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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
20/27

愛される者-1

バトル&マザコン卒業回


 ヒゲワシの後に続いてアノスがやってきたのは、ひどく見覚えのある場所だった。

四層の森林地帯を抜けた先に佇む建造物。

夜明けの空に浮かび上がるのは、アノスとヘイツの戦いによって半壊してしまった収容所の影だった。


「誰かさんが大暴れしたおかげで、ここはもう収容所として機能していない。

ただでさえ隙間だらけだった壁は穴だらけ、最上階の大半は瓦礫の山になっちゃってる」


 前回アノスがこの場にやってきた時点で、この建物はひどく老朽化していた。

逆徒を収容する施設という性質上、建築以降、修繕案が騎士団内で挙がったかどうかも怪しい。

そんな古びた建造物があの激闘に耐えられるはずもなかった。


「半壊状態とはいえ、まさか警備の一人もいないとはな」


 前回は飾りに等しいものだったとしても数人の騎士が警備にあたっていたが、あたりを見回せどもそれらしき人影は見当たらない。

それどころか建物自体に人の気配が全く感じられなかった。


「今は感謝祭に向けて本部に人員を割いてるから……というのは建前で、

実際のところは襲撃者に施設を壊されて、あまつさえ取り逃がした事実を隠したいってのが本音だろうね」


 収容していた逆徒を逃がすことはなかったとはいえ、実質単身で乗り込んできたに等しい襲撃者を取り逃がしてしまった騎士団。

その事実は彼らの歴史に大きな泥を塗ることになる。

格式高い騎士団の本部はそのような醜態を内部の人間にさえ広めたくないのだろう。


「神の飼い犬に甘んじているというのに、自尊心は人並み以上か。理解できんな」

「相変わらず君は神様が嫌いみたいだね」


 呆れたように笑うヒゲワシは崩れかけた正面入り口の扉に手を向け、婦人をエスコートするように道を譲る。

施錠された鍵ごとこじ開けろということなのか、アノスは形成した刀で周囲の石壁ごと扉を両断する。

土煙を上げて扉が倒壊していき、決して小さくない音が廃墟と化した施設内に響き渡る。

それでもこの建物から生き物の気配を感じ取ることはできなかった。


「……それじゃあ僕の案内はここまで。後は君だけでがんばってね」


 巻きあがった土煙が晴れると同時に不可解な台詞がヒゲワシの口からアノスの耳に届いた。

いまだトラフの姿は確認できない。

ここで案内を終わらせてしまっては、情報の正しさを証明するためアノスに同行した意味がなくなってしまう。


 だがその言葉に反応しようと口を開きかけた瞬間、それは起こった。

平地であったはずの地面が一瞬、波打つ。その衝撃でアノスは体制を崩し、ヒゲワシは尻餅をついた。

瞬時に意識を自身の足元、否、地中に向けたその瞬間、地上に向かってせりあがってくるなにかを彼らは感じ取っていた。


「ヒゲワシッ!」


 反射的に収容所の壁を駆け上がり地面から離れるアノス。

この場に連れてきた情報屋が自分を謀ったのではと思った彼は、いまだ地面で尻餅をつくヒゲワシを睨みつけた。

しかし目を向けた先でへたり込む彼は次の瞬間、超速でせりあがってきた無数の槍に貫かれる。


 否、槍ではない。目を凝らすアノスの瞳に映ったのは岩石の杭。

収容所の周囲すべての地面から伸びる鋭利な岩槍の大群は一瞬にしてヒゲワシの体を死骸と変えた。


「馬鹿な……」


 殺してやりたいと思っていた相手が目の前で肉片と化したその事態に、アノスは一瞬の動揺を見せる。

敵対したからこそ見えたヒゲワシの底知れなさ。

そんな相手を瞬く間に葬って見せたのはいったい何者なのか。


「まさかあなたから姿を現してくれるとは思っていませんでしたよ」


 歪み、陥没した大地。土煙で覆われたその大穴から聞き覚えのある声が響いてくる。

それは間違いなく、自らを収集家と名乗りエリヤの同僚を自称していたあの男だった。


「ようこそ、新たなる我が研究所へ。

施設規模にはまだ不安が残りますが、私はあなたの訪問を歓迎しましょう」


