2-1 終焉の幕開け
月さえも厚い雲に飲み込まれた、凍てつく夜のこと。
都心の喧騒をあざ笑うかのように山奥にそびえ立つ古い館は、今や「天魔」と呼ばれる悪魔使いたちの根城と化していた。
重厚な扉が開かれた大広間。
そこには、肌を刺すような緊張感が澱んでいる。
部屋の中央、一段高くなった玉座に深く腰を下ろしているのは、天魔の首領・桐城勇勢だ。
夜の静寂をそのまま形にしたような佇まいは、立っているだけで周囲の空気を張り詰めさせている。
無造作な黒髪に一筋刻まれた鮮烈なブルーのメッシュが、暗がりに差し込む一筋の閃光のように鋭い。
淡いブルーの瞳は、凍てつく冬の湖のように冷徹で、すべてを透かし見るような視線は、優しさと冷酷さが危ういバランスで同居していた。
「…紫苑が、やられたか」
勇勢の低く、しかし絶対的な重みを持った声が響く。
以前の服装とは一変し、仕立ての良いダークグレーのスリーピース・スーツに身を包み、黒のコートを無造作に羽織った姿は、端正な貴公子でありながら、その内側に獰猛な野性を潜ませていた。
かつての勇飛たちをおちょくるような態度とは一変し、今や天魔を束ねる統括者として相応しい風貌や威厳を放っている。
「せやねん、勇勢さん。紫苑の奴、ちょっと詰めが甘かったみたいやわ。正義の味方ごっこしとるガキんちょ共に、コロッと足元掬われてもうて。あーあ、あいつを嗾けたのも僕やし、皆にも申し訳なくて、格好つかへんなぁ」
応えたのは、勇勢の右腕、天魔No.Ⅱ・真月神牙だ。
金髪のシースルーウルフを揺らし、第2ボタンまで開けられた漆黒のシャツからは端正な鎖骨が覗く。
常におちょくるような薄笑いを浮かべ、関西弁混じりの軽い口調で話すが、その瞳の奥には底知れない闇が淀んでいた。
「…死んだ」
短く、淡々と紡がれた声。
部屋の隅、月光から紡ぎ出された氷の人形のように佇んでいたのは、天魔No.Ⅲ・雨宮月夜。
まだ、年端も行かない13歳の少女だ。
雪のように真っ白な長髪が、感情を映さないサファイアの瞳を縁取っている。
彼女は必要以上の言葉を口にしない。
ただそこに存在すること自体が、一つの完成された静謐であった。
「そうね、死者に費やす言葉ほど無駄なものはないわ。論理的に考えれば、敗北は彼自身の力の欠如。それ以上でも以下でもないわ」
最後の一人が、深紅の髪をなびかせて一歩前に出た。
天魔No.Ⅳ・九条緋墨。
天魔の中では最年長の彼女は、純白のジャボ・ブラウスと、腰元を厳格に締め上げたハイウエストのロングスカートを身に着け、燃えるようなクリムゾンの髪は、陶器のように白い肌を病的なまでに際立たせ、彼女が誰の支配も受けない強靭な意志の持ち主であることを示していた。
勇勢は、集まった三人の幹部を淡いブルーの瞳で見据えた。
「まぁ、紫苑の欠員は、予定のうちだ。これからの計画に何の支障もないさ」
勇勢が指を鳴らすと、広間の中央に巨大な魔法陣が浮かび上がり、古びた地図のようなものが投影された。
「俺たちの目的は、人間界を悪魔の理で再定義することにある」
勇勢の声が、低く響き渡る。
「だが、現在の人間界に満ちている瘴気はあまりに希薄だ。真の支配を完成させるためには、かつて魔界と人間界を繋いでいた失われた領域―『伏魔殿』を復活させる必要がある」
「伏魔殿なぁ…。でも勇勢さん、あれは昔、天界の王のゼウスとかいうおっさんに封印されたって話やないですか。開ける方法なんてあるんですか?」
神牙が、捲り上げた袖の先から覗く腕を弄びながら尋ねる。
「方法は一つある。かつてゼウスによって人間界に封印されたと言われる三つの『地獄門』を解き放つことだ」
勇勢は地図上の三箇所を指し示した。
「この門は、伏魔殿を現世に繋ぎ止める楔となっている。楔を抜けば、封印は内側から崩壊する」
緋墨が、その切れ長な瞳を細めた。
「無駄な説明は不要でしょうけれど…その門、ただ力で叩き壊せばいいという話ではないのでしょう?」
勇勢は頷き、三人に命を下し始めた。
「地獄門は、人の負の感情を糧にして隠蔽されている。第1の門は『憤怒』、第2の門は『強欲』、第3の門は『絶望』とそれぞれ異なる感情が支配している。神牙、お前は都心の地下に眠る『暴虐の門』へ行け。そこには力を欲する愚か者たちの闘争心が渦巻いている」
「りょーかい。血生臭いのは嫌いやないで…まぁ、適当に暴れてくるわ」
神牙は軽薄に笑い、肩をすくめる。
「月夜」
勇勢が名を呼ぶ。
少女は音もなく一歩前へ出た。
「お前は裏社会の富豪たちが支配している港に停泊する、巨大カジノ船に隠された『黄金の門』だ。強欲に溺れる者たちの魂を集めろ」
月夜は何も答えない。
