そうか……」
向けられた視線を受け止めるボラルは静かに呟く。納得などしていない。受け入れてもいない。
しかし、先ほどまでのように強く否定できない。誰かと共に生きたいという望み。
それを抱いているのはボラルも同じだった。
その想いのためならば命さえ惜しくなくなると、彼自身が一番知っていた。
「まったく、卑怯な奴だよお前は」
深く、深く、大きなため息をつくボラル。
そこに含まれていたのは怒りでも呆れでもなく、アノスの覚悟を認めた上で、己の覚悟を貫き通す決意。
弟を、家族を死なせないための新たな決意だった。
「どうしても行くっていうなら、条件がある」
「殺せと言うならお断りだぞ」
腕に開いた穴を修復しながら、アノスは釘を刺すように言い放つ。
共に生きたいと願う対象はなにもソラハだけではない。
今まで共に生きてきた兄弟も、言うまでもなく彼の未来に含まれていた。
そんなアノスの言葉にボラルは首を振ると、たった一言、条件を提示する。
「俺もついて行く」
その言葉にアノスはなにも答えない。
実際のところ兄がそう言い出すことも、その意志を曲げないであろうことも弟にはわかっていた。
ボラルは母親の死に目に会うことができなかった。
そんな彼が死地に向かう家族を目の届かないところに置くわけがない。
「……どうしてもか」
答えのわかっている問いを投げかけてしまうのは、やはり兄を危険な目に合わせたくない思いが彼の中に存在するから。
しかし、先に自分の覚悟を突き通したのはアノスだ。
彼と同様に、ボラルも自分のために、自分が定めた意志を貫く。
「足手まといになろうが関係ねえ。
死ぬ時も、生き残る時も、俺はお前と一緒にいるって決めた。文句ねえな」
わがままを聞くのはお互い様だと言うように強気な言葉で言い放つ兄に、弟は頷く。
考えの食い違いが起きた時は、お互いの気持ちを認め合い、尊重し合う。
思い返せば、二人の喧嘩はいつもこのようにして収まりを見せていた。
「そうと決まれば行動開始だな。ソラハはどこにいるんだ?」
「騎士団本部にある地下牢に囚われているらしい。
だが、まず上層に行く手段を先に見つけないことにはどうにもならん」
上層と下層の境は今最も警戒が高まっているだろう。
門を抜けることは勿論、誰にも悟られることなく内壁を乗り越えることも不可能。
内部の協力を扇ごうにも、ハダルは死に、エイカーの居場所はわからない。
「ボラル。お前、ソラハを誘拐した男の臭いを覚えているか」
もしエイカーの臭いを辿ることができれば、門を抜ける前に彼と合流できるかもしれない。
まだ彼が手足としての価値をアノスに見出していれば、状況を察して下層へ向かっている可能性も十分考えられた。
しかし、アノスの言葉にボラルは申し訳なさそうに目をそらす。
「悪い……すぐに眠らされちまったせいで、臭い嗅いでる暇はなかった。
あいつがどうかしたのか?」
「いや……」
エイカーは現状、騎士団に残る唯一の協力者。
しかし、その認識が果たして正しいのかとアノスは眉をひそめる。
ハダルが最期に残した言葉から考えても、全幅の信頼を置くべき相手ではないことは確かだった。
だが、他に頼れる者がいないこともまた確か。今までのようにヒゲワシから情報を買うこともできない。
エイカーの企みがなんであろうと、彼の協力なしにソラハを助けることはできなかった。
「……そういえば」
その時アノスは自らの懐にしまっていた手紙の存在を思い出す。
本部でエイカーから手渡された、騎士団への警告文。
ヒゲワシが手に入れた情報を買った何者が送りつけ、エイカーが見つけ出した機関員の手がかり。
もはや残っている道はこの紙片だけだった。
「ボラル。無茶だとは思うが、この手紙に残っている臭いの中からソラハを誘拐した奴を探してくれ。
何人の臭いが混ざっているかわからんが、これだけが頼りだ」
騎士団に宛てられた書面を毎日どれほどの人数で管理しているのは定かでないが、少なくとも十や二十ということはないだろう。
