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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
22/27

偽る者-1

アノス出生の真実とリベンジマッチ


 日が落ち、その日の仕事に一定の区切りがついた後、部下に留守を任せたハダルはカノイ家の執務室へと足を運んでいた。

現在、愛弟子であり、姪でもあるルアスが再びアノスに敗北し床に伏せている。

しかしハダルがここへやってきたのは彼女の容態を確認するためではなかった。


「無言で背中に立たれるのはあまり気分のいいものじゃないなヴィトン殿。

せめてノックの一つでもしたらどうだね」


 ルアスたちの戦闘によって、床も天井も穴だらけとなってしまったカノイの執務室。

もはや部屋として機能していないこの場所に、カノイ家当主、ヴェンヒル・オール・カノイは一人佇んでいた。


「申し訳ございませんカノイ様。少々声をおかけするのがはばかられたもので……」


 ハダルがやってきたことに気がつきながらも、ヴェンヒルは依然として彼に背を向けたまま壁にかけられた絵を眺めている。

先の戦闘の最中、幸運にも被害を免れた唯一の絵画。

偶然か否か、それはハダルやエイカー、エリヤたちも描かれていた婚礼の記念画だった。


「この日を覚えているかね。思い返せば、私や貴公もこの頃が一番充実していたな」


 約二十年前。多くの友人たちと共に笑顔を見せるかつてのヴェンヒルは、世の憂いや悲しみ、憎しみと無縁の存在に見える。

いくつかの小さな悩み事も、幸せな毎日に刺激を与えるものでしかなかった。

ゆえに、彼は現在までの転落を嘆いている。


「騎士団の長に上り詰め、王の娘とも結ばれ、私は王族の一員として歴史に名を連ねたはずだった」


 当代の王に息子はおらず、生まれたのは娘のみ。

その長女と縁を結んだことで、カノイは王族の一員となった。

建国より受け継がれてきた王家の血脈に、己の血筋を加えられる。

それはガズラ王国において最大の名誉と権力を得ることを意味していた。


 しかし、手に入れた理想の地位はたった数年で奪い去られることとなる。


「我が妻がこの世に産み落としたのは神の力を受け継いだ優秀な娘一人だけ。

無能の子など初めから存在していなかった。

その事実をもってカノイ家はかろうじて貴族の地位にしがみつくことができているのだ」


 万が一、王の娘に逆徒を孕ませたとなればこの国にカノイの居場所はなくなり、

受け継がれてきた王家の清廉さも失われることとなる。

ゆえにヴェンヒルは王族の末席を追われてから今日まで、己の娘にさえ真実を口にしなかった。

秘密を胸にしまってさえいれば少なくとも貴族として一生を終えることができると信じて。


「だが現実はどうだ? 我が娘の前に現れた男。貴様が本部に口を利かせてまで守った男。

とうの昔に野垂れ死んだはずの男がなぜ今になって現れたッ!」


 ヴェンヒル・オール・カノイの人生最大の汚点。

存在ごと抹消し、埋もれさせたはずの逆徒が約二十年の時を経て戻ってきた。