 仰々しい言葉使いと共に砂塵から姿を現したのは、多くの信徒と逆徒を切り裂き、その秘密に迫ろうとした男。

エリヤの過去やアノスの秘密を知りうる存在である彼は、貴重なサンプルが自らの目の前に現れた現状に歓喜していた。


「再会の喜びに浸る気はない。お前を拘束させてもらうぞ、トラフ・トーレフ」

「おや? 自己紹介をした覚えはなかったのですが……しかしそれはお互い様ですねアノスさん」


 表面上、好意的な態度を見せるトラフとは対照的に、交戦姿勢を崩さないアノス。

彼らの様子は似ても似つかないものだが、お互いを見る眼差しの意図はその実非常に似通ったものだった。


「拘束などしなくとも、私に聞きたいことかあるのならこの場でお話しして差し上げますよ。

二度も直接私の研究所に乗り込んできたあなたに、回りくどい駆け引きは似合わない」


 すぐにでも戦闘態勢に入ろうというアノスを前に、トラフはこの期に及んで彼の問いに答えるという。

アノスの秘密。エリヤの過去。そして彼女が研究していた預言書の内容。

彼がどこまで真実を握っているのか確かめるためにも、ここで追及しておきたいことは山ほどあった。


「……お前は、以前エリヤのことを同僚だと言ったな」


 預言書機関。神の言葉を疑うことを生業とする騎士団の嫌われ者。

彼らが研究していたという預言書の内容。それを知らねばエリヤの死の真相にはたどり着けない。


「答えろ、エリヤはなぜ逆徒を育てていた。なぜ私たちを愛していたんだ」


 騎士が逆徒を愛し育てる。そんなことがなぜ起こりえたのか、目の前の男なら答えを知っているはずだった。


「愛……ですか」


 その問いはトラフが前回、『答えることができない』と一蹴したものだった。

しかしなぜか今回はその問いに答えるべきかどうか悩んだような顔をする。

心境の変化でもあったのか、それとも彼を取り巻く状況が変化したのか。

トラフは刀を向けるアノスの下方、全身を貫かれ肉塊と化したヒゲワシに目を向けていた。


「……逆徒が愛されることなどありませんよ」

「なに?」


 視線を戻した彼は笑っていた。投げかけられた問いを馬鹿馬鹿しいと言うように。


「あなたもなかなかおめでたい人ですね。エリヤは逆徒を愛してなどいなかった。

あくまで仕事としてあなた方と接していたにすぎません」


 こみ上げる笑いを抑えきれないのか、トラフは体をくの字に曲げて笑い出す。

神経を逆なでする甲高い笑い声にアノスは刀の柄を強く握り込んだ。


「……預言者機関に左遷されたばかりの頃の彼女はひどく参っていましたねえ。

まあ人柄はよかったので特に不和ありませんでしたよ。

誰もやりたがらない仕事に率先して参加してくれることも多かったですし」


 新たに与えられた環境に適応しようと彼女は必死だったのだろう。機関に馴染むため、受け入れられるため、エリヤは自分にできることをすべてやろうとした。


「まあそんな性格ですから、長年中断されていた仕事を押しつけられたのも当然でしたね」


 嫌われ者の集団である預言書機関。そこに属するものですら手につけたがらなかった仕事。


「それが逆徒の経過観察です。愛情を一身に受けた個体がどのような変化を見せるかを調べるための……」


 それはある預言書の記述が真実であるか否かを確認するために始まった研究。

しかし王都内、まして騎士団本部に逆徒を連れ込むわけにもいかず、結果的に実験は王都から遠く離れた辺境の地で行われることとなった。


 家元から離れた地で逆徒の飼育を、それも差別的感情を一切表に出さずに続けなくてはならない。

そんな仕事をエリヤは有無を言わさず押しつけられた。


「あの時の彼女の顔は傑作でしたよ。逆徒に人生を狂わされた女が逆徒を育てなければならない。

他人の私から見てもそれはあまりに残酷な仕打ちでしたからねえ。

人のいい彼女もあの時ばかりは取り乱していました」


 逆徒の娘を産んでしまった結果、夫は自分のもとを離れ、充実していた仕事を失い、行き着いた先は逆徒と生活を共にする毎日。

心を病んだとしても不思議ではなかっただろう。


 当時、王都内から回収された生後一年未満と判断された逆徒たちと共にエリヤは辺境の山小屋へと贈られた。


「あなたも、その子どもたちの一人だったのでしょう? 

