第15話 消された道標
西の橋へ向かう道には、まだ雨の匂いが残っていた。
朝の光を受けた草の先から雫が落ち、轍のくぼみに溜まった水が小さく揺れている。
昨日、灰色の外套を着た男を追った路地も、今朝は何事もなかったように静まり返っていた。
「本当に、あの水車小屋まで行くつもりか」
「小屋の中へ入るつもりはありません。道を確かめたいだけです」
「そう言う奴に限って、奥まで首を突っ込むんだよな」
ガルドは荷車の手綱を握り直し、呆れたように笑った。
今日は畑の道具を西の農地へ運ぶ用事があるらしく、途中までなら乗せてやると言ってくれた。
一人で歩くにはまだ長い距離だったので、その申し出はありがたかった。
治療所の老人には、ガルドと一緒に行くこと、日が高いうちに戻ることを約束している。
荷台に腰を下ろすと、右肩の包帯が服の内側で擦れた。
傷は昨日より落ち着いているものの、揺れが続けば脇腹の奥が鈍く疼く。
無理をすれば再び寝台へ戻されることは分かっていた。
それでも、灰色の男が尋ねたという場所を、確かめずにはいられなかった。
「西の水車小屋って、昔はよく使われていたんですか」
「ああ。村の麦を挽いてた頃は、毎日のように人が出入りしてた。今は新しい水車が南にあるから、あっちは放ったらかしだ」
「道に迷うような場所では?」
「初めて来た奴なら迷うかもな。西の林は似たような道が多い」
ガルドは前を向いたまま、橋の向こうに見える低い森を顎で示した。
木々の間には細い道がいくつも通り、古い畑や炭焼き小屋へ続いているという。
村の人間には見慣れた土地でも、旅人にとっては入り組んだ迷路に見えるのだろう。
「昔は道標があったんだけどな」
「道標?」
「石のやつだ。分かれ道に立ってて、水車小屋と森の抜け道を示してた。いつの間にかなくなっちまった」
荷車の軋む音が、急に大きく聞こえた。
「……いつ頃ですか」
「さあな。何年か前だったか、去年だったか。倒れて運ばれたんだと思ってたが」
「その石には、何か彫られていましたか」
「矢印と行き先だよ。普通の道標だ」
ガルドは不思議そうに振り返った。
「なんだ、石が好きなのか」
「少し、気になることがあって」
森で見つけた、縦に細い溝のある石碑。
翌日には姿を消し、周囲の人々はそこに石碑があったことさえ知らなかった。
あの石と、村外れの道標が同じものだとは思わない。
形も役割も違うはずだ。
ただ、石に刻まれたものが消えたという話を、偶然だと片づけるには、今の自分はあまりにも多くのことを見ていた。
*
橋を渡ると、道は二手に分かれた。
片方は畑へ、もう片方は木立の間へ続いている。
分岐の中央には平らな石が埋まっており、その周りだけ草が薄かった。
「ここだ。昔は、この上に石が立ってた」
ガルドは荷車を止め、手綱を脇の杭へ結びつけた。
石の周囲には苔が生え、長い年月を経たものらしい黒ずみがある。
中央には四角い穴が開いており、確かに何かを固定していた跡に見えた。
「倒れたとき、誰か怪我をしませんでしたか」
「そんな話は聞いてないな。気づいたらなくなってたんだよ」
「誰が片づけたかも?」
「覚えてない。いや、そもそも片づけた奴がいるのかどうかも知らん」
しゃがんで穴の縁に触れた。
苔は穴の内側まで広がっており、最近掘り返された様子はない。
石柱が何年も前に取り除かれたなら、不自然ではなかった。
「これ、道標の土台だったんですよね」
「そうだと思うが……どうした」
「矢印は、どちらを指していたんですか」
「水車小屋が右で、森を抜ける道が左だったかな。いや、逆だったかもしれん」
ガルドは頭を掻いた。
その曖昧さは、普段なら気に留めるほどのものではない。
使わなくなった道標の向きを正確に覚えている人間のほうが少ないだろう。
「ほかに覚えている人はいますか」
「古い地図なら、宿か村長のところにあるかもしれん。道標が立ってた頃のな」
その言葉に、思わず顔を上げた。
消えたものそのものではなく、消える前に作られた記録を探す。
