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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
18/27

記憶する者

主人公掘り下げ回

 復讐者が生まれた日。

一人の男の人生を大きく歪めた悲劇の幕は、彼がこの家にやってきた十年目の夜に切られた。


 人里離れた辺境の木造小屋。周囲を囲み、空を覆う木々の隙間を抜ける風、その足元に流れる小川の水音。

それらだけが月に照らされたこの風景を現実のものだと証明していた。

絵画のごとく美しく、しかし命の気配が感じられない世界。

なぜならここは存在をひた隠しにされた者たちの楽園。

虐げられ、排斥された逆徒の子どもたちが安寧のもと暮らす、唯一の世界だった。


「じゃあ……アノス、準備はいい?」

「うん」


 暗闇に包まれた小屋の中で囁かれる声が、凪いだ水面に落ちる雫のように響く。

一人は楽しげに、もう一人はやや緊張に震えた声色で。

隠された命の気配はこの質素な小屋の中でだけ、穏やかな渦巻きを見せていた。


「それじゃあ、始めるよ」


 期待を煽るように調子を上げていく女性の声が聞こえたと同時に、暗闇の中に小さな火が灯される。

一つだけではない。灯火は円を描きながら増えていき、徐々に小屋の中を照らし出していく。

女性の隣に座った黒髪の少年が十二個目の火を灯すころには、あたりはすっかり明るくなっていた。


「アノス! 十歳の誕生日おめでとう!」


 明りに照らし出されるのは所狭しと並べられたご馳走を囲む十一人の子どもたち。

そしてその中で微笑む若い女性だった。


 彼女の声を皮切りに子どもたちがそれぞれ黒髪の少年、アノスに祝いの言葉と拍手を送り始める。

皆からの祝いの視線を受け、アノスは顔を赤らめつつはにかんだように笑った。


 今夜の主役が一口目のスープを口に含んだと同時に子どもたちは自分の好物へと一斉に手を伸ばし始める。

先ほどまで静まり返っていたことが嘘のように小屋の中は活気あふれる雰囲気に満ち始めた。


「エリヤ! 今日のスープすっごくおいしい!」

「そうでしょう? アノスが好きなものたくさん入れておいたから。

いつもは山菜ばっかりだけど、今日は特別だからね」


 口元にクリームスープをつけながら話すアノス。エリヤと呼ばれた女性は彼の頭を優しくなでながら笑う。

今日のご馳走はいつもの食事とは比べ物にならない豪勢なものだった。

アノスをこの家に迎え入れてから十年目の記念日に相応しいものとなるよう、貯蓄の余裕もそれほどない中、

エリヤは腕によりをかけて今日の晩餐を作り上げた。


「いつもは禁止してるおかわりも、今日は好きなだけしていいから。みんなも今日はたくさん食べて!」


 彼女の声に全員が元気な声を返す。

彼らが身に着けている擦り切れた衣服や最低限の家具しか置かれていない内装から見て、

お世辞にも裕福とは言えない生活を送っているのだろう。

しかし彼らの笑顔と喜びは間違いなく本物だった。

外界から隔絶されたこの小屋の中に無垢な少年少女を逆徒と虐げる者はいない。

そもそも自分たちが世界に逆徒と呼ばれていることすら彼らは知らずに生きている。

当たり前の生活と当たり前の幸せ。そのすべては彼女からもたらされたものに違いなかった。


「ありがとう、エリヤ」

「そんなにおいしかった? いつもこんな食事ならいいんだけどねえ」