その言動を見るに逆徒を愛するエリヤの演技はたいしたものだったようですね」


 アノスは今までエリヤの愛を疑ったことはなかった。

あの小屋で生活してきた日々の中で彼女が見せていた笑顔が偽物であったなどと考えたこともなかった。

今、目の前の男から聞かされた話も彼は信用しない、信じられるはずがなかった。


 しかし彼やハダルの話を聞いたことで『なぜ』と、アノスの中にある疑問が浮かんでしまう。

エリヤが真実、逆徒を心から愛していたのだとしたら、その理由はいったいなんなのか。

初めから彼女が特別な存在なのだとしたら、ソラハを路肩に捨てることもなかったはず。


 それまでアノスがあえて見ようとしてこなかった疑いの心は、彼がエリヤを想う気持ちにかすかなひびを入れた。


「まさかあなた、逆徒の自分が誰かに愛してもらえると、本気で思っていたんですか?」


 驚くほど冷徹な声が思考の海に沈みそうになっていた意識を皮肉にも引き上げる。

先ほどまで笑っていたはずのトラフが真顔のままアノスを見ている。

今のアノスには、その顔が無性に腹立たしかった。


「……黙れ」


 いまだトラフの口から預言書の内容がどのようなものだったか確認できていない。

しかしそんなことは彼を無力化してからどうとでも聞き出せばいい。前回のような失態を繰り返す気はない。

アノスは今すぐにでも彼の口を、手にした刃で切り伏せてしまいたかった。


「……先ほど拘束、とあなたは口にしましたが、私も前回言ったはずです。あなたの身体は私が貰い受けると」


 その言葉が引き金だった。収容所の壁を蹴り、対象を無力化するべくトラフの立つ地面へとアノスは急接近する。

刃を削ぎ落し、殺傷力を抑えた刀が無防備に立ったままの研究者へと振り下ろされる。


「さあ、あなたの出番ですよ。思う存分暴れてくださいッ!」


 瞬間、再び地面が歪み始める。トラフを中心に広がる大地の波紋は急激に激しさを増し、アノスに襲い掛かった。


 それはさながら土砂の波。人ひとりを容易に飲み込む土塊の洪水はアノスの突撃を正面から打ち消す。

その力は明らかにトラフの使用する血のバイソレッドではなかった。


「この力は……」


 意思を持つがごとく迫りくる土砂の波。

その規模こそ桁違いであるものの、アノスはこのバイソレッドに見覚えがあった。

地面から噴出する土塊。岩石のように硬質化し、大地を削るように迫る破壊の波。

その使用者が誰であるか、答えはすぐに明確となった。


「土塊を支配するバイス……まさか」


 ソラハと初めて出会った日。この収容所に彼女を連れ去ろうとしていた候補生がいた。

土を操る若き敬虔な信徒の名は。


「コーバ・ゴーエルかッ!」


 アノスの真下。地面の一部が不自然に盛り上がった瞬間、彼は姿を現す。

地表から打ち出されたが如く飛び上がってきたコーバは、上空の波を警戒していたアノスの腹を殴り飛ばす。

完全な不意打ちを躱す余裕などなく、アノスは体の表面に展開した薄皮の鎧のみでその衝撃を受け止める。

しかし高密度の土をまとった拳の威力を殺しきることはできない。


 上空へ打ち上げられ、しびれるような衝撃が全身にほとばしる。

しかし痛みを理由に無防備な体制をいつまでも晒すわけにはいかなかった。


「まさかお前に再開するとは夢にも思っていなかったな。狂信者」


 かすかに痙攣する腕の痛みを振り払うかのように刀を構え直したアノスは波の中心でこちらを見上げているコーバを睨みつける。

その姿は候補生だった頃の小奇麗な雰囲気とはかけ離れていたものだった。


「アノス……逆徒の使者、俺からすべてを奪った男……」


 薄汚れ、傷だらけの身体にまとうのは、まるで逆徒が身に着けているズタ袋のような衣服。

