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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
21/27

愛される者2


 避けられない一撃だと思っていた。

理性の大半が吹き飛んだ状態であるコーバも、今まさに土に変えられようとしているアノス自身も、

振り下ろした土の腕が致命の一撃になると確信していた。


 しかし、確信は時に覆る。闘争の優位性は時にあっけなく裏返る。

その感覚をアノスは何度も経験していた。


「……都合のいい奇跡というのは大嫌いなんだが、今は少し気分がいい」


 エリヤを助けられたかもしれない死骸の力は、彼女ではなく、自分を守るために発現した。

己の中の無意識が母よりも自分を優先した事実が認められずに、アノスはこの力を与えた神と、力そのものを強く憎んだ。


 しかし、母を残して生きる罪悪感と、母のために生きなければという強迫観念から解放された今。

彼は初めて自身に宿った力を受け入れる。

過去の嘆きではなく、これから切り拓く未来の象徴として、死骸は新たな形を成す。


「これは復讐のもとに死を振りまく力ではない。私が愛した者と、未来を守るための力だ」


 コーバの腕が打ち下ろされたのはアノスの全身に展開された鎧の上だった。

血肉を思わせる赤黒の鎧はハダルとの戦闘で彼が無意識にまとっていたものと同じもの。

その時とは異なり、アノスは鎧を完全に制御下に置いていた。


「なぜ……なぜだッ!? 貴様なぜ土に還らないッ!?」


 打ち込まれたが最後、問答無用で土塊へと変えられてしまう拳を受けても、死骸の鎧は影響を受けていない。

否、コーバの力が無効化されているわけではなかった


 土に変えようと侵食しようとする力は変わらず鎧を蝕んでいる。

それでもアノスの体が依然、人の形を保っているのは同種の力がコーバの力と拮抗しているからに他ならない。


「悪いが、まだ生きるのを諦めるわけにはいかない」


 鎧に包まれたアノスの腕がコーバの肩を掴む。

彼の肩が急激に変色し、腕ごと地面に腐り落ちたのはそれと同時だった。


痛みを感じる間もなく、腕を一本失ったコーバ。

彼が悲痛な叫びを張り上げたのは、その腹に全身を吹き飛ばすほどの掌底を受けた後だった。


 砂の海を二つに割りながら森の木々へ激突するコーバ。

だがそれと同時に土砂の津波がアノスを狙って再び襲い掛かる。

渦を巻き四方から同時に迫っていた波は、しかし彼に触れたものから死骸へと変わっていく。

土砂の量がどれだけ多かろうと関係ない。

触れるもの総てを屍に変貌させてしまうアノスは、コーバによって創られた土砂を己の体内に総て吸収してしまった。


「馬鹿な……お前は見失ったはずだ。生きる意味も、戦い理由も……それなのに」


 先ほどまで生きる意味に迷っていたはずの男は、コーバが理性を差し出してまで手に入れた力を打ち破り近づいてくる。

鎧をまとったアノスの姿はさながら死を告げにくる異形の化物。

その圧倒的な死の香りを前にしては、もはや絶望することもできなかった。


「貴様は……なぜ戦える。なんのために生きている」


 信じるものを見失った者がなぜそれだけの力を得られたのか。

なぜ自分のように破滅の道に歩を進めなかったのか。

縋るものなくしてその地に立つことができる理由が彼にはわからない。


「……エリヤのためでも、ソラハのためでも、ボラルのためでも、ほかの誰のためでもない。

私は、私自身のために生きると決めただけだ」

「誰の愛も得られない、無価値な自分のためにか?」


 己の価値基準は誰かに認められるか否かで決まる。少なくともコーバは幼き頃からそう考え続けていた。

信徒として神に選ばれ、家を継ぐものとして家族に選ばれてきた彼の耳には、自分のためという言葉が酷く身勝手なもののように思えた。


「エリヤの本心など関係ない。彼女が私を愛してようとなかろうと、母への感謝は変わらず私の中にある。

その事実に気がついただけだ」


 腕と同化した刀を倒れるコーバに突きつける。

たった一度の掌底を腹に受けただけだが、その切っ先を払う力も彼には残されていなかった。


「結局、自分を愛した母親の幻想に逃げ込むんだな」

「いや……理想のエリヤにしがみつくのはもうやめだ。彼女は女神じゃない。

人として苦しみ、葛藤し、後悔と悲しみにまみれながら生きていたんだろう」


 幼き頃の記憶に刻み込まれたエリヤはまさに女神だった。