 お礼を言われているというのにどこかばつが悪そうに笑うエリヤ。しかしアノスはそんな彼女に首を横に振って見せる。


「そうじゃないよ。いつも俺たちと一緒にいてくれてさ、こうやってご飯作ったり、寝る前に本読んだり。

たまに怒ったりするけど、それも含めてありがとうって、そう思った」


 気恥ずかしいのか、目を合わせずうつむき加減で感謝の言葉を口にするアノス。

エリヤはそんな彼の頭を今度は少し乱暴に撫でる。


「あらたまってお礼が言えるくらいアノスも成長しちゃったか。

これからはそういうことを日ごろから口にしてくれるとうれしいなあ」

「いやだよ、恥ずかしい」


 まとわりつく手を払いながら、しかし嬉しそうにアノスはスープを口に運ぶ。

彼はエリヤが大好きだった。十人の兄弟の中でも自分が一番と胸を張って言えるくらい大好きだった。

みんなを暖かく包む優しさも、小川を明るく照らすような声も、夜を流れる星のような銀の髪も、

エリヤを構成するありとあらゆるものはすべて、アノスが美しいと感じるものだった。


「お前は相変わらずエリヤ大好きっ子だな。

俺と同じ年の男になるなら、少しは親離れして恥ずかしくない男になれよ」


 意地を張りながらも笑みを隠せないアノス。そんな彼をからかう声が隣の席から聞こえてくる。

顔を向けた先には彼の兄弟であり親友であるボラルがフォーク片手にニヤケ面を浮かべていた。


「俺はエリヤのことが好きだから好きって言ってるんだ。なにも恥ずかしいことないよ」

「大人の男っていうのは簡単に好きな気持ちを表に出さないもんだ。

いつまでもエリヤにべったりじゃ一生ガキのまま面倒見てもらうことになるぜ」

「そういうボラルはもう少し素直になってくれてもいいんだけど。あと、食器を人に向けない」


 偉そうに兄貴風を吹かせるボラルはエリヤの小言に調子を崩されつつもそう告げる。

その言葉は甘えたがりのアノスをからかうためのもので、深い意味はなかったのかもしれない。

しかし幼いアノスの小さな胸にはかすかなさざ波が立った。


「そうか……一生じゃないんだ」


 いつか自分たちは大人になり、そして同じようにエリヤとの別れもいずれ訪れることになる。

この家で、エリヤや兄弟たちと共に過ごす日常が当たり前の少年に、その『いつか』はとても恐ろしいことのように思えた。



・・・



 食事を終える頃には夜も更け、子どもたちは皆重くなってきたまぶたをこすり始めていた。

しかし今夜の特別な雰囲気が名残惜しいのか、だれも眠気を口にしない。

あくびを我慢して口をつぐむ者が増え、食卓は次第に静けさを増していった。


「……そろそろお開きかな」


 舟をこぎ始める者も目につくようになった頃合いにエリヤがそう言って立ち上がる。

その音で半分眠っていたアノスは驚いたように目を開いた。


「みんな名残惜しいのはわかるけど、明日も明日でやることがあるから、今日はそろそろお休みにしよう」


 その言葉に案の定何人かから不満の声が湧き始めるが、

エリヤはその主張を封殺するように手を叩きつつ子どもたちを寝室へと向かわせていく。

初めは抵抗を試みていた者たちも頑ななエリヤには敵わず、皆しぶしぶと自分のベッドへと入っていった。


「エリヤはまだ寝ないの?」


 アノスも自分のベッドに入りつつ、部屋の入り口で明かりを吹き消し出て行こうとするエリヤに声をかける。

別に珍しいことではなかったが、先ほどまでにぎやかな雰囲気の場にいたために、静かな寝室が少し心細かった。


「お皿片づけないといけないし、今日はまだお仕事があるから」