あれから彼の身になにが起こり、どのような経緯でトラフと行動を共にすることになったのか。

理由は不明だが、今アノスに対しこれ以上ない敵意を持っていることは確かだった。


「さあ、コーバ君。君の人生を滅茶苦茶にした相手はあそこですよ。遠慮せずに、さあッ!」


 トラフの指示に従うようにコーバが波と共に肉薄する。

周囲の地面を丸ごとめくり上げながら迫るその力は、明らかに前回切り結んだ時の比ではなかった。


「神の次はこの男に従うようになったか。相変わらず己を持たぬ男だな」


 アノスは手中の刀を槍のように変形させ、渾身の力と共に投擲する。

風を打ち破るほどの速度で飛翔する黒槍は、しかしコーバを守るように展開された土砂によって防がれてしまう。

渦巻き、乱流する土砂の波はすべての衝撃を殺し切る。遠距離から決定打を与えることは不可能だった。


「ならば攻め手も限られるというもの」


 自身に向けて迫りくる波を飛び越えたアノスは足元に薄い板状の死骸を形成する。

波打つ土砂の上に着地したアノスはその板を用い、うねる波の上を滑るように進んで行く。

覆いかぶさるように次々と降り注いでくる土砂を左右に躱しながら、彼は波の発生源へと突き進む。


「土の中に引きこもったままとは、随分と情けない戦い方をするようになったな」


 波を利用し大きく上空へ飛び出したアノスは土砂の発生源であるコーバの位置を特定する。

地面全体が不定形に波打つ中、自分を土砂に巻き込まないためか、彼の周囲だけが本来の形を保っていた。


 この荒波の中決定打を与えるには、接近戦にて痛打を叩き込むほかない。

一瞬でそう判断したアノスは形成した板を足場にコーバのもとへと飛び込んでいく。

行く手を阻害するように波が二人の間に立ちはだかるが、そんなことは百も承知だった。


 アノスが伸ばした手の先に形作られたのは巨大な円錐状の籠手。

全身を覆うほどの防具はその全体を高速回転させ迫る波を掘削していく。

全身を縦横無尽に振り回される感覚に陥りながらも、荒れる土砂の海をアノスは貫き通す。

ひらけた視界の先に立つコーバを視認した彼は再びその手に刀を形成すると、眼前の障害を両断すべく腕を振った。


「……舐めるなッ!」


 振りぬかれた刃がその身に到達しようとした瞬間、それまで声を荒げずにいたコーバが大気を震わすほどの覇気を発する。

力強く見開かれた瞳は、上空から迫るアノスの姿を食い入るように捉えていた。


 アノスを捕らえるために展開した土砂の海は、皮肉にもコーバの逃げ道をふさいでいる。

四方を土の濁流に囲まれた彼に残された選択肢は回避ではなく、迎撃。

一度敗北し、心を折られた相手の斬撃を受け止める力。


「貴様に対抗するための力を俺は与えられたんだ……」


 自分でも制御が聞かないほどに底上げされたバイソレッドの力。

その真髄を見せるべきは、今この場所、この時に違いなかった。


「アノスッ!」


 叫びと共にコーバの腕が迫る刃に伸ばされる。

身を守るものなど何一つ着用していないその手で彼はアノスの斬撃を防ごうとしていた。

誰もが血迷ったと思うであろうその行動。しかし、アノスは自らに迫る死の危険を鋭敏に感じ取っていた。


 刃が手のひらに食い込み、その皮膚と肉を切り裂こうとした瞬間。

 アノスが本能的に柄から手を放した瞬間。

 そして死骸の刃が土塊と変貌した瞬間はほぼ同時だった。


「驚いたな……」


 コーバの頭上を飛び越え、彼の背後に新たに形成した刀を差し向けながらアノスは言葉通り驚愕の表情を浮かべる。

その声に反応するかのように振り返ったコーバは一瞬にして土塊と化してしまった刀を、いとも容易く握りつぶした。


「今周りにあふれている土砂の波といい、触れたものを土に変えてしまうその力といい、

