三時間で終わった依頼
午前九時十二分。
PMCヤタガラス本部の応接室で、依頼人の男は震えていた。
「娘が……連れ去られました」
九条ホオズキは、男の向かいで静かに資料を読んでいた。
誘拐されたのは十六歳の娘。
昨夜、塾からの帰宅途中に消息を絶った。
今朝になって犯人から連絡が入り、要求された身代金は三億円。
警察に知らせれば殺す。
そして、支払期限は――
午後六時。
残り九時間を切っている。
依頼人は国内でも有数の精密機器メーカーの経営者だった。
犯人側は金だけでなく、会社が保有する軍民両用技術の設計データまで要求していた。
つまり、ただの営利誘拐ではない。
「警察には?」
榊原宗一郎が訊いた。
「まだ……」
「正解とも間違いとも言いません」
榊原は穏やかに答えた。
「今は娘さんを取り戻すことを優先します」
ホオズキが資料を閉じる。
「最後に娘さんと連絡を取った時刻は?」
「午後七時四十三分です」
「端末は?」
「電源が切れています」
その横で久世冬馬がノートPCを開いた。
「電話番号を」
父親が答える。
久世の指が動き始めた。
ホオズキは立ち上がった。
「依頼を受けます」
男が顔を上げる。
「報酬は……」
「後で榊原とアカネが話します」
一条寺アカネが眼鏡を押し上げた。
「代表、それだと私がものすごく嫌な人みたいなんですけど」
「金の話は重要だろう」
「重要ですけど」
真壁仁が笑った。
「まあ、嬢ちゃんに任せときな。財布の話じゃアカネより怖え奴はいねえ」
「褒めてます?」
「最大級にな」
そして――
九時十九分。
ヤタガラスは動き始めた。
---
最初に仕事をしたのは久世冬馬だった。
誘拐犯から送られてきた音声ファイルを解析する。
三十七秒。
雑音。
車両音。
遠くを走る列車。
空調機。
鳥の声。
久世はヘッドフォンを外した。
「工業地区ですね」
篠宮レイナが振り返る。
「早くない?」
「背景に大型コンプレッサーの周期音。それと貨物列車」
久世が画面を切り替える。
「市内で両方が一致する地域は十一か所」
「十一かぁ」
レイナが腕を組む。
「結構あるね」
「あと十五秒ください」
「はいはい」
十四秒後。
「三か所」
「何したの?」
「列車の警笛を解析しました」
「……怖」
「褒め言葉として受け取ります」
さらに久世は、犯人が使用した匿名化通信の経路を追っていた。
完全な追跡は不可能。
だが、人間は必ずミスをする。
犯人は一度だけ、匿名化サービスへ接続する前に同じ端末から通常通信を行っていた。
久世はモニターを指差した。
「端末候補、一台」
地図に赤い点が表示される。
神代蓮司が口笛を吹いた。
「やるねえ、眼鏡」
「あなたに言われると腹が立ちますね」
「なんで?」
「日頃の行いです」
---
九時四十一分。
篠宮レイナが現場へ出た。
候補となった工業地区は三か所。
だが監視カメラへ派手にアクセスすれば、犯人に気づかれる可能性がある。
そこでレイナが街へ溶け込んだ。
ジャケット。
ジーンズ。
小さなリュック。
どこにでもいる若い女性。
十分後。
無線が入る。
『一つ目、外れ』
「理由は?」
ホオズキが訊いた。
『夜間もトラックの出入りが多い。人質置くには目立ちすぎ』
二つ目。
『ここも違う』
「根拠」
『野良猫』
作戦室が一瞬静かになった。
アカネが瞬きをする。
「猫?」
『倉庫の周りに六匹いる。人の出入りが少ない証拠だけど――昨日から誰かが籠もってたなら、もっと警戒して距離を取る』
真壁がニヤッとした。
「嬢ちゃん、よく見てるな」
『でしょ?』
そして三つ目。
レイナの声が変わった。
軽さが消える。
『当たり』
ホオズキが訊く。
「確度」
『九割』
『倉庫裏に新しいタイヤ痕。監視カメラ一台だけ、昨日から角度が変わってる。それと二階窓のカーテンが新品』
「撤収しろ」
『了解』
「内部には入るな」
『分かってるって』
「お前はたまに分かっていない」
『代表ひどい』
通信が切れた。
榊原が小さく笑った。
---
十時十三分。
次に動いたのは一条寺アカネだった。
「身代金三億円」
彼女は犯人の要求書を机に置く。
「妙ですね」
「何がだ?」
ホオズキが訊く。
「金額そのものです」
アカネは説明する。
依頼人の会社は大企業。
三億円程度なら用意できる。
しかし犯人は支払方法として複数の海外口座を指定していた。
