第17話 二度目の災厄
村の北門が閉じられたのは、まだ日が高いうちだった。
いつもなら夕刻まで開いている門の前に、荷車が二台、斜めに並べられている。
木材を運ぶための荷車で、積み荷の丸太には新しい切り口が残っていた。
村人たちはそれを降ろすこともせず、車輪の間へ太い杭を打ち込んでいる。
治療所の窓からその光景を見つけたとき、最初に思ったのは、川が増水したのだろうかということだった。
昨夜の雨は長く続き、朝になっても道の端には水が残っていた。
だが、門から戻ってきた男の肩には泥だけでなく、何かに引き裂かれたような布の裂け目があった。
「北の牧草地で、羊がやられたそうだ」
包帯を取り替えに来た治療所の老人が、こちらの視線を追って言った。
「狼ですか」
「分からん。見に行った若いのが、獣にしては大きすぎると言っておる」
「人は?」
「今のところ怪我人はいない。だから、お前は余計なことを考えるな」
老人は最後の一言を強くした。
右肩の傷は塞がり始めているが、腕を大きく動かすと縫い目の奥が引きつる。
脇腹も、深く息を吸えばまだ痛んだ。
森でリシアを助けたときの傷を抱えたまま、再び獣と向き合えるはずがない。
それでも、北の牧草地という言葉が胸に引っかかった。
昨日、灰色の外套の男は言った。
『お前が救った命は、まだ救われていない』
その意味を確かめる前に、村の外で何かが動き始めている。
二つの出来事を結びつける根拠はない。
そう分かっていても、窓から目を離すことができなかった。
*
昼過ぎ、ガルドが治療所へ駆け込んできた。
息を切らし、靴の底には黒い土がこびりついている。
「先生、薬はあるか。家畜に噛まれた男がいる」
「人間か?」
「ああ。羊を逃がそうとして腕をやられた」
老人はすぐに棚から布と薬瓶を取り出した。
ガルドの背後では、二人の男に支えられた若い牧夫が、顔を真っ白にして立っていた。
左腕の袖は肘まで裂け、布の下から血が滲んでいる。
傷口は深かったが、指は動いていた。
「寝台へ。お前は湯を用意しろ」
老人に指示され、痛む肩をかばいながら水桶を運んだ。
牧夫は歯を食いしばり、傷を洗われるたびに短く息を漏らす。
「何に襲われたんですか」
「……見えなかった」
牧夫は震える声で答えた。
「羊が一斉に逃げて、柵の向こうが揺れたと思ったら、もう目の前にいた。黒い毛があって、背中に硬いものが並んでた」
「一頭だけでしたか」
「分からない。草の向こうで、別の音もした」
老人が顔を上げた。
「今は喋らせるな。血を止めるのが先だ」
それ以上は尋ねなかった。
牧夫が見たものは、森でリシアを襲った魔物に似ている。
だが、傷ついた人間の証言を、自分の記憶に合わせて作り替えてはいけない。
少なくとも、北の牧草地に危険な何かがいる。
今、分かるのはそこまでだった。
治療所の外で、鐘が鳴った。
いつもの時刻を告げる、間隔の整った鐘ではない。
短い音が三つ、間を置いてさらに三つ。
通りの人々が一斉に足を止め、北の門へ顔を向けた。
ラウネの火災で聞いた話が、脳裏をよぎる。
人々が同じ方向を見たという証言。
だが、今回は鐘が鳴っている。
皆が北を向く理由は、はっきりしていた。
「警戒の鐘だ」
ガルドが低い声で言った。
「門の外に、何かいる」
*
村の広場は、短い時間で様子を変えた。
店の戸が閉まり、屋台の布が畳まれ、子どもを連れた親たちが家へ急ぐ。
北門の近くには農具を持った男たちが集まり、倉庫から古い盾と槍が運び出された。
誰もが忙しく動いているのに、何を優先すべきかはまだ定まっていないようだった。
レイは治療所の戸口に立ち、その流れを見ていた。
老人には寝ていろと言われたが、運ばれてくる怪我人のために入口を空けるくらいならできる。
そう言い訳しながら、北門の向こうへ視線を向けた。
木柵の上に、見張りの男が立っている。
男は森の方角を凝視し、手にした槍を握り直した。
やがて、見張り台から声が落ちてきた。
「二頭! いや、三頭いる!」
「どこだ!」
「北の畑の外れだ。柵に沿って動いてる!」
人々のざわめきが大きくなった。
一頭なら迷い込んだ獣かもしれない。
三頭が同じ場所を動いているなら、話は違う。
ガルドが近づいてきた。
「お前、まだここにいたのか」
「手伝えることを探していました」
「なら、治療所の中へ入ってろ。怪我人を増やしたくない」
彼の顔には、いつもの笑みがなかった。
農夫として長く村を守ってきた人間の、静かな緊張があった。
「ガルドさん。北門だけを守るつもりですか」
「今のところはな。ほかの門にも見張りは置く」
「もし柵を越えたら?」
「鐘を鳴らして、みんな広場へ集める」
その答えに、胸の奥が冷えた。
「広場に、全員を?」