悲劇とは無縁の笑顔で、すべてを受け入れ、すべてを愛する理想の母親。

しかし、ハダルやトラフの話を聞けば、エリヤがどれだけ苦しみながら生きていたのか理解できてしまう。

彼女もまたその身に多くのもの抱えた人間だった。


「その苦しみの果てに彼女は逆徒の私たちを育ててくれた。

その理由が愛でなくとも、私が彼女を愛することに変りはない」


 母を想うアノスの気持ちが変わることはない。

しかし想いの根底にあった本質が、今回の戦いで大きく変化することになった。

それまで母に愛されるために、愛されるべき存在と自覚するために行動していた彼は、

今日、初めて自分の想いのためだけに刀を握った。


「……結局は、それか」


 アノスの言葉を聞いたコーバは呆れたように笑う。その声に先ほどまでの狂喜は宿っていない。

穏やかながらも、どこか切なげな声は廃墟の空に虚しく響いた。


「俺にも、貴様ほど自分の心に確信を持てる強さがあればな……」


 コーバはあおむけに倒れながら呟く。

騎士になれなくとも、家族に否定されようとも、己が積み重ねてきたものを信じることができていれば、

彼の道はどこまでも続いていたのかもしれない。


「……今からでも遅くはないだろう」


 破滅の引き金を引いた者がそんな言葉を口にするのは筋違いなのだろうか。

鎧と刀を消し、向けていた殺意を霧散させたアノスは倒れたままのコーバをまっすぐと見つめる。


 認められないことへの不安。

敵対関係とはいえ、同じ苦しみを胸に抱えていた者同士、思うところがあったのだろう。

励ますように声をかけるアノスの姿にコーバはまた笑った。

呆れたように、そしてやはりどこか切なげな声で。


「いや、残念だが……時間切れだ」


 瞬間、コーバの全身が内側から弾けた。

なんの予兆もなく、前触れもなく、先ほどまで人の形をしていたものが一瞬にして肉の塊と化す。

破裂した皮膚の下から飛び出してきたのはおびただしい量の血液。

先ほどまでコーバの命を司っていた鮮血は凶器と成り果て、そのままアノスへと飛びかかってくる。


「なにッ!?」


 あまりに突然のできごとに一瞬、アノスの対処が遅れた。

放たれた無数の血の矢を回避しきれず、結晶化した数本の血液が右腕に突き刺さる。

肉を貫いた血の矢はすぐさま液状化し、傷口から体内に浸食してこようとするが、そのすべてを死骸へと変えることでアノスは血の侵入を阻止した。


「トラフ・トーレフッ!」


 血を操るバイソレッドを持ち、コーバをけしかけて姿を消した男。

外道であると知ってはいたが、協力関係にあった者を使い捨ての罠のように扱う行為に流石のアノスも不快感を隠しきれない。


「……素晴らしい、あなたの力にはまだ底が見えない。

私の血液や、生物ですらない土塊すら屍に変えてしまうとは……」


 森のどこかからか驚愕と関心が入り混じった声が響く。

姿は見えないが、どこからかアノスを観察しているのは明らかだった。


「試作品が敗れ去ったのは想定外でしたが、それ以上に価値があるものを見せてもらいましたよ。

これでまた、あなたへの興味が深まった」

「試作品だと? コーバのことか」


 周囲の気配を探りながら気になる言葉を発したトラフにアノスは問いを投げる。

以前戦った時に比べ、明らかに不自然な成長をしていたコーバ。

精神的不安定さを含め、その様子は明らかに普通ではなかった。


「ええ。体内構造をバイスの出力増強に特化させてみたんですよ。

長年研究しては失敗続きだったんですが、ここに研究所を移した後、ある協力者からアドバイスをもらいましてね。

おかげで試作品第一号が完成しました」


 神から与えられたものだとされているバイソレッド。

その力の強さは己の鍛錬と信仰心の深さで決まると信じられているはずだった。

しかし信徒であるはずのトラフは、その力に別の理屈が働いているという。


「私以上に人間の身体に精通した者がいるとは思いませんでしたよ。

まあコーバ君の例でいろいろと反省点も見つかりましたし、それは今後の研究に活かすとします」


 バイソレッドの概念に限らず、この国に伝えられている常識には明らかな嘘が含まれているとアノスは考えている。

神の存在にしても、信徒と逆徒の違いにしても、語り継がれてきた常識が真実であるという裏づけがなかった。


「トラフ・トーレフ。お前はなにを知っている」

「漠然とした質問ですね。それでは答えようがありませんよ」


 バイソレッドとはなんなのか、信徒と逆徒をわけるものはなんなのか、

それが預言書に書かれていたことなのか、それがエリヤの殺された理由なのか。

