第18話 誰も知らない守護者
鐘が止まったあとも、橋の上の列は動き続けていた。
南の水車へ渡る細い板橋は、荷車が一台通れば人がすれ違う余地もなくなる。
老人を乗せた荷車の後ろで子どもが泣き、母親が抱き上げようとして、今度は荷物を落とした。
川向こうの畑へ逃れた人々も、まだ安全だと信じきれず、何度も村を振り返っている。
北の鐘楼には、黒い影が残っていた。
魔物は屋根の上から通りを見下ろし、背中の硬い突起を夕日に鈍く光らせている。
村の中には、まだ人がいる。
治療所の老人も、負傷した牧夫を乗せる荷車の準備をしていたはずだった。
「橋を空けてください! 次の荷車が来ます!」
レイが声を張ると、向こう岸の男が同じ言葉を繰り返した。
それを聞いた人々が道の脇へ寄り、少しずつ通り道ができる。
名前を知らない相手の声でも、今は役に立つ。
そう考えたところで、橋の向こうからガルドが走ってきた。
「まだここにいたのか!」
「治療所の人たちは?」
「今、荷車を出すところだ。だが、広場の東側で一頭が暴れてる。あっちの道は使えん」
ガルドは額の汗を拭い、村を振り返った。
「村長はみんなを南へ逃がせと言ってるが、橋が詰まっちまってな」
「荷車を一台ずつ通すしかありません。向こう岸で止めないように伝えてください」
「それはやってる。問題は、まだ広場に残ってる連中だ」
ガルドの声には苛立ちよりも焦りが滲んでいた。
逃げる先があっても、そこへ至る道が塞がれば意味はない。
村の地図を頭に浮かべる。
北門から広場へ続く大通り、東の畑へ抜ける通用口、西の水車小屋へ向かう道。
そして南の橋へ続く二本の細い通り。
「西側の裏道は使えませんか。雑貨屋の裏を通れば、広場から南へ抜けられるはずです」
「あそこは荷車が通れんぞ」
「人だけ先に通します。歩ける人を裏道へ回せば、荷車の道が空きます」
ガルドは一瞬考え、強く頷いた。
「分かった。お前はここにいろ。俺が伝えてくる」
彼が駆け出したあと、レイは橋の手すりへ手を置いた。
肩の奥が痛み、呼吸のたびに脇腹が引きつる。
それでも、今ここに立っていれば、渡ってきた人々を迷わせずに済む。
剣も魔法も使えない自分にできることが、ようやく形を持ち始めていた。
*
南の畑には、避難してきた人々のための仮の集まり場ができていた。
トルムが水車の倉庫を開け、藁束を運び出している。
リシアは薬箱を膝の上に置き、転んだ子どもの手を洗っていた。
「橋の向こうは、どうなっていますか」
彼女は立ち上がりかけたが、レイが手を振ると、その場に留まった。
「まだ人が来る。怪我をした人も運ばれてくるはずだ」
「分かりました。こちらで受け入れます」
リシアは頷き、周囲の人々へ声をかけた。
水を汲む者、布を裂く者、子どもたちを倉庫へ連れていく者。
指示が伝わるにつれて、散らばっていた人々の動きが少しずつ揃っていく。
「レイさんも、こちらへ来てください。傷が開いたら……」
「橋の手前で案内するだけだよ。危なくなったら戻る」
「約束ですよ」
彼女の声が、いつになく強かった。
「……約束する」
口にした瞬間、その約束がどれほど頼りないものか分かっていた。
危険が迫れば、身体が先に動いてしまうかもしれない。
それでも、彼女の心配を軽く扱いたくはなかった。
橋へ戻る途中、広場の方角から木の折れる音が響いた。
続いて、人の叫び声。
荷車を引く馬が怯えて立ち止まり、手綱を握った男が必死に宥めている。
「大丈夫です。ここまで来れば橋はすぐです」
そう声をかけたが、馬は動かない。
男の手が震え、手綱が何度も滑った。
後ろには歩けない老人を乗せた荷車が続いている。
「馬を橋へ無理に入れないでください。荷台の人を先に降ろしましょう」
近くにいた二人の男が駆け寄り、老人を両側から支えた。
馬は荷台が軽くなると、ようやく一歩前へ出る。
誰かが大声で感謝を告げたが、レイは返事をする余裕もなく、次に来る人々へ道を空けるよう呼びかけた。