それらを調べると、一部に共通点があった。
「全部、数年前に潰れた投資会社と繋がっています」
久世が顔を上げる。
「その会社なら知っています」
「でしょうね」
二人の画面に同じ名前が浮かぶ。
三年前。
依頼人の会社に買収された下請企業。
その際、大規模なリストラが行われていた。
アカネは名簿を出した。
「犯人側の候補、十二人」
久世が情報を重ねる。
「うち海外送金履歴がある者が四人」
レイナから連絡が入る。
『倉庫に出入りした男、写真送る』
顔写真。
久世が照合。
「一致」
アカネがその人物の経歴を表示した。
元研究開発部門責任者。
「つまり本命は金じゃありません」
アカネが言う。
「設計データです」
榊原が頷いた。
「身代金は目くらましか」
「でしょうね」
ホオズキは数秒考えた。
「なら人質を殺す可能性は?」
アカネが答える。
「低いです」
「理由」
「設計データを受け取るまで、人質は唯一の交渉材料だからです」
沈黙。
「ただし」
アカネが続ける。
「データ入手後は別です」
ホオズキが時計を見る。
十時二十七分。
「行くぞ」
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突入前。
御影紗夜が倉庫周辺を観察した。
彼女が見るのは顔ではない。
手。
歩き方。
立ち位置。
視線。
「正面警戒二名」
紗夜が静かに言う。
「一人は素人です」
蓮司が訊く。
「分かる?」
「銃を持っている右手を頻繁に握り直している」
「緊張してる?」
「はい」
もう一人を見る。
「こちらは経験者」
「理由は?」
「何もしていないからです」
蓮司が笑った。
「分かりやすい説明だ」
真壁が拳を鳴らす。
「裏口は?」
「一名」
「俺が行く」
榊原が即座に止める。
「壊すなよ」
「扉を?」
「人をだ」
「努力する」
「努力ではなく守れ」
「はいはい」
ホオズキが全員を見る。
「人質最優先」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
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午前十時四十一分。
作戦開始。
最初に蓮司が動いた。
裏手から敷地へ侵入。
監視の死角を正確に通る。
警備員の一人が振り向く。
「誰だ!」
蓮司は笑った。
「すいません、道に迷いました」
「ここ私有地だぞ!」
「ですよねえ」
男の視線が一瞬、蓮司の左へ動いた。
その瞬間。
蓮司が間合いへ入った。
三秒。
男は地面に寝ていた。
無線。
『一人おやすみ』
榊原が答える。
「寝かせ方が雑だ」
『生きてますよ』
反対側。
真壁仁。
警備役の男が銃を構える。
「動くな!」
仁は止まらなかった。
「お兄ちゃん」
「止まれ!」
「それ、安全装置掛かったままだぞ」
男が銃を見る。
嘘だった。
その瞬間。
仁の掌が銃口を逸らし、肩を掴み――
ドン。
男は壁に押し付けられていた。
「痛っ……!」
「暴れんな」
仁が言う。
「骨折れるぞ」
「お前が折るんだろ!」
「だから暴れんなっつってんだよ」
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正面。
紗夜。
経験者の警備員が異変に気づいた。
銃へ手が伸びる。
だが。
その手首を紗夜が押さえていた。
「やめてください」
「――!」
「撃つ必要はありません」
次の瞬間には銃が床に落ちている。
男が肘を振る。
避ける。
足を払う。
床へ。
制圧。
六秒。
「確保しました」
それだけだった。
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その頃。
久世冬馬は倉庫の電子錠を掌握していた。
「二階南側」
通信する。
「人間の携帯端末四台」
「人質含む?」
ホオズキ。
「恐らく」
「扉」
「こちらで開けます」
カチッ。
電子錠が解除される。
「便利だなぁ」
蓮司が呟く。
久世が答える。
『鍵を壊す人よりは文明的です』
『誰のこと?』
『あなたと真壁さんです』
仁が割り込む。
『俺まで入れんな』
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二階。
