第14話 見知らぬ追跡者
雨が降り始めたのは、夜明け前だった。
窓枠を伝う水滴が一つに重なり、細い筋となって落ちていくのを見ているうちに、いつの間にか空が明るくなっていた。
昨夜、日記を閉じてからもほとんど眠れなかったせいで、頭の奥に重たいものが残っている。
『これ以上、物語に触れるな』
自分の手で書き写したその一文は、朝になっても消えていなかった。
最初に現れた警告だけが白紙になり、写しは残る。
だからといって安全だと考えるのは早いが、少なくとも、手元にある文字を何者かが自由に消せると決まったわけではない。
窓の外から、荷車の車輪が水たまりを踏む音がした。
ガルドの声が聞こえ、別の男が返事をする。
ラウネから来た人々へ、今日も食料と毛布を運ぶのだろう。
寝台を出ると、脇腹が引きつった。
森で負った傷は少しずつ塞がっているものの、身体をひねるだけで痛みが走り、長く歩けば脚の腫れも戻る。
昨日のようなことが再び起きても、今の身体では逃げ切れない。
そう思ったところで、自分が何から逃げようとしているのか分からないことに気づいた。
*
朝食のあと、治療所の老人に包帯を替えてもらった。
傷口の周りにはまだ赤みが残り、縫い目を確かめる指先が触れるたび、反射的に肩へ力が入る。
「今日は雨だ。出歩かずに休んでおれ」
「少しだけ、村の様子を見たいんですが」
「様子を見て傷が塞がるなら、いくらでも見てこい」
反論できずにいると、老人はため息をついた。
「どうしても出るなら、広場までだ。濡れた道で転んだら、今度こそ縛りつけるぞ」
ありがたい忠告を受け、日記を布で包んで懐へ入れた。
薬の匂いが染みついた治療所を出ると、雨は小降りになっており、家々の軒先から落ちる水だけが石畳を叩いていた。
宿の前を通りかかったとき、主人が戸口で見知らぬ男と話しているのが見えた。
男は背が高く、灰色の外套を着ていた。
頭には深いフードをかぶり、袖口から覗く手には薄い革の手袋をはめている。
ラウネで目撃された灰色の上着の男。
一瞬、胸が強く打った。
だが、雨の日に灰色の外套を着る人間など珍しくないし、火災の目撃者たちも男の顔や背格好をはっきり覚えていなかった。
近づこうとしたとき、宿の主人がこちらに気づいた。
「おや、治療所の人だね。もう具合はいいのかい」
「まだ少し痛みます。今の方は、泊まり客ですか」
主人は振り返った。
そこにはもう、誰もいなかった。
「……さっきの人?」
「ええ。灰色の外套を着た」
「ああ、道を尋ねられただけだよ。西の古い水車小屋へ行きたいってね」
水車小屋は村の外れにあり、今はほとんど使われていないと聞いたことがある。
雨の中をわざわざ訪ねる理由は分からなかった。
「知り合いかい?」
「いいえ。初めて見ました」
答えながら、男が立っていた場所を見る。
濡れた石畳に残る足跡は、軒先の陰から通りへ続いていた。
少なくとも、今のところは普通の人間が歩いた跡に見える。
「そういえば、あの人も君のことを聞いていたな」
「……僕のことを?」
思わず声が低くなった。
「森で怪我をした若い旅人が、この村にいるかって。別に名前は聞かれなかったけど」
主人は何でもないことのように言った。
その表情を見ていると、危険を伝えるべきなのか、ただの行き違いだと笑うべきなのか分からなくなる。
「どちらへ行きましたか」
「西の方じゃないかな。雨宿りを探していたのかもしれないね」
礼を言って宿を離れた。
胸の内側で、昨夜の警告が再び文字を持ち始める。
こちらを知っている誰かがいる。
けれど、向こうが本当に自分を探していたのかさえ、まだ確かではない。
*
広場へ向かう途中、パン屋の前でリシアに会った。
腕には小さな包みを抱え、髪の先が雨で濡れている。
「おはようございます。もう外を歩いて大丈夫なんですか」
「先生には、広場までなら許してもらった」
「それなら、あまり遠くへ行かないでくださいね」
彼女の口調は、以前から知っている相手に向けるものに近かった。
けれど、名前を呼ぶことはなく、森で何があったのかを思い出した様子もない。
こちらが一緒に過ごした時間を覚えているからこそ、その違いは小さな棘のように残る。
「リシア、この辺りで灰色の外套を着た人を見なかった?」
「灰色の……?」