*
広場から戻ってきたガルドの顔には、土と血がついていた。
本人のものではないと聞いて、ようやく息をつく。
「西の裏道へ回した。何人かはもう橋へ向かってる」
「治療所は?」
「先生が最後まで残るって聞かん。怪我人を全部送り出すまでは動かんそうだ」
老人らしい答えだった。
それでも、北の鐘楼にいた魔物が広場へ降りたなら、治療所まで安全とは言えない。
「先生のところへ、誰か行けますか」
「俺が行く。お前は……」
「ここにいます」
先回りして答えると、ガルドは苦笑した。
「やっと言うことを聞く気になったか」
彼は橋へ向かう列を確かめ、すぐに村へ引き返した。
背中が角を曲がるまで見送ったあと、レイは懐の日記へ手を伸ばしかけ、やめた。
今は名前を残すために動いているわけではない。
何をしたかを書き留める時間があるなら、次の人を渡すほうが先だった。
ほどなく、裏道から十人ほどの村人が現れた。
先頭には雑貨屋の店主がいて、片腕で幼い娘を抱えている。
「南の橋は、こっちでいいのか!」
「はい。荷車は左、人は右側へ寄ってください!」
店主は頷き、後ろの人々へ伝えた。
そのとき、列の最後にいた若い女が、突然立ち止まった。
「母さんがいない」
周囲の足が止まる。
「さっきまで一緒だったのに。広場で転んで……」
女は引き返そうとした。
レイは慌ててその前へ出る。
「どこではぐれましたか」
「パン屋の角です。足が悪くて、早く歩けないんです」
「服装は?」
「茶色の肩掛けを……」
言い終わる前に、女は泣き出した。
レイは橋の向こうを見た。
ガルドは治療所へ向かったばかりで、ここを離れるわけにはいかない。
だが、広場へ戻る道を知っている者なら、ほかにもいる。
「雑貨屋の店主さん。南の裏道を通って、今来た場所まで戻れますか」
「戻るだけなら……いや、魔物がいるんだろう」
「無理は頼めません。近くに、村の見回りをしている人は?」
「鍛冶屋の息子が西の角にいた。まだいるかもしれん」
店主は娘を抱え直し、ためらいながらも答えた。
レイは若い女へ向き直る。
「お母さんのことを、見回りの人に伝えます。あなたは先に橋を渡ってください」
「でも……」
「戻って二人とも動けなくなったら、探す人が増えます。向こう岸で、お母さんが来たか確かめてください」
冷たい言い方だったかもしれない。
けれど、女は涙を拭い、震える足で橋へ向かった。
近くにいた青年へ、茶色の肩掛けをした女性のことを伝える。
青年は西の角へ走り、見回りの男を探しに行った。
頼んだことが正しく伝わるか、女性が見つかるかは分からない。
それでも、今できる手を一つずつ重ねるしかなかった。
*
魔物の姿を初めて間近に見たのは、日が傾き始めたころだった。
橋の手前へ続く通りの屋根が、内側から押し上げられたように崩れた。
瓦と木片が降り注ぎ、その隙間から黒い背が現れる。
牛よりも高い肩、石のような突起、地面を掻く異様に長い前脚。
森でリシアを襲ったものと、同じ種類に見えた。
魔物は通りへ降りると、鼻先を石畳へ近づけた。
逃げる人々を見つけたはずなのに、すぐには追ってこない。
何かの匂いを探すように首を振り、広場の方角へ一度顔を向けた。
「来るぞ!」
橋の近くにいた男が叫び、槍を構えた。
だが、魔物はその男を見ていない。
ゆっくりと頭を上げ、橋の向こう側を見つめていた。
その先には、避難所となった水車の倉庫がある。
リシアも、そこで怪我人の手当てをしている。
胸の奥が冷えた。
灰色の男の言葉が蘇る。
『お前が救った命は、まだ救われていない』
偶然かもしれない。
魔物が何を見ているのか、確かめる方法もない。
それでも、あの視線の先へ逃げた人々を、このまま危険に晒すわけにはいかなかった。
「橋を渡る人を急がせてください!」
レイが叫ぶと、槍を持った男が振り返った。
「お前は何をする!」
「ここで道を塞がないようにします。魔物が来たら、すぐに橋を渡ります」