ともすれば百を超える臭いの中から、たった一人の臭いをボラルには探してもらわなければならない。
目的への第一歩はボラルの嫌う犬の嗅覚にかかっていた。
「……おいアノス。本当にこの手紙でいいのか?」
だが、あまりに無謀に思えるその頼みを引き受けたボラルは手紙をひと嗅ぎした後、困惑の表情を向ける。
難解だと思っていた問いがあまりに容易に解け、拍子抜けしてしまったかのように目を丸くしている。
「どういうことだ。奴の臭いを思い出せたのか?」
長い時間がかかると覚悟していたアノスもはしごを外された気持ちになるが、早く行動に移れることは望ましい。
犬の嗅覚は想像していたよりも強力なのだと納得し、臭いの元までの案内を頼もうとした時だった。
心配そうにボラルが呟く。
「思い出すもなにもこの手紙、臭いが二つしかついてねえよ」
「……なに?」
二つの臭い。うち一つは間違いなくアノスのものだろう。今の今まで懐に忍ばせていたのだ。
一番強く残っていた臭いに違いない。そしてもう一つの臭いも恐らくエイカーのものだろう。
そもそも彼がこの手紙をアノスに手渡したのだ。臭いが残っていなければおかしい。
否、おかしいのはもっと根本的な部分だった。
「それは……他の臭いが消えているということか?」
「いや、いくら臭いが薄れても混ざりものがあれば気がつく。
誰の臭いかはわからなくても、誰かの臭いがするってことはわかるはずだ」
臭いの有無は、特定とは比べ物にならないほど簡単に判断できる。
文字通り有か無しかの二択しか答えが存在しない。
容易であるがゆえに、その信頼性も確かなものだろう。
「この手紙からは、お前ともう一人の臭いしか感じない。二人以外に手紙に触ったやつはいねえ」
ボラルの断言に、アノスは思わず額に手を当てる。
彼の言葉が真実ならば、エイカーは自分で書いた文書を匿名のものだと偽って手渡したことになる。
元機関員であるトラフの情報も先んじて手に入れ、その事実を隠しアノスに手渡した。
考えられる可能性は一つ。
「初めから、あの二人は繋がっていたというのか?」
トラフの言っていた騎士の協力者がエイカーなのだとしたら、同機はともかくあの手紙をかけた理由は説明できる。
そして自然と、二人の繋がりは三人目の人物像を浮かび上がらせる。
「ならば、ヒゲワシも……」
騎士団とトラフの関係を暴かせたのも、エイカーに情報を売ったのも、トラフのもとへ案内したのもヒゲワシだった。
エイカーとトラフの間にはいつもあの仮面の男がいた。
「これは……いったいどういうことなんだ」
ハダルの最期の言葉からして、エイカーが秘めた目的を持っていることは予想していた。
しかしこの繋がりは完全に想像の埒外であり、ここまで判明しても、その目的は見当がつかない。
ヒゲワシはトラフに続きハダルをも殺害している。
それをエイカーは知っているのか、知っているのならばそれは本意なのか。
あの道化師のような顔の裏に隠されているのはいったい何なのか。
恐ろしいと、アノスはそう感じた。実力差を理解したからこそ感じたハダルへの恐怖とは違う。
『神様が大嫌い』と言い、奇しくも同じ感性を持って近づいてきた男。
彼がヒゲワシと結託していたのなら、いつからアノスのことを知ったのだろうか。
トラフの件の後か、ヒゲワシと初めて出会った時か。
「あるいは奴が、ヒゲワシに私を……?」
ある一つの推測に思わず身震いする。依然、エイカーの目的に関してはなにもわからない。
彼がアノスに近づいたのも、本当にエリヤの手がかりであったからなのか。
そもそもエリヤの死の真相を探ろうとしていたのかさえ、今となっては信じていいかわからない。
「大丈夫かアノス。顔が青いぜ」
ボラルが心配そうに顔を覗き込んでいた。
声をかけられ我に返ったアノスは強烈な吐き気に襲われていることに気がつく。
