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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
19/27

愛する者


 騎士団本部の一室。

ソラハたちを人質に取られたアノスは自分やボラルが逆徒であることを隠しつつ、エリヤが死んでしまった日のことを話した。

何者にも知られたくなかった大切な過去の記憶だったが、今を生きる二人の命には代えられない。


「なるほど、確かにスクルゥは記憶を操るバイソレッドを持っていた。

彼女の記憶を託されたというのなら先ほどの戦いぶりも納得がいく」


 エリヤの死に際に与えられた、混沌とした膨大な情報の欠片。

それが彼女の記憶だと理解するのにアノス自身、長い時間がかかった。

なぜか知っている王都への道のり、なぜか知っている城壁の抜け道。

いつの間にか自身の思い出と融合するように結びついていた記憶は彼が生活するうえで必須のものとなっていった。


「しかし、解せんな」


 それまで話を黙って聞いていたハダルが閉じていた目を開き、アノスを見据える。

その顔にはまだいくつかの疑念が残っているようだった。


 もう話すことはないと言わんばかりに口を閉ざしてしまったアノスへハダルは詰め寄る。

今の話の中で素直に頷けない点がいくつもあった。


「貴公。スクルゥの記憶を受け取ったと言うならば、

最後に彼女を殺めた者の姿もその記憶に残っているのではないのか」

「もしそうならば、私の復讐もとっくの昔に終わっていただろうな」


 ハダルの問いかけを皮肉交じりに笑ったアノスは首を横に振る。

彼の中に宿ったエリヤの記憶は極限られたものだった。

それが彼女にとって想定外の出来事だったのか、意図的にかけた制限だったかのはわからない。

少なくともアノスが受け取った記憶の中には犯人像を特定するような手がかりはなに一つ残されていなかった。


「私の中の記憶はひどく曖昧なものだ。

戦い方を覚えていても、それをどこで学んだのかも思い出すことはできなかった」


 歩き方を知っていても、それをどのように習得したのか覚えている者はいないだろう。

アノスの中にある記憶の大半がそのような状態だった。

頭ではなく、体や心に染みついたような記憶。

エリヤが生涯を経て手に入れた知識を持ちながらも、その人生をアノスが思い返すことはできなかった。


「だからエリヤの記憶を持っていても、過去エリヤがなにをしていたか、どこにいたか、なにを思っていたかはわからない。

当然、お前たちという友人が本当にいたかどうかもな」


 エリヤの旧友を自称する二人の男をいまだアノスは信用していない。

エリヤが騎士団に属していたことすらいまだ半信半疑である彼に、脅迫や誘拐を重ねる二人の騎士を信じることなどできなかった。


 疑いの言葉をその身に受けたハダルはアノスの突き刺すような視線を見下ろしながら鼻で笑う。


「信用がないというのなら、それはお互い様というものだ。

ヴォゲッドが見つけ出した有力な手がかりではあるが

……正直、私も貴公の話を真実と受け取るか決めあぐねている」

「なに?」


 ハダルは先ほどから二人のやり取りを他人事のように眺めているエイカーを流し目で見つつ、

部屋の窓から眼下に広がる王都を見渡す。

彼らがまだ若く、騎士団の末端として駆けずり回っていたころから、王都はその姿を変えないままここにある。

変わってしまうのはいつだってそこに住まう人間の方だった。


「スクルゥがおよそ十年の間、逆徒の世話をしていたと貴公は言うが、

それが私にはとても信じられん」

「それはどういう意味だ」


 自分たちが過ごした十年を否定するような言葉に、アノスは思わず立ち上がる。

先の戦闘による痛みがまだ全身に根を生やしているが、

過去に人一倍執着する彼に男の戯言を黙って聞き流せる度量などあるはずがなかった


「そのままの意味だ。あれの過去を知っている人間ならば誰もが同じように思うだろう。

彼女が逆徒に情を向けるなどあり得ないと」


 それは頭に鉛を叩き込まれたような衝撃だった。エリヤは自分たち逆徒を真に愛してくれていた。

アノスの中にあったその大きな前提を砕き割ろうと、ハダルの眼光が突き刺さる。


「あれは自身の人生を打ち崩した逆徒をひどく嫌っていた。

少なくとも私や、そこにいるエイカーなどよりもずっと深い憎しみをやつらに向けていたはずだ」


 逆徒への憎しみ。神を信じる信徒たちが等しく抱いているであろう負の感情。

それ以上に深い陰りがエリヤの中に存在したと彼が口にした瞬間、アノスは無意識のうちにハダルの首へ手を伸ばしていた。


 彼の言葉は逆徒たちに与えられたエリヤの愛情が偽物だったと断じる行為に等しい。

それを認められずに伸ばした腕は、難なく払われ、反対に手首と襟元をつかまれたアノスは瞬く間に無力化されてしまった。


「お前……ッ!」

「なぜそれほど憤っている? 