本当にそうできるかは分からない。
それでも、傷ついた身体で戦うと言うよりは、まだ現実的だった。
魔物は一歩、こちらへ進んだ。
爪が石畳を引っ掻き、耳障りな音を立てる。
橋の向こうでは子どもが泣き、誰かが荷車を押す声を上げていた。
レイは周囲を見渡した。
橋の入口には、薪を積んだ小さな荷車が置かれている。
避難の邪魔になるため、先ほど脇へ寄せたものだった。
「その荷車、車輪を外せますか!」
近くの男が目を丸くする。
「外せるが、何をする気だ」
「橋へ入る道の片側を塞ぎます。人が通る幅だけ残して、魔物がまっすぐ走り込めないように」
魔物の力を考えれば、荷車など一撃で壊されるだろう。
それでも、突進する勢いを少しでも削げれば、橋の上の人々が渡る時間を稼げるかもしれない。
男たちは顔を見合わせ、すぐに動き始めた。
車輪の留め具を抜き、荷台を傾け、薪を地面へ落とす。
重い木材が転がり、通りの片側に不格好な障害物ができた。
魔物が低く唸った。
「下がれ!」
槍を持った男が叫ぶ。
レイは後ずさりし、橋の入口へ向かった。
背後で木が砕ける音がした。
荷車は、予想どおり長くは持たなかった。
それでも、魔物の前脚が積み上がった薪に乗り上げ、身体がわずかに傾いた。
槍を持った男たちがその隙に後退し、橋へ走る。
魔物は障害物を蹴散らして進んだが、狭い入口で身体をひねる間に、最後の荷車が向こう岸へ抜けた。
「橋を渡れ!」
誰かが叫んだ。
レイも走り出しかけ、脇腹の痛みに足を取られた。
地面が近づく。
転ぶ、と悟った瞬間、後ろから腕を掴まれた。
「何やってんだ!」
ガルドだった。
治療所へ向かったはずの彼が、息を切らして立っている。
「先生たちは?」
「向こうへ渡した! お前も来い!」
彼はレイの左腕を肩へ回し、ほとんど引きずるように橋へ向かった。
背後では魔物が木材を踏み砕く音が続いている。
橋の板が足元で鳴った。
水面が近く、流れの白い泡まで見える。
一歩ごとに傷が痛んだが、立ち止まるわけにはいかなかった。
二人が橋を渡り切ったところで、トルムが叫んだ。
「橋を外すぞ!」
南の水車へ渡る橋は、増水時に流木を避けるため、岸側の留め具を外せる造りになっていた。
トルムは朝からその金具を確かめていたのだ。
男たちが太い棒を差し込み、留め具を持ち上げる。
橋板の一端が外れ、川へ傾いた。
魔物は岸の手前で立ち止まった。
水へ落ちた橋板を見下ろし、低く喉を鳴らす。
飛び越えるには距離がありすぎる。
少なくとも今は、こちらへ渡ってこなかった。
向こう岸で誰かが歓声を上げた。
しかし、レイにはまだ喜べなかった。
橋を外したことで、村に残っている人々の逃げ道も一つ失われたのだから。
「まだ、向こうに人が……」
「西の橋へ回すよう、村長が指示した」
ガルドは荒い息の合間に答えた。
「先生たちを運んでる途中で伝令に会った。北門の見張りも西へ下がる。こっちの橋は、もう使わせない」
ようやく息を吐いた。
すべての人が無事だと分かったわけではない。
それでも、南の橋を守ることだけに囚われず、ほかの逃げ道が使われている。
その事実に、わずかな希望が生まれた。
*
日が沈むころ、南の畑には焚き火がいくつも灯された。
負傷者は倉庫の中へ運ばれ、老人が順番に傷を診ている。
リシアは湯を沸かし、清潔な布を配っていた。
彼女の手には細かな擦り傷が増えていたが、声は落ち着いている。
「肩を見せてください」
レイが倉庫へ入ると、老人は顔を見るなり命じた。
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、わしが決める」
包帯を外すと、傷口の端に新しい血が滲んでいた。
老人は無言で薬を塗り、強く締め直した。
痛みで思わず顔をしかめると、ようやく小さく息をつく。
「次に走ったら、本当に寝台へ縛るぞ」
怒鳴られなかったことが、かえって堪えた。