まさに悪夢としか言いようがない。

彼とカノイの関係が知られるようなことがあれば、今度こそカノイはこの王国にいられなくなってしまう。

強まる語調とは裏腹に、彼の心は恐怖に満ちていた。


「では、やはり彼は貴方の……」

「言うなッ! どこで誰が聞き耳を立てているかわからん」


 なにかを口にしかけたハダルの言葉は鋭くも怯えに染まった声に止められる。

現役を退きつつも、彼は騎士団長であった男。

震える覇気には言葉を詰まらせるほどの迫力があった。


「……では質問を変えましょう。

ルアスが初めて彼の特徴を話した時、私は彼女の話が信じられなかった。

少なくとも彼と直接顔を合わせるまでは」


 愛弟子が口にした賊の身体的特徴。

それを単なる偶然と一蹴できなくなったのは、この屋敷の上で彼と対峙した時から。

その容姿はあまりに似すぎていた。


「彼の持つ赤き瞳に濡れ羽色の髪。まさしく貴方の妻、そして私の叔母の特徴だ」


 王の二人目の娘。その息子として生まれたハダル。

カノイ家とヴィトン家の関係は継承権争いの問題もあり良好とは言えなかった。

そうであっても、否、そうであるからこそ互いの家が抱えた問題に対して両家は著しく敏感になっていたはずだった。


「カノイの不祥事は必ず耳に届くはず。だというのに彼の存在を私は先日まで知ることができなかった。

跡継ぎの誕生などという一大事。普通なら隠し通せるはずがないというのに」


 貴族の家に生まれた第一子。家の歴史を紡いでいく跡継ぎの誕生は隠そうと思って隠せるものではない。

伴侶の腹は日増しに膨らんでいき、出産前後に備えなければならないことも多い。

実際にハダルは当時の会食などで妊娠中の叔母と会っていた。


「だが、産まれたのが双子であったのなら話は別だ。

片方を大衆に認知させることで、片方の存在を隠すことができる。

私も当時はルアス一人がカノイの跡継ぎであると疑っていなかった」


 出産の知らせを受けた数日後。屋敷のベッドに寝かされていた赤子はルアス一人だけだった。

小さな彼女を抱いたことをハダルは今でも鮮明に覚えている。その日、一切叔母が姿を現さなかったことも。


「出産直後による体調不良。

その言葉を疑ってさえいれば、あるいはもっと早く答えにたどり着くことができたのかもしれない。

人前に出ることができないほどのなにかが、叔母に起こったのだと」

「いい加減にしたまえ。ハダル・ホド・ヴィトン」


 そこまで背を向けたままハダルの話を聞いていたヴェンヒルが怒りを滲ませながら口を挟む。

カノイが隠さなければならない過去。拭い去らねばならない汚点。

その真相をなぜ順序立てて説明されているのか、彼には理解できなかった。


「貴公はなにが言いたい。今も昔も私の子はルアスただ一人だ。誰になにを言われてもそれは変わらん」


 二十年口にし続けたその事実を盾にヴェンヒルは会話を打ち切ろうとする。

ハダル自身は彼の両親ほど王位の継承権に執着していない。

ヴェンヒルもそれを知っているからこそ、今彼がここまで過去の傷に踏み入ってくる理由がわからなかった。


「だいたい、一人目の出産を隠せたとしてその後はどうする? 