ただ、サファイアの瞳を静かに伏せ、スカートのフリルを揺らしながら小さく会釈しただけだった。
彼女の脳内では、すでにカジノ船の構造、客層の心理統計、そして門を解放するまでの最短プロセスが瞬時にシミュレートされていた。
だが、それを口に出すことはない。
彼女にとって、最適解を導き出すことは呼吸と同じ、当然の行為だからだ。
「そして緋墨。貴様には第3の門を任せる。秘境の山村にある古の廃寺に眠る『嘆きの門』だ。深い絶望こそが、その門を開く鍵となる」
「絶望…。美しくない感情だけれど、門を開くための触媒としては最高ね。完璧に、そして論理的に絶望を生産してみせるわ」
緋墨は深紅の髪を指先で弄び、冷ややかに微笑んだ。
勇勢は、自らの胸元で光る青い宝石のピンに触れる。
その瞳には、すでに崩壊し、再構築される世界の姿が映っている。
「全ての門が開いたとき、伏魔殿は顕現し、この世界は我ら悪魔使いの揺り籠となる。さぁ、行け。邪魔をする者たちは、その命を対価にしても構わない」
「「……」」
神牙がニヤリと笑い、緋墨が不敵な微笑を浮かべ、月夜が静かに目を閉じる。
三人の影が、夜の闇に溶けるように消えていった。
三人が去った後の大広間は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
窓から差し込む青白い月光が、広間の大理石の床の上に長い影を落としている。
勇勢の影が、床から剥がれるようにして立体的な闇へと膨らみ始める。
それは物理的な法則を無視し、粘り気のある黒い霧となって立ち上がり、やがて一人の男の輪郭を成した。
漆黒の燕尾服を纏った、端正な紳士の如き姿。
背中からは、光を一切反射しない漆黒の羽根が左右に広がり、微かな羽音と共に闇の粉塵を散らしている。
勇勢に仕える悪魔、エレボスが姿を現した。
エレボスは音もなく勇勢の足元に跪き、胸に手を当てて深く頭を垂れた。
「三つの門を解き放つ。伏魔殿の復活は、もはや秒読みに入ったみたいですね」
ベルベットのように滑らかな、しかし温度の感じられない声が静寂を塗り潰す。
エレボスは顔を上げ、闇のような瞳で主を見つめた。
「しかし、懸念すべきは聖天六神の動き。そして神魔を宿した五人の契約者たちが、今、この人間界に集結したことも事実…」
勇勢は視線を動かさない。
ただ、淡いブルーの瞳に冷徹な光を宿し、鼻で笑った。
「聖天六神か。神の傀儡どもが…。今さら集結したところで、この俺に通用するとでも思っているのか」
「無論、貴方様と我々の力があれば、彼らなど塵も同然でしょう。…しかし」
エレボスは言葉を切り、わずかに声を潜めた。
「その中心にいるのが、貴方様と血を分けた実の兄弟…桐城勇飛であるという事実も無視できません」
「勇飛、か…」
勇勢の指が、椅子の肘掛けをわずかになぞる。
その動きは、獲物を狙う猛禽のように鋭かった。
「同じ血を引き、同じ闇の中から産み落とされたというのに、あの方は己の出自すら忘れ、光の側に立っている…あの方が、ご自身の『真の正体』を知れば、一体どのような顔をするのでしょうか」
エレボスの言葉には、隠しきれない憐みと、それ以上の忠誠心が混じっていた。
「…あいつはまだ、何も知らなくていい」
勇勢はゆっくりと立ち上がり、バルコニーへと歩を進めた。
「記憶など、時に毒になるだけだ。あいつは、自分が守るべきもののために必死に足掻き、絶望すればいい。それが、あいつが選んだ…あるいは、選ばされた運命だ」
「…珍しく、お優しい言葉を使うのですね。あるいは、それこそが最大の残酷か」
エレボスは翼を静かに畳み、主の背中を見つめる。
「勇飛には、まだ『鍵』としての役割がある。あいつの宿す光が強ければ強いほど、伏魔殿が開く際の反動は、より純粋な闇を産むことになる」
勇勢は、窓の外に広がる、今にも亀裂が入りそうな夜空を見上げた。
「…勇飛、お前がその神の力で、この俺を貫こうとするその瞬間、お前は思い知ることになる。お前の中に流れているものが、純粋な光などではなく…俺と同じ、呪われた黒い衝動であることをな」
勇勢の口角が、わずかに吊り上がった。
それは兄としての愛惜か、あるいは天魔の首領としての嘲笑か。
「エレボス。天魔の動きを監視しろ。勇飛たち光の連中も必ず接触を図るはずだ。だが、手は出すな。勇飛が自ら俺の前に辿り着くまで…その『光の勇者ごっこ』を見守ってやろうじゃないか」
「御心のままに、我が主よ」
エレボスの姿が、再び主の影の中へと溶けて消えていく。
後に残されたのは、凍てつくような殺気と甘美なまでに退廃的な滅びの予感だけだった。
勇勢は一人、夜空に向かって静かに呟いた。
「…待っているぞ、勇飛。お前が真の絶望を知る、その時をな」