彼女は考え込んだ。
「さっき、広場の向こうにいたような気もします。でも、雨ですから、似た服の人は多いですよね」
「そうだな」
「何かあったんですか」
「宿の主人が、俺のことを尋ねられたらしいんだ」
リシアの表情が曇った。
「お知り合いではないんですか」
「少なくとも、顔に覚えはない」
正確には顔さえ見ていないのだと気づき、言い直そうとしてやめた。
今の段階で彼女を巻き込む理由はない。
「気をつけてください。知らない人についていくのは、怪我をしていなくても危ないですから」
「分かってる」
「本当でしょうか」
少しだけ疑わしそうに見つめられ、思わず笑ってしまった。
彼女もつられて笑い、パンの包みを抱え直す。
「治療所へ届ける分なんです。一緒に戻りますか」
「もう少しだけ、広場を見てから戻るよ」
「では、先生には会ったことを伝えておきますね」
それは困る、と言いかけたが、彼女はすでに小走りで通りを渡っていた。
濡れた石に足を滑らせないよう慎重に進む後ろ姿を見送り、少しだけ肩の力を抜いた。
*
広場は雨上がりの匂いに包まれていた。
井戸の周りには水たまりができ、屋台の布屋根から落ちる雫が、規則正しく桶を鳴らしている。
昨日の静止現象を思い出して落ち葉へ目を向けたが、地面に貼りついた葉は風に吹かれるたび普通に震えていた。
広場の北側、細い路地の入り口に灰色が見えた。
人影だった。
深いフードの下は暗く、顔の輪郭すら分からない。
それでも、宿の前で見た外套と、肩のあたりの形がよく似ていた。
男はこちらを向いていた。
そう感じた瞬間、背筋が冷えた。
目が合ったわけではない。
フードの奥は影になっており、どこを見ているのか確かめようがなかった。
一歩踏み出すと、男は路地へ引っ込んだ。
追うべきではない。
頭ではそう分かっていた。
傷は塞がっていないし、相手の目的も人数も分からない。
それでも、誰かに見られているかもしれないという不安を抱えたまま治療所へ戻れば、昨夜と同じように眠れなくなる気がした。
路地の入口まで歩き、角から先を覗いた。
男はいなかった。
壁に挟まれた細い道は、西へ向かって緩やかに曲がっている。
道の両側には雨水が流れ、泥の溜まった中央には靴の跡がいくつか残っていた。
そのうち一つは、まだ輪郭が崩れていない。
大人の男らしい大きさで、踵の外側が深く沈んでいた。
足跡を追う。
曲がり角の先には小さな広場があり、使われなくなった井戸と、板を打ちつけた倉庫が並んでいる。
倉庫の壁には屋根から落ちた水が筋を作り、地面は柔らかく湿っていた。
足跡は、倉庫の手前で途切れていた。
しゃがみ込もうとして脇腹に鋭い痛みが走り、慌てて壁に手をつく。
息を整えてから地面を見ると、跡は確かにそこまで続いている。
その先にも泥は広がっているのに、次の一歩がない。
「……どういうことだ」
倉庫の扉には古い錠が掛かり、壁には人が通れるような穴も見当たらない。
塀を越えた可能性はあるが、そこへ近づくための足跡は残っていなかった。
ふと、右側の石壁へ視線を向けた。
雨に濡れた石の表面には、誰かが手をついたような跡がある。
ただし、それが今できたものなのか、何日も前の汚れなのかは分からない。
足跡が消えた。
その事実だけなら、跳び越えた、別の場所へ移った、もともと別人の足跡だったなど、いくつもの説明ができる。
けれど、見失った瞬間の静けさは、森でリシアの足跡が途切れたときの感覚を呼び戻した。
あのときも、足跡の先に本人はいなかった。
背後で、小石が転がった。
振り返ると、路地の入口に誰かが立っていた。
灰色の外套。
息が詰まった。
男は追ってきた道の向こうに、いつの間にか戻っていた。
こちらを見ているように立ったまま、何も言わない。
「……何か用ですか」
声が石壁に反射した。
男は動かなかった。
「宿で、俺のことを尋ねたと聞きました。人違いなら、それでいいんですが」
返事はない。
雨雲の切れ間から薄い光が差し込み、フードの縁を照らした。
しかし顔のあるはずの場所は、最後まで暗いままだった。
男が右手を上げた。
手袋の指先が、こちらの肩ではなく、懐のあたりを指している。
――日記
そう気づいた途端、背中が冷えた。
布で包んだ小さな冊子は、上着の内側にしまってある。