あれが逆徒を愛していようとなかろうと、信徒である貴公には関係のないことだろう」


 逆徒であると知られれば、アノスは問答無用で牢獄行きとなる。

そうなればエリヤの死の真相を知るどころか、エリヤたちを助け出すこともできなくなってしまう。

母が子どもたちに与えた愛は本物だったと叫びたい気持ちを喉元で抑え込むが、

腕に込めた力はどうにも収まりが効かなかった。


「ハダル。君はなぜエリヤが逆徒を憎んていると思うんだ?」


 その時、二人の間に割って入るようにエイカーがやんわりとした口調で加わってきた。

たしなめるようなその声にハダルはつかんでいた手を乱暴に放し、アノスは向かう先のない拳を壁に叩きつける。


「呆けたかヴォゲッド。あの頃のスクルゥの顔、貴様も忘れたわけではあるまい」

「さあね。ただ、少なくともそこにいる彼にはわからない話だ。

考えに相違があるなら、その考えに至った経緯を説明することをお勧めするよ」


 再びベッドに座り込むアノスを両手で指さしながらエイカーはそう告げる。

その軽薄そうな表情とは裏腹に、口から出てくる提案は建設的だった。


「……いわれずとも、そのつもりだ」


 ハダルはエイカーの指を鬱陶しそうに払うと再びアノスへ向き直る。

ベッドに腰かける彼の苛立ちが肌に響くようだった。


「……私が最後にスクルゥの顔を見たのは、あれが出産を終えてしばらくたった夜のことだった。

先日まで肌身離さず抱いていた赤子も連れず、

夫のつき添いもなく私のもとを訪ねてきた彼女の様子は明らかに普通ではなかった」


 エリヤは逆徒を憎んでいる。

そう言い放った男の話に耳を傾ける気などアノスにはなかったが、出産という言葉に思わず顔を上げる。


「彼女はまともに話すことができないほどに動揺していた。

この世のすべてに絶望したかのようなその顔で、怯えるように肩を震わせる姿を見せられたのは後にも先にもこの時だけだった」


 いつも明るく、子どもたちを笑顔で見守っていたエリヤ。

彼女がそこまで情緒不安定になった姿をアノスも見たことがなかった。


「私は待った。娘が体調を崩したのか、夫が事故にでもあったのか、

聞きたいことは多くあったが彼女が自分から口を開くのを待った」


 先日まで幸せの絶頂にいたはずの友人が変わり果てた姿で涙を流し、絶望し、憔悴している。

その姿を黙って見つめることしかできなかったかつての自分への怒りが膨れていくように、ハダルの語調は徐々に強まっていった。


「出した茶も冷めきってしまった頃に、スクルゥは口を開いた。

震える唇を動かしながらたった一言、『逆徒だった』と」


 アノスはその状況を想像したくはなかったが、しかし同時に薄々感づいていたことでもあった。

ソラハの記憶になかったという母親の姿。父と共に路地裏で暮らし続けていた事実。

それらがなにを意味するかは言うまでもない。


「スクルゥも私もまだ若かった。

今ならば実のある助言の一つでも伝えられたかもしれんが、当時の私はただ狼狽えることしかできなかった」


 念願の第一子。待ち望んだ一人娘。生涯愛し続けると誓ったはずの娘は、神の恩恵に背を向けた逆徒の末裔。

この国の常識の中で育った者が絶望するには十分過ぎる悲劇だった。


 彼女はすべてを受け入れられるような完全無欠の人物ではない。

エリヤもまた敬虔な信徒の一人に過ぎず、逆徒に対する思いは他の信徒たちとなにも変わらない。

それはアノスが感づいていながらも認めたくなかった事実だった。


「赤子を捨てろと、私は苦し紛れに言った。

不幸中の幸いか、それとも意図したことだったのか、赤子は一年後の儀式を待たずして聖石を握った。

その時点で娘が逆徒であると知っていたのはスクルゥら夫婦と私だけだった」


 形式的な儀式に則るならば、赤子が聖石を握り、信徒であるか否か判明するのは生誕から一年後。

多くの親類や友を集め、自らの赤子が神に祝福された存在だと証明する伝統行事。

しかし万が一にも皆の前で赤子の手が焼かれることがあってはならない。

そんな事態を恐れて事前に聖石を握らせておくことはさして珍しいことではなかった。


「その後は人伝に近況を聞くことしかできなかった。

赤子と夫が行方知れずになったこと、騎士団内の所属が急遽変わったこと、そして……命を落としたこと」


 娘が行方不明になったことで逆徒を産んだ事実を隠すことはできても、その疑いと膨らむ噂を止めることはできない。

娘を追うように姿を消した夫のこともあり、残されたエリヤには尾ひれのついた様々な憶測がつきまとうことになった。


 その噂が影響したのか、彼女が異動を告げられた配属先は騎士団の鼻つまみ者が集まる預言書機関。

神の残した言葉を疑う仕事は、信徒の誰もが引き受けたがらないハズレくじだった。


「預言諸機関は騎士団内でも輪にかけて秘匿性が強い。

彼女がそこでなにをしていたのか、私たちは長年調べ続けてきたが得られたものは少ない」


 彼らが事の真相を探ろうと動き出し始めた頃には、既に預言書機関は解体され、関連する殆どの資料は失われていた。