お前のバイスは明らかに変質しているようだな」


 土砂の津波だけならまだ『土の動きを操作する』というバイスが強化された結果生まれたものだと納得できる。

しかし今コーバの手の中で握られた土は、先ほどまでアノスが作り出していた死骸だったはず。

物質を、また別の物質へと変化させる力は、もとよりコーバが持っていたバイスの範疇を超えていた。


「そうだ。この力こそ、貴様を打倒すために得た俺の力だ……」


 瞳孔の開いた目でアノスを見るコーバは笑っていた。

思い続けた願いに手が届きそうなことがよほど喜ばしいのか、彼は不規則に肩を揺らしながらえずくように歓喜の声を上げている。

確実に正気な様子ではなかった。


「あいつの仕業か……」


 波に襲われた際に見失ってしまったトラフ。

今も、この戦いを遠巻きに観察しているであろう男。

彼の性質や言動からして、なにか人為的な作用をコーバに施したことは想像に難くない。


「あの時、貴様が俺の前に現れなければ……あの時、貴様が俺の邪魔さえしなければ……

俺は栄えある騎士としての一歩を踏み出せていたはずだ……それを貴様がッ!」


 数歩踏み出せば剣戟の間合いに突入できる超至近距離での睨み合い。

そんな中、不規則な笑いを続けていたコーバが突如独白を始める。


 一人の幸運が一人の不幸となる。アノスがソラハを救ったことで、コーバは夢に見た騎士団への道を閉ざされた。

候補生に与えられた試験の機会は一度きり。二度目が訪れることは一生ない。

その絶望がどれほどのものかは本人にしか知りえないものだろう。


「俺はすべてを失った。積み重ねてきた努力も、紡いできた家族との関係も、ゴーエル家の家名も地に落ちた」


 先ほどまでアノスを見つめていた目は、焦点の合わない様子でなにもない空間を彷徨い泳いでいる。

己が敗北してからの転落人生を回想しているのか、その全身はまさしく隙だらけだった。


 しかし、手を出すにはあまりにも危うい状況でもあった。

今のコーバは内から放出する力を辛うじて制御している状態にある。

だからこそ周囲の土砂は彼を巻き込まないよう、付近にいるアノスへ襲いかかってこない。

だが今のコーバに不意打ちを食らわし、万が一仕留めきれなかったとしたら、紙一重のところで持ちこたえている彼の精神が焼き切れかねない。

そうなればアノスもコーバもまとめて制御不能になった土の濁流に飲み込まれることになる。


「まったく……歯がゆいことだ」


 現状アノスはコーバの精神が戦意の復活によって強固となるのを待つことしかできない。

垂れ流され、しかしいつ途切れるかも知れない独白に耳を傾けながら、アノスは焦点の揺れ動くコーバの瞳を見つめていた。


「あぁ……出来損ない……俺は出来損ないじゃない。

俺は家を守るために、神に尽くすためにすべてをこなしてきた。

その報いがこんな……こんな結末だなんて、認められるはずがない」


 瞳の震えが徐々に収まっていく。

過去へ飛ばしていた思考をコーバは徐々に現実へと、目の前に立つ男へと引き戻していく。

その表情は徐々に剣呑さを増していき、あまりに濃質な怒気は周囲全体の空間を震わせているようだった。


「反省会は終わったか?」

「……貴様がおかしいんだ。なぜ……あんなところに、貴様が……貴様がなんでこんなところにいるッ!」


 コーバの瞳が怒り一色に染まった瞬間、二人は同時に間合いを詰める。

アノスは握る刃で切り裂くべく。コーバは振るう腕ですべてを土塊に変えるべく。

両者、相手の振るう攻撃を一度でもまともに受ければ敗北する。

方や身体を両断され、方や人の死骸ですらなくなってしまう。

数多振るうすべての攻撃に死がつきまとっていた。


「なんでだッ! なんで俺は認められないッ! 