 そう言って笑うエリヤ。廊下からの逆光でその表情はよく見ることができない。

アノスはこの他愛ない返事の中にかすかに宿ったなにかを感じた気がした。

疲れのような、悲しみのような、後悔のようななにか。


「じゃあ俺も……」

「アノスたちには明日頑張ってもらうから、今日はもうおやすみ。朝の水は冷たいから覚悟しといてよ」


 言葉を遮るようにささやかれたエリヤの声には、もう先ほど感じたなにかはもう見つけられなかった。

アノスは腑に落ちない思いを抱えながらも枕に頭をうずませて扉の向こうに消えていく母親を見送った。

すでに部屋の中は子どもたちの小さな寝息に包まれている。

先ほどまで寝ることを渋っていた者たちの大半が夢の中へと旅立ってしまっていた。


「アノス……まだ起きてるか……」

「……うん」


 いまだ目を覚ましているのはアノスとボラルの二人だけ。

返事を聞いたボラルは物音を立てないようにベッドから抜け出ると、ゆっくりとした足取りで部屋の窓へと向かっていった。

そんな兄弟の不審な行動にアノスは首をかしげる。


「なにしてんのボラル?」

「いいからついてこいよ。少し大人になったお前にいいもん見せてやるから」


 彼はいたずらな笑みを浮かべながら音を鳴らさず器用に窓を開け放った。

窓枠を飛び越え反対側から頭を出したボラルはベッドから立ち上がったアノスに手招きをしている。


「こんな夜中に外に出たらエリヤに怒られるよ」


 何度か扉を振り返りながら小走りで窓までやってくるアノスは無断外出がばれた時のお仕置きを恐れてか焦ったようにまくしたてる。

しかしそんな彼の様子を見てもなお、ボラルは笑みを崩さずに手を伸ばした。


「お前も今日で十歳だ。たまにはエリヤの目の届かない場所まで冒険してみろよ。

俺と、お前の二人でさ」


 それは彼なりの贈り物のつもりだったのだろう。不安そうなアノスを勇気づけるように笑いながら手を伸ばすボラル。

それは強引でありつつも弟を成長させようと奮起する兄の姿だった。


「……もし見つかったらボラルが謝れよ」

「いや、そこは連帯責任だろ」


 兄の手を握ったアノスは小さな体で窓枠をよじ登り、乗り越える。

満足そうに笑うボラルは弟の手を引いて、小屋の近くを流れる小川にそって森へと走り始めた。

昼間は子どもたちの騒ぎ声にかき消されてしまう流水のせせらぎが耳を通り抜けていく。

木々の隙間から差し込む月明かりと冷たい風が二人の期待と不安を同時に湧き立たせていた。



・・・



 徐々に傾斜がきつくなっていた。

ただでさえ足元が悪い森の中を暗闇の中進んでいるアノスは時折木の根に足を取られそうになる。

そのたびに伸ばされたボラルの手が支えになった。


「だらしないな、何回目だよ」

「だって、こんな険しい道だなんて、聞いてないよ」


 呼吸を整えながらアノスはそう嘆く。

夜中にこの山道を十歳の自分たちが抜けるのは無謀なことのように思い始めていた。

そんな弟を鼓舞するようにボラルは背を叩く。


「ここまできたらもうすぐだ。ほら、がんばれ!」


 ボラルが指差す先にはかすかに森の終わりが見えていた。頂上が近い。

その事実に気がついた途端、疲れの幾分かが吹き飛んだ気がした。

疲労や不安を期待と喜びが上回っていく。


「いこう!」

「おう!」


 少年たちは森を駆け上がる。根を飛び越え、垂れる枝を避けながら、月の光が照らしだす山頂の舞台へと躍り出る。

二人の背を押すように強風が森を抜けていき、巻き上げられた木の葉にアノスは思わず目を閉じた。