貴公の下賤な考えが真実だったとして、誰にも見られることなく赤子一人を処理できるほど、カノイ家に対する世間の注目は薄くなかった」


 王位の第一継承権を得たカノイ。その動向には貴族界全体が注目していた。

仮に忌み子がいたとしても、その存在を隠し続けることは不可能なはず。

それこそ、出産時と同じ手を使わなければ。


「そう、私が今日ここへ来たのはその方法について聞きたいことがあったからです」


 ようやく本題に入ると言わんばかりに、ハダルはヴェンヒルの背に一歩ずつ近づいていく。

その目は険しく、眉にはしわが寄っている。明らかに敬う者に対して向ける顔ではなかった。


「ルアスの誕生から一年は、彼女の成長に皆が注目していた。無論私も例外ではない。

少なくともその一年、貴方は身動きが取れなかったはずだ」


 世間からの注目を一身に受けている状態で行動を起こすことはできない。

不祥事をもみ消すためには、まず大衆の目をそらす囮が必要だった。


「……彼女を覚えていますか」


 ヴェンヒルの隣に並び立ち、絵画へと目を向けるハダルは指をさすこともなく問う。

誰について話しているかはお互いに言うまでもなかった。だが、ヴェンヒルは口ごもる。

頷くことも、首を振ることもせず、固まったまま動かない。


「エリヤ・スクルゥ。私の同期であり友人。すでに騎士団で実力を発揮し、未来を期待されていた女性。

そんな彼女がニヘルと結ばれたのもこの頃でした」


 絵の中で笑うエリヤとニヘル。彼らがお互いに愛し合い、求め合った結果生まれた第一子、

ソラハが生まれたのはルアス誕生からおよそ一年後のできごとだった。


「あの時ばかりは、カノイの動向を気にする余裕などなかった。

数少ない友人の一人が逆徒を産み、世間の目が彼女を取り囲んだあの日々の中では」


 将来を期待されていたゆえの反動か、事実か否かに関係なく広がった噂によって、

エリヤは中傷の的となり貴族界の注目を集めることとなる。

拡散されていく悪評。際限なく囁かれる侮辱。

それは一騎士に対するものにしてはあまりにも大きく、強力だった。


「今、冷静になって考えてみれば不自然なことです。

確かに彼女は期待を背負っていた騎士の一人でしたが、カノイへの関心を上回るほど知名度があったわけではない。

過去にも同じような境遇となった騎士はいましたが、彼女ほど悪辣な世評を受けたものもいなかった」


 いったいなぜエリヤはあれほど世間の目を引くことになったのか。

後に彼女が命を落とすようなことがなければそんな単純な疑問も浮かんだのだろうか。

ハダルは肩を並べるヴェンヒルに怒りの念を向けながら一つの憶測を告げた。


「忌み子を処理する機会として最適な時期に、我が友エリヤ・スクルゥの悪評が異常なまでに蔓延した。

これは偶然ですか? ヴェンヒル・オール・カノイ」


 まるで力ある何者かが先導したかのように広がりを見せていった悪評。

混乱ゆえに、当時気がつくことができなかった可能性をハダルは追及していく。

問いを投げられたヴェンヒルは微動だにせず、しかし口元だけはわずかに震えていた。

そこには隠しきれない動揺があった。


「ハダル殿……貴公は、私になにを言わせたい。なにを言わせれば納得する。

あれから長い時間が過ぎた。今さらなにを口にしようと誰かが救われるわけではない」


 ハダルという男が優秀な騎士であることをヴェンヒルは知っている。

強力なバイソレッドを有し、強靭な精神は揺らぐことなく、国のために尽力し続ける模範とすべき騎士。

そんな男が今、古傷を抉りだしてくるかのように迫っている。

かつて騎士団長を務めた男だとしてもこの状況に焦りを抱くのは当然だった。


「なにを……ですか。正直私にもよくわかっていません。

確かに貴方の言う通り、今さらなにを言っても、あれが戻ってくるわけではない。

輝かしかった若き日の思い出も、遠い過去の幻想でしかないと理解しているはずだった」


 ハダル、エリヤ、そしてエイカー。共に学び、共に駆け抜けた青春の日々はすでにわだちとなった。

振り返ることはできても、戻ることはできず変えることもできない。


 ならば無意味であるか。彼女の死の真相を今なお追いかける行為も、その一因となった存在に抑えきれない感情をぶつけることも。


「私が真に己を制し、騎士の規範となる人物であったならこの場に立ってはいなかったでしょう。