騎士団にも、俺自身の努力にも、家族にすら愛されないッ!?」


 鉤爪のように曲がった五本の指が刀を握るアノスの手首へと差し込まれる。

とっさに刀を引き、その反動で繰り出された胴への回し蹴りがコーバに炸裂する。

しかし打撃による牽制が何度あたろうと、錯乱した今の彼を止めることはできなかった。


「なんで誰も、俺を必要としてくれないッ! 必要とされないなら俺はなんの為に生まれてきたんだッ!」

「いい加減、聞くに堪えないな」


 腕を振るいながら、その目に敵を捉えながらも、なおコーバの口から絶え間なく流れ出す嘆き。

いつものアノスならばその声を狂人の妄言と一蹴していただろうが、今日はなぜだか耳に障った。


「聞いたぞッ! 知っているぞッ! 貴様も同じだッ! 

誰からも愛されず、誰からも必要とされなかった逆徒ッ!」


 意図しているのか偶然か、狂気の笑みを浮かべるコーバはアノスの心を犯す言葉を紡ぎ始める。

先ほどトラフが話したエリヤの心情。

逆徒への、子供たちへの愛など存在せず、ただ義務と騎士団への忠誠だけが彼らを育てていた理由であると。


 感情論でいくらでも否定できる、いくらでも否定していたはずのアノスの心に小さく刻まれたひびが、コーバによって徐々に拡げられていく。


「口を閉じろ……」

「愛されていないッ! 期待されてもいないッ! そんな俺たちがなんで『ここ』にいるッ!? 

必要ない俺たちはどこに行けばいいんだッ!」


 『愛されぬ者』。その括りに自分を引きずり込もうとする目の前の男がひどく腹立たしい。

アノスにとってエリヤからの愛は生きる意味そのものだった。

彼女が愛してくれたからこそ彼は生きる意義を見出し、彼女が愛した過去があるからこそ復讐に生きる彼の今がある。

人生の意味そのものを支える基盤が幻影であったなどと認められる筈がなかった。


「黙れ……エリヤの愛が偽りであるはずがないだろうッ!」


 思わず放たれた叫びとは裏腹に、脳裏に浮かぶのはあの小屋での生活。

裕福ではないが、毎日が穏やかで、幸福に満ちていた日々。

その陽だまりのような日々の中で子供たちを見守っていたエリヤ。

逆徒の子と共に笑い、共に怒り、共に泣いた女。そんな彼女との生活の中で、

一つ知ることができなかった秘密があった。


『今度この部屋に入ろうとすれば、お仕置きどころじゃ済まなくなるからね』


 唯一鉄の扉に閉ざされた部屋。家が燃えた日、エリヤが倒れていた暗闇の地下室。


 今思えば、あの部屋にエリヤが騎士団から請け負った仕事の内容が保管されていたのかもしれない。

そうでなけれな、子供たちをあのような目で見たりはしないだろう。


 鉄の扉に手をかけた子供たちを見るエリヤの瞳は、彼らがそれまで見たこともないような冷たい目をしていた。


「……なぜ今、そんなことを思い出すッ!」


 己の心を保つ上で、限りなく不都合な記憶をアノスは脳裏に思い浮かべてしまった。

まるでエリヤの愛が偽りだったと感づいていたような記憶の浮上。

それを振り払うべく握った刀にはいつも以上の力が入らない。


「ここまで脆弱とは……思いもよらなかったな……」


 迫る腕をアノスは紙一重で回避するが、徐々にコーバの連撃に押されていた。

以前より力が強まっているとはいえ、決して勝てない相手ではないはずだった。

しかし拮抗の天秤は確実にコーバの方へと傾き始めている。その理由は明白だった。


「誰にも必要とされない……誰にも愛されない俺たちはなんのために生きればいいッ!? 