最後の部屋。
中には三人の犯人。
そして少女。
少女の首元にナイフ。
「入ってくるな!」
犯人の男が叫ぶ。
「近づけば殺す!」
ホオズキが止まる。
五メートル。
紗夜が男の手を見る。
蓮司が視線を見る。
レイナが足の位置を見る。
仁が間合いを見る。
全員が同じ結論に達していた。
男は怖がっている。
そして――
人を殺した経験がない。
ホオズキが言った。
「その子を放せ」
「黙れ!」
「お前の目的は復讐じゃない」
男の表情が変わった。
「設計データだ」
「……!」
「もう分かっている」
ホオズキは一歩前へ出る。
「それ以上やれば、お前は技術者ではなく誘拐犯になる」
「もう誘拐犯だ!」
「なら、人殺しまで追加するか?」
沈黙。
ナイフを握る手が震える。
紗夜が見る。
蓮司が見る。
そしてホオズキも見ていた。
「やり直せるとは言わない」
ホオズキが言った。
「だが、これ以上悪くする必要もない」
男の目から力が抜けた。
ナイフが床へ落ちる。
カラン。
少女が走る。
紗夜が抱き止めた。
同時に仁と蓮司が残る二人を制圧。
レイナが室内を確認。
「クリア」
久世。
『外部通信遮断済み』
アカネ。
『設計データへのアクセス履歴も確保しました』
榊原。
「人質の状態は?」
紗夜が少女を確認する。
「外傷なし」
ホオズキが無線へ言った。
「終了」
時計。
午前十時五十三分。
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その日の午後。
依頼人の男は娘を抱きしめながら泣いていた。
「本当に……ありがとうございました」
ホオズキは少し離れた場所に立っていた。
アカネが契約書を差し出す。
「ではこちら、成功報酬についてですが」
父親が頷く。
「もちろんです。いくらでも払います」
アカネが微笑む。
「そう言っていただけると助かります」
ホオズキが横から言う。
「吹っ掛けるなよ」
「代表」
「なんだ」
「会社経営には利益が必要です」
榊原が咳払いする。
「アカネの言うことが正しい」
「榊原まで」
レイナが笑う。
「代表、経営者向いてないんじゃない?」
「黙れ」
蓮司が続く。
「でもまあ、三億より安いならお得ですよ」
仁が鼻で笑った。
「お前は何もしてねえだろ」
「しましたよ!?」
「道に迷っただけだろ」
「高度な潜入工作です」
久世が淡々と言う。
「開始から終了まで一時間四十一分」
全員が久世を見る。
「何が?」
「正式受注から人質確保までです」
少し沈黙。
レイナが言った。
「……結構早くない?」
榊原が時計を見る。
「昼飯前に終わったな」
仁が言う。
「じゃあ飯行こうぜ」
アカネが即答する。
「私は精算があります」
「後にしろ後に」
「だから会社が潰れるんですよ」
「潰れてねえだろ」
そんなやり取りをしながら、一行が廊下へ消えていく。
依頼人だけが、その背中を呆然と見ていた。
昨夜から。
家族にとっては、世界が終わったような一夜だった。
娘が攫われ。
三億円を要求され。
会社の機密まで狙われた。
一生忘れることのできない事件だった。
だが。
ヤタガラスにとっては。
昼食前に終わった、一件の仕事だった。
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本部へ戻ったホオズキが作戦報告書を開く。
久世。
情報解析。
アカネ。
資金経路分析。
レイナ。
現地偵察。
蓮司。
潜入。
紗夜。
人質保護。
仁。
制圧。
榊原。
全体統制。
誰か一人が英雄だったわけではない。
誰か一人がすべてを解決したわけでもない。
ただ。
それぞれが。
自分の仕事をした。
だから難しい仕事が、簡単な仕事に見えた。
ホオズキは報告書の最後に一行だけ書いた。
任務完了。損害なし。
その時。
机の端から黒い毛玉が現れた。
少佐だった。
少佐は報告書の上へ乗ると、そのまま丸くなる。
「……どけ」
「ニャー」
「そこは提出書類だ」
「ニャ」
少佐は動かなかった。
ホオズキは数秒見つめる。
そして諦めた。
「久世」
『はい』
「報告書の提出、一時間遅れる」
『理由は?』
ホオズキは膝の上へ移動してきた少佐を見る。
「……重大な障害が発生した」
本部のどこかで、レイナの笑い声が聞こえた。
今日もPMCヤタガラスは平常運転だった。