まるで体の内側から総てを覗かれているかのような気持ち悪さが全身を支配していた。
「……臭いのもとに案内してくれ」
止めどない思考の渦を押さえつけながらアノスはボラルにそう促す。
エイカーの正体がなんであれ、まずはソラハを助け出さねばならない。
彼はそのために利用できる者なら誰であろうと利用する。
例えそれが自らの人生に巣食ったナニカであろうとも。
・・・
感謝祭当日の夜。ボラルの耳を頼りに人との接触を避けつつ、二人は内壁のふもとへとたどり着いていた。
大通りを中心に警戒を高めている騎士の目を躱し、ここまでやってきた二人の足はようやく止まった。
この場所も露店などが多く開かれ夜も賑わっている通りのはずだが、この日ばかりは人影が見えない。
都を下る王を一目見に大通りへ集まっているのだろう。
遠くで聞こえる歓声が、人気のない通りに寂しげな空気を漂わせていた。
「ここか……」
独り言のように呟くアノスの言葉にボラルが無言で頷く。
彼は再び話すことを禁止され行動していた。
万が一の状況に陥ることがあっても、知性を隠すことができていれば反撃も逃走も容易になる。
エイカーに捕らわれずに済んだのもボラルが人間であることを彼が知らなかったからだろう。
「得体の知れないやつだが、少なくとも勘は人並みということか」
道化のような振る舞いに、すべてを見透かされているような不安を覚えることがあった。
自分のすべてを、自分が知らないことまで知られているかのような気持ち悪さ。
ヒゲワシとの結託が判明した今、その感覚が真実味を増してきているように思えていた。
しかしエイカーは全能の存在などではない。彼に知られていない情報をアノスはいくつか握っていた。
「やあアノス君。こんなところで会うとは、驚いたよ」
背中から間の抜けた声がかけられる。
カノイ殺しとして広まったその名前を、これほど緊張感なく口にできる者は一人しかいないだろう。
アノスは振り返ることなく、その男の名を呼んだ。
「三層に籠っていても、なにが進展するわけでもない。お前からの接触もなかったからな、エイカー」
アノスの正面に回り込むようにして姿を見せたエイカーはいつものふざけた様子を崩さない。
とても仲間を裏切り、ヒゲワシと手を組んだ男には見えないが、外見などいくらでも取り繕えることをアノスは知っている。
「僕としても君に接触したかったんだけど、居場所がわからなくてね」
嘘の手紙、ハダルの死、トラフやヒゲワシとの関係。
聞きたいことは山ほどあるが、手にしたカードを不用意に切ることはできない。
ソラハを助け出すのに彼の協力が必要である以上、少なくとも彼女を手中に収めるまでは、企みに気づかぬ愚か者を演じなければならなかった。
「最悪、騎士に捕まった君を僕が強引に引き取れればって思ってたんだけど、流石はアノス君。
独力でここまで登ってくるとはね」
大仰な手ぶり身振りで話す中、エイカーはボラルに目を落とす。
その姿に見覚えがあったのか、その一瞬彼の動きが止まった。
「私の犬が、どうかしたか」
「……いや、僕が君の彼女を連れ去った時にひと悶着あってね。立派な番犬っぷりだったよ」
笑顔を浮かべながら頭を撫でようとするエイカーだが、店を荒らした男にボラルが自分を触らせるはずもない。
アノスの背後に隠れるように移動した彼は、その時の恨みをぶつけるようにエイカーを睨みつけていた。
「どうやら嫌われてしまったみたいだ。この子に僕の臭いを?」
「ああ、鼻だけは優秀なものでな」
なんの手がかりもなしに接触を果たすことなどできない。
アノスが自分のもとにやってきた理屈に納得を見せたエイカーは本題とばかりに顔を引き締める。
今まではこの真面目な顔が彼の本性だとアノスは思っていたが、今やそれも疑わしい。
「簡単にだけど、カノイ殺しの件については聞いてる。
ハダルのことは残念だけど、一番聞いておかなくちゃいけないのは、君が本当に犯人かなのどうかってことだ」