なんのために生きて死ねばいいッ!? なあ、俺たちはどこに行けばいいッ!?」


 誰よりもエリヤの愛を信じていた男がエリヤの愛に疑問を持った。

否、彼が捕らわれているのは己自身の価値について。

コーバや、トラフの話を頭から否定できなかったのは、己がエリヤに愛されるに値する存在だという自信がなかったからだった。


 愛する母に一つでも、なにかを与えることができたか。

与えられた幸福に見合うなにかを自分は彼女に差し出すことができただろうか。

その自問にアノスは頷くことができない。


 恩を返すどころか、彼女の死を止めることもできなかった自分への自罰感情。

固く誓った復讐の決意も、結局のところは愛されるにたる存在だということを証明したかっただけなのかもしれない。


『どうして私を幸せにしてくれなかったの』


 何度も見ることになった悪夢の中で、死にゆくエリヤが放った恨みの言葉。

そんなものを繰り返し聞かされるのは、夢を通してアノスが自分自身を責め立てているからに他ならない。


「エリヤの愛が本物じゃなかったのなら、愛されるべき存在でなかったとしたら、

私はなんのために生きていけばいい……」


 相対するコーバに問うでもなく、今度はアノスが一人独白を始める。

その間も相手の猛攻が止まるわけではない。完全に回避できる攻撃が徐々に少なくなっていた。

回避が間に合わず、剛腕を刀で受け止めるたびに手にした死骸が土と砂に変わっていく。

武器の形成と崩壊を延々繰り返すアノスに攻め時が回ってくるはずもなかった。


「俺も貴様は誰にも愛されてないッ! だから誰かのために生きることなんかできるはずがないんだよッ!」


 独白に答えるように、コーバの叫びが響き渡る。

かち上げるようにして振り抜かれた腕が刀を上空に吹き飛ばし、アノスは完全に無防備な状態となる。

何度目かわからない武器の再構成も今度ばかりは間に合わない。

振り上げられた腕は、すぐさまアノスの顔面に向けて空間を抉るように振り下ろされていた。



・・・



 死が迫る。

だというのに恐怖がその胸に湧き上がってこないのは、己の死よりも重要な問題に対峙しているから。


 アノスという男に宿った、強く、硬く、揺るがない意志。

それは愛されていないことに怯えた弱く、脆く、幼稚な心を守るための鎧。

黒く冷たいフードの奥に隠された彼の素顔はいまだ幼き日の少年のまま、生きる意味に飢えている。


『エリヤ。エリヤは俺のこと、本当に愛してた?』


 暗がり支配された心の中。響く少年の呟きに、正面に立つ女は答えない。

女は口元に笑みをたたえているが、目元には影が差し、その表情を読み取ることはできない。


『もし……いいえ、と言ったら、アノスはどうするの?』


 その時聞こえた声は目の前の女から発せられたものではなかった。

アノスの背後、広がる暗闇の遥か彼方。

もはやそこに空間があるのかさえわからない暗闇の向こう側から流れてくる声。

懐かしく、温かい、求めて止まなかった音色が深淵の闇からアノスを誘うように奏でられている。


『……エリヤ?』


 振り返ったアノスはたまらず先の見えない暗闇に向かって一歩を踏み出す。

この闇の向こうに求めていた安らぎがあるような、すり抜けていった幸福が待っているような感覚に囚われて。


『……俺どうすればいい? エリヤに愛されていなかったんなら、俺は……』


 闇へ一歩進むごとに、意識が薄れていく感覚がアノスを襲う。

足を踏み出すごとに、引き返すことができない恐怖が心を蝕んでいく。

それでも止まらない、止められない。求める答えを与えてくれる者を、弱い彼は欲してしまう。


『それは私に聞くことじゃないと思うけど?』


 そんなアノスを彼女は優しく、しかしきっぱりと突き放す。

こちら側に求める答えは存在しない。こちら側に近づくのは無意味な行為だと告げる。


『どうしてッ!? エリヤが教えてくれれば……愛してるって言ってくれれば……』


 取り乱し、縋るように声を震わせながら、いまだ姿が見えない声の主にアノスは呼びかける。