貴方は騎士の長を勤め上げたお方。尊敬こそすれ、怒りをぶつけるなどもってのほかです」


 内に渦巻く感情とは裏腹にその声は恐ろしいまでに冷静で淡泊。

しかし外見的な情報だけで相手の心情を量るほどヴェンヒルも鈍い男ではない。

視線や表情を動かさないままに、彼は息を飲んだ。


 ハダルが絵画に描かれたエリヤに近づき、撫でるように触れ、そして振り返る。


「ゆえに私は納得したい。数ある者のうち、囮として選ばれたのがなぜスクルゥだったのか、

なぜその他の有象無象ではなく私の友であったのか」


 敬うべき存在に恨みをぶつけてしまわぬように、根拠のない憶測で忠誠心を揺るがさないように。

個としての心情と、騎士としての信条。

その間で揺れる自分を止めてくれるようにと、彼は他でもないヴェンヒルに要求している。

答え方を間違えればどうなるかは、怒りを理性で押さえつけているハダルの姿を見れば明白だった。


「納得……か。それは真実を聞けば得られるものなのかね、ヴィトン殿」

「それを知るためにも、貴方は真実を語るべきです。カノイ様」


 半壊した執務室で向かい合う二人。それから沈黙がどれだけ続いたのか。

日をまたぐほどか、瞬く間の一時か。それすらわからなくなるほどの思考の末。

時が止まったと錯覚するほどの静寂をヴェンヒルは破った。


「……ルアスや貴公が出会ったという男は……恐らく私の息子、エヌースだろう」


 長く口にしてきた真実を覆し、ヴェンヒルは己に息子がいたことを認めた。

忌々しげな表情を隠そうともせず、あからさまな嫌悪の意志を示しながら吐き捨てるように明かされた事実。


「……『人間(エヌース)』とは、随分な名ですね」


 名前は自他を区別するためにつけられるもの。

そこに種族名をあてがうのは異常な行為と言って間違いないだろう。

ヴェンヒルもそれを自覚しているのか、自嘲気味に笑う。


「私としては名を与えること自体反対だったのだが、妻が譲らなかったのだよ。

『自分から逆徒などという化け物が産まれるはずがない』とね」


 逆徒が信徒と同じ人間であることも、そんな存在が自分の腹から世に出たことも認められなかった女。

自分自身にふりかかった不幸を否定するために彼女は自らの子を皮肉にも『人間』と名づけた。


「生まれたばかりの子どもたちに聖石を握らせるよう指示したのは妻だ。

それだけ不安があったのだろう。逆徒を産んだと知った瞬間から彼女はすでに狂い始めていた」


 王族としての自負。信徒としての誇り。

彼女という人間を形成していた根幹部分が出産と同時に砕け散った結果、その精神は崩壊の一途をたどっていった。


「エヌースを育てると言われた時は耳を疑った。

逆徒を産んだ事実に耐えられなかった妻は、息子が信徒として覚醒する可能性を信じることで己の心を守ろうとしたんだろう」


 はたから見れば狂気としか映らない状態の妻を大衆に知られるわけにもいかず、

ヴェンヒルは産後の体調不良を盾に彼女とエヌースを屋敷に隔離した。

しかしそのような言い訳がいつまでも続くはずがない。

娘の異変に王が気づいたのはそれから程なくしてからだった。


「王は私におっしゃった。逆徒の子を内密に処理すれば継承権剥奪にとどめるが、できなければ国外追放だと。

体調不良の言い訳が立つのも一年が限度。私は決断を迫られていた」


 しかし依然世間はルアスに注目しており、ヴェンヒルは本格的な行動を起こせないでいた。

問題の性質上、全てを家の者に任せるわけにもいかず刻一刻と時が過ぎていく中、彼はある妙案を耳にする。


「得体の知れない男でな、以前から私に取り入ろうとしていた者だった。

出世目当てで団長である私に近づく者は多かったが、妻とエヌースの情報を手にしていたのは奴だけだった」


 いったいどこから情報を得たのか、弱みを掴まれたヴェンヒルはその男から取引を持ち掛けられた。

内容は解決策を提示する代わりに自分を預言書機関から異動させること。

それも一定の役職が約束された地位に。

拒否権はなく、騎士の長は彼の言うままに行動することとなる。


「私は彼からスクルゥの話を聞いた。優秀な騎士であった彼女が逆徒を産み、絶望の淵にいたことを。

やつは彼女を隠れ蓑にすれば一時の関心をカノイから逸らすことができると言った。