聞かなければならないことは山のようにあった。それを一言で言い表すのは難しい。

ゆえに、投げかける問いはただ一つ。


「逆徒を育てるよう預言書機関がエリヤに命じたこと。

逆徒でありながら私が異形の力を使えること。この二つが預言書の内容にかかわることか?」


 預言書機関の仕事は神が残した言葉が真実であるか調べること。

その機関が逆徒の育成を命じたのなら、逆徒に関するなんらかのことが記されていたと考えるべきだろう。

そして、恐らくアノスが力を持ったことも無関係ではない。


「さあ? 私も今、その答えを探しています。そのためにはあなたの身体が必要不可欠だ」


 木々の隙間から血晶の矢が降り注いだ。そのすべてがアノスの背に降り注ぎ、そして死骸へと姿を変える。

完全な死角攻撃であったが、触れるもの総てを死骸に変える力を突破するには至らない。


「見ただろう。今のお前に私を倒すことはできない。

この力の秘密を知りたいというのなら、大人しく投降したらどうだ」


 矢が飛んできた方向に意識を集中させてもトラフの気配は感じられない。

しかし地の利を得た彼が依然として攻勢に転じないのは、アノスに有効打を与える手段がないことの証明でもあった。


「いまだ私の姿を見つけられていないというのに、随分と強気ですね。

前回と同じように私が姿を消せばまた振出しに戻るというのに」

「ならばこのまま撤退すればいい。だが、騎士団がお前の調査に乗り出すまで時間もない。

今ここから離れれば、私を調べる機会は一生失われることになるが、それでもいいのか?」


 エイカーが言っていた、トラフを追っている調査部の話。

本人も心当たりがあったのか、アノスの言葉に珍しく押し黙る。

撤退は簡単だが、双方互いに相手を逃がせない理由があった。


「二つに一つだ。この場から逃げて私という研究対象を失うか、大人しく投降するか」


 アノスがこの男と話したのは今回で二度目だが、彼が研究という行為に並々ならぬ執着を持っていることは理解している。

このまま、彼がみすみすアノスの研究を諦めるとは思えない。答えはすぐに出るものだと思っていた。


「あなたをここまで連れてきた人物ですが……

彼、もしくは彼女は、自らをなんと名乗っていましたか?」

「……なに?」


 ゆえに、なんの脈絡もない唐突な質問にアノスは少なからず動揺する。

エイカーに情報を売り、アノスをここまで案内し、そして岩槍に貫かれて死んだ仮面の人物。

結局素顔を見せることなく命を落とした者の名をなぜこの時尋ねるのか。


「そんなことを聞いてどうする」

「重要な事です。私と交渉したいというのなら答えていただきたい」


 いつになく頑なな様子で声を響かせるトラフの真意は測れない。

既に死した者の名前のなにが重要だというのか。


「……奴は自分のことをヒゲワシと名乗っていた。本名と素顔を知る機会はついぞ訪れなかったがな」

「ヒゲワシ……死骸を喰らい、骨までその腹に溶かす鳥獣、ですか」


 よくできた冗談を聞いたかのようにトラフは笑う。

自分だけが納得したように声を鳴らすその様子に、アノスは苛立ったように眉を寄せた。


「さあ、もう十分だろう。さっさと姿を現したらどうだ。

お前は気に食わん奴だが、抵抗しなければこちらも危害は加えない」


 先ほどから話が進んでいない。

対話の主導権を握られているというのに、トラフはいまだ姿を現さない。

時間稼ぎをして、なにか別の策を講じようとでもいうのか、アノスは徐々に警戒心を高めていく。


「いいでしょう。まだ推測の域を出ませんが、ある程度私の中で結論が出ました」


 引っかかっていたものが取れたかのような妙に清々しい声色を響かせ、トラフはアノスの前に姿を現す。

その身に大量の血晶を立ち昇らせて。


「……なんのつもりだ」

「見ての通りですよ」


 それは明らかな臨戦態勢。構えた矢をいつでも発射できる体制で彼はアノスの前に立っている。

そこに投降の意志は微塵も見られない。


「お前は外道だが、実力差を見極めるだけの冷静さを持っていたはずだ」


 先の一合から見ても二人の力の差は明らかだった。

いくら血を凝縮しても、いくらからめ手を用いたとしても、アノスに傷をつけることはできない。

それを理解していないはずもなく、血を構えるトラフの顔には薄く汗が滲んでいた。


「そうですね。私が今のあなたを倒せる可能性は、万に一つもない」


 自分の無力さを自嘲するようにうそぶくトラフ。彼は勝ち目のない戦いに自ら身を投じようとしている。

