少佐という猫
PMCヤタガラス本部には、一匹の猫がいる。
名前は――少佐。
灰色がかった黒毛。
琥珀色の目。
右耳の先が、ほんの少し欠けている。
首にはヤタガラス隊員が勝手に作った黒い首輪。
そこには小さな金属プレートが付いていた。
MAJOR
誰が最初にそう呼び始めたのかは、もう誰も覚えていない。
ただ本人――いや、本猫は、その名を当然のものとして受け入れていた。
「少佐」
呼ばれれば振り返る。
「猫」
呼ばれても無視する。
「おい」
尻尾だけ動く。
そして、
「少佐殿」
そう呼ぶと、なぜか返事をする。
「ニャ」
そのため隊員たちの間では、
本当に階級を理解しているのではないか
という疑惑まであった。
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午前六時。
ヤタガラス本部の食堂。
調理担当の隊員が冷蔵庫を開ける。
その背後では、すでに少佐が座っている。
「……まだ何も出してないぞ」
「ニャ」
「早いって」
「ニャ」
「朝飯は七時」
少佐は瞬きもしない。
隊員はため息をついた。
「分かったよ」
猫用の皿が出される。
少佐は食べ始める。
その姿を見ながら、若い隊員が言った。
「なんでこいつだけ特別待遇なんですかね」
古参隊員が答えた。
「代表直属だからな」
「猫ですよ?」
「代表直属の猫だ」
この本部では、それで説明がついた。
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少佐は不思議な猫だった。
人間嫌いではない。
だが、誰にでも懐くわけでもない。
騒がしい者からは離れる。
乱暴な者には近づかない。
酒に酔った隊員の膝には絶対に乗らない。
その一方で――
夜勤明けの隊員。
負傷した隊員。
誰かを失った隊員。
そういう人間のそばには、何も言わず座った。
鳴きもしない。
慰めるように擦り寄ることもしない。
ただ、一メートルほど離れた場所に座る。
そして一緒に夜を過ごす。
まるで、
一人にはしておけない
とでも言うように。
だからヤタガラスの隊員たちは、少佐をただのマスコットとは思っていなかった。
ふざけて敬礼する者はいても、
本気で邪険にする者はいなかった。
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ある夜。
篠宮レイナが廊下を歩いていると、窓際に座る少佐を見つけた。
外は雨だった。
少佐は暗い駐車場をじっと見ている。
レイナは隣にしゃがんだ。
「どうしたの、少佐」
返事はない。
雨粒が窓を叩く。
その音を聞いているうちに、レイナは気づいた。
少佐の耳が、時々小さく震えている。
雷でもない。
車の音でもない。
雨音そのものに反応している。
「……雨、嫌い?」
少佐は答えない。
だが窓から離れようともしなかった。
そのとき後ろから御影紗夜が歩いてきた。
「珍しいですね」
「何が?」
「少佐が雨を見ているの」
紗夜は少佐を見る。
そして静かに言った。
「この子、昔……雨の中で暮らしていたのかもしれませんね」
レイナは少佐の欠けた右耳を見る。
何かと争った傷。
擦り切れた肉球。
保護された当初、身体に残っていたいくつもの古傷。
少佐がヤタガラスに来る以前。
その過去を知る人間はいない。
だが――
痕跡だけは残っていた。
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少佐が生まれた場所は、おそらく街のどこかだった。
人間の家だったのか。
倉庫だったのか。
路地裏だったのか。
それすら分からない。
獣医によれば、ヤタガラスへ来た時点で推定三歳から四歳。
つまり、それ以前に何年かを生き延びている。
首輪の跡はなかった。
マイクロチップもなかった。
そして、人間の手を極端に怖がる時期があった。
抱こうとすると逃げる。
上から手を伸ばすと身を低くする。
大きな音がすると机の下へ隠れる。
だが――
食事を奪おうとはしなかった。
噛みつくこともなかった。
生きるために警戒している。
それだけだった。
榊原宗一郎は、それを見て一度だけ言った。
「……野良で覚えた警戒だな」
ホオズキが聞いた。
「分かるのか」
「人間も同じだ」
榊原は少佐を見ながら答えた。
「裏切られ続けた奴は、最初から誰も信用しない」
少佐は二人を見上げていた。
「ただし」
榊原は続ける。
「こいつは、人間を嫌ってはいない」
「なぜそう思う」
「嫌っていたら、本部には残らん」
ホオズキは黙った。
その通りだった。
少佐はいつでも出ていけた。
窓もある。
扉も開く。
中庭にも出られる。
だが、一度も本部を離れようとはしなかった。
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少佐が最初に発見されたのは、本部から数キロ離れた住宅地だった。
屋根の上。
雨上がりの夕方。
一匹の猫が降りられなくなっている。
そんな依頼がなぜかPMCヤタガラスへ持ち込まれた。
当然、隊員たちは困惑した。
偵察ドローン。
ロープ。
赤外線カメラ。
梯子。
元特殊部隊員たちは、猫一匹のために過剰なほど本格的な救出作戦を展開した。
そして最後には――
猫のほうから飛んだ。
よりによって、
九条ホオズキの頭の上へ。
「…………」
ホオズキは固まった。
猫も固まった。
隊員全員が固まった。
数秒後。
猫はホオズキの肩へ降りた。
そしてそこから動かなかった。
その翌日。
なぜかヤタガラス本部の玄関前に、その猫が座っていた。
誰も連れてきていない。
どうやって場所を知ったのかも分からない。
自力で歩いてきたらしい。