まるで機関の存在ごと消し去られてしまったかのように、在籍していた機関員も全員が騎士団を去った後だった。


「スクルゥの死から十年。当時のことを知る者も減り、私たちにも役職が与えられ、過去のために割ける時間も少なくなってしまった」

「そんな時に君が現れたのさ。エリヤの名を知る君がね」


 逆徒の収容所に現れ、部下と激闘を繰り広げた賊がエリヤの名を口にしたと聞いた時、ハダルは運命が己を導いているのだと感じた。


「我らの出会いもまた神の導きの結果だろう。

完全に貴公を信用したわけではないが、少なくとも目的は一致しているようだ。

スクルゥの死の真実を知るその時までは協力してもらうぞ」

「勝手なことを……」


 ハダルの有無を言わせぬ物言いにアノスは不快感を隠せない。

しかし、現状この不愉快な言葉に従う以外の選択肢が彼には残されていなかった。

エイカーの口ぶりからして、少なくともアノスの拠点は割れてしまっている。

仮にソラハやボラルが実際に捕らわれていなかったとしても、抵抗が許されない状況に変わりはなかった。


「さて、じゃあ納得してもらったところで、君にやってもらいたいことを説明するとしよう」


 不快感を滲ませつつ舌打ちするアノスをエイカーはにこやかに眺めつつ、懐から一枚の書類を取り出す。


「僕が君を見つける数日前、騎士団にこの文書が届いた。

内容は警告というか、脅迫というか、まあ穏やかな内容でないことは確かだよ」


 差し出された文書を受け取ったアノスはその文面を流し見る。

差出人不明なその書類には騎士団がある人物と内通していたこと、

その者が繰り返す犯罪行為を容認していたこと、

そしてその事実を公開する用意があることを示唆する文章がつづられていた。

非常に要約されてはいたが、アノスには聞き覚えのある内容だった。


「……これをどこで?」

「本部に届く書類管理は一番隊員である僕の仕事さ。この手の脅し文は珍しくなくてね。

握っている情報を小出しに送ってきて、なにかしらの要求を騎士団に飲ませようって魂胆なんだろうさ」


 エイカーはそう口にしながら二枚目の書類を取り出しアノスに手渡す。

こちらは別日に送られてきた手紙なのだろう。


「内容はほとんど同じ。『騎士団の不正を知っている。公開されたくなければ要求を呑め』とね。

問題なのはここに書かれた名前だ」


 先程とほとんど同じ内容の手紙だったが、エイカーが指さす一文の中に一枚目には書かれていなかった名前が書き足されている。


「……トラフ・トーレフ」


 その名は先日アノスが取り逃がした男の名だった。エリヤの過去を知り、自らを収集家と名乗っていた男の本名。

トラフ自身は口にしなかったが、彼の隠れ家から発見し、ヒゲワシに渡した書類にこの名前が書かれていたことをアノスは覚えていた。


「彼はエリヤが預言書機関に在籍してた当時の機関員だ。

退団から消息不明だったけど、こんな形で偶然名前が出てくるとは驚きだったよ」


 偶然。人の思惑が関与しない、神の導き。

運命か定めか、自分という手足が見つかった途端に現れた都合のいい手がかりにアノスは眉をひそめる。


「この際、ここに書かれている騎士団の不祥事の真偽はどうでもいい。

僕らが調べずともいずれ内部調査が入るだろうからね。

ただ僕らは調査部がトラフにたどり着く前にこの男を見つけなくちゃならない」


 目を通した書類をアノスが懐にしまったのを見届けたエイカーは神妙な面持ちでそんなことを言う。

公の調査よりも先にトラフを手中に収めなければならない理由は明白だった。


「調査などと言えば聞こえはいいが、つまるところ証拠の揉み消し作業に過ぎん。

トラフが騎士団に拘束されるようなことがあれば、再びその存在を隠蔽しにかかるだろう」

「そうなれば当然、彼に話を聞く機会は一生失われることになる。

幸いなことに、まだ調査部は彼の居場所を突き止めていないようだけど、楽観はできない。そこで君の出番さ」


 エイカーはその言葉と共に馴れ馴れしくアノスの肩に手を置こうとするが、彼がそれを許すはずもなく弾かれた手のひらは寂しげに宙を漂った。


「つれないねえ君は……」


 わざとらしく拗ねるエイカーを無視し、アノスは立ち上がる。

二人の騎士を睨みつけながらもその足は協力へと向いていた。


「奴の居場所に心当たりは」

「それを調べるのも貴公の役目だ」


 目を合わすこともなく、すれ違いざまに交わした言葉に絆や信頼といった感情は微塵も含まれていない。

しかし明確な疑心や警戒心が伝わってくる分、ハダルはまだ人間として理解できる部分があった。


「心配ないよ。君は自力でニヘルに接触し、カノイの舞踏会に潜入した男だからね。

情報通な友人の一人や二人知っているだろうさ」


 しかしこちらはまるで理解できない。

アノスは自分の背に向かって陽気に手を振るエイカーという男がいったいなにを考えているのかわからなかった。