私には従うことしかできなかった」


 取引に応じなければ、待っているのは身の破滅。

たとえ外道の所業であろうとも、自身と家を守るために成さねばならないことだった。


「……では、スクルゥを選んだのは貴方ではなく、その男だと」

「ああ、そうでなければ親交のあった者をわざわざ選ぶことはしなかっただろう」


 記念画の中で笑うエリヤ。婚礼の儀に彼女が招かれたのはカノイとの友好関係が結ばれていたからに他ならない。

そんな人物を贄としたヴェンヒルの心境がどんなものだったのかはわからない。

わかりたくないとハダルは首を振った。


 人にはそれぞれ己の人生がある。他人にとって価値がなくとも、当人にとってはかけがえのない一度きりの人生。

その成功が危ぶまれた時、友と己を天秤にかけねばならなくなった時、自分がどのような決断を下すかをハダルは知っている。

多くを得た者は、そのぶん多くを失うことになるのだから。


「……取引を持ちかけたという男の名を、教えていただけますか」


 ハダルは男の名を問う。これ以上考え続ければ、自分が友を裏切る可能性について、ある結論が出てしまうと彼は確信してしまった。

思考を打ち切るために出た咄嗟の問い。ゆえに、その答えを推測することもしなかった。


「貴公もよく知っている男だ」


 普段のハダルであれば、おおよその答えを導き出したうえで相手に質問を投げかけていただろう。

それは駆け引きにおいて相手より優位に立つための常套手段。彼が常に心がけていたこと。


 現在一定の地位を築いている者の中で、当時エリヤが逆徒を産んだ事実を知っていた者。

ごく限られた選択肢の中で、その名前を候補に挙げるのは難しくないはずだった。


「ヴォゲッド。名はエイカーだったか。妙に捉えどころのない男だったからかよく覚えている」

「……なんだと」


 共に青春を歩んだ唯一の友となってしまった男の名。

エリヤの死の真相を探るため、長年協力してきた男の名。

エイカー・ヴォゲッド。その名がヴェンヒルの口から出たことが信じられず、ハダルは硬直する。

その衝撃は、あの日エリヤの名を聞いた時以上のものだった。


「なぜだ……エイカー」


 記念画の中で笑みを浮かべるエイカーに向けて動揺の声を発するハダル。

執務室に訪問者が現れたのはそれと殆ど同時だった。



・・・



 四層から二層までの道のりをアノスは日が落ちるまで走り続けた。

預言書機関の解体と同時に起こったエリヤの死。

二つの事象に何かしらの関係があれば、研究凍結を命じたヴェンヒルがなにかを知っている可能性がある。

ヒゲワシの件を除けば、彼が唯一の手がかりだった。


「しかし、すんなりといくとは思えんな」


 エリヤの過去を知っていたトラフはヒゲワシによって殺されてしまった。

協力者の名前も含め、聞かなければならなかった話を妨害するように現れた仮面の男。

ヴェンヒルのもとへたどり着けば、また彼が現れる。そんな予感がアノスの胸にこびりついて離れない。


「認めがたい予測ほど、得てして真実に近い……か」


 予測というには判断材料が少ない、直観と言い換えた方が適切かもしれない感覚。

死骸の力を持ったヒゲワシと自分は目に見えない存在によって繋がっている。

荒唐無稽とも言えるそんな思いがアノスの中で確立され始めていた。


「そこにいるのか、ヒゲワシ」


 ようやく目的地が見えてくる。乱立する屋敷の中でもひときわ大きなカノイの屋敷。

ルアスとの戦闘によって一部が崩れたままの屋根からは黒煙が上がっていた。

同時に聞こえてくるのは断続的な衝撃音。戦いを繰り広げる者たちが鳴り響かせる激情の音色。


「今、ヴェンヒルを失うわけにはいかない」


 門を越え、庭を駆け、木々を足場に空中へと躍り出たアノスは暗雲立ち込める執務室へと飛び込んでいった。

火の手を警戒し、前方に死骸を展開しながら床へと着地する。

これほど濃い煙を生んだとなれば、よほどの大火災が起きているものだと彼は考えた。

しかし周囲に炎の熱は感じない。代わりに背筋を抜けるのは不快感と薄ら寒さ。


「煙じゃない……これは」


 霧状に形を成した死骸。アノスが創りだせるものと同種の力が執務室全体を飲み込むように覆っていた。

全身の肌にまとわりつき、穴という穴から侵食してくる死骸の霧。

常人が触れれば発狂しても不思議ではない。


