笑っている男は信用するな
「代表。今夜、俺とデートしません?」
午前九時三分。
PMCヤタガラス本部、代表執務室。
九条ホオズキは書類から目を上げなかった。
「却下」
「まだ行き先も聞いてないでしょう」
「あなたが誘った時点で却下よ」
「ひどいなあ」
神代レンジは胸に手を当て、いかにも傷ついたという顔をした。
黒髪を後ろへ流し、仕立てのいい黒いジャケットを着ている。
黙って立っていれば、映画俳優か高級ホテルの支配人にでも見える男だ。
黙っていれば、である。
「ちなみに高級ホテルのバーです」
「却下」
「夜景が綺麗です」
「却下」
「食事代は経費」
そこでホオズキのペンが止まった。
レンジがにやりとする。
「食いつきましたね」
「任務でしょう」
「はい」
ホオズキは顔を上げた。
「最初からそう言いなさい」
「普通に説明するより、代表の反応を見るほうが楽しいんで」
「神代」
「はい」
「撃つわよ」
「それ、社内パワハラですよ」
「あなたの場合は福利厚生よ」
レンジは声を上げて笑った。
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標的は武器ブローカー、ヴィクトル・ラザロフ。
表向きは美術品取引会社の経営者だが、裏では複数の紛争地域へ違法装備を流している。
その夜、彼は市内の高級ホテルで行われる慈善オークションへ出席する予定だった。
目的は逮捕でも殺害でもない。
彼が持つ暗号化された携帯端末から取引先情報を抜き取ること。
「つまり私は?」
黒い車の後部座席でホオズキが尋ねた。
レンジは隣でネクタイを締め直す。
「俺の恋人役」
「帰るわ」
「待って待って待って」
「別の設定にしなさい」
「夫婦だと距離感が近すぎる。兄妹じゃ似てない。仕事仲間だと警戒される。恋人が一番自然です」
ホオズキは無言でレンジを見る。
今夜の彼女は戦闘服ではない。
身体の線を過度に強調しない、品のある黒のイブニングドレス。
黒髪は高い位置でまとめられ、耳元には小さな銀の飾り。
武器らしいものは何も見えない。
だがレンジは知っている。
右腿に小型拳銃。
髪飾りには細いピック。
左手首のブレスレットには極細ワイヤー。
そして何より――
この女自身が、一番危険な武器だ。
「何?」
ホオズキが言う。
「いや」
レンジは笑った。
「綺麗だなと思って」
「任務中よ」
「任務中だから本当のことしか言ってません」
「普段は嘘なの?」
「女性には夢を売る仕事なんで」
「PMCでしょう、あなた」
車がホテル正面に滑り込む。
ドアマンが扉を開けた。
レンジは先に降りると、ホオズキへ手を差し出した。
「どうぞ、お嬢様」
ホオズキはその手を見る。
一秒。
二秒。
そして仕方なさそうに手を重ねた。
レンジの笑顔が一瞬だけ変わった。
いつもの軽薄な笑みではない。
ほんの少しだけ、真面目な顔になった。
だがホオズキが気づくより先に、
「今夜だけは俺に惚れてる顔してくださいね」
いつもの男に戻った。
「死にたい?」
「その顔です。その顔、最高」
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会場には百人以上がいた。
財界人、外交官、実業家、芸術家。
シャンパン。
弦楽四重奏。
数千万単位で落札される絵画。
その中を二人は腕を組んで歩く。
「三時方向」
レンジが笑顔のまま囁く。
「標的確認」
ホオズキも笑みを崩さない。
「警護四名」
「五名です」
「一人は給仕よ」
「靴」
ホオズキは横目で見る。
給仕姿の男。
確かにホテル従業員にしては靴底が厚い。
姿勢も違う。
「……なるほど」
「褒めていいですよ」
「あとでね」
「約束ですよ」
二人は標的へ近づいていった。
レンジは自然だった。