初めて接触したあの夜に『神が嫌いだ』と言い放った奇妙な男。

アノスを逆徒だと見抜いているのかと思えば、それをハダルに伝えた様子もない。


 そしてなにより不可解なのは、ただの一言もソラハの容姿について言及してこなかったこと。

彼女と接触したならば、一目見ただけでエリヤとの関係性に気がつきそうなものだというのに、

エイカーは単なる人質としてしかソラハを見ていなかった。


 ハダルの混乱を招かないためにあえて口にしないだけなのか、それともなにか他に理由があるのか。

ぬぐい切れない違和感を払うようにアノスは部屋の窓を開け放つと、その枠に足をかけた。


「最後に誓え。私がお前たちに協力する間は、決して彼女たちに手を出さないと」


 それはただの口約束に過ぎない。

取り交わしたところで拘束力など皆無であり、仮に反故にしても与えられる罰もありはしない。

しかしアノスの赤き瞳からほとばしる殺意が自らに向けられることをこの部屋にいる誰もが望んでいなかった。


「誓うとも。君と僕らの目的が共にある限りね。そうだろハダル?」

「無論だ」


 その言葉を聞いたアノスはなにも言わずに窓から空へ飛びだす。

その背は本部の屋根を素早く走り抜け、数秒もすれば見えなくなった。

先ほどまでまともに立つこともできなかった彼が風のように駆けていく姿にエイカーは思わず苦笑いする。


「正面まで送っていこうと思ってたのに……、せっかちな人だ」


 窓から身を乗り出してアノスが消えていった方角を眺める彼の姿はまるで無垢な少年のようであった。

しかしこの者がただ純粋なだけの男でないことを友は知っている。


「……奴の力が一体なんなのか、貴様はあたりをつけているのか?」

「死骸を操るバイソレッドでしょ? ハダルがヘイツ君から聞いたって言ったんじゃないか」


 確かに、アノスと接触した際の話を部下のヘイツから聞き、それをエイカーに伝えたのはハダルだった。

しかし彼には目の前の友人が自分以上のなにかを知っているように思えてならない。


「貴様とのつき合いも長い。道化を気取ったその態度に今さらなにを言うつもりもないが、一つだけ聞かせてもらおう」


 窓枠に寄りかかったままでいるエイカーの背中にハダルは問う。


「……貴様の目的、神に背く類のものではないだろうな」


 それはおかしな問いだった。ハダルとエイカー、二人の目的はいずれも旧友であるエリヤの死の真相を知ること。

今さら確認する必要などないはずの問いに、しかしエイカーはすぐに答えを返さない。


「……僕の目的は最初から君と同じさ」

「答えになっていないな」


 ややあって帰ってきた言葉にハダルは納得せず、再び答えを求める。

彼がアノスと戦った際に感じた異質なもの。一度は気のせいだと割り切ったはずの違和感。

理屈では説明できないが、その正体を目の前の友人が知っているのではないかとハダルは思った。


 エイカーは笑っていた。いつもの、道化のような貼りついた笑顔ではなく、

皮肉の効いた冗談でも聞かされたかのように喉を震わせていた。


「ああ……そうだね、誓って神に背くものではないよ」


 不格好にズレた眼鏡を直しながらエイカーは振り返った。

その屈託のない笑顔にハダルは無意識に張っていた緊張の糸をほぐす。

邪なものなど一切感じさせないその表情は彼を安心させるに十分なものだった。


「そうか、ならばいい」

「なんだよー、なにか気になることでもあった?」

「貴様の知るところではない。私は仕事に戻る」


 すぐにいつもの調子へ戻ったエイカーはいつもより様子のおかしいハダルへ絡んでくるが、それに取り合う彼ではない。

会話を打ち切るように踵を返すと扉を開け放ち部屋から出ていってしまった。


「今日の仕事が終わったら、ルアスちゃんのとこにちゃんとお見舞い行くんだぞー?」


 扉が閉まる直前、思い出したかのようにそう声を上げるエイカー。

二度目の戦いでもアノスに破れ、再び床に伏せることになったルアス。

その元凶がこの男にあることを皆は知らない。


「……誓いか」


 扉が音を立てて閉まり、広い部屋にただ一人残されたエイカー。

仕事に急ぐ素振りを見せることもなく、窓枠に腰かける彼は本部から見渡せる王都を見渡す。


「この僕がいったい誰になにを誓えるって言うんだろうね……」


 エイカーは再び笑った。

押し殺され、口端から漏れ出る小さな笑い声は巨大な王都の空に漂っていき、やがて消えていった。



・・・



 目を覚ました時、一瞬すべてが夢だったのではないかとソラハは錯覚した。

父親が死んでしまったことも、アノスやボラルと出会ったことも、すべてが一夜のうちに体験した幻であったのではないかと。

それほどまでに彼女が寝かされた牢の床は、ずっと寝泊まりしていた路地裏の冷たさとそっくりだった。


「ここは……?」


 地下に造られた牢獄なのか、異様に高い壁に設けられた窓からは一筋の光が差し込んでいる。

自分が無機質な鉄格子に四方を囲われていること気がついた彼女はオゼリィの店先で気を失った直前のことを思い出した。