それはなぜか、アノスが問うまでもなく彼は続ける。


「ですが、あなたの陣営に下ったところで私の研究が続けられるとも思えない。

もとより騎士団を追われた私です。協力はともかくとして、騎士団本部へ連れていかれるのは困る」


 以前見つけた手紙から、トラフが騎士団内の何者かと内通していたことは確実だった。

その時の協力関係を放し飼いとすれば、今回の協力は鎖に繋がれるも同然。

そこに自由はなく、彼の探求心は満たされない。

生粋の研究者であるトラフにとって、それこそ死に等しい苦痛だった。


「この期に及んでそんな理屈が……いや、まて」


 無謀な抵抗を試みようとするトラフに向かって刀を構えた時、アノスはあることに気がつく。

人は知っている情報を隠すことはできるが、知らない情報を口にはできない。

あるいはカマをかけられたのか。


「お前、なぜ私が騎士に協力していると知っている」


 アノスは一度もトラフの前で騎士と協力関係を結ばされた事を話していない。

カマをかけるにしても、逆徒であるアノスが騎士に協力していると推測すること自体不自然だった。


「勿論、私がこの場所にいることを知っていたのが一人だけだからですよ」

「それは……どういう」


 唯一この場所を話した相手が騎士だったということなら、トラフの推測には納得がいく。

一人の騎士に居場所を話し、その後アノスがやってくればその騎士の協力者だと考えるのが普通だろう。


 しかしここへアノスを連れてきたのはヒゲワシだ。言うまでもなく彼は騎士ではない。

ならば話を聞いた騎士がヒゲワシに情報を売ったのか。それこそあり得ない。

トラフの協力者がわざわざ情報屋に彼の居場所を売る意味がない。

売るにしても、王都に数多いる情報やの中からヒゲワシを選ぶ理由もない。


「またか……」


 まるでアノスをここへ導く役目を負っていたかのようにヒゲワシはトラフの居場所を知っていた。

ソラハたちが捕らえられ冷静さを欠いていた先ほどのアノスは気がつかなかったが、思い返せばあまりに不自然な幸運だった。


「すべての事象には原因と結果が伴います。

今、あなたが思い浮かべていることも恐らく偶然ではないはず。そこには必ず思惑がある。

私はそう推測し、あなたと戦うことを選んだ」


 トラフの周囲に浮かぶ鮮血の矢が振動を始める。

それは戦いの始まりを待ちわびているようにも、ただ死への恐怖に怯えているだけのようにも見えた。


「……先ほどお前が言っていた協力者。そいつの名は」


 状況的に見て、その協力者がヒゲワシにこの場所を教えたのだろう。

トラフの研究に手を貸しておきながら、潜伏先を話したその思惑はまるでわからない。

考えられることがあるとすれば、二人の間になんらかの利害関係にあったということ。

あるいはこの場所が知られることも最初から二人がお互いに望んでいたことだったのかもしれない。


「私が負ければ、彼の名も、預言書の内容も教えて差し上げますよ。

あなたに敗れたその時が、研究者トラフ・トーレフの最期になりますから」


 死期を悟ったような口ぶりと共に構えた鮮血が射出される。

回転し、貫通力を底上げされながら迫る無数の矢。

周囲の木々をなぎ倒しながら宙を駆ける流血は、そのすべてが異なる軌跡を描きながらアノスへと襲い掛かる。


 まともに受ければ人体の原型が残らぬほどの威力だったであろう飽和攻撃。

しかしそのことごとくが目標へ届く直前で虚しく途絶える。

風を貫く血の矢は死骸となり、その勢いすら殺されてアノスへと吸収されていった。


「わからないな。私についていけば研究が奪われるというのは、あくまでお前の推測でしかない。

だが今、戦い続け血を使い続ければ待っているのは確実な敗北だ。なぜ後者を選べる」


 矢が雨のように降りしきる中、アノスはゆっくりと歩き出す。

全身から自らの血を放出し続けているトラフはこの短時間で目に見えて疲弊していた。

前回の戦いと違い、流した血は還元されず、すべてアノスに奪われている。

消耗が早まるのは自明の理だった。


「推測を間違うことなど、私からしてみれば日常茶飯事です。

ですがそのすべてに自信と確信を持ってるのもまた同じ。

研究者が自分の考えを信じられなくなったら終わりなんですよ……」


 トラフの顔から文字通り血の気が失せていく。

血液という命を繋ぐものを消費するバイスは本来戦闘に向いた力ではなかったのかもしれない。

己の知的好奇心のために人命を奪う彼の性格は決して許されるものではないが、

血を失い干からびたように崩れ落ちるその姿はあまりに哀れだった。