「……ついたぞ」


 ボラルの言葉にアノスはゆっくりと目を開く。長い時間をかけて山を登ってきた果てに見る景色。

生半可なものであったなら納得がいかなかっただろう。


「どうだ?」


 ゆえに最大の驚きと、最上の喜びを浮かべたアノスの表情は、その景色が最高のものであることの証明だった。


「……すごい」


 目の前に浮かぶのは満天の星空。

いつも背の高い木々に覆われて見えなかった広々とした空がそこにはあった。

そしてアノスが見たものはそれだけではない。


「あれは……明かりだ」


 遠く、遠く。眼下に広がる森の向こう側。地平の果てをかすかに照らす明かりが見えた。

月明かりとは異なる暖かな赤色。人によって生み出された灯火の色だった。

これほど遠くからでも見える炎。間近で見ればどれほどの大きさになるのか、アノスには想像もつかない。


「きっとあそこにたくさんの人がいるんだ」


 遥か彼方の景色に圧倒されるアノスの隣でボラルがつぶやく。

その声にいつものふざけた調子はのっていない。少年は今、その胸に抱いた大きな夢を語っていた。


「俺、いつかあの光を見に行くんだ。そこにどんな人がいて、どんなことをしているのか見にいくんだ。

俺が知らないものを知るために」


 自分の左手につけられた紋様の意味を知らぬボラルの目は輝いていた。

そこに宿っていたのは見たことのない世界への羨望。

アノスは兄がいつかエリヤのもとを離れる決意をしていることに気がつき、複雑な思いを胸に浮かべていた。


「お前もくるか?」

「え?」


 ゆえにその言葉が自分に向けられていると理解した時、すぐに返事をすることができなかった。

まだ見ぬ世界へとボラルと共に旅立つ。それは素晴らしく魅力的で、同時に酷く恐ろしい。

旅立った先に自分たちを守ってくれるエリヤはいない。

そんな未来を受け入れるには、アノスはあまりにも子どもだった。


「……冗談だよ。エリヤにべったりのアノスに旅なんてできるはずねえや」


 からかい口調でそう言うボラルになにも言い返せない自分をアノスは初めて恥ずかしいと思った。

隣に立つ兄は今よりもずっと未来のことを考えている。

毎日の変わらぬ平和に甘んじることなく、自分の力で生きていく決意を彼は固めていた。


「……すごいな、ボラルは」


 ここで嘘でも『ついていく』と言えない自分が情けなく、アノスは胸から込み上げてくるものを必死に抑えながら呟く。

そんな弟の横顔を見るボラルは優しく笑いながら彼の肩に手を乗せた。


「……そろそろ帰るか」

「……うん」


 未来への道を焦って決めることはない。

そう告げているような声にアノスは頷きつつ、彼方に輝く光に背を向ける。

月下に灯る火はあまりにも遠かった。



・・・


 いつか自分もボラルのように考えられる時が来るのか。

その時、自分の中にあるエリヤへの思いは変わってしまうのか。

幼い彼はなにもわからぬまま下り坂に足を取られぬよう地を踏みしめる。

そんなアノスに気を使ってか、ボラルの口数も珍しく少なかった。


 下り坂は登りよりも体力を使う。小川から跳ねたしぶきが地面を濡らし、ややぬかるんだ土はよく滑る。

行きの時以上にボラルの手を借りながらアノスはようやく坂を下り終える。

あと少し歩けば家にたどり着くだろう。


「悪かったなアノス。夜中にこんな歩かせて」

「……あやまるなよ。行ってよかったと思ってるんだからさ」