「そうか……わたし、捕まっちゃったんだ」


 まるで空間そのものが死に絶えたように静まり返った地下牢は以前侵入した収容所に似た様子だった。

世界に一人取り残されたような感覚に陥ったソラハは周囲に人影がないか、恐る恐る隣の牢を覗き込む。

しかし格子の間から覗ける範囲に人の姿は見当たらず、彼女は不安げなため息をついた。


「ようやく起きたか」


 その時、牢の外、部屋の隅の暗がりから男の声が響く。退屈そうなその声にソラハは聞き覚えがあった。

過去二回、彼女はその声を近くから聞いたことがあった。


「ただでさえ暇な監視任務だってのに、話し相手の一人もいなくちゃ退屈すぎてあくびが出ちまうよ」


 座っていた椅子から腰を上げ、包帯が巻かれた右腕を胸元に吊り下げた男は、格子越しにソラハを覗き込む。

その挑発的な笑みを目の当たりにし、彼女は危うく気を失いそうになった。


「聖王騎士団第三部隊巡回班長、ヘイツ・ネイバックだ。

お前がなにをしてこんな場所にぶち込まれたかは知らねえが、俺が監視しているうちは脱獄なんて考えるんじゃねえぞ」


 収容所にてアノスと戦い、カノイ家の舞踏会にも姿を現した騎士、ヘイツ。

凶戦士としての側面と、紳士としての側面、両方を合わせ持った人物でありソラハが己の善悪について考えるきっかけにもなった男であった。


「どうして……あなたが、ここに」

「あぁ? そんなもん命令を受けたからに決まってんだろ。

こんな退屈な任務、普段ならお断りなんだが、この手のこともあるし、他でもない隊長の頼みだったからな」


 アノスとの戦いで負傷した手を揺らし、複雑そうな顔をするヘイツ。

しかしその対応にソラハは違和感を覚えた。


「……てかお前、俺のこと知ってんのか? さすがに班長にもなれば少しは知名度が出てくんだな」


 顔を合わせた途端罵声でも浴びせかけられると覚悟していた彼女は、世間話でもするような態度のヘイツを怪訝な表情で見つめる。

少なくとも彼の様子は、騎士が逆徒に接するものではなかった。


「……それとも、前に一度でもあったことがあったか?」


 その言葉にソラハは黙って首を横に振る。彼女がヘイツと遭遇した時は頭巾や仮面で素顔を隠していた。

彼は今、目の前にいる少女が収容所にいた者だとも、舞踏会に参加していた少女だとも思っていない。

それどころかソラハが逆徒だとわかっていない可能性もあった。


 ソラハは自分の左手に目を落とす。

聖石によって刻みつけられた掌紋はいまだアノスの力によって隠されたままだった。

牢に入れられた理由が逆徒であったことがばれたからだと思っていたソラハはヘイツに問いかける。


「あの……わたしはなんで、ここにつかまってる……んですか?」


 緊張で舌が震え満足に話ができない。それほどまでに彼女の精神状態は極まっていた。

この言葉一つで目の前の騎士が殴りかかってくるかもしれない。

次の瞬間には剣で突き刺されているかもしれない。

次々と頭に浮かんでくる最悪の結果に彼女の顔は蒼白となった。


「さあな、なんでもある事件の重要参考人だとかなんとか。詳しいことは知らねえよ」


 その返答で自分が逆徒だとはバレていないとソラハは確信する。

逆徒だと思われていないことが確実な安全につながるとは言えないが、それは彼女に大きな安堵をもたらした。

小さな体の中に張り巡らせていた緊張と恐怖の糸が断ち切られ、ソラハは再びその場に崩れ落ちた。



・・・



 三層の大通りを抜け、徐々に人気が少なくなっていく道を一人進んでいく。

先日、この道を共に歩み、彼の手を握っていた少女はいない。

アノスは看板の出ていない一軒の建物の前に立つと、蹴破るようにして扉を開け放った。


「ヒゲワシはいるかッ!」


 そろそろ日をまたぐ時分。

先日訪れた昼間とは様子が異なり、店内は多くの男女が酒を煽りあい活気にあふれていた。

しかしその騒ぎもアノスの一声によってかき消される。それほど彼の叫びは焦りと苛立ちに満ちていた。


「よお、どうしたアノス。今夜は随分と荒れてるじゃねえか」


 カウンターに立っていた店主が引きつった笑顔を浮かべながらアノスに近づいてくる。

不安げな客たちを安心させるようにおどけた雰囲気を演出しながら彼のそばに立った店主は素早く耳打ちする。


「今夜は珍しく客の入りがいいんだ。悪いが面倒事なら明日の朝にしてくれ」


 それは店を経営する者として当然の言い分だった。

店主はヒゲワシたちに情報屋としての活動拠点を提供しているわけではない。

彼にも生活がある以上、今夜の商機を逃すわけにはいかなかった。


 しかし、今のアノスに真っ当な言い分を受け入れられる余裕はない。

明日の朝までソラハが無事でいられる保証などどこにもないのだから。


「……ヒゲワシはいるのか、私はそう聞いた」


 店主の襟元をつかみあげ、アノスはもう一度店内全員の耳に届くよう声を響かせる。

呟くような低く小さな声だったが、その言葉はこの場にいる全員の胸を貫いた。