「推測が得意ならば、こうなることは初めからわかっていただろう」


 結局かすり傷ひとつつけることもできず、トラフは敗北した。

万が一血を失ってなお、精神を保てていれば、彼は絶命するまで血の雨を降らせていただろう。

しかし現実として大量の血を失ったものが十全な活動を維持できるはずがない。

アノスが刀を振るまでもなく勝負の結果は決まった。


「負けず嫌いなものでしてね……万に一つの可能性に賭けることも、研究者としてあるべき姿なんですよ」

「言っていることが先ほどと矛盾しているな」


 推測に自信と確信を持っていると言いながら、万に一つの可能性に賭けることも必要だというトラフ。

仮にも理詰めで物事の本質に迫っていく研究者だというのに、その理屈はあまりに滅茶苦茶だった。


「そうですね。結局人は自分の信じたいものを信じるんです。

『私がこう思ったのだから、そうに違いない』とね。

他人になにを言われても、なにを見せられてもそれは変わらないのでしょう。

研究者の私が言ってはおしまいですが」


 自嘲するトラフは乾いた喉で力なく笑う。人は信じたいものを信じる。

それが真実であれまやかしであれ関係ない。

神の存在も、バイソレッドの秘密も、多くの人々にとっては、今説かれている理屈こそが真実なのだ。


 恐らく、今後一生覆らないであろう信徒と逆徒の関係に複雑な思いを抱きながらアノスはトラフの胸倉を掴み上げる。

体を無理やり動かすための血液も彼には残っていなかった。


「どうあれお前は敗北した。預言書の内容と、協力者について聞かせてもらうぞ」


 ソラハの父、ニヘルからその存在を聞かされた預言書。城の地下深くに刻まれた碑文。

専用機関が創られるほどに、刻まれた言葉は膨大なのだろう。

その中でエリヤが調べていたもの。機関員の誰もが関りを避けたもの。

トラフ曰く信仰の根本を揺るがしかねないものをアノスはようやく耳にすることとなる。

「……あなたのことですよ」


 トラフが口にしたのはただ一言だけ。続けて述べられる説明はなにもない。

あまりに簡潔な内容ゆえに、アノスはその言葉の意味を理解できなかった。

動揺からか胸倉を掴んだ手は離され、トラフは地面に倒れ込む。


「……どういうことだ」

「以前言ったでしょう。

私たち預言書機関の機関員はあなたのような存在がこの国に生まれることを知っていたと」


 それはトラフの口から初めて預言書という言葉を聞いた時のこと。

預言書という言葉が出てきたこと自体に気を取られ完全に失念していた一言だった。


「預言書には大衆に公開されることを許されたものとは別に、秘匿することを義務づけられた外典があります。

そのだいたいが戦争や災害についての預言でしたが、そこに分類された中でも異質な預言がありました」


 騎士団内でさえも口外が禁じられていた預言。

そのためにハダルやエイカーも情報を得ることができなかったのだろう。

衰弱したトラフは胸を上下させながらも続ける。


「内容は逆徒について。

それまで逆徒の預言と言えば、その成り立ちや扱い方に関するものばかりでしたが、

そこに書かれていたのは『力』を持った逆徒の話でした」


 バイソレッドを持たない逆徒でありながら、異形の力を持つ存在。

それは確かにアノス、そしてボラルの話であった。


「『力』を持った逆徒の出現は避けられず、誕生すれば国そのものを滅ぼす存在となる。

簡潔に内容を説明すればそんな感じでしょうか。当時の私たちは大騒ぎでしたよ」


 その預言は逆徒という存在の根本を揺るがすものだった。

神に弓を引いたがためにバイスを奪われた咎人たち。

ゆえに神を崇拝する信徒は逆徒を虐げ続けてきた。

力は神を信じる信徒にこそ与えられるもの。

もし力を持つ逆徒が現れるようなことがあれば、その前提が覆されかねなかった。


「『バイソレッドは神から与えられた恩恵である』、

『バイソレッドを持たず生まれた者は神に反逆した逆徒の末裔である』、

それらが記されていたのも同じく預言書です。

遥か昔に発掘された預言とは明らかに矛盾する新たな預言。その解明には機関員の誰もが消極的でした」


 力を持たぬ者は逆徒である。

 力を持った逆徒が現れる。


 二つの預言は相反するもので、どちらかの真実が証明されればどちらかの虚偽が証明されてしまう。

この預言の解明は、同時に神の言葉が不確実だという裏づけにもなってしまう。

神を信奉する者たちにとってこれほど気の進まない実験もないだろう。


「しかし、その預言を見なかったことにして放置するわけにもいかなかった。なにしろ国を滅ぼす存在ですからね。