これまで何度も試みてきた方法だったが、今回は最初から調べる対象が分かっている。
「ガルドさん、ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃねえよ。ただ、森へ入るなよ。先生に怒られるのは俺までなんだからな」
「約束します」
その返事を聞いて、ガルドはようやく安心したようだった。
*
帰り道、ガルドは村長の家の前で荷車を止めてくれた。
村長は白髪交じりの髭を撫でながら話を聞き、古い地図なら物置にあるかもしれないと言った。
怪我人を立たせておくのも気の毒だと、椅子まで用意してくれた。
「西の道標か。懐かしいな」
「覚えているんですか」
「子どもの頃からあったよ。あれを目印に、よく川へ遊びに行ったものだ」
「いつなくなったか、ご存じですか」
「それがなあ。気づいたときには、もうなかった」
村長の答えもガルドと同じだった。
ただし、村長は石柱の上に小さな丸い飾りがあったことを覚えていた。
ガルドはそんなものはなかったと言っていたから、どちらかの記憶が曖昧なのだろう。
しばらくして、村長は巻いた羊皮紙を三枚持って戻ってきた。
二枚は新しい畑の区画図で、残る一枚には村の周囲の道が手描きされていた。
紙の端には年号があり、少なくとも十年以上前に作られたものらしい。
「これが一番古い。破かないようにな」
机の上へ広げると、村の西側には川と橋、二本に分かれる道が描かれていた。
水車小屋の位置もある。
分岐のそばには、小さな四角い印がついていた。
「これは道標ですか」
「そうだろうな。地図の印なんて、いちいち覚えておらんが」
印の横には、短い文字が添えられていた。
読もうとして身を乗り出す。
そこだけ、文字が薄かった。
羊皮紙が傷んでいるのではない。
周囲の線ははっきり残っているのに、四角い印の隣だけ、墨を水で洗ったような淡い跡になっている。
紙を斜めにすると、何かを書いた筆圧らしい凹みがかすかに見えた。
「ここには、何と書いてあったんでしょう」
「どれ」
村長は眼鏡をかけ、地図へ顔を近づけた。
「……読めんな。昔の墨が悪かったのかもしれん」
「この地図、ほかにも読めないところはありますか」
「古いものだからな。少しくらいはあるだろう」
指先で文字の跡をなぞりたくなったが、紙を傷めるわけにはいかない。
代わりに日記を開き、地図の形と、消えかけた文字の位置を写した。
村長はその様子を見て、妙に熱心だと笑った。
「昔の道に興味があるなら、南の水車番に聞いてみるといい。あいつの父親が、古い水車を直していたはずだ」
礼を言って地図を返した。
記録は残っている。
しかし、記録の一部だけが読めない。
森の石碑が跡形もなく消えたことと、同じ現象なのかは分からなかった。
それでも、地図の空白は、単に道標が倒れたという説明だけでは片づけられない気がした。
*
治療所へ戻ると、リシアが薬草を仕分けていた。
机の上には乾燥させた葉と小瓶が並び、窓から差し込む午後の光が、彼女の銀髪を柔らかく照らしている。
「お帰りなさい。今日はちゃんと、無理しませんでしたか」
「ガルドさんの荷車に乗せてもらったよ」
「それなら安心……と言いたいところですけど、何か調べてきた顔ですね」
彼女は少しだけ笑った。
昨日、灰色の男の話をしたことを覚えているのかどうか、確かめる勇気はなかった。
今こうして普通に話せる時間を、試験のような質問で壊したくなかったからだ。
「村の西に、昔あった道標を知ってる?」
「古い石の道標ですか?」
「そう。それがいつなくなったのか気になって」
「子どもの頃、父と通ったときには、もうなかったと思います」
リシアは手を止め、少し考えた。
「でも、道標があったという話は聞いたことがあります。父が、昔はあそこに石が立っていたって」
「どんな石だったかは?」
「そこまでは……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。むしろ助かった」
彼女の言葉によれば、少なくとも数年前には道標がなかったことになる。