不意に差し込まれたナイフのように、遠方から引き放たれた矢のように、唐突に浴びせかけられたのは、強烈な殺意。


 騎士でもない店の客たちが、最上級の敵意に抗えるはずもなく、一人、また一人と恐怖に震える手で店の角を指さす。


 入口の反対側、店の一番奥に位置するテーブル席に、ヒゲワシはまた一人腰かけていた。

店内全体がアノスの殺意にあふれている中、彼は気にした様子もなく酒瓶を仮面の隙間に突っ込んでいる。


 アノスは投げ捨てるように店主から手を放すと、硬直する客たちを押しのけながらヒゲワシのもとへと進んでいく。

アノスの視界から外れた客たちはその瞬間に自由を取り戻し、逃げるように我先にと店から出て行ってしまった。


「あれから姿を見なかったから、てっきり騎士団のお世話になってるかと思ってたよ」

「間違っているとは言えないな」


 二人きりになった店内で向かい合うアノスとヒゲワシ。

先ほどまで騒がしかった店内に今響くのはグラスに流れる酒と氷の音だけ。


「それで? 今日はなにが知りたいんだい?」


 ヒゲワシはグラスを差し出しながら気さくに話を切り出した。

アノスがどれほどの怒気をその目に溜めていようと、なにも感じていないようにいつも通りの対応を続ける。


「聞きたいことは二つある」


 差し出されたグラスを押し返しながら、アノスは仮面の奥を抉るように見つめていた。

その奥に潜む正体と真意を掴もうとしているかのように。


「一つ目は?」

「先日、お前に依頼された誘拐事件の犯人。トラフ・トーレフの居場所」


 この仮面の男の頼みで、アノスは収集家ことトラフ・トーレフに出会うことになった。

エリヤの過去を知り、彼女の死の真相を知っている可能性がある、現状唯一の人物。

彼を見つけなければエリヤの復讐も、ソラハたちの解放も一向に進まない。


 ヒゲワシがトラフの居場所を知っているという確証もなかったが、今頼るべき人物をアノスは他に知らなかった。


「ふーん……二つ目は?」


 そして同時に、今釘を刺しておくべき人物もこの男に違いない。


「……私の潜伏先をエイカーに売ったのはお前だな、ヒゲワシ」


 アノスはその経緯からして人の目に敏感な自覚があった。己に対する疑いの目や監視の目。

それらを躱すための努力を彼が欠かすことはない。フードで顔を隠す行為もその一つだった。


「あの時点で私の顔を知り、私の潜伏先を調べる時間と動機があり、ハダルと取引が可能だったのはお前だけだ」


 ヒゲワシは顔を見せない相手との取引をしない。

売るにも買うにも、素性の一切知れない相手とのやり取りにはリスクがともなう。

素顔を晒すことは、不確実な情報を売られることや、第三者にヒゲワシの情報が広まりにくくするための抑止力になった。


 誤った情報を売りつけた者や、得た情報を他者に話した者は、その顔を手がかりにすべてを暴かれることになる。

その代り、良質な客たちの情報は決して口外しない取り決めだった。

ゆえに、アノスの情報がヒゲワシから漏れたのだとしたら、二人の間で長年培われてきた信頼に亀裂が入ったことになる。


「この二つが今日買い取りたい情報だ。答えてもらおう」


 アノスの殺意はとどまることを知らない。

彼の推測が正しければ、目の前の人物によってソラハたちが危険にさらされているも同然だった。

そこに怒りが向けられるのは当然だろう。


「まあまあそう焦らないで、君の質問に答える前に報酬の話をしようじゃない」


 それでもなおヒゲワシは動揺することもなく、

アノスをなだめるような口調でいつも通りのやり取りを続けようとする。

ただ単に冷静で豪胆だというだけでは説明しきれない揺らぎの欠如。

どこか作り物めいたようにも感じる彼の様子は怒りに震えるアノスの目から見ても不気味なものに見えた。


「……いいだろう」


 しかし、この仮面の人物の得体の知れなさは今に始まったことではない。

アノスは形成した刀をヒゲワシの首元に突きつけると、切っ先を肌の薄皮に突きつける。


「お前の命が報酬だ。おとなしく情報を渡せば、今この時だけは見逃してやる」


 己の感情に従っていたならば、アノスは出会い頭にヒゲワシの首を両断していただろう。

しかしそれでは本質的な解決は望めない。

ソラハたちを救うには、不本意ながら元凶の手を借りなければならなかった。


「それは魅力的な報酬だね」


 ヒゲワシは笑う。首筋から流れる血潮を気にする様子もなく、明るい口調で提示された報酬に納得している。

その姿と先ほどのエイカーの姿をアノスは無意識に重ね合わせていた。

どちらも陽気で楽しげな口調で近寄ってくるが、腹の底でなにを考えているのかは予想もつかない。


「それじゃあ、いこうか」


 そう呟いたヒゲワシはするりと立ち上がる。

突きつけられたままの切っ先が彼の皮膚を削るように傷つけるが頓着する様子もない。


「……どこへ」

「トラフの居場所だよ。今、僕が口でなにを言ったって信用できないだろ? 