「そういう決まりだ。昔からな」
広場は村の中心にあり、周囲を家々に囲まれている。
守るには都合がいいように見える。
だが、北から侵入した魔物が通りを抜けてくれば、人々は逃げ場を失うかもしれない。
まして、森で見た魔物のように、人の動きを追って襲うものなら。
「集まる場所を一つにしないほうがいいかもしれません」
「どういうことだ」
「子どもや歩けない人は、南の水車のほうへ先に移すんです。広場には動ける人だけ残す」
ガルドは眉を寄せた。
「南の橋は狭いぞ」
「だから、今のうちに少しずつ。魔物が村へ入ってからでは、全員が同時に動くことになります」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚いた。
恐怖がないわけではない。
ただ、森で一人を助けようとして、何も考えずに身体を動かした結果を覚えていた。
今回は、危険が起きる前にできることを探したかった。
ガルドは北門を見上げ、それから広場の人々へ目を向けた。
「……村長に話してくる」
走り出しかけた彼が、ふと足を止めた。
「そういや、お前、名前は何だった?」
「レイです」
「そうか。レイ、ここを離れるなよ」
彼は頷き、今度こそ駆け出した。
何度忘れられても、名前を告げればいい。
今は、そのために使う時間さえ惜しかった。
*
リシアが治療所へ戻ってきたのは、それからしばらくしてだった。
籠には包帯用の清潔な布と、傷を洗うための薬草が詰められている。
髪が乱れ、頬には細い泥の筋がついていた。
「北の畑に、魔物が出たそうですね」
「まだ村の中には入っていない」
「薬草を集めてきました。足りなくなるかもしれないので」
彼女は籠を老人へ渡し、すぐに水桶を洗い始めた。
動きに迷いがない。
森で傷つき、何度も名前を忘れながら、それでも誰かを助けようとする姿は変わらなかった。
「リシア、外へはもう出ないほうがいい」
「分かっています。でも、必要なものがあれば取りに行きます」
「それは、ほかの人に頼んで」
彼女は手を止め、こちらを見た。
「……どうして、そんなに心配するんですか」
答えられなかった。
灰色の男が口にした警告を話すべきか迷ったが、根拠のない言葉で彼女を怯えさせたくはなかった。
「森で、怖い目に遭っただろう。無理をしてほしくないだけだ」
リシアはしばらく黙り、それから静かに頷いた。
「ありがとうございます。でも、怖かったからこそ、できることをしたいんです」
その言葉は、胸の奥へまっすぐ届いた。
守るという名目で、彼女の意思まで奪ってはいけない。
昨日、自分に言い聞かせたばかりのことだった。
「……分かった。じゃあ、ここで手伝ってほしい」
「はい」
リシアは小さく笑い、洗った布を机に広げた。
その横顔を見ながら、灰色の男の言葉をもう一度思い返す。
救われていないとは、どういう意味なのか。
今の彼女は、確かにここにいる。
自分の意志で動き、誰かの痛みを減らそうとしている。
その事実まで、あの男の曖昧な言葉に奪わせたくなかった。
*
夕方が近づくころ、最初の魔物が姿を現した。
北門の木柵越しに、黒い背が見えた。
牛ほどの高さがあり、四肢は不自然に長い。
肩から背へ、石を埋め込んだような硬い突起が並んでいる。
森でリシアを襲った魔物と、よく似た姿だった。
魔物は門へ一直線に向かってこなかった。
畑の端で立ち止まり、頭を低くして、何かを探すように左右へ動かす。
見張りが槍を構えると、ゆっくり後ずさった。
「追い払えるかもしれん!」
誰かが叫んだ。
しかし、魔物は逃げていない。
少し離れた場所へ移り、また門の方角を見ている。
まるで、木柵のどこが弱いか確かめているようだった。
そのとき、東側の畑から別の悲鳴が上がった。
「こっちにもいる!」
人々の視線が一斉に東へ動いた。
北門に集まっていた男たちの何人かが駆け出す。
見張り台の鐘が再び鳴り、今度は長い音が続いた。
「門を閉めろ! 東の通用口もだ!」
命令が飛び交う。
荷車の車輪が石畳を擦り、丸太が転がる。
その騒ぎの向こうで、黒い背がもう一度動いた。
魔物は門を見ていなかった。
東へ向かった人々の背を追うように、柵沿いをゆっくり進んでいる。
レイは息を呑んだ。
偶然かもしれない。
だが、複数の魔物が別々の場所に現れ、人間の守りを分散させているようにも見える。
「ガルドさん!」
近くにいた彼を呼び止めた。
「北の魔物は、門を壊そうとしていません。人が移動するのを見ています」
「何だって?」
「東へ向かった人を追っているように見えるんです。今すぐ追いかけて戦うのは危険かもしれません」
ガルドは木柵の向こうを見た。
魔物は立ち止まり、頭を低くしている。
「……確かに、妙な動きだな」
