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黒崎ツヨシという男

黒崎剛士が笑うところを見たことがない、と言う若い隊員は多い。


正確には、笑わないわけではない。


ただ、その顔があまりにも厳つくて、笑っていても笑顔に見えないだけだ。


坊主頭。

太い首。

制服越しでも分かるほど広い肩。

身長百八十八センチの巨体。


廊下の向こうから歩いてくるだけで、新任巡査は無意識に背筋を伸ばす。


警視。

警備部所属。

機動隊の大隊指揮官級。


黒崎剛士、四十四歳。


部下から陰で呼ばれているあだ名は――


「鬼瓦」。


本人も知っている。


そして、気にしていない。


*


午前五時四十分。


まだ空が薄暗い警備本部の廊下を、黒崎は一人で歩いていた。


訓練開始は七時。


だが黒崎は、毎朝誰よりも早く来る。


理由は単純だった。


装備を見るためだ。


盾。


ヘルメット。


無線。


救急資器材。


防護装備。


車両。


一つずつ、自分の手で確認する。


若い頃、上官に言われたことがある。


「そんなものは係の仕事だ」


その時、黒崎は答えなかった。


今なら答えられる。


係の仕事であることと、指揮官に責任がないことは、まったく別の話だ。


「おはようございます」


背後から声がした。


振り返る。


二十代半ばの若い隊員だった。


赴任してまだ三ヶ月。


「早いな」


「黒崎警視こそ」


「俺は仕事だ」


「自分も仕事です」


黒崎は少しだけ眉を上げた。


「そうか」


それだけ言って、救急バッグのファスナーを閉じる。


若い隊員が尋ねた。


「警視って……毎日これやってるんですか」


「ああ」


「装備担当を信用してないんですか」


黒崎は一瞬、若い隊員を見た。


「逆だ」


「え?」


「信用している。だから確認する」


若い隊員には意味が分からなかったらしい。


黒崎は説明しなかった。


昔から、必要以上に喋る男ではなかった。


*


二十三年前。


黒崎剛士、二十一歳。


まだ巡査だった。


今ほど身体は大きくなかったが、それでも同期の中では群を抜いていた。


柔道経験者。


体力試験は上位。


逮捕術も優秀。


そして何より――怖いもの知らずだった。


当時の黒崎は、自分を強い人間だと思っていた。


腕力がある。


走れる。


殴られても倒れない。


だから現場では、自分が先に出ればいいと思っていた。


その考えが変わったのは、ある冬の夜だった。


雑居ビルで立てこもり事件が発生した。


男が刃物を持ち、店員一名を人質にしていた。


現場は混乱していた。


怒号。


サイレン。


無線。


規制線の外から聞こえる野次馬の声。


黒崎たち若手隊員は建物裏手で待機していた。


指揮官は五十代の警部だった。


経験豊富。


判断も早い。


部下からの信頼も厚い。


少なくとも黒崎は、そう思っていた。


突入命令が下りた。


黒崎の隣には同期の男がいた。


森下という。


警察学校時代から同じ班だった。


よく喋る男だった。


結婚したばかりで、妻が妊娠していた。


突入直前。


森下が小声で言った。


「黒崎」


「何だ」


「俺、春に父親になる」


「知ってる」


「男だったら拓海って名前にする」


「今それ言うことか」


「こういう時だから言うんだろ」


森下は笑った。


黒崎は呆れた。


「帰ってから嫁に言え」


「おう」


二人は拳を軽くぶつけた。


それが最後だった。


突入は失敗した。


想定されていた犯人は一人ではなかった。


奥の部屋に、もう一人いた。


情報共有の不備だった。


森下は黒崎の三メートル前にいた。


物音。


振り向く。


黒崎が叫ぶより早く。


一撃だった。


森下は倒れた。


その後のことを、黒崎はほとんど覚えていない。


犯人を制圧した。


救急隊を呼んだ。


止血した。


胸骨圧迫もした。


だが。


森下は帰らなかった。


二十五歳だった。


*


事件後、検証会議が開かれた。


黒崎は一番後ろの席に座っていた。


資料が配られた。


「現場における不測事態」


「情報収集上の限界」


「不可避の危険」


そんな言葉が並んでいた。


責任者だった上官が言った。


「現場では完璧な情報など得られない。森下巡査の殉職は痛恨だが、任務遂行上――」


黒崎の中で何かが切れた。


「違う」


会議室が静まった。


若い巡査が、警部の発言を遮った。


あり得ないことだった。


上官が黒崎を見る。


「何が違う」


黒崎は立ち上がった。


手が震えていた。


恐怖ではない。


怒りだった。


「裏部屋の確認が終わっていなかった」


「黒崎」


「図面にも空間があった。現場から確認要請も上がってた」


「結果論だ」


「結果で人が死んだんです」


空気が凍る。


隣の先輩が黒崎の制服を引いた。


やめろ。


座れ。


そんな意味だった。


だが黒崎は座らなかった。


上官が低い声で言った。


「現場に絶対はない」


「分かってます」


黒崎は答えた。


「だから命令する人間が責任を持つんでしょう」


誰も喋らなかった。


黒崎は続けた。


「行けと言うのは簡単です」


声が震えた。


「でも行った奴は、命令した人間を信じて行くんです」


森下の顔が浮かんだ。


春に生まれる子供の話をしていた。


帰るつもりだった。


当然だ。


警察官だって、兵士だって、消防士だって。