この質問自体に意味はない。
真犯人であろうとなかろうと、騎士の協力を必要とするアノスは否と答えるだろう。
エイカーの目的は答えそのものではなく、当時の状況をアノスがどのように見ていたのか知ること。
アノスがどこまで勘づいているのか探ることだった。
「……カノイを殺したのはヒゲワシと名乗っている男だ。
私と長年取引をしていた情報屋だが、正体はわからん」
アノスはヒゲワシがトラフやハダルを殺したこと、殺されても別の身体で生きていたこと、
自身と同じ死骸の力を有していることなどをエイカーに話した。
しかし、ハダルの最期の言葉や手紙の臭いに関しては一切言及せず、あくまで表面的な部分のみを語り相手の反応を見る。
「ヒゲワシか……僕にも正体はわからないけど。
エリヤの手がかりを持った者たちを殺しまわっているなら、機関解体を目論んだ一派の一人かもしれないね」
預言書機関の存在を疎んじた騎士団内の一派。
彼らによってエリヤは殺されたのだと先日エイカーは説明した。
しかし、果たしてそんな一派が騎士団内にいたのだろうか。
「……お前の所感で構わない。その一派、今はどれほどの規模になっていると思う」
エリヤの手がかりを探す中で、勢力と呼べるような集団の存在をアノスは感じたことがなかった。
幼少時に目撃したエリヤ殺しの実行犯は三人。
トラフへの手紙にしても十分個人で用意できる代物だった。
「直接行動を起こしている人たちがどれだけいるかはわからないけど、
解体された今でも預言書機関を嫌っている騎士はたくさんいるよ。
カノイの人間に手を出せるくらいだから、上層部まで力は及んでいるのかも……」
「反面、こちらは二人きりか」
最早なにと戦っているのかアノスにはわからない。
エリヤを殺した者を探していたはずだというのに、いつの間にか存在するかどうかもわからない勢力と戦いを始めようとしている。
結局アノスになにをさせたいのかをエイカーが口にすることはなかった。
「どちらにせよ、この状況で王都での活動は不可能だ。
まだ手足が必要だというのなら、ほとぼりが冷めるまで身を隠すのに協力してくれ」
この要求にエイカーが頷くか否かで今後の身の振り方が大きく変わってくる。
感情を悟られぬよう表情こそ変わらないが、アノスは緊張に胸を震わせながら返事を待った。
「勿論だよ。ハダルが殺されてしまった今、僕の協力者は君だけだ」
しかし、返事は素早く簡潔に、まるで最初から決まっていたことのように告げられた。
アノスを抱え込むことのリスクなど何も考えていないかのように、その声は晴れやかだった。
「……ならばもう一つ頼みがある」
思い返せば、このエイカーという男もなかなかに都合のいい存在だった。
偶然アノスと出会い、偶然同じ感性を持ち、偶然同じ目的を持っていた男。
いくつかの不都合もまた同時にもたらしたが、それ以上にエリヤの死について近づくことができた。
「王都を出る前に、ソラハを返してもらいたい」
あの少女と出会い、いくつもの偶然が堰を切ったように流れていた。
エイカーとの出会いもその一つだったのだろうか。
アノスの言葉に、それまで笑みを崩していなかったエイカーの顔が曇る。
先ほどの二つ返事とは打って変わって、しばらくの沈黙が二人の間に流れた。
腕を組み、空を見上げ、大きくため息をついたエイカーはややあって視線を戻すと申し訳なさそうな顔をアノスに見せる。
「申し訳ないんだけど、それは難しいと思うんだ。
確かに騎士たちの大半が王の護衛についている今、本部の警備は手薄になってる。
でもだからといって、君の彼女を連れて脱出できるほど彼らは無能じゃない」
王の住まう城の膝元に門を構える騎士団本部。
そこの警備を任された者たちは、騎士団の中でも指折りの実力者だ。
正面からの侵入は危険かつ困難であり、ソラハを連れ出しての逃走など不可能に近いだろう。
しかし、それはあくまで正面から門をくぐった場合の話。