外では、避難してきた人々が互いの無事を確かめ合っていた。
若い女が、茶色の肩掛けをした年配の女性にしがみついて泣いている。
西の見回りが見つけ、別の道から連れてきたらしい。
その姿を見て、胸の奥の緊張が少しだけ解けた。
リシアが水を持ってきた。
「聞きました。橋のところで、避難する人を助けたんですね」
「手伝ってくれた人がいたからだよ。ガルドさんや、トルムさんも」
「それでも、あなたがいてくれてよかったと思います」
彼女は微笑んだ。
その言葉を、明日も覚えているだろうか。
そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。
今ここで伝えられた感謝まで、未来の忘却によって無かったことにする必要はない。
「……ありがとう」
リシアは頷き、次の怪我人のもとへ向かった。
レイは焚き火のそばに座り、村の方角を見つめた。
黒い屋根の輪郭が夕闇に沈み、鐘楼の上にいた魔物の姿はもう見えない。
村は守れたのだろうか。
それとも、ただ一晩だけ逃げ延びたのだろうか。
答えはまだ出せなかった。
*
夜更け、ガルドが焚き火のそばへやってきた。
手には固いパンを二つ持っている。
「ほら、食え。今日一日、ろくに食ってないだろ」
「ありがとうございます」
「それにしても、あの荷車の使い方はうまかったな。誰が考えたんだ?」
レイはパンを受け取ったまま、彼の顔を見た。
「……橋の入口に置いた荷車のことですか」
「ああ。鍛冶屋の息子がやったって聞いたんだが、あいつはそんな頭が回る奴だったかな」
ガルドは悪気なく笑った。
レイの胸に、冷たいものが静かに沈んでいく。
「みんなで考えたんだと思います」
「そうか。まあ、誰の案でも助かったよ。あれがなきゃ、もっと怪我人が出てた」
彼はパンを齧り、火の向こうにいる村人たちへ目を向けた。
レイもそれ以上は何も言わなかった。
功績が別の人間のものになる。
これまで何度も見てきた現象だった。
それでも、誰かの命を守るために考えたことまで消えてしまうようで、胸の奥に小さな痛みが残る。
「ところで、お前、名前は?」
ガルドが何気なく尋ねた。
「レイです」
「レイか。今日は助かったな」
その言葉は、さっきの話と矛盾しているようにも思えた。
何をしたのかは曖昧になっても、目の前で一緒に過ごした時間の温かさは、完全には消えていないのかもしれない。
「こちらこそ、助けてもらいました」
ガルドは笑い、空になった手を火にかざした。
*
夜が深まってから、日記を開いた。
火の明かりは弱く、文字を書くたびに影が紙面を横切る。
今日起きたことを、できるだけ短く記した。
『南の橋で避難の列を整理した』
『広場からの人々を西の裏道へ誘導する案をガルドに伝えた』
『薪を積んだ荷車で橋の入口を狭め、魔物の進行を遅らせた』
『橋はトルムたちが外した。村に残る人々は西の橋へ回った』
『少なくとも、南へ避難した人々の多くは無事だった』
書き終えてから、最後に一行を加えた。
『ガルドは荷車の案を鍛冶屋の息子のものだと思っていた』
筆を止めた。
怒りがないわけではない。
助けた人々が無事であることと、自分が忘れられていく寂しさは、同時に存在していいはずだった。
ふと、リシアがいた倉庫へ目を向ける。
戸口から漏れる灯りの中で、彼女は老人と何かを話していた。
銀色の髪が小さく揺れ、次の瞬間にはまた怪我人のもとへ歩いていく。
灰色の男は、彼女がまだ救われていないと言った。
その意味は今も分からない。
ただ、今日一日を生き延びた彼女が、明日も同じように笑えるとは限らない。
村の向こうで、何かが低く鳴いた。
焚き火の周りにいた男たちが顔を上げる。
誰かが見張りの交代を告げ、槍を持った者が暗い畑の端へ歩いていった。
魔物はまだ、去っていない。
レイは日記を閉じた。
今夜は誰も名前を覚えていなくてもいい。
それでも、明日の朝まで守らなければならないものが、まだ残っていた。