死ぬために現場へ行くわけではない。


生きて帰るために行く。


「命令を出す人間は」


黒崎は言った。


「その結果まで引き受けるべきです」


会議室の誰も、若い巡査の言葉を忘れなかった。


黒崎自身も忘れなかった。


*


森下の葬儀。


棺の横に若い妻がいた。


腹は大きくなっていた。


黒崎は頭を下げた。


何を言えばいいか分からなかった。


申し訳ありません。


そう言おうとした。


だが言えなかった。


黒崎が謝っても森下は帰らない。


妻が言った。


「黒崎さん」


「はい」


「主人、最後……怖がってましたか」


黒崎は答えられなかった。


嘘をつくこともできなかった。


だから、正直に言った。


「分かりません」


妻は頷いた。


「そうですか」


黒崎は拳を握った。


「でも」


顔を上げる。


「逃げませんでした」


妻の目から涙が落ちた。


「最後まで前を向いていました」


沈黙。


そして黒崎は、そこで初めて理解した。


死んだ人間の勇気を褒めるだけでは駄目なのだ。


英雄だった。


勇敢だった。


立派だった。


そんな言葉はいくらでも言える。


だが指揮官の仕事は、勇敢な死を作ることではない。


生きて帰らせることだ。


*


それから黒崎は変わった。


昇任試験を受けた。


勉強した。


現場指揮を学んだ。


警備計画。


群衆心理。


要人警護。


災害対応。


突入戦術。


医療。


通信。


法律。


部下の配置。


疲労管理。


何より、失敗事例を徹底的に読んだ。


事故。


殉職。


誤射。


通信断。


装備不良。


判断遅延。


命令錯誤。


黒崎は成功談より、失敗談を読んだ。


成功は条件が違えば再現できない。


失敗には、驚くほど似た形がある。


確認不足。


思い込み。


虚偽報告。


責任転嫁。


そして、


「大丈夫だろう」


その言葉を黒崎は嫌うようになった。


三十代で中隊規模を指揮するようになった頃。


部下が一人、訓練中に負傷した。


報告した隊員は言った。


「本人が続けられると言っています」


黒崎は答えた。


「外せ」


「ですが本人が――」


「外せ」


負傷者は病院へ送られた。


骨折していた。


後日、本人が言った。


「続けられましたよ」


黒崎は答えた。


「知ってる」


「じゃあなぜ」


「続けられるかどうかを決めるのがお前なら、指揮官はいらん」


若い隊員は黙った。


黒崎は言った。


「俺の仕事は、お前を使うことじゃない」


少し間を置く。


「帰すことだ」


それ以来。


黒崎の部下たちは、その言葉を知っている。


――部下を家に帰す。


それが黒崎剛士の指揮の根幹になった。


*


現在。


午前七時。


機動隊員たちが整列していた。


黒崎は列の前に立つ。


ざっと全員を見る。


表情。


姿勢。


装備。


靴。


目。


隊員の体調まで見る。


一人の若い隊員が、わずかに顔色を悪くしていた。


黒崎が呼ぶ。


「お前」


「はい!」


「寝たか」


「……四時間ほど」


「外れろ」


「大丈夫です!」


黒崎の眉が動く。


周囲の隊員たちは心の中で思った。


終わった。


「大丈夫かどうかを聞いていない」


「ですが――」


「事故を起こしてから眠かったと言うつもりか」


「……いいえ」


「休め」


若い隊員は悔しそうに敬礼した。


「はい」


黒崎は全員を見る。


「訓練を始める」


隊員たちが動き始める。


先ほどの若手隊員が、小声で先輩に尋ねた。


「厳しすぎません?」


先輩は笑った。


「そのうち分かる」


「何がです」


「黒崎警視はな」


前を歩く巨大な背中を見る。


「ああ見えて、誰より俺たちを死なせたくないんだよ」


*


黒崎の机の引き出しには、一枚の写真が入っている。


二十三年前。


警察学校の卒業式。


若い黒崎。


そして隣で笑う森下。


写真の裏には、黒崎自身の字で一行だけ書かれている。


――全員、帰す。


完璧に守れたことなどない。


怪我をさせたこともある。


判断を誤ったこともある。


助けられなかった人間もいる。


だから黒崎は、自分を名指揮官だとは思っていない。


ただ毎回、考える。


もっと安全な方法はないか。


見落としているものはないか。


若い隊員の勇気に甘えていないか。


自分が行きたくない場所へ、簡単に部下を送り込もうとしていないか。


そして命令を出したなら。


その結果から、絶対に逃げない。


それだけだった。


夕方。


訓練が終わる。


隊員たちが帰っていく。


「お疲れさまでした!」


「おう」


「失礼します!」


「おう」


最後の一人が門を出る。


黒崎はその背中を見る。


そして腕時計を確認する。


今日も全員いる。


今日も全員帰った。


黒崎は小さく息を吐く。


誰にも聞こえない声で呟いた。


「……よし」


鬼瓦と呼ばれる男が、一日の中で最も安堵する瞬間だった。


黒崎剛士は、勇敢な男ではない。


少なくとも、本人はそう思っている。


英雄になりたいとも思わない。


ただ。


自分を信じて前へ出る人間たちを。


可能な限り。


家へ帰したい。


だから今日も。


彼は隊列の一番後ろに立つ。


誰かを置いていかないために。

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