 沈黙に耐えきれなかったのか、時折不器用に声をかけてくるボラル。

その仕草が少し鬱陶しくも面白く、アノスは自然な笑みを見せた。

その表情を見て安心したのかボラルもいたずらな笑顔を取り戻す。


「余裕があるならこっから家まで競争するか? 俺が負けたら明日の洗濯は変わってやってもいいぞ」

「負けて薪集めさせられるほうがもっといやなんだけど」


 乗り気でないアノスをよそにボラルは勝手に秒読みを始める。

この手の競争、対決にアノスは本気で勝てたことがない。

勝てるのはあからさまにボラルが手を抜いた時だけ。

彼は気づかれてないと思っているが兄をよく観察している弟にはバレバレだった。


「行くぞ!ゴー! ヨン! サン! ニー!」


 今もわざと負けて明日の当番を変わろうとしていることがわかる。

エリヤも言っていたがボラルはもう少し素直になったほうがいいとアノスは思った。


「イチ!」


 その時、小川の先、林の向こう、二人の家が建つ方角で、真っ白な光が音もなく森を飲み込むのが見えた。

数瞬おくれて森を貫くのは耳を吹き飛ばされたと錯覚するほどの爆発音。

秒にも満たないこの一時に起こったすべてが理解の外だった。


 歯をくいしばって両耳に走る痛みに耐えながらアノスは立ち上がる。

周囲の景色は隣で倒れているボラルを除けばなにも変わっていないように見える。

しかし木々の隙間から見える狭い空には黒い煙が暗雲のように漂っていた。


「ボラルッ! ねえ起きてッ!」


 先ほどまで快活な笑みを浮かべていた兄が耳から血を流して倒れている。

アノスが肩を揺り動かすと彼はうめき声とともに立ち上がった。


「アノス……いったい、なにが……」


 耳を押さえながら、なにが起きたのか理解が追いつかない様子で呆然としているボラル。

しかし次の瞬間には彼も空に立ち上る煙を見つける。

そして同時に、この暗雲がどこからやってきたものかも理解してしまう。


「ボラルッ! 家が……」

「急ぐぞッ!」


 ボラルが駆け出し、それを追うようにアノスも走り出す。

全速力で森を抜ける中、二人は自分たちの予想が外れていることを切に願った。

しかし小屋への距離が縮まれば縮まるほど鼻につくような焦げ臭さが濃くなっていく。


「ついたッ!」


 林を抜けた先。小川の向こう。

そこに建っていたはずの木造小屋が黒くすすけた骨組みだけを残し朽ち果てている。

先ほどの爆発から数分もたっていないというのに、彼らの家はまるで一晩中焼かれ続けていたかのような有様になっていた。


「そんな……嘘だ、こんな」


 あまりに唐突な悲劇に流れる涙もない。

アノスは火中に飛び込む虫のようにおぼつかない足取りで先ほどまで家だった場所に近づいて行こうとする。

しかし、その手を引いて彼を引き留める者がいた。


「待てアノスッ!」

「……ボラル」


 ボラルは顔を青くしながらも、しかし正気を保ってアノスの手を握っている。

一刻も早くエリヤたちの無事を確かめたいアノスはその手を振りほどこうと暴れようとするが、ボラルも頑なに離さない。


「離せよッ! このままじゃエリヤが、みんなが……ッ!」

「落ち着けッ! よく見ろ、だれか家の前にいる」


 震える声をなんとか言葉にしたような話し方でボラルはアノスを落ち着かせる。

家の前に立つ三人の人影はエリヤでも、ましてや兄弟たちの姿でもなかった。

三人のうちの一人が燃え尽きた家の中へと入っていき、残った二人は入り口を見張るようその場に立ちはだかっている。