笑い、話し、グラスを傾け、周囲の人間に溶け込む。
その間にも目は止まらない。
出口。
監視カメラ。
警備員。
標的。
不審者。
全部を見ている。
ホオズキは思う。
神代レンジという男は、普段の態度だけ見ればとても特殊任務要員には見えない。
女を口説く。
冗談を言う。
規律のぎりぎりを踏む。
だが戦場に入った瞬間、まるで別人になる。
いや。
おそらく逆なのだ。
軽薄な神代レンジのほうが仮面なのだ。
本当の彼は――
こちらなのだ。
「代表」
「何?」
「腕、硬いですよ」
「……」
「恋人なんですから、もう少し俺を好きそうに」
ホオズキは微笑んだ。
そしてレンジの腕をぎゅっと抓った。
「痛っ」
「幸せそうにしなさい」
「最高の彼女だ」
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作戦開始から二十三分。
レンジが標的と接触した。
「ラザロフさん?」
英語で声をかける。
標的が振り向く。
「ああ?」
「あのロートレック、あなたの落札だと聞きました。素晴らしい趣味だ」
そこからはレンジの独壇場だった。
美術。
酒。
ヨーロッパ。
投資。
女。
男が好きそうな話題を自然に繋ぎ、警戒を解いていく。
ホオズキは黙って隣にいた。
ラザロフの視線が彼女へ向く。
「そちらは?」
レンジが答える。
「俺の大切な人です」
ホオズキが一瞬だけレンジを見る。
設定上なら、
恋人です。
そう答えればいい。
わざわざそんな言い方をする必要はない。
レンジは笑っていた。
いつもの笑顔。
だが目だけは笑っていなかった。
ラザロフがホオズキへ手を伸ばす。
握手ではない。
腰へ触れようとした。
その瞬間。
レンジが半歩入った。
極めて自然に。
グラスを差し出すような動きで、その手を遮る。
「ああ、彼女、人に触られるの苦手なんですよ」
笑顔だった。
声音も柔らかい。
しかしラザロフは手を引いた。
ホオズキには分かった。
今のレンジは、一切ふざけていない。
その後も会話は続いた。
誰も気づかなかった。
レンジが標的の注意を引きつけている数秒の間に、ホオズキが携帯端末へ小型デバイスを接触させたことを。
振動、一回。
転送完了。
「帰るわよ」
ホオズキが小声で言った。
「了解」
二人は会場を離れた。
――はずだった。
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地下駐車場へ降りた瞬間。
レンジの表情が消えた。
「後ろ、三」
ホオズキも気づいていた。
「前、二」
「バレましたね」
「あなたが喋りすぎたんじゃない?」
「俺のせい?」
「九割」
「残り一割は?」
「運」
角を曲がったところで、前方から二人の男が現れる。
後方から三人。
挟まれた。
「代表」
レンジがネクタイを緩めた。
「ドレス汚したら怒ります?」
「高かったのよ」
「じゃあ俺がやります」
一人目。
レンジは相手の腕を流し、肘を折り、壁へ叩きつける。
二人目の拳を避け、懐へ入る。
膝。
掌底。
三秒。
後ろから来た男に対し、ホオズキがドレスの裾を僅かに持ち上げる。
蹴り。
男が倒れる。
「代表」
「何」
「俺がやるって言いましたよね?」
「遅い」
「厳しいなあ」
四人目。
レンジが拳銃を抜こうとする手首を押さえる。
五人目はホオズキへ向かった。
レンジの顔から、
笑みが完全に消えた。
踏み込み。
腕を取る。
捻る。
床へ落とす。
首筋へ膝。
男は動かなくなる。
静寂。
五人。
全員制圧。
レンジは呼吸一つ乱していなかった。
「怪我は?」
ホオズキが聞く。
「ないです」
「嘘」
レンジの左手から血が落ちていた。
ナイフを受けたらしい。
「かすり傷」
「見せなさい」
「本当に――」