だから君がトラフに会えるまで僕が一緒について行ってあげる」


 確かにアノスはヒゲワシがどんな場所を口にしようとも、彼をその場に引きずって行こうとしていた。

適当な情報を掴まされ、その隙に逃げられたのではたまったものではない。

しかしそれをヒゲワシ自身が提案してきたのは想定外だった。


「なにを企んでいる」

「なにも? 僕は情報屋として君を正しく導くだけさ」


 『導く』。神を嫌うアノスにとって非常に不快な言い回しは意図して口に出されたものなのか。

誰もいなくなったカウンターに律儀にも代金を置いていくヒゲワシ。

その背をいつでも貫けるように彼は短剣を形成し突きつけている。


 いささか過剰にも思える逃走対策。しかしアノスにはこれでさえも不十分に思えていた。

ヒゲワシと対立したこの日、一つ彼には気づいたことがある。

首元に切っ先を突き立てた時も、今こうして短剣をあてがっている時も、アノスはヒゲワシという人物を殺せる気がしなかった。


 なにも躊躇しているわけではない。

ただ、昼下がりの散歩でもするように目の前を歩くこの人物の命を絶てる確信をアノスは持てなかった。

それは理屈ではない不思議な感覚。

アノスは自身の考えの外側にある真実を、培ってきた経験のみで感じ取っていた。



・・・



 ソラハが再び目覚めたのは固い石畳の上ではなかった。

依然牢屋の中であることに変わりはないが、横になった彼女にはなぜか柔らかく暖かな毛布が巻かれていた。

気絶する前に比べずいぶんと改善された状況に少女は半ば唖然とする。


「よくまあ眠るやつだなお前は」


 そんな彼女の背から、からかうような男の声が響く。もはや驚くこともない。


「ヘイツ……」


 鉄格子の向こう側で腰かける彼の膝にもまた、ソラハに巻かれていたものと同じような毛布がかけられている。

ヘイツは彼女の視線がそこに向いていると気がつくと得意げに笑った。


「お前が気絶してる間に持ってきた。騎士団の制服は動きやすい分、寒くてしょうがねえからな」


 見張りの間、肌寒く感じたから毛布を持ってきた。

ここまではなにもおかしなところはない。

しかしなぜその一つを牢屋の中にいる監視対象の少女にも渡したのか。ソラハにはわからない。


「どうして……わたしにもこれを?」


 逆徒でなくとも、牢に入れられるような人間にわざわざ防寒具を与える者がどれだけいるのか。

ソラハは舞踏会で彼と遭遇した時にもらったチョコレートのことを思い出した。


「どうしてって聞かれても困る。俺が寒いって思ったから、お前も寒いんじゃないかって思っただけだ。

いらないってんなら返しな」


 どこか拗ねるようにそう言うヘイツは格子の隙間から手を伸ばし毛布を回収しようとするが、ソラハはそれを慌てて阻止する。

正直、彼女にとってこれしきの寒さは寒さのうちに入るものではない。

しかしこの毛布を持ってきたヘイツという男について、少女はもう少し話を続けたかった。


「優しいんだね……」

「は?」


 ソラハの口からこぼれ出た唐突な賛辞に今度はヘイツが唖然とする。

性格をハダル以外に褒められたことなど随分と久しぶりだった。


「お前……自分を閉じ込めてるやつに言う台詞じゃねえぞ」


 毛布を抱きかかえる少女の目は純粋で、警戒すべきものではない。

騎士として少なくない経験を積んできたヘイツにはそれがわかる。

目の前の少女が見張りを懐柔するために心にもないことを言っているのなら、彼の心はこれほど踊らなかっただろう。


「でも見張りをするだけなら、わたしに毛布をくれたりしなくてもよかったわけだし……」

「別に特別なことじゃねえ。この寒さで体調崩されでもしたら俺が困る。二度も隊長に迷惑はかけらんねえ」


 先日、任務に失敗したヘイツに言い渡されたハダルからの二度目の命令。

隊長の信頼に応えたいと彼が奮起しているのは紛れもない事実。

しかしソラハへの対応が普段の彼よりも幾分心優しいものになっているのもまた事実だった。

ヘイツもそれを自覚している。

「……普段も、こんなに優しいの?」


 ソラハは意を決して切り出す。収容所に現れた悪魔のような男と、舞踏会で遭遇した優しき男。

彼はどのようにして二つの側面を両立させているのか。

それはソラハが自ら見出すべき善悪の基準を探すための問いだった。

「……別に、普段はこんなに気を回す方じゃねえよ。

どっちかっていうと俺の無茶に他の奴らが合わせれくれることのが多いしな」


 逆徒であるから無条件に嫌う。信徒であれば無条件に好意を持つ。

信徒は皆そのような基準で人と接しているのだと以前のソラハは考えていた。

しかしあの舞踏会で初めてヘイツという人間と接した時に感じた優しさ。

それが信徒であるか否か、という単純な括りで向けられているものだと彼女には思えなかった。

「じゃあ、どうして私には?」


 想いには理由がある。彼が逆徒を嫌うのにも、彼がソラハに優しさを見せるのにも、ヘイツなりの理屈があるはずだった。

神がそう言っていたから、という理由だけですべての考えが変わってしまうほど、人間は単純な生き物ではない。


「……妹がいたんだよ。お前みたいにチビで弱弱しいガキのな」

「……仲が良いんだ」

「さあ、どうだったかな」


 話を切り上げたいのかヘイツはソラハから視線を打ち切り、座っていた椅子に再び腰かける。

しかし少女は話を終わらせない。

鉄格子にすがるようにしてヘイツを見やる彼女は話の先に信徒と逆徒を隔てるものの本質があるような気がしていた。


「妹さん……今はどうしてるの?」


 そんなことはソラハにもわかっている。

ヘイツの口振りからして彼女がどのような状態にあるのかは想像に難くない。

今、自分はひどく残酷なことをしていると感じつつ、しかしやめるわけにはいかなかった。