全員が同じような黒いフードを目深にかぶり、顔を確認することができない。

しかし彼らが事の発端であることは疑いようがなかった。


「アノス、俺が囮になる。あの二人を引きつけてる間にお前はエリヤたちを探すんだ」

「ボラル? なにを言って……」


 ボラルは再びアノスの返事を待たずに秒読みを始めた。すでに意見を述べられる時間は残されていない。


「行くぞッ! 三ッ! 二ッ! 一ッ!」

「待ってよボラルッ!」


 その言葉が言い終わる前に彼は林の中から飛び出していた。

小川に沿ってわざと目立つように叫び声をあげながら見張りたちの視界をかすめていく。

その行動が功を成し、二人の見張りは全速力でボラルを追いかけ始めた。


 ボラルは兄弟たちの中で一番足が速かった。

しかし大人と子どもの差をどうしても埋めることはできない。

男たちが走り出した瞬間から数分もたてば確実に捉えられてしまうだろう。


「くそッ!」


 ゆえにアノスは小屋へと走る。

兄の行動を無駄にしないためにも、自ら囮役をかってでた兄の決意に報いるためにも彼は走る。

川を飛び越え、朽ち果てた扉踏みつけながら、彼は我が家だったものに飛び込んだ。


 黒く、黒く、焼け焦げた室内にはまだ胸を焼き焦がすほどの熱気が渦巻いていた。

すでに火の手は上がっていないとはいえ煙も充満している。

視界も不明瞭な中、アノスは十年間の記憶を頼りに進んでいく。


「エリヤッ! みんなッ! どこにいるんだッ!」


 つい先ほど誕生日を祝った食卓も完全に燃え尽き、床には穴がいくつも空いている。

アノスは兄弟たちが眠っているはずの寝室を目指し、床を這うように進んでいく。

手や膝が焼ける熱さに耐えながらも、彼は家族のためにその歩みを止めない。


 しかしその先で彼を待っていたものはあまりに残酷な現実だった。


「みんな……」


 九人の兄弟たちは皆、ベッドに横たわったまま真っ黒に焼き焦がされていた。

まるで一瞬のうちに焼死体へと変わってしまったかのように、苦しんだ様子もないまま寝かされている。

人の肉が焼けた臭いが鼻に触れた瞬間アノスは絶叫した。立ち上る煙もお構いなしに一心不乱に走る。

向かうはエリヤの仕事部屋。エリヤが時折籠りきり、入ることを固く禁じられていた秘密の部屋。

アノスはエリヤという安らぎを求め、狂乱と無意識の末にその扉を開け放つ。


 この家で唯一の鉄扉は炎に炙られた際の高熱をいまだ内包している。

ノブに手をかけたアノスの両手は瞬時に焼かれ始めるが、それでも彼は手を離さない。

半狂乱となったアノスはエリヤを見つけるまで止まらない。


 次第に鉄の重みに耐えきれなくなったのか、扉の枠組みが焼け朽ち扉はその口を開く。

アノスはただれた手のひらを握りしめながらその奥に続く地下への階段を下りていく。

この小屋に地下室があったことも彼はこの日初めて知ったがそんなことはどうでもよかった。


「この先に……エリヤが」


 愛する母が無事な姿を見せてくれさえすれば、すべては些末事。

階段を下り終え、床に倒れ伏したアノスはかすむ視界の中でその部屋に火の手が回っていないと気がついた。


 光が届かない地下の一室でそれがわかったのは倒れた床があまりにも冷たかったから。

石のように固く冷たいその感触は、普段アノスたちが過ごしていた家の材質とは似ても似つかない。

入口の鉄扉といいこの地下室はなにかが違う。

いったいエリヤはこの部屋でどのような仕事をしていたというのか。

それを聞くためにもアノスは焼けた喉で声を震わせる。