彼を愛していたか否か。それを知っているのは他でもないエリヤただ一人。

その答えがこの先にあるはずだと少年はなおも進もうとする。


『この先に答えなんかない。アノスだって本当はわかってるでしょう』


 自分の感じたことが正しいと意固地になって前に進もうとするアノスへ女は諭すように語りかける。


『エリヤ・スクルゥはとうの昔に死んでしまった。

死んでしまった人間がなにを考えていたかなんて、どうやったって知りようがないじゃない』

『嘘だッ! だってエリヤはそこにいるッ! きっと、すぐ、そこに……』


 眼前に広がる果てしない暗闇。そこにはエリヤの姿どころか、命の気配もまるで感じられない。

なにも見えない。

なにもない。


『アノスがなにをすればいいのか、なにがしたいのか。それを知っているのは私じゃない。

いい加減親離れして、自分のことは自分で決められるようになってよ』


 呆れたように、そして少し嬉しそうな女の声は闇に溶けていく。

反射的に伸ばしかけた手を押し止めることができたのは、エリヤに叱られた時のことを思い出したからか。

再び静寂に包まれた暗がりの中で、アノスは一人立ち尽くしていた。


『自分のことは……自分で……』


 いつも、そうしていたつもりだった。成すべきことを決め、実行し、達成する。

そのすべてを自分自身の意志で決めていたつもりだった。しかし彼の根底にあったのは亡き母親への妄念。


 エリヤの仇を取るため、エリヤの死の真相を知るため、エリヤに愛されていたと信じるため、

すべてはエリヤのために。これではアノスの嫌う狂信者となにも変わらない。


『……進まなきゃ』


 自分で決めた道を自分の意志で進むため、アノスは前後に広がる光景を見比べる。

前方にはエリヤの声が聞こえてきた暗闇。先にはなにも見えず、なにもない。

一歩先に巨大な穴が開いていたとしても彼は気づかず足を進めてしまうだろう。


 後方には顔の見えない女が立っていた暗がり。振り返れば女はいまだ、もといた場所に立ち尽くしている。

決して明るいとは言えないが、先に続く道のりであることがわかる。


 ややあってアノスはゆっくりと足を動かし始める。

声が聞こえた暗闇に背を向けて、彼は立ち尽くす女のもとへ近づいていく。


『……君は、誰?』


 背後から声が聞こえるまでは彼女がエリヤだとアノスは思っていた。しかし、違う。

母の声に背を向けた今の彼にならわかる。目の前に立つ少女はエリヤではない。

美しい銀の頭髪や、暖かな雰囲気は同じだが、なにかが決定的に違う。


『……君は、なんのために生きるの?』


 その問いは、もたらされる答えに縋るためのものではない。彼はただ知りたかった。

この暗がりで一人立ち続けるこの少女がなにを支えにして生きているのか。


 アノスの問いに少女の口元がゆっくりと開く。

大切な誓いを述べるように、揺るがない決意を示すように、言葉を紡ぐ彼女の影はその重みと共にゆっくりとはがれていった。


『わたしは、自分のために……生きる』


 かつて二度聞いた決意。初めてそれを聞いたアノスは『当然のこと』だと思った。

二度目に聞いた時は傲慢にも『成長した』と思った。

その実、彼女はアノスよりもずっと早く、人間として成長していたというのに。


『……強いんだな……ソラハは』


 大人の皮で幼稚な依存心を捨てられなかった自分より、彼女はずっと強く、たくましかった。

そのことに気がつくのに随分と長い時間を彼は費やしてしまった。


『……ありがとう、ソラハ。もう少し、待っていろ』


 エリヤに似た少女。母親と同じ顔の女。結局は代用としか見ていなかったソラハからアノスは学ぶ。

真に揺らがない意志がなにを源流にして生まれてくるのか。


 暗闇に包まれた空間にまばゆい光が差し込んでくる。

強い輝きに思わず目を閉じる瞬間、隠されていた少女の表情が垣間見えた気がした。


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