外から形が分かるほど膨らんではいないはずだった。
「……これが、どうかしたんですか」
男の手が止まる。
次の瞬間、路地の向こうから荷車の音が響き、二人の間を横切るように水しぶきが跳ねた。
反射的にそちらへ顔を向け、すぐ戻す。
男はいなかった。
追いかけようとして足を踏み出したが、脇腹が引きつり、膝から力が抜けた。
壁に肩を預けて呼吸を整えるあいだに、荷車の音は遠ざかっていった。
何度も路地を見渡した。
男が隠れられそうな戸口も、抜け道も、いくつかある。
だから、突然消えたと断言することはできない。
それでも、あの指先だけは忘れられなかった。
*
治療所へ戻ると、老人は予想どおり怒った。
包帯の端に泥がついていたことが決定打になり、今日はもう外へ出るなと厳しく言い渡される。
「どこで転んだ」
「転んではいません。壁に手をついただけです」
「それを転びかけたと言うんだ」
言い返す気力もなく、寝台へ腰を下ろした。
水を飲むと、ようやく喉の渇きに気づいた。
昼を過ぎたころ、ガルドが治療所へ寄った。
昨日頼んでおいた薪を届けに来たらしく、老人と短く話したあと、こちらへ顔を出した。
「おう、顔色が悪いな。また無理したか」
「少し歩きすぎました」
「まったく。怪我人は寝てるのが仕事だろ」
彼は笑い、寝台の横に置かれた椅子へ腰掛けた。
「ガルドさん。西の古い水車小屋って、今も人が使っているんですか」
「いや、もう何年も動いてない。たまに子どもが近づくくらいだな」
「今日、あそこへ行く道を尋ねた旅人がいたそうで」
「旅人?」
ガルドは顎に手を当てた。
「灰色の外套を着た男です」
「見てないな。……ああ、でも、今朝なら一人、村の外れで立ってる奴を見たかもしれん」
「どこで?」
「西の橋の近くだ。雨の中でじっとしていたから、道に迷ったのかと思った」
橋は、水車小屋へ向かう道の途中にある。
胸の奥が強く打った。
「その人は、何をしていましたか」
「何も。こっちを見ていたような気はするが、顔は見えなかった」
ガルドは眉を寄せた。
「知り合いか?」
「……分かりません」
「そうか。変な奴だったら、俺か先生に言えよ」
その言葉に、少し救われた。
明日にはこの会話も忘れられてしまうかもしれない。
それでも、今ここで心配してくれる人がいることは、消えない事実だった。
*
夕方、日記を開いた。
灰色の外套の男について、見たことと聞いたことを分けて書く。
『宿の主人の証言――灰色の外套の男が、森で怪我をした旅人を尋ねた』
『本人を二度目撃した可能性がある。顔は未確認』
『路地で足跡が途切れた。ただし、別人の足跡だった可能性を排除できない』
『男は日記のある位置を指したように見えた』
『ガルドの証言――西の橋の近くで、似た人物を見たかもしれない』
書き終え、警告を写したページを開く。
『これ以上、物語に触れるな』
あの男が警告を書いたのだろうか。
それとも、警告を受け取ったことを知って、様子を見に来たのだろうか。
ラウネの火災前に目撃された灰色の男と同一人物なのかどうかも、まだ分からない。
確かなことは少ない。
だからこそ、これ以上ひとりで追うべきではなかった。
机の上に日記を置き、明日、ガルドに水車小屋まで付き添ってもらえるか尋ねようと考える。
仮にまた忘れられたとしても、目的を伝え直せばいい。
誰かを巻き込む危険はあるが、怪我をした身体で知らない男を追いかけるより、ずっとましだった。
そう考えたとき、窓の外に灰色の影が落ちた。
顔を上げる。
向かいの建物の軒下に、人影があった。
夕暮れの逆光で輪郭しか見えない。
灰色の外套にも、ただの濡れた作業着にも見えた。
目を凝らすうちに、影はゆっくりと通りの向こうへ歩き出した。
追わなかった。
代わりに、日記へ一行だけ書き加える。
『見られていると感じたことと、実際に見られていたことは、同じではない』
筆を置いた直後、窓の外で鳥が一羽鳴いた。
今度は羽ばたきも、木の葉も止まらない。
けれど、安心はできなかった。
世界の異常を調べていたはずなのに、いつの間にか、自分の行動を誰かが調べている。
それが人間なのか、別の何かなのか。
まだ分からないまま、夕闇だけが村の道をゆっくり覆っていった。