「知りたがりな嬢ちゃんだな。暇つぶしに似合う話なら他にいくらでもあるぜ?」


 はぐらかそうとするヘイツの言葉に、ソラハは答えない。

彼はため息をつきながらも、その視線に目を合わせてしまう。かつていた妹によく似た瞳。

彼の口はほどなくして動き出した。


「喰われたよ。俺がまだガキだった頃、逆徒の糞野郎どもに連れ去られて」


 その言葉にソラハはたまらず息をのむ。逆徒が信徒を連れ去る。

それはいつも逆徒たちが怯えていた状況の裏返しだった。


「買い物の帰りだった。妹の姿が見えなくなったと思ったら、悲鳴が路地裏から聞こえてきた。

母親を置いて追いかけたその先に、汚ねえ逆徒どもがあいつの足を持って、引きずりながら走ってた」


 一度漏れ出た言葉はヘイツにも止められないのか、流れ出る陰惨な過去はただでさえ薄暗い地下牢を黒く染め上げていく。


「あの頃は訓練もなにもしてなかったからな。バイスでいくら思考速度を速めても身体がついていかなかった。

ゆっくりと俺から離れていくあいつの目は今でも覚えている」


 ヘイツのバイスは体内時間の操作。

極限まで加速する思考に耐えうる体を手にした彼の力は今でこそ強力なものに違いないが、

当時のヘイツにとってはただ周囲のものが遅く見えるだけの力だった。


ゆっくりと、しかし確実に自分のもとから離れていく妹の姿を彼はどのように見ていたのか。


「その後、要請を受けた騎士たちが見つけたのは血まみれになった妹の服と、喰い残しの肉がこびりついた骨だけだった」


 逆徒は常に飢えている。時にごみ溜めをあさり、時に物を盗む。

それこそが生きるための手段であった。

しかし、信徒の子どもを連れ去り喰らうことにいったいなんの意味があったというのか。

それは同じ逆徒であるソラハにも理解できないことだった。


「信徒の肉を喰えば信徒になれる、なんてデタラメな噂を信じた逆徒のせいで俺の妹は死んだ。

母親は心を病んで、父親は逆徒を殺しちまって牢屋いき。あの時ばかりは神を恨んだな」


 運命というものがあるなら、それはひどく残酷なものに違いない。

幼きヘイスは心に沈殿していた、行き場のない感情をぶつける相手を探していた。

降りかかった不幸の原因は神にある。その妄念を胸に、神を崇拝する者たちへ無差別な暴力を重ねていった。

「……今は?」


 かつては神を恨んでいた少年が、今では信仰を守るため騎士団に所属している。

彼の過去になにがあったのか、なにが彼の考えを変えたのか。ソラハはそれが知りたかった。


「不幸が特別なものじゃないってことを知ったんだよ。……というか、気づかされたんだな、

あの隊長に」


 無数に存在する人間の一人に降りかかった小さな悲劇。

ヘイツに限らず多くの者たちが数々の不幸に見舞われ、それを乗り越えながら生きている。

そのための力を信徒は神より授かった。

大切なのは嘆くことではなく、悲劇になにを学ぶかだと若き日のハダルは言った。


「神を恨む前にやることがあったと気づかされた。

妹を殺した逆徒たちは王都にはびこったまま、俺たちの生活の裏に潜んでいる。

あいつらを少しでも野放しにしてたら、俺みたいな思いをする奴が増えちまう。

それ防ぐにはどうすればいいのか……俺には、騎士になって一人でも多くの人を助けることしか思いつかなかった」


 家族を失った悲しみと怒り。そんな思いをする信徒を一人でも減らすために彼は逆徒を憎む騎士となった。

そこに存在するのは悪意ではなく、純粋な正義感と使命感。自らの役割に誇りを持った彼らには、逆徒をこの王都から消し去ることが国民の幸福につながると信じている。

それゆえに戦い続ける。


「ああ……そういうことなんだ」


 ソラハは舞踏会場でアノスに聞かされたことを思い出す。


『自分の行いを正義と確信し、揺るがない者ほど厄介なやつはいない』


 話を聞いた直後は、この言葉の意味がよくわかっていなかった。

しかし、その典型ともいえる男と相対したソラハは思い知る。


 ヘイツ・ネイバック。彼はもとよりソラハが考えていたような二面性など持っていなかった。

逆徒を執拗に追うことも、ソラハに見せた優しさも、どちらも彼の善性が起点だった。


 力なき信徒を守りたい。悲しむ国民が一人でも少なくなってほしい。

それは、かつて悲劇を浴びせかけられた男が望む高潔な願いだった。

自ら誇りとし、心の主柱ともいえる願い。彼はその願いを守るために逆徒を害するのだ。


「……わりいな嬢ちゃん、いらねえことをペラペラ話しちまって。気分が悪くなったんなら言ってくれ」


 過去を思い出し、やや傷心気味であるにもかかわらず、ヘイツはソラハのことを気にかけている。

やはり優しい男なのだろう。そんな男が国民のために決意し、願った想いを覆すことなどできるはずがなかった。


「……大丈夫」


 ソラハは心のどこかで信徒と逆徒が分かり合える道がないかと思っていた。

信徒に扮し生活する中で、それまで悪だと思っていた人々が優しき心を持った者たちであったと知ったから。

しかし違った。悪人だから逆徒を排斥するのではない。

優しき心の持ち主たちが、自分や仲間たちを守るために逆徒を排除するのだ。


「やっぱり……優しいんだね、ヘイツは」

「うるせえ、そんな簡単に人を褒めるもんじゃねえ」


 発言とは裏腹に照れたように頭をかくヘイツ。緩んだ頬を見られたくないのか彼はソラハに背を向ける。


 『優しい』と、口にしたこの言葉が皮肉であればどれだけよかったか。

目の前で照れ笑う騎士が情をかけるに値しない外道であればどれだけ楽だったか。

ソラハは頭上の窓を仰ぎ見る。日は昇ったばかりのようだった。


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