彼は近くの男へ声をかけ、東へ走った者たちを呼び戻すよう指示した。
さらに、広場の周囲にいる人々へ南の橋へ向かうよう伝え始める。
レイの提案が受け入れられたのか、村長が同じ判断をしたのかは分からない。
どちらでもよかった。
人が動き始めたことだけが大切だった。
*
南へ向かう列は、思ったより早くできた。
歩けない老人を乗せた荷車を先頭に、子どもを連れた家族が続く。
南の水車ではトルムが橋の板を確かめ、濡れた場所へ藁を敷いていた。
川を越えた先の小高い畑なら、少なくとも村の狭い通りに閉じ込められることはない。
治療所の老人は、腕を負傷した牧夫を運ぶ準備を進めていた。
「レイ、お前は先に渡れ」
「まだ手伝えます」
「肩が使えん人間に荷車は押せん。道の向こうで、来た人を誘導しろ」
言い返しかけ、口を閉じた。
自分にできないことを認めるのも、今は必要だった。
橋へ向かう途中、リシアが薬箱を抱えて追いついてきた。
「先生から、これを運ぶように頼まれました」
「重くない?」
「大丈夫です。あなたこそ、顔色が悪いですよ」
二人で列の後ろについた。
橋の手前には荷車が詰まり、前へ進めない人々が道の両側に立っている。
その中で、小さな男の子が母親の手を離し、落とした木の人形を拾おうとしていた。
レイは足を止めた。
「危ないよ。こっちへ」
声をかけると、男の子は人形を拾い上げ、素直に母親のもとへ戻った。
母親が頭を下げる。
それだけのことだった。
空が裂けることも、遠くで鐘が鳴ることもない。
助けた命が、必ず別の何かを奪うわけではない。
少なくとも、そう決めつける理由はない。
自分に言い聞かせた直後、北から短い悲鳴が届いた。
振り向くと、村の屋根の向こうに、黒い影が跳ね上がるのが見えた。
木柵よりも高く、異様に長い前脚を伸ばしている。
次の瞬間、乾いた木の割れる音が響いた。
「柵が破られた!」
誰かが叫んだ。
橋の上の人々が振り返り、列が止まりかける。
「止まらないでください!」
声を張り上げると、傷の奥が鋭く痛んだ。
「向こう岸まで進んで! 橋の上で立ち止まると、後ろの人が渡れません!」
近くにいた男が同じ言葉を繰り返し、列の先へ伝えてくれた。
リシアも薬箱を抱え直し、足の遅い老人へ声をかける。
「こちらです。慌てなくて大丈夫ですから、一緒に渡りましょう」
その声に促され、列が再び動き出した。
村の北から、もう一度、木の裂ける音がした。
今度は一つではない。
続けざまに何かが倒れ、屋根の上を鳥の群れが飛び立った。
レイは橋の手すりを握り、北の方角を見た。
黒い影が二つ、村の屋根の間を走っている。
三つ目の影は、まだ見えない。
森で遭遇したときは、一頭だけで命を落としかけた。
今度は、複数いる。
しかも、村には逃げ遅れた人々がまだ残っている。
隣でリシアが小さく息を吸った。
その視線の先、村の中央へ向かう通りに、黒い背が一瞬だけ現れた。
魔物は南へ逃げる人々を追っていなかった。
広場へ向かっていた。
「……どうして、あっちへ」
リシアの呟きに、答えられなかった。
広場には、彼女がいつも薬草を届ける家がある。
負傷者のための布を集めていた人々も、まだ残っているかもしれない。
だが、魔物が何を目指しているのかを、この距離から知ることはできなかった。
遠くで、鐘が鳴り続けている。
ラウネで聞いた不規則な鐘の話とは違う。
今鳴っているのは、村人が危険を知らせるために必死で撞いている鐘だった。
レイは懐の日記へ手を伸ばしかけ、やめた。
今は書き留めるときではない。
誰がどこにいるのかを確かめ、逃げ道を塞がないこと。
一人で魔物を追わず、動ける人へ必要なことを伝えること。
その程度のことしかできなくても、何もしないよりはいい。
「リシア、先に橋を渡って。向こう岸で薬を必要としている人がいる」
「あなたは?」
「ここで、まだ来ていない人を確かめる。無茶はしない」
彼女はすぐには頷かなかった。
それでも、後ろから来た老人に道を譲ると、薬箱を抱えて橋を渡り始めた。
途中で一度だけ振り返り、こちらへ手を上げる。
レイも手を上げた。
その向こうで、村の鐘が途切れた。
静けさが落ちたのではない。
人々の叫び声も、川の音も、荷車の軋みも続いている。
ただ、危険を知らせ続けていた鐘だけが、不意に止まった。
鐘楼の屋根に、黒い影が立っていた。
魔物の背から突き出た硬いものが、夕日を受けて鈍く光る。
それはしばらく村の通りを見下ろし、それから、まるで何かの行方を確かめるように、ゆっくり頭を動かした。
視線の先に何があるのかは、分からなかった。
けれど、村を襲ったものが、ただ空腹に駆られて迷い込んだ獣ではないかもしれないという疑いだけは、もう消せなかった。