「くそ、カノイはどこに……」


 死骸を操れるアノスであれば、体内にいくら死骸をため込もうと問題はない。

しかし対抗しうるバイスをヴェンヒルが所有していなかったとしたら。

また一つ手がかりが失われてしまう。

そんな最悪の状況が脳裏を駆け抜ける中、冷汗をかきながら口にしたアノスの声に反応する者がいた。


「そこかッ!」


 突如降り注がれたのは全身を宙に吹き飛ばす衝撃。打撃によるものでも、突風の類でもない。

見えざる巨碗に投げ飛ばされたような奇妙な感覚。その力には覚えがあった。


「なんのマネだ、ハダルッ」


 壁を貫通し、廊下の先の部屋まで吹き飛ばされたアノスは瓦礫の中から立ち上がる。

その声と同時に執務室にたまっていた煙が消えていき、今の衝撃を放ったハダルが姿を現した。


「なんのマネだと、またおかしな質問をする。裏切り者に剣を向けることになんの不都合がある」


 腰に下げた鞘から、これまで一度も抜くことがなかった剣を引き抜く。

騎士として、剣を抜く行為は己の総てをかける意味を持つ。

それほどまでに強固な敵意を向けられる意味がアノスにはわからない。


「裏切り者か。お前たちと進んで手を組んだつもりはないが、その剣を向けられるほど不義理を働いたつもりもない。

なにを勘違いしている」

「勘違いか。そうであればどれほどよかったか」


 死骸の霧が晴れ、視界が明瞭になるにつれ、屋敷内の様子が明らかになる。

執務室に立つハダルの足元。そこに倒れているのは腹に黒い刃を深々と刺されたルアスだった。

死んだように動かない彼女の姿にアノスは一瞬目を向けるが、すぐに意識をハダルへと戻す。


「これはどういう状況だ」

「貴様の奇襲作戦は失敗に終わったということだ」


 説明を求める声を一蹴するようにハダルは会話を打ち切ると、手にした剣をアノスへ投げ込む。

空間ごと貫くように差し込まれた飛翔の剣。その初激はあまりにも素早く、死骸の力を行使する余裕など微塵もない。


「奇襲だとッ!?」


 運か、奇跡か、それとも意図してか、差し込まれた剣はわずかに頬をかすめ屋外へと消えていく。

その隙にアノスは攻撃範囲から逃れようと壁の向こうへ退避しようと試みるが、それを許すハダルではない。


「腹を刺されたルアスが執務室へやってきた直後はさすがに動揺したとも。

私も人の子だ。愛弟子があのような姿で現れれば警戒心もわずかに鈍る」


 アノスが後方へ飛び去ったと同時に彼の背後から超重量の衝撃が襲い掛かってくる。

首から腰にかけて均等かつ強力な空気振動が炸裂し、彼はハダルの立つ方向へ引き寄せられるように吹き飛ばされた。

もはや声を出すこともできない。


「だがそれだけだ。黒煙がルアスの体内から噴出されたあの一瞬で仕留めきれなかったことが貴様の敗因となろう。

不用意に声を出したのは迂闊だったな。おかげでこうして霧も晴れた」


 あの霧に触れた瞬間、ハダルは感覚的にそれが死骸で構成されていると気がついた。

死骸を操る力を持つ者など彼は一人しか知らない。アノスを疑うのも不自然ではなかった。


「馬鹿な、こんなことをして私になんの益があるッ!」


 辛うじて状況を理解しつつも納得がいかず、形成した刀を支えに立ち上がったアノスはそのままハダルに切りかかる。

加減や手心を加える余裕はない。その一閃は正真正銘、本気の殺意のもと振り下ろされた一撃だった。


「誘拐したカノイ様を交渉材料に、エイカーが捕らえたという女を解放させる。

考えられるとすればこんなところか」


 触れれば総てを死骸へと変える確殺の刃。しかしそんな刀も当たらなければ意味がない。

皮膚に食い込む紙一重で死骸の剣戟はバイスによって止められていた。

涼やかな顔を崩さないハダルの余裕ぶりにアノスは歯噛みする。


「なによりもこの刀が動かぬ証拠だろう。このような刃を持つ者、貴様の他に私は知らん」


 バイスによって止められた刀と、ルアスの腹に突き刺された刀はどう見ても同じ素材で形成されていた。

死骸の刃。アノスのみが有する力だと思われていた異形の力。

しかしアノスは己と同じ力を持ったヒゲワシの存在を知っている。


「聞けハダルッ! 私は……」

「黙れ」


 ヒゲワシの存在を知らせるべく口を開いたアノスの胸倉を掴み引き寄せるハダル。