「エリヤ……どこにいるの?」


 小さく力のない声だがこの地下室ではよく響いた。

床に拳をつき、体を引きずってアノスは沈黙漂う暗闇の中を進む。

耳に入ってくるのは乱れた自分の息遣いだけ。彼の呼びかけに答える者はいない。


「なんだ……これ」


 その時アノスの手に触れたものがあった。

水にしては生ぬるく、粘り気がある液体。鉄くさい臭いとその奇妙な感触に驚いたアノスは思わず手を引く。


「血……?」


 それは、かつて遊びの最中に作った傷と同じ臭いだった。

膝から滴り落ちる自身の血。その時に感じた、痺れるような痛みを彼は覚えている。

だとしたら手のひらを覆いつくす程の血を流した者はいったいどれだけの痛みを感じているというのか。


 アノスは広がった血だまりの中を這い進む。

生暖かい血の海が手の傷口に染み込んでもアノスは止まらなかった。

その先に倒れていた彼女を見つけるまで。


「エリヤッ!」


 指先に触れたのは彼女の腕だった。その手を握ればこれがエリヤの体だということはすぐに分かった。

血に塗れた彼女の手はアノスが触れても動かない。

必死に揺り動かしてもエリヤの手は彼に触れてはくれなかった。


「どうしよう、俺……どうしたら」


 エリヤは倒れ、ボラルもいない。大勢の兄弟たちもすべて灰となってしまった。

残っているのは小さく頼りない自分の体だけ。

アノスには自分の力でエリヤを助ける方法がわからなかった。

枯れた涙の代わりに情けない嗚咽が喉から溢れ出てくる。


 結局自分は誰かの力を借りなければ泣くことしかできない。

そんな自分の無力さに絶望した時だった。


「……ア、ノス」


 アノスの耳に聞こえてきたのは紙をこすり合わせたようなエリヤの小さな声。

今にも立ち消えてしまいそうな命の灯を燃やし、彼女はなにかを伝えようとしている。


「エリヤ、ごめん……ごめんなさい、俺……なにも……」


 アノスは反射的に謝罪する。

エリヤを守れないことへの責任に押しつぶされそうになりながら、彼女の体にすがりついている。

エリヤはそんな彼の頭にゆっくりと手を乗せると、途切れ途切れに最期の言葉を紡いだ。


「どう……私……幸せに……」


 後悔と悲しみに溺れるアノスにその言葉を完全に聞き取ることはできない。

ゆえに、もう一度エリヤに聞き返そうとした時だった。


 彼の頭を閃光のようななにかが駆け抜ける。

まるで頭の中に大量の熱湯を流し込まれているようなゆがんだ痛みが襲ってくる。

アノスはその痛みから逃れようとするが、彼の頭を掴んだエリヤがそれを許さない。

頭の中で渦巻いている洪水は混沌とした記憶をアノスに刻み込んでいった。


「エリヤ……なんで……」


 アノスの頭に手が置かれたこの一瞬で、彼はあまりに多くのできごとを『記憶』してしまった。

エリヤという女性がこの日この時まで経験してきた人生の記録。

その多くをこの瞬間、アノスはおぼろげで曖昧な記憶として植えつけられた。彼女の意志によって。


「……ごめんなさい」


 痛みに耐えられず意識が朦朧とする中、彼の頭に浮かぶエリヤの顔。

霧がかりその表情は隠れ、見ることができない。

アノスを見るその眼にはいったいどんな感情が乗せられているのか。


『ごめんなさい』


 アノスは何度も、そう繰り返し口にするしかなかった。

自分の不甲斐なさを呪い、慟哭を続けながら、あらゆる負の感情を幼い少年はまき散らしていく。

高まっていく悲しみは、周囲を侵食するほどの力すら得ているようだった。

 