知らぬ間に生まれて、明日国を滅ぼされたなどということになっては笑い話にもならない」


 口外を禁止された外典の中でも最高機密とされたその預言はごく限られた者にのみ知らされ、秘密裏に研究されることとなった。

逆徒に様々な実験を施し、力が発現する条件を長年模索し続けた。


「当時目標とされたのは、逆徒が力を得る条件を知ること。

そして力を発現した逆徒を速やかに拘束することでした。

殺害できれば安心なのですがそれも預言によって禁止されていますからね」


 力を持った逆徒が現れる条件を知ることができれば、その出現を抑制することにもつながる。

矛盾した預言に困惑しながらも、機関員はその真実性を確立するために奔走することになった。


「しかし研究は難航。いつまでたっても成果は上がらず、考えられる実験にも限りが出てきました。

そんな時に機関入りしたのがエリヤさんです」


 考えられる範囲の中で唯一着手されていなかった実験。

それが逆徒に愛情を与えた場合の経過観察だった。

現状逆徒が最も自然に遭遇しにくい事象ということで研究開始から有力視されていた実験だったが、

長期間逆徒と寝食を共にしなければならない仕事に手を上げる者はいなかった。


「それがあの小屋での生活、か……」


 山奥の小さな家で、なぜエリヤが逆徒の子どもたちと生活することになったのか。

トラフの話が真実ならば納得がいった。

彼女はあの生活の中で、子どもたちの誰かが力を得るのを待っていたのだ。


「機関が解体され騎士団を去った後も、私は独自に逆徒が力を得る方法について研究してきました。

信徒と逆徒の違いはなんなのか、力の有無はどのようにして神に決められるのか。

私はその謎を解明するためにずっと生きてきた」


 そんな日々の中で現れたのがアノスだった。

逆徒でありながら異能を用いて戦うその姿は彼が長年求めていた者に違いなかった。


「あなたからエリヤさんの名前が出た時は驚きましたよ。

彼女の死が伝えられたと同時に機関の解体が始まったので、不自然だとは思っていたのですが」


 かつて人柱とされた者が、いつの間にか実験を成功させていた。

長年その真実を追い求めていた者にとってアノスとの出会いはどれほど衝撃的だったのだろうか。


「教えてくれませんか? あなたがどのようにしてその力を得たのかを……」


 知っていることは話し終わったと言わんばかりにトラフは大きく息をつくと、そう問いかける。

アノスに敗北した今、彼をサンプルに実験を続けることは叶わなくなってしまった。

自身の手でバイソレッドを解明するという長年の夢がついえた今、せめてその答えだけでも知ろうと思ったのだろう。


 しかしアノスは答えを持っていなかった。


「言っただろう。力を得たのは私が死を覚悟したその時だ。記憶が確かならな」


 それは以前にも伝えたこと。

返ってきた答えが求めていたものと違ったのか、トラフは納得がいかないというように顔を歪める。

たしかに、そんな安易な条件で力を得られるのならば、王都はすでに力を持った逆徒であふれているはずだった。


「私が初めてこの力を使ったのは王都へやってきてからだ。エリヤとの生活に関係があるとは思えないな」


 手にした異形の力がもしあの時備わっていればと、そうアノスが考えたのは一度や二度ではない。

この力があればエリヤが流した血を止めることも、横たわる彼女を家の外まで運ぶこともできた。


 しかし、エリヤを助けられたかもしれない力が発現したのは自分の命のみが脅かされた時。

大切な人を守ることができたかもしれない力が、自分自身の危機を引き金として生まれたことにアノスは強く絶望し、力を与えた者、力そのものを憎むようになった。


「これを与えたのが神だというのなら、お前に勝る外道だろう。

この力で自分の命が救われた時、どれほどの無念さに打ちひしがれたことか……」


 絶望を知るにはまず希望を知らねばならない。

この力を与えられたことによって、アノスはエリヤを助けられたかもしれない可能性について強く苦悩することになった。

あるいはその苦悩こそが、今日まで彼を亡き母親に執着させた一因となったのかもしれない。


「……まさか、本気でそう言っているんですか?」


 アノスの言葉をまるで冗談かなにかというように聞き返すトラフ。

結局彼が求めていたような理屈をアノスは持っていなかった。

むしろ伝えられたのは彼にとって一番納得のいかない答えだったのだろう。


「偶然……? そんなことがあるはずないでしょうッ!? 

