第16話 名を持たぬ者
水車番が戻るはずの日、村には朝から霧が出ていた。
家々の屋根は白く滲み、遠くの鐘楼は上半分を隠されている。
治療所の窓辺に立つと、濡れた木の匂いが冷えた空気とともに流れ込んできた。
傷は少しずつ塞がりつつあったが、右腕を背中へ回そうとすると、肩の奥で鈍い痛みが生まれる。
昨夜までに日記を何度も読み返した。
消えた石碑、白紙になった予言、ラウネの火災、広場で静止した鳥、日記に現れた警告。
一つずつなら偶然や思い違いで片づけられるものもある。
けれど、すべてを一つの説明に押し込もうとすることも、同じくらい危険に思えた。
今、確かめるべきことは小さい。
西の分岐にあった道標が、何を示していたのか。
そのために、水車番の話を聞く。
それだけを決めて、日記を懐へしまった。
「また出かける気か」
廊下で治療所の老人に呼び止められた。
包帯を替えるために用意したらしい薬瓶を手に、眉間へ深い皺を寄せている。
「今日は話を聞くだけです。ガルドさんにも一緒に来てもらいます」
「この間も同じことを言って、泥だらけで戻ってきたな」
「今日は走りません」
「走れる身体でもあるまい」
老人は呆れたように息をつき、包帯の端を指で確かめた。
「痛みが増したら帰れ。分からんことを追いかけるより、先に治さねばならんものがある」
その言葉が、妙に胸に残った。
*
ガルドとは南の水車へ向かう橋で落ち合った。
彼は片手に麻袋を抱え、こちらを見つけると大きく手を振った。
「おう。今日は何を調べるんだったか」
「古い道標のことです。水車番が戻ったと聞いたので」
「ああ、そうだったな。……いや、昨日もその話をしたか?」
ガルドは少し考え込み、それから気にするなと言わんばかりに笑った。
会話を覚えていないことと、今ここで助けてくれることは、彼の中では矛盾しないのだろう。
その優しさに頼りながら、忘却の仕組みを調べている自分が、少し身勝手にも思えた。
南の水車は川幅の広がる場所に建ち、巨大な木の輪がゆっくり水を掻いていた。
建物の内側からは石臼の低い唸りが響き、麦の粉が光の筋の中を漂っている。
水車番の男は痩せた老人で、名をトルムといった。
川上の堰を直してきたばかりらしく、指先には新しい擦り傷が残っている。
「西の道標か。ずいぶん昔のことを聞くな」
トルムは粉のついた手を布で拭き、しばらく天井の梁を見つめた。
「あれは水車小屋を指していたんじゃない。いや、水車小屋も書いてあったが、それだけじゃなかった」
「ほかには何が?」
「川向こうの旧道だ。山を回らずに北の街道へ抜ける道があった」
ガルドが首を傾げる。
「そんな道、今はないぞ」
「ないんじゃなくて、使わなくなったんだ。崩れた橋の先は草に埋まってる」
トルムは机の上に粉で簡単な地図を描いた。
西の分岐から水車小屋へ向かう道と、そのさらに奥へ延びる細い線。
途中には川を跨ぐ橋があり、その向こうに小さな印がついていた。
「この印は?」
「昔の休み場だ。石の柱があったはずだが、何を祀っていたかまでは知らん」
胸の奥が小さく波立った。
森で見た石碑を思い浮かべる。
だが、縦の溝があった石と、トルムの言う柱を結びつける証拠はない。
「その休み場には、名前がありましたか」
「名前……あったかな」
トルムは眉を寄せた。
指先で机を叩き、何度か口を開きかける。
「変だな。昔はみんな呼んでたはずなんだが」
彼は苦笑した。
「年を取ると、道より先に名前のほうが消える」
ただの物忘れかもしれない。
そう思おうとしたとき、トルムが机に描いた線を指で擦った。
「でも、一つだけ覚えてる。あの道を通るときは、夕暮れ前に引き返せって、親父に何度も言われた」
「危ない場所だったんですか」
「橋が古かったからな。そういうことだったんだろう」
答えながら、彼はどこか納得していない顔をしていた。
話を終えて外へ出ると、霧はほとんど晴れていた。
ガルドは畑へ戻ると言い、こちらの肩を軽く叩く。
「変な道を見つけても、今日は行くなよ」
「分かっています」
「本当かねえ」
彼が去ってから、川の流れをしばらく眺めた。
旧道の存在は分かった。
しかし、道標が消えた理由も、地図の文字が読めなくなった理由も、まだ分からない。
日記を取り出し、トルムの話を簡単に書き留めた。
そのとき、対岸の柳の下に、灰色の外套が見えた。
*
人影は水際に立っていた。
霧の残る向こう岸では顔まで見えないが、深いフードと、背の高い輪郭には見覚えがある。
宿の前、広場の路地、治療所の窓の向こう。
何度も視界の端に現れた姿だった。
目を離さないまま、日記を閉じる。
男は動かなかった。
「……何か、用ですか」
川音に消されるほどの声だった。
それでも、男はゆっくりと頭を上げた。