目と目を合わせ二人は無言で睨み合った。半壊した屋敷の中で流れ落ちるのは不自然なほどの静寂。

まるで戦いが終わったとさえ錯覚してしまうほどの静謐さの中、諦めの心情を吐露するようにアノスは小さなため息をついた。


「……そうか。そちらがその気だというなら、やむを得ないな」


 しかし激闘の幕はいまだ閉じることなく、二人は再び戦意をまき散らしながら猛る。

アノスはハダルの胸元を蹴り飛ばし拘束の手から逃れ、同時に手に持った刀を先ほどの趣向返しのように投げつけた。


「ようやく取り繕うのをやめたか」


 飛来する刀をバイスで止めるべくハダルは手をかざす。

しかし刀の推力が失われる直前、死骸は刃の形を失い霧のように姿を変える。

一時的に視界を奪われたハダルに再び刀を手にしたアノスが肉薄する。


「二度も同じ手が通用すると思うな」


 ハダルは半円を描くように力強く片腕を振るう。

霧を吹き飛ばしながら発動した衝撃は一点ではなく周囲を巻き込む面攻撃。

引きはがされた執務室の床板は突進してくるアノスの体勢を崩すべく降りかかった。


「こんなものでは埒が明かんな。裏切り者を屠るに相応しいものは、やはり断罪の剣か」


 鋭利な棘をもった床板の木片は突進を停滞させるが、傷を負わせるまでには至らない。

降りしきるすべての攻撃を退け、死骸へと変えながら、アノスは四本の短刀を投げつける。

ハダルに投擲武器は通じない。しかし短刀を止める際に一瞬割かれる集中の切れ目が反撃の狙い目だった。


「そこだッ」


 投擲した四本の短刀にアノスは黒糸を投げ繋げる。

それぞれの糸と結合した短刀はそれまでの直線的な動きから一変し、一瞬にして不規則な軌道を描き始める。

編隊を組むように拡散した短刀はハダルの四方から同時攻撃を仕掛けた。


 たとえ三本が止められようと、残りの一本が死角攻撃となる。

ハダルの力はその目に捉えたものにしか及ばない。

しかし、バイスの弱点を上手く突いた攻撃を前にしても彼の余裕は消えなかった。


「飛ばした刃を操るか。柔軟な発想は若者の特権だな」


 突如、アノスは後方から迫る気配に気がつく。エリヤから受け継がれた戦う者としての直観。

それに従い回避行動をとった瞬間、彼の首元をかすめたのは先ほどハダルは刺し投げた銀の直剣だった。


「効率の悪い扱い方だと軽んじていたが、なかなかどうして便利なものだ。

実際に試してみないことには何事もわからん」


 舞い戻った剣は持ち主を守護するように高速でハダルの周囲を旋回し始める。

人が振るうだけでは決して到達できない斬撃速度。

百を超える連撃が一瞬にして放たれ、打ち砕かれた四本の短刀はハダルの足元へと崩れ落ちた。


「……さあ、こい。その足がいまだすくんでいないのならばな」


 バイスによって浮かんだ剣を携えて、ハダルは笑みを浮かべながらアノスへ声をかける。

まるで相手を煽るかのような言動。普段の実直な彼を知っていれはこの挑発的な行動に違和感を覚えただろう。

しかしここにいるのはアノスを除けば意識を失ったカノイ親子だけ。

横やりを入れる者も、この戦いを観察している者もいない。


 いるとすればそれは人ならざる神にちがいない。


「お前と違って、私は騎士じゃない。決闘まがいの真剣勝負など、御免だなッ!」


 その瞬間、粉微塵となったはずの短刀が再び一刀の形を成し、ハダルの足元から射出される。

股下から下顎目がけ、風を切って飛ぶ不意打ちの刃。

非道であろうと卑劣であろうと己が勝利するために放った致命の一刺し。

視覚外からの奇襲にハダルのバイスは対応しきれず、後方への回避行動も間に合わない。

苦し紛れに放った直剣だけが短刀を弾き返すが、そこまで回避に意識を集中すれば追撃を容易に許すことにもなる。


「お前から仕かけてきたことだ。悪く思うな」


 下方からの奇襲と同時にアノスはハダルの頭上へと飛び、両手に握った刀を渾身の力と共に振り下ろす。

弾かれた短刀に頬を切り裂かれながらもその構えは微塵も揺らがない。


「……なるほど、実に見事な……これが彼女の剣か……」


 放たれた引き裂きの一閃は空を断ち、二人の激闘の幕を切る。

昔を懐かしむような言葉を残し、震える足で後ずさるハダルは、崩れた壁から身を投げるように姿を消した。


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