だが、村長もガルドも、なくなった時期をはっきり覚えていない。
三人の記憶を並べれば、おおよその年代は絞れるかもしれない。
「どうして、そんなに気になるんですか」
当然の質問だった。
説明しようとして、森で消えた石碑のことが喉元まで上がってくる。
あのとき見た縦の溝、石の冷たさ、翌日には何もなかった場所。
それを話して、彼女が信じてくれるかどうかは分からない。
「前に、森で似たような石を見たんだ。でも、次に行ったときにはなくなっていた」
「誰かが運んだんでしょうか」
「そうかもしれない。ただ、周りの人は誰も知らなかった」
リシアはすぐに否定せず、乾いた葉を一枚、指先で裏返した。
「石って、運ぶのが大変ですよね」
「うん」
「だったら、誰かが運んだなら、何か跡が残っていそうですけど」
森で石碑があった場所を思い出す。
確かに、あのとき周囲の土は大きく荒れていなかった。
けれど、細かな痕跡まで確かめたわけではない。
「……そうだね。今度はそこも見てみる」
「今度って、森へ行くつもりですか?」
「傷が治ってから」
「絶対ですよ」
彼女の声が少し強くなった。
驚いて顔を上げると、リシア自身もその言い方に戸惑ったように目を伏せた。
「……すみません。森で怪我をした人がいたって聞いてから、どうしても心配で」
自分を助けた相手の名前は忘れても、誰かが傷ついたという事実は彼女の中に残っている。
そのことが嬉しく、同時に少し苦しかった。
「ありがとう。無茶はしない」
そう答えると、リシアはようやく表情を和らげた。
*
夕方、治療所の老人に頼んで、南の水車番について聞いた。
男は数日前から川上の堰を直しに出ており、戻るのは明後日になるらしい。
それなら今は待つしかない。
急いで確かめようとして、昨日のように怪我を悪化させるわけにはいかなかった。
日記を開き、今日見聞きしたことを書き留めた。
『西の分岐には、かつて石の道標があった』
『現在は土台だけが残る。撤去の時期、理由、作業者は不明』
『古い地図には道標らしい印があるが、隣の文字だけが判読できない』
『村長とガルドの記憶は一致しない部分がある』
『森の石碑との関係は未確認』
そこまで書き終え、筆を止めた。
道標は、人が迷わないために立てられる。
行き先を示し、道を分け、知らない場所へ来た者に、どちらへ進めばよいのかを教える。
それがなくなれば、初めて通る人間は立ち止まるしかない。
灰色の男は、その道を尋ねていた。
偶然かもしれない。
本当に水車小屋へ行きたかっただけかもしれないし、消えた道標のことなど知らなかったのかもしれない。
しかし、村の中で自分のことを尋ねた男が、わざわざ古い分岐へ向かう道を選んだという事実は残る。
日記の前のページをめくる。
『これ以上、物語に触れるな』
警告を書き写した文字は、今も消えていなかった。
指先で紙を押さえながら、今日の地図を思い返す。
消えたのは道標そのものだけではない。
少なくとも、古い地図にあったはずの文字も読めなくなっていた。
ふと、妙なことに気づいた。
道標の土台に刻まれた跡は、四角い穴だった。
森の石碑にあった縦の溝とは、形が違う。
にもかかわらず、どちらも自分にとっては、行き先の分からない場所に立つ石だった。
二つを結びつけているのは、世界の仕組みではなく、自分の不安なのかもしれない。
そう考えたところで、窓の外から足音が聞こえた。
治療所の前の道を、誰かがゆっくり歩いている。
顔を上げたときには、窓枠の端に灰色の布が一瞬見えただけだった。
立ち上がりかけ、やめた。
追えばまた、相手の望む場所へ自分から近づくことになるかもしれない。
代わりに窓を閉め、日記の最後に一行を加えた。
『次に確かめるのは、石が消えた理由ではなく、石が何を示していたのか』
外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。
その音に耳を澄ませながら、明後日戻るという水車番の顔を、まだ知らないまま待つことにした。