向こう岸へ渡るには、少し上流の橋を回らなければならない。
追いかけても、以前のように見失うだけだろう。
そう考えた瞬間、男が柳の陰へ一歩下がった。
今度は追わない。
そう決めて、背を向けた。
「レイ」
呼ばれたのは、そのときだった。
声は背後からではなく、すぐ右手の木立から聞こえた。
反射的に振り向くと、先ほどまで対岸にいたはずの男が、こちら側の細い道に立っていた。
足音は聞こえなかった。
川を渡る姿も見ていない。
同じ服を着た別人である可能性を考えようとしたが、胸の内側が冷え切り、言葉にならなかった。
「……どうして、その名前を」
男は答えない。
フードの奥には薄い影が落ち、口元さえはっきり見えなかった。
ただ、こちらを見ていることだけは、理由もなく確信できた。
「あなたは、誰ですか」
長い沈黙があった。
水車の回る音が遠くで鳴り、柳の葉が一枚、川面へ落ちた。
「名前を尋ねても、意味はない」
低い声だった。
老人とも若者ともつかず、抑揚がほとんどない。
「どういう意味ですか」
「名は残らない。お前も知っているだろう」
喉の奥が乾いた。
初めて会った人間が、別れたあとで自分を忘れる。
宿の帳簿から客の名が消え、リシアが恩人の顔を思い出せなくなる。
そのことを知る相手が、目の前にいる。
「……俺に何が起きているか、知っているんですか」
「知っていることと、話せることは違う」
男は木立の奥へ視線を向けた。
そこには、トルムが教えてくれた旧道へ続く細い獣道がある。
「西の道標を調べたな」
「それも、知っているんですね」
「消えたものを探せば、消したものに近づく」
その言葉には、答えの形をした曖昧さしかなかった。
問いを重ねれば、もっと遠くへ連れていかれる。
そう分かっていても、引き返すことはできなかった。
「あなたが、日記に警告を書いたんですか」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、こちらの懐へ目を向ける。
「まだ持っているのか」
「……何を」
「消えなかったほうの言葉だ」
息が止まりかけた。
警告そのものが消えたあと、写しが残ったことまで知っている。
しかし、彼が書いたと認めたわけではない。
「あなたは、何者なんですか」
「それを知って、どうする」
問い返され、言葉に詰まった。
この男の正体が分かれば、リシアを忘れる理由も、火災の理由も、世界が一瞬止まった理由も分かる気がしていた。
だが、名前一つでそれらが解けるはずもない。
「……確かめたいんです。何が起きているのか」
「確かめた先で、また誰かを救うのか」
心臓が大きく脈打った。
「それは……」
「森で、少女を助けた」
男の声は平坦なままだった。
責める響きも、褒める響きもない。
それがかえって恐ろしかった。
「あなたは、あの場にいたんですか」
「見ていた者がいた。それだけだ」
灰色の男は一歩近づいた。
濡れた土を踏んだはずなのに、足音は聞こえない。
右肩の傷が、突然ひどく疼いた。
「お前が救った命は、まだ救われていない」
水車の音が、一瞬遠くなった。
「……どういうことですか」
「言葉のとおりだ」
「リシアに、何か起きるんですか」
自分の声が思ったより大きく響いた。
男は答えず、川向こうの村へ視線を向けた。
「彼女は今、生きています。怪我も治ってきている。それなのに、救われていないって、どういう意味なんですか」
男の沈黙に耐えきれず、一歩踏み出す。
脇腹に痛みが走ったが、構わなかった。
「ラウネの火事と、関係があるんですか。あれは、俺が彼女を助けたせいなんですか」
言ってしまってから、胸の奥が凍った。
ずっと口にしないようにしていた疑問だった。
死者の出た火災を、証拠もないまま誰かの救済と結びつけることは、亡くなった人々への冒涜にも思えた。
男はわずかに首を傾けた。
「一つの出来事に、一つの理由があると思うな」
その答えでは、肯定も否定もできない。
「じゃあ、何を知ればいいんですか」
「知ったあとで、お前が何を選ぶかだ」
風が柳を揺らした。
葉の擦れる音が、男の言葉の続きを隠したように思えた。
「彼女を守りたいなら、近づくな」
その一言で、胸に別の痛みが走った。
リシアは自分の名を忘れる。
それでも、何度も声をかけ、薬を届け、怪我を心配してくれた。
近づくなと言われて、簡単に頷けるはずがなかった。
「それで、本当に守れるんですか」
「……」
「離れたら、彼女は安全なんですか」
男は初めて、答えを探すように沈黙した。
フードの下にあるはずの目を見ようとしたが、影は少しも薄くならない。
「保証はない」
返ってきたのは、それだけだった。
怒りに似たものが、胸の底で熱を持った。