・・・



 気がつけば、アノスは小屋の前で座り込んでいた。

あれからどれほど時間がたったのか、森の狭い空からは太陽の光がこぼれ始めていた。


「……『私』は、いったい」


 記憶が混濁していた。自分が誰で何者なのか、

ここはどこでなぜ自分はこの場に座り込んでいるのか、彼は順を追うように思い出していく。


「私の名は、アノス。ここは私の、私たちの家。私たちの家が燃えて……エリヤが……」


 アノスは背後を振り返る。小屋は完全に倒壊し、屋根が家全体を押しつぶしてしまっていた。

これでもう地下室へ戻ることもできない。

もはやこの場所に彼らの過去を思い出させるものは何一つなくなってしまった。


「あぁ……」


 口から漏れ出た声は絶望とも悲憤とも違った。


「もう……私には、なにもなくなってしまった……・」


 すべてを諦めてしまったかのように、胸に大きな穴が空いてしまったかのように、その心は不自然に凪いでいる。

すべてを失った今、彼には心を動かすことすら億劫に思えてしまっていた。

自分一人が生き残っていても意味などないと言わんばかりに。


 アノスは森を眺める。

家を丸ごと焼き尽くした炎は周囲の木々に被害を広げておらず、青々とした葉は依然として早朝の風になびいていた。

今夜起こったことが悪い夢であったかのように、世界はなにも変わっていない。


「なにも……変わっていない。なにも変わらない、はずだった」


 平和で暖かな家族との暮らし。十年間紡がれてきたかけがえのない日常。

そんな日々を変えてしまった者がいる。家の前に立っていた三人。彼らがすべてを壊していった。


「……ボラル。あいつはどこに……」


 見張りの二人を引きつけるために森へと走って行った兄弟。彼はどこに行ってしまったのか。

エリヤ亡き今、アノスの家族は彼しか残っていなかった。


 アノスは立ち上がる。

力の入らない全身を引きずるようにしてボラルが駆けていった小川を下っていく。

昨日までの毎日が続いていれば、今頃彼はこの川で洗濯をしていたのだろう。

水の冷たさと、落ちない汚れに文句をつけ、しかしエリヤに褒められることを期待しながら。


「あ……」


 不毛な感傷に浸りながら歩いていたアノスは流れる小川の先に倒れている人影を見つける。

彼はあわてて駆け寄るが、近づいてみればその影がボラルを追っていた者たちであることが分かった。


 フードをかぶった男たちは重なり合うようにして岸に倒れていた。

顔や胸には深い切り傷が刻み込まれており、すでにその息は途絶えている。

垂れ流された血が流水に混ざって川を汚していた。近くにボラルの姿は見えない。


「いったい誰が……」


 たとえ刃物を持っていたとしてもアノスやボラルのような子どもにこれほど深い傷をつけることはできない。

二人のうち一人は首が半分切断されていた。


 ここでアノスは、これほど無残な死体を見ているというのに自分が驚くほど冷静であることに気がついた。

エリヤや兄弟を見た時はあれほど取り乱していたというのに、今は傷の程度を観察する余裕すらあった。


「家族でなければこんなものなのか……」


 家族と他人は違う。ましてこの男たちは日常を壊した張本人。

恨みこそすれ、その死に動揺する必要などない。

彼はそれ以上考えを深めようとせずに男たちの死体を素通りしようとした。


 その時、死体の下で動くものがあった。

真っ赤に染まった男の腹部と地面に挟まれながら、小さな毛の塊が呼吸をするように上下している。

アノスは気になってその塊を引き抜いてみた。

先ほどは感じていた血液に対する抵抗感もすでに彼の中から消え去っていた。


「これは……犬、か?」


 腹の下から引きずり出てきたのは血まみれの犬だった。

死んだように動かないがその腹は確かに上下している。

よく見れば体のどこにも傷はなく、被った血はすべてそこ横たわった男たちのものであるようだった。


 昨日までのアノスであったら本の中でしか見たことのない犬の姿に興奮の一つでもしただろう。

しかし今は他に優先しなければならないことがあった。


「悪いが兄弟を探している最中だ。家への帰り道は自分で探してくれ」


 アノスは子犬を小川から離れた地面に寝かせると、再びボラルを探すために歩き始めようとする。

追手がここに倒れている以上、彼もまた傷ついている可能性もあった。


「……アノ、ス」


 その時、犬の口から弱弱しく掠れた声が聞こえてくる。それは確かにボラルの声だった。

物心ついた頃から毎日聞いてきたその声をアノスが聞き間違えるはずもない。


「エリヤ……みんな……待ってろ……俺が……」


 再び抱きかかえられた腕の中、彼は小さな牙のついた口でそう呟いた。

アノスにはもう驚く気力も余裕もない。

犬の姿になっていようとボラルが生き延びていたのならそれでよかった。


「……私が、守らなければいけない」


 腕の中で眠るボラルはあまりにも小さく、あまりにも脆いように感じた。

少し力を加えただけで潰れてしまいそうな危うさが今の彼の姿にはあった。

今までのような兄を頼った生き方をすることはできない。


 アノスは歩き出す。

小屋の前で目を覚ました時から、頭をかすめ続ける記憶が見せる場所へと足を進める。

それがどんな場所なのか、どこにある場所なのかも彼には分らない。

しかしボラルを見つけた今、その場所へ行かなければならないという漠然とした意志がアノスを突き動かしていた。


 彼が歩むのは山を越え、森を抜け、あの灯さえ超えた先にある王都への道のりだった。


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