「抜け道の話は聞いている。お前は私をその入り口まで連れていくだけでいい。
騎士のお前が随伴すれば上層の門も通れるだろう」
その言葉にエイカーは再び押し黙る。抜け道の存在を知っているか否かはそれだけで分かった。
彼は観念したように肩を下げると、ため息をついた。
「……誰からその話を?」
「ハダルから、死の際にな」
「ふーん。珍しいこともあるもんだ」
ソラハはアノスを騎士に協力させるための人質。
彼を強制的に手中にとどめ繋ぎ止めておくための、言わば鎖だった。
それを奪還するための情報をハダルが伝えたのは、エイカーの目的に疑問を持ったからに他ならない。
「ハダルは君にあまりいい感情を持っていないと思っていたから、意外だね」
鎖を返すとなれば、必然的にアノスを自由にすることになる。
エイカーはアノスが自分のもとから離れていくことを危惧していた。
「……お前が考えていることはわかる。
だがお前が私を唯一の協力者だというように、私の協力者はお前だけだ。今さら離れることなどしないさ」
その言葉に人らしい反応を控えていたボラルが思わず顔を向ける。
目の前の男は協力者と言うには秘密が多すぎる。
だというのに、まるで世界で唯一の味方とでも言うような発言をアノスがしたことに違和感を覚えずにはいられなかった。
「まさか……君からそんな言葉が聞けるとは思ってなかったよ」
反面エイカーは長年待ち望んでいた言葉を耳にしたかのような面持ちで、驚きと喜びを混ぜ合わせたような表情を浮かべている。
アノスの信頼を得たことがよほど嬉しいのか、綻ぶ顔は今まで見せていた笑みとは一線を画すほど真に迫るものだった。
「わかった、君を信じるよ。僕たちはこの世界で唯一、真に結ばれた仲間だ」
少年のような笑顔を浮かべ手を握りしめるエイカー。
そこに隠された意図はなく、彼は本心から純粋にアノスから得た信頼に歓喜している。
想像を優に超える喜びように一番困惑したのはアノス自身だった。
「……その様子だと、騎士団では随分と孤独だったようだな」
エイカーの秘密がなんであれ、目的は自分の力を利用することにあるとアノスは考えていた。
彼の協力者であるヒゲワシの力がアノスと同じ死骸の力であったのは十中八九偶然ではないだろう。
「そうだとも。騎士団の中じゃ真の意味で信頼できる仲間はいなかった。
皆、あの得体のしれない神にかしずく者ばかり。
この思いを口にせずに、どれだけの時当たったか君にわかるかい?」
しかし、これでは本当に同じ思想を持つ仲間を欲していただけのように見えてしまう。
吐き出したい感情をひた隠しにし続け、ようやく見つけた同族にすがりつく哀れで孤独な男に見えてしまう。
「……時間が惜しい。ソラハを助け出すのに協力するか否か、答えてもらおう」
アノスは自分の胸に沸きかけた情を押さえつけ、要求を突きつける。
目の前の男が信用ならない人物であることに変りはない。
唯一の協力者という言葉も、ボラルの存在を隠すための方便に過ぎなかった。
「わかった。危険はあるけど君の頼みだ。できる限り協力しよう」
だというのに、エイカーはあまりに純粋な喜びの感情をぶつけてくる。
それまで感じていたものとはまた別種の違和感がそこにはあった。
ただ一言、口にされただけの信頼の言葉にこれほど歓喜する奇妙な男。
それほどまでに彼の孤独は長く深いものだったというのだろうか。
困惑の色を浮かべたアノスとボラルは肩を弾ませ歩くエイカーに続き上層の門へと歩き始める。
彼が騎士団内でどれほどの権力を持っているかは定かではないが、
少なくとも隊長職についていたハダルと並び立てる程度の地位ではあるのだろう。
神を嫌っておきながら、それほどの立場に上り詰めた動機はいったいなんなのか。
門の警備をしている騎士に何事かを吹き込んでいるエイカーをアノスは遠巻きに見つめながら、その内に潜む想いの異質さを感じ取っていた。