あなたが力を得た背景には、なにか必ず理由が……」


 意義を唱えながらトラフは起き上がろうとするが、そんな余力も今の彼には残されていなかった。

人は信じたいものを信じるしかない。

アノスが力を得たことにはなにか理由があると、彼は信じるしかない。

その否定は、彼が今まで真実に至るために打ち込んできた人生の否定と同義であるがために。


「世の中、すべてに納得のいく答えがあればよかったのだがな」


 世界は不条理に満ちている。

たとえどのような理屈があろうとも、エリヤの死にアノスが納得することはないだろう。


「……連れていく前に、もう一つ聞きたいことがある。

お前はエリヤの死と同時に機関が解体されたと言ったな。それはなぜだ」


 機関の解体と同時に聞かされたというエリヤの死。

アノスの力と同様に、これもただの偶然なのだろうか。

トラフがエリヤに関するこれ以上の情報を持っていない以上、調査の手は当時を知る別の人物へと伸ばさなければならなかった。


「……機関解体、研究凍結。命じたのはどちらも当時の騎士団長です。

しかし、あの研究は団長であっても知りえない最高機密でした。

恐らく、内部の情報を流した者がいたんじゃないですかね」


 アノスの力に関して明確な答えが得られなかったためか、投げやりな態度でそう告げるトラフ。

それほどまでにショックが大きかったのだろう。しかしそんな彼の言葉にもどこか含みがあった。


「当時、騎士団長を務めていた者の名は」


 この男が知っていることを全て話した保証はないが、これ以上無駄に時間をかけることもできない。

これ以上の追及はハダルやエイカーの仕事だった。

再び胸倉を掴み上げ、顔を近づけながら最後にアノスは問う。

エリヤの死と機関解体に関係があれば、その命令を下した者が次の手がかりを握っているはずだった。


「……ヴェンヒル。ヴェンヒル・オール・カノイ。カノイ家の現当主ですよ」


 カノイ。その名を聞いた瞬間、アノスは眩暈を覚える。

仮面を被り、貴族の舞踏会に忍び込んだ夜、相対した女の名も同じくカノイだった。

関わり合いになりたくないとさえ思っていた一族の中に重要な手がかりがあると知り、彼は強く舌を打った。


「随分と動揺が顔に出ますね。もしや、お知り合いですか?」


 ヴェンヒル・オール・カノイとアノスが直接言葉を交わしたことはない。

顔を見たのも当主の挨拶をアノスが遠目に見た一度きり。

けして知り合いなどと言える間柄ではなかった。


「……そうでないといいんだがな」


 それでも強く否定できないのは、彼の中にある確信があったからだった。

同じ顔を持った人間が存在する理由などそう多くはない。

アノスとカノイ家の関係がどのようなものであるか、感づくのも不思議ではなかった。


「認めがたい予測こそ、得てして真実に近いものです。事前に覚悟を固めておくことをお勧めしますよ」


 胸倉を掴まれたままのトラフが助言でもするかのように口を開く。

まるで自身の過去を回想しているかのように空を見上げながら。


 抵抗する力すら残っていないトラフに挑発の類を行う理由はない。

アノスになにかを伝えたいのか、それともなんの意味もない独白なのか。

その目は探求の狂気に燃えていた研究者とは思えないほど、むなしく澄んでいた。


「自分にも覚えがあるような口ぶりだな」

「ええ、まさに今この時、私も認めがたい予測が真実であったと知ってしまったのですよ」


 空を見上げながら乾いた笑い声を小さく響かせるトラフ。

まるで死期を悟った老人のような妙な落ち着き方。

一見穏やかでありつつも、その裏には諦めと後悔が渦巻いている。

そのすべてが笑顔に押し込められた様子は、恐ろしく不気味なものだった。


「ではアノスさん、どうかお元気で。できればあなたの力の秘密は私が解明したかった……」


 トラフが口にしたその言葉にアノスが反応するよりも前に、空からなにかが落ちてきた。

音もなく、気配もなく、地面へと飛び込んでくるそれが発するのは強烈な死臭。

それまで土と木々の臭いで満たされていた四層の森は、一瞬にして血と肉が腐った悪臭へと変貌する。

それはアノスにとって馴染み深い臭いだった。


「……死骸の……臭い」


空を見上げたトラフの顔面は上空からの一撃に貫かれていた。

後頭部まで貫通した赤黒い刃は見紛うはずもない死骸の刃。

アノスが忌み嫌いながらも使用してきた異形の刀そのものだった。


「なぜ……お前が……」


 王都で過ごしてきた年月の中で、自分と同じ力を持った人間をアノスは見たことがない。

それほどまでに彼の力は異質で歪なものだった。