危険があると告げ、近づくなと言い、それでも安全は保証できない。
その言葉に従って彼女を一人にすることが、正しいとは思えなかった。
「なら、離れる理由にはなりません」
男は何も言わない。
水車の回転する音だけが、二人のあいだを埋めた。
*
遠くから、誰かがこちらを呼ぶ声がした。
「おーい! そこの兄ちゃん!」
振り向くと、トルムが水車の戸口に立っていた。
手には布包みを持ち、こちらへ向かって大きく振っている。
「忘れ物! これあんたのだろう!」
日記を取り出したときに落としたのか、布の端切れが足元に転がっていた。
一瞬だけ目を落とし、すぐに顔を上げる。
男はいなかった。
柳の枝が揺れ、濡れた土にはいくつかの窪みがあった。
それが靴跡なのか、雨で崩れた地面なのかは、近づいても分からない。
対岸にも、灰色の姿は見当たらなかった。
「誰かと話してたのか?」
トルムが近づいてきた。
息を整えてから、川辺の木立を指さす。
「灰色の外套を着た男が、ここにいませんでしたか」
「男? いや、見なかったが」
彼は首を伸ばして柳の陰を覗き込んだ。
「道に迷った旅人か?」
「……そうかもしれません」
トルムはそれ以上聞かず、端切れを拾って渡してくれた。
布には、昨日まで日記を包んでいたときの折り目が残っている。
「今日はもう戻ったほうがいいぞ。顔色が悪い」
礼を言い、ゆっくりと橋へ向かった。
背後を振り返りたい衝動を、何度もこらえた。
*
村へ戻る途中、リシアが広場の井戸のそばにいた。
薬草の入った籠を抱え、井戸から汲んだ水を小瓶へ分けている。
その姿を見た瞬間、灰色の男の言葉が蘇った。
『彼女を守りたいなら、近づくな』
足が止まった。
彼女は顔を上げ、こちらに気づくと、小さく手を振った。
「こんにちは。今日はどちらへ?」
「……水車のほうまで」
「また歩きすぎていませんか」
その声音はいつもどおりだった。
怪我を心配する眼差しも、髪を耳にかける仕草も、何一つ変わっていない。
「大丈夫。ガルドさんと一緒だったから」
「それなら、少し安心です」
リシアは笑い、籠の中の小瓶を並べ直した。
自分のせいで危険が迫っているのかもしれない。
そう考えた途端、彼女の何気ない動作さえ、壊れやすいものに見えてしまう。
「……リシア」
「はい?」
「もし、何か困ったことがあったら、俺にも言ってほしい」
彼女は少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます。でも、まずはご自分の怪我を治してくださいね」
「そうだな」
彼女は笑った。
その笑顔を見て、守るという言葉が、自分の不安を押しつける口実になってはいけないと思った。
男の警告が正しいかどうかも分からないのに、彼女の暮らしを変える権利はない。
別れ際、リシアがふと振り返った。
「そういえば、私たち、前にもこんな話をしましたか?」
胸が小さく跳ねた。
「……どうして?」
「いえ。あなたが心配してくれる言い方が、どこか懐かしくて」
彼女は照れたように笑い、首を振った。
「変なことを言いましたね。それじゃあ、また」
名前を思い出したわけではない。
森で助けた相手だと気づいたわけでもない。
ただ、言葉の響きに何かが残っていたのかもしれない。
その可能性を確かめるために、呼び止めることはしなかった。
*
治療所の机に日記を広げ、今日の出来事を書き留めた。
最初に書いたのは、男が口にした言葉だった。
『名は残らない』
『消えたものを探せば、消したものに近づく』
『お前が救った命は、まだ救われていない』
『彼女を守りたいなら、近づくな』
『離れれば安全かという問いには、保証はないと答えた』
書き終えると、しばらく筆を置いた。
男はレイという名を知っていた。
日記の写しについても、森でリシアを救ったことについても知っていた。
けれど、ラウネの火災との因果関係を認めたわけではなく、リシアの身に何が起こるかを具体的に告げたわけでもない。
事実と推測を分ける。
それは、あの火災を調べ始めてから、自分に課してきた決まりだった。
恐怖が大きくなった今こそ、手放してはいけない。
日記の余白へ、さらに一行を加えた。
『相手の名は聞けなかった。名乗らなかったのではなく、名を尋ねても意味がないと言った』
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
その響きに、紙をめくる音は混じらない。
木の葉も鳥も、当たり前の速さで動いている。
それでも、もう以前と同じ静けさには戻れなかった。
誰かが自分の名を知っている。
自分の記憶から消えていくはずの名前を、確かに口にした者がいる。
そして、その男は言った。
お前が救った命は、まだ救われていない。