「命令よ」
レンジは諦めて左手を出した。
ホオズキはバッグから小型の止血材を取り出す。
「……代表って」
「何?」
「男に包帯巻くの慣れてます?」
ホオズキは傷口を強く押した。
「痛った!」
「喋る元気があるなら平気ね」
「冷たすぎません?」
「あなたにはこの程度で十分」
レンジが笑う。
その笑顔を見ながら、ホオズキが言った。
「でも」
「?」
「さっきはありがとう」
レンジの笑顔が止まった。
「何の話です?」
「会場で」
「ああ」
ラザロフの手を遮ったことだ。
レンジは肩をすくめた。
「俺、女好きですけど」
「知ってる」
「嫌がってる女に触る男は嫌いなんですよ」
少し間を置いて、
「美人ならなおさら」
ホオズキは包帯を締め上げた。
「痛い痛い痛い!」
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帰路。
車内。
作戦は成功。
情報転送も完了。
後処理は情報部へ引き継がれた。
レンジは後部座席で目を閉じていた。
珍しく静かだった。
「神代」
「はい」
「寝てる?」
「寝てません」
「一つ聞いていい?」
「代表から質問なんて珍しい」
ホオズキは窓の外を見たまま尋ねた。
「あなた、どうしていつも笑ってるの?」
数秒。
返事がない。
やがてレンジが言った。
「相手が油断するから」
「それだけ?」
「味方が安心するから」
ホオズキが振り向く。
レンジは窓の外を見ていた。
「怖い顔してる奴が『大丈夫だ』って言っても、大丈夫に聞こえないでしょう」
「……」
「だから笑うんです」
その横顔に、いつもの軽薄さはなかった。
ホオズキは少しだけ目を細める。
なるほど。
この男が笑う理由を、一つ知った。
だが本人はすぐにこちらを向く。
「あと女性にモテるので」
ホオズキの感傷は三秒で消えた。
「前言撤回」
「何を?」
「少し見直したの」
「え、本当ですか?」
「今ので全部なくなった」
「惜しい!」
車が本部へ近づいていく。
やがてレンジがふと思い出したように言った。
「そういえば代表」
「何」
「最初の約束」
「約束?」
「給仕の偽装を見破ったら、あとで褒めてくれるって」
ホオズキは少し考える。
そして言った。
「今日はよくやったわ、神代」
レンジが黙った。
「……」
「何よ」
「いや」
珍しく言葉に詰まっている。
ホオズキは首を傾げる。
レンジは窓のほうを向いた。
「それ、反則でしょう」
「何が?」
「そういう不意打ち」
その耳が、ほんの少しだけ赤い。
ホオズキはそれを見て、
ようやく理解した。
そして微笑んだ。
「神代」
「はい」
「今夜、私と飲まない?」
レンジが勢いよく振り返った。
「え?」
「嫌なら別にいいけど」
「行きます」
即答だった。
「どこです?」
「本部食堂」
「……食堂?」
「缶ビール一本」
「高級ホテルのバーじゃなくて?」
「嫌なら来なくていいわよ」
レンジは頭を抱えた。
「行きますよ。行きますけどね」
そして笑う。
いつもの軽薄な笑顔で。
けれど今度は、
ホオズキにも分かった。
その笑顔には、
何も隠されていなかった。
だから彼女も、ほんの少しだけ笑った。
「神代」
「はい?」
「今日だけは奢るわ」
レンジは目を丸くした。
「代表」
「何?」
「俺、今あなたに惚れそうです」
「今すぐ降りなさい」
「まだ高速です!」
その夜。
ヤタガラス本部の食堂では、
缶ビール二本と、
どうでもいい話だけで、
二人は随分遅くまで笑っていた。
戦場で命を預けられる相手というのは、
必ずしも、
真面目な顔をした人間とは限らない。
少なくとも九条ホオズキは、
その日から一つだけ考えを改めた。
――笑っている男を信用するな。
ただし。
神代レンジだけは、
少しだけ例外である。