しかし、今彼が驚愕している理由は自身と同じ力を目にしたからではない。

その使い手として現れ、トラフを殺した人物が彼のよく知る人物であったから。


「ヒゲワシッ!」


 顔面に突き刺した死骸の刃を勢いよく引き抜き、トラフの肩から地面に着地した男は見慣れた鳥獣の仮面を身に着けている。

彼は間違いなく、先ほどコーバの繰り出した岩槍に貫かれ死んだはずのヒゲワシだった。


「お前、なぜ生きて……その刀は……」


 なぜ生きているのか、なぜトラフを殺したのか、なぜ死骸の刃を使えるのか、わからないことが多すぎた。

あまりの衝撃に口も上手く動かない。


 アノスの反応を意に介すこともなく、ヒゲワシはトラフの死骸に手をかざし吸収し始める。

人としての形を失いながら渦を巻くように吸われていく肉塊と血液。

数秒もたてば、トラフの死骸は初めから存在しなかったかのように跡形もなく消え去ってしまった。


「……少し予想とは違う結末だが、どうとでもなるか」


 暗く不穏な気配を漂わせながら、ヒゲワシはアノスに一瞥もせず背を向ける。

その後ろ姿に今までの道化のような面影はない。

なにが彼を変えたのか、これが彼の本性なのか、そもそも本当にヒゲワシと同一人物なのか。

混乱する頭をいくら働かせても答えは一向に浮かんでこない。


「待てッ!」


 足が動いたのはヒゲワシが視界の端に飛び去った後だった。

瞬く間に遠ざかっていく背中を追いながらアノスはヒゲワシという人物について考える。

思い返せば、彼の都合のよさは今日に始まったことではなかった。


 彼の依頼が発端となり、アノスはトラフと接触することになった。

彼が報酬として渡した舞踏会の会場で、アノスはエイカーと出会った。

彼が情報を売ったためにアノスは騎士たちと協力関係を結ぶことになった。

状況に変化が起こるたびに、彼はアノスの前に姿を現していた。


「あいつは……ヒゲワシは、なんだ?」


 それまで単に情報屋の一人だと認識していたヒゲワシの存在に急激な違和感がのしかかってくる。

長年アノスはヒゲワシと付き合いを続けてきた。アノスが情報を集め、ヒゲワシが買う。

エリヤの手がかりを探しながら、彼が生活し続けていられたのもその関係が早くから構築されていたからに違いない。


「それは、いつからだ……?」


 始まりの思い出。二人の出会い。振り返れば容易に見つかるはずの記憶が思い出せない。

アノスはいつの間にかヒゲワシと出会い、気がつけば顔なじみになっていた。

その関係に至るまでの経緯も思い出せず、そんな記憶が初めからあったのかさえ、もはや疑わしい。


「くそッ! どうなっているッ!」


 森を走り抜け住宅が数軒見え隠れしだした頃には、すでにヒゲワシの背中は見えなくなっていた。

コーバやトラフと戦った直後とはいえ、アノスを容易に振り切るその運動能力も今までのヒゲワシからは考えられないものだった。


「……お前なのか、私にこんなものを与えたのは」


 体の中に渦巻く死骸の塊。忌避しつつも頼らざるを得なかった異形の力。

それはヒゲワシが用いたものと同一の力であり、お互いの繋がりを確信するには十分な要素だった。


「私の周りで……なにが起きたというんだ」


 王都のふもとである四層。周辺に大きな建造物もないここからは山なりの都全体が一層まで見通せる。

アノスがこの街にやってきたのはおよそ十年前。

しかしエリヤに関する有益な情報を得られたのはここ十数日の間。

求めていた真相へと急激に近づいていく日々にアノスはかねてから作為的なものを感じていた。

その原因がヒゲワシなのか、今の彼にはわからない。


「……まずは、わかっているところからだ」


 足取りを見失った今、ヒゲワシを追うことはできない。

アノスが起こせる行動はトラフが名を口にしたヴェンヒルのもとへと向かうことだけだった。


 確実に真相への距離は縮まっている。

しかし初めから定められた道を辿らされている感覚がつきまとい素直に喜ぶことがアノスにはできない。

今まで彼は運命というものがあるとすれば、無責任な神の気まぐれによって決まるものだと思っていた。

理不尽な不幸も、都合のいい幸運も、天から人を見下ろす誰かが戯れにかき乱しているのだと。


「……だが、それは案外近くにいたのかもしれない」


 自分の人生が、自分ではない何者かに決められているような違和感。

その存在に理屈ではない確信を持ちながらアノスはカノイ家へと走り出す。

たとえその道が事前に敷かれたものだったとしても止まるわけにはいかなかった。


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