ホオズキは腕を組んで猫を見下ろした。
「……なぜいる」
「ニャ」
「帰れ」
「ニャ」
「ここは軍事会社だ」
「ニャ」
「猫を雇った覚えはない」
猫はホオズキの靴の上に座った。
それで話は終わった。
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それから少佐は本部に住み着いた。
最初の数週間は警戒心が強かった。
寝る場所も毎日変えた。
廊下。
倉庫。
食堂の椅子の下。
資料棚の上。
常に逃げ道を確保できる場所を選んだ。
ところがある日。
ホオズキが深夜まで執務室で仕事をしていると、
少佐が入ってきた。
そしてソファへ飛び乗った。
丸くなる。
そのまま眠った。
ホオズキはしばらく猫を見ていた。
「……そこで寝るのか」
返事はない。
翌日から、
少佐専用のベッドが置かれた。
誰が買ったのか。
誰も名乗らなかった。
しかし領収書だけは経理部に提出されていた。
一条寺アカネが処理した勘定科目には、
こう書かれていた。
福利厚生費
後日ホオズキが問いただした。
「猫が福利厚生なのか」
アカネは真顔で答えた。
「隊員の精神安定に寄与しています」
「……そうか」
それ以上、ホオズキは何も言えなかった。
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少佐には一つだけ、不思議な習慣があった。
毎晩二十三時ごろになると、
本部玄関へ行く。
そしてしばらく扉の前に座る。
十分。
二十分。
長い時は一時間。
何かを待つように。
ある夜、御影紗夜がその姿を見ていた。
「誰かを待ってるの?」
少佐は外を見る。
誰も来ない。
翌日も。
その翌日も。
同じ時間。
同じ場所。
紗夜は気になって獣医に相談したことがある。
返ってきた答えは単純だった。
昔の生活習慣が残っている可能性がある。
誰かの帰宅を待っていた。
餌をくれる人間を待っていた。
あるいは――
帰ってこなくなった誰かを、
今も待っている。
真実は分からない。
少佐だけが知っている。
だがある晩。
ホオズキが任務から帰還した。
時計は二十三時四十七分。
玄関が開く。
泥だらけのブーツ。
疲れ切った隊員たち。
最後にホオズキが入ってくる。
すると少佐は立ち上がった。
真っ直ぐホオズキへ歩く。
足元に座る。
「ただいま」
ホオズキが珍しくそう言った。
少佐は、
「ニャ」
と鳴いた。
それ以降、
少佐は二十三時に玄関で待つことが減った。
代わりに、
ヤタガラスの隊員が任務に出ている夜だけ、
玄関へ行くようになった。
だから隊員たちは冗談で言う。
「点呼してるんだよ」
「帰還確認だろ」
「少佐だからな」
だが誰も、
本当に冗談だとは思っていなかった。
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ある作戦で、若い隊員が負傷した。
命に別状はなかったが、
仲間を助けられなかったことを気に病んでいた。
深夜。
その隊員は一人で食堂にいた。
少佐が現れた。
椅子の下に座る。
「……お前には分かんねえよな」
隊員が呟いた。
少佐は動かない。
「もっと早く動けたかもしれない」
少佐は動かない。
「俺が悪かったのかな」
それでも、
少佐は何も言わない。
ただそこにいる。
隊員はしばらく黙っていた。
やがて、
ぽつりと言った。
「……帰ってこられただけでも、良かったのかな」
少佐が一度だけ瞬きをした。
隊員は小さく笑う。
「聞き上手だな、お前」
翌朝。
その隊員は訓練場へ戻った。
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少佐は英雄ではない。
人間を救うわけでもない。
銃を撃てるわけでもない。
命令も理解しない。
おそらく。
ただ、
出ていく人間を見送る。
帰ってきた人間を迎える。
泣いている人間のそばに座る。
疲れている人間の膝で眠る。
そして時々、
最高責任者の書類の上に乗る。
「少佐」
ホオズキが低い声で言う。
「そこをどけ」
少佐は動かない。
「仕事ができない」
尻尾だけ動く。
「……命令だ」
少佐は大きくあくびをした。
その様子を見ていた榊原が、
コーヒーを飲みながら言った。
「代表」
「何だ」
「指揮系統で負けていますな」
ホオズキは少佐を見る。
少佐もホオズキを見る。
数秒。
沈黙。
ホオズキが椅子にもたれた。
「……五分だけだ」
少佐は目を閉じた。
榊原は小さく笑った。
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少佐がどこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
なぜ一匹になったのか。
右耳の傷はどこで負ったのか。
二十三時に、
いったい誰を待っていたのか。
それを知る者はいない。
そして、おそらくこれからも分からない。
だが――
一つだけ確かなことがある。
少佐は、
帰る場所をなくした猫だった。
そしてヤタガラスは、
帰る場所をなくした人間が集まる場所でもあった。
だからなのかもしれない。
あの猫がここを選んだのは。
人間と猫。
種族は違う。
過去も違う。
それでも、
帰る場所を失った者には分かることがある。
ここなら眠れる。
ここなら待っていていい。
ここなら、
誰かが帰ってくる。
夜。
任務帰りの装甲車が本部へ入る。
玄関では一匹の黒灰色の猫が座っている。
扉が開く。
隊員が笑う。
「少佐、ただいま戻りました」
猫は立ち上がる。
尻尾をゆっくり持ち上げる。
そして一声。
「ニャ」
それがPMCヤタガラスにおける、
一日の最後の帰還